はい、いきなりですが、本日のレビューはクイズでスタートします。
Q. 『大英博物館』の『展示室で来館者の目に触れるコレクション』はどの程度の割合でしょうか?
① 86パーセント
② 53パーセント
③ 27パーセント
④ 1パーセント
はい、いかがでしょうか?正解しても賞金はでません(笑)。う〜ん、なんだか微妙な数字が並んでいますね。さて、どうでしょうか?はい、ここで行数を無駄に取るわけにはいきませんので(笑)、そろそろ正解に行きたいと思います。
はい、その答えはっ!
A. ④ 1パーセント
えええええっ!うっそ〜!ですよね。なんと、逆に考えれば『収蔵品』の『九十九パーセントがほとんど誰の目にも触れられないまま、収蔵庫という名の墓場に眠っている』ということにもなるのです。これには、ビックリです。あまりにもったいないとも思います。では、そんな『収蔵品』はどのように管理されているのでしょうか?野晒しになってただただ朽ち果てていくのでしょうか?
さてここに、『大英博物館』に収蔵された『八百万点を超えるコレクション』をケアし続けている『修復士(コンサバター)』を描く物語があります。そんな組織の『トップに立つ男』、『天才修復士』と呼ばれる男の素顔を見るこの作品。ミイラから浮世絵まで幅広い”アート”の醍醐味を味わえるこの作品。そしてそれは、『収蔵品』にまつわるさまざまな謎に立ち向かっていく『コンサバター』たちの活躍を見る”アート・ミステリー”な物語です。
『自撮り棒は禁止なんです』と、『大英博物館地上階にある「パルテノン・ギャラリー」』の『来館者の男性』に『女性監視員が近づいて声をかけ』ます。『風邪気味なのか、鼻をぐずぐずさせている』その男性は『すみません』と『自撮り棒をすぐに折り畳み、鞄に仕舞』います。再び、『椅子に腰を下ろし』『そろそろ交代かな』と『腕時計を確認する』『女性監視員』。しばらくして『交代の監視員が声をかけてきたとき』、『金属が倒れる音にも、なにかがバシャンと割れる音にも聞こえ』る『大きな音が』し、『その場にいた全員が、いっせいに音の方を見』ます。監視員が『慌てて駆け寄る』と、そこには『さきほど声をかけた男性が自撮り棒を手に持ち、顔面蒼白で立ち尽くしてい』ました。そんな『彼の足元に落ちている白い塊を見て、監視員は背筋が凍』ります。『縦横一メートル以上、厚さ十センチもの浮彫の石板が、彼の胸の高さから落下していた』というその状況。一方で、警備員が駆けつける中、監視員は『自撮り棒の男性が口元にふと笑みを浮かべた』のに気づきます。
場面は変わり、『お待たせして大変申し訳ありません。糸川晴香(いとかわ はるか)と申します』と記者に挨拶する晴香は、上司の『スギモトから急に取材対応を押し付けられ』、やむなく『修復部門のラボ』を案内します。『百人ほどの修復士たちによって、八百万点を超えるコレクションが順番にケアされている』というラボを案内した晴香が『地上階に戻』ると、『受付スタッフの女の子と談笑している』スギモトの姿がありました。『いくつか質問を準備してきたんです』と言う記者に『美人からの質問は大歓迎ですよ』と答えるスギモト。そんなスギモトに『「天才修復士」という評判を、ご自身ではどうお考えですか』と訊く記者に『ああ、その通りですよ』と答えるスギモト。『三十七歳という若さにもかかわらず』、『すべての知識に精通する自他ともに認める「天才」』という『スギモトの修復は魔法みたい』とも言われています。その後も幾つかの質問をし、場を後にした記者を見送ると、『新聞社の取材を差し置いて、受付の女の子なんかとおしゃべりなさっているとは思いませんでした』と嫌味を言う晴香に『受付の女の子なんか』と引っかかるスギモト。『彼女はオリヴィア…「受付の女の子なんか」と呼ぶべきかな?』と訊くスギモトに答えられない晴香。そんな晴香に『ところで、新しいフラットを探しているようだね』と話題を変えたスギモトは、『ベイカー・ストリート』に住む中で『同居人を募集するかどうか、ずっと迷っている』と話します。そして、『今じつは助手を探してるんだが、もし君にやる気があるなら、試用期間だけ仮住まいさせてやってもいいぞ』と切り出したスギモトは、『あくまで仮住まいだ』と淡々と話します。そして、『考えておいてくれ』と言うと席を立ったスギモトは去り際に『さっきの一言がどうも引っかかる』、『受付の女の子なんかってやつだ』と話題を戻すと、『そういう考え方のやつと組むのは御免だってことは伝えておこう』と言うと去って行きました。
再度場面は変わり、スギモトから聞いたフラットへとやってきた晴香は、『どうして裸なんですか!』と上半身裸のスギモトに驚きます。『今、取り込んでるんだ』と言うスギモトは、晴香をフラットに入れると建物の中を案内します。そして、試用期間が終わるまで鍵は渡せないと伝えると、建物の五階を晴香の住まいだと話します。そんな時、『スギモトのスマホが鳴』ります。『分かった、すぐに向かうよ』と電話を終えたスギモトは『休日出勤らしい、最高だな』と話します。『私もですか?』と訊く晴香に『ああ、ウーバーを呼んでくれ』と言うスギモト。そんなスギモトはその理由を説明します。『三十分ほど前に、見学していた来館者が、自撮り棒をぶつけて大理石彫刻を落下させたらしい』。博物館へとウーバーで急ぐ二人は到着後、『信じられないですね』と、壁にあった『高浮彫のメトープ《ラピタイ人とケンタウロスの戦い》』が床に落ち『うつ伏せの状態で真っ二つに割れていた』というまさかを見ます。そんな『大英博物館』の緊急事態の裏側に隠された真実が浮かびあがる物語が描かれていきます…という最初の短編〈コレクション1 パルテノン・マーブル〉。収蔵品に隠されたまさかの真実を見る展開に一気にこの作品世界に引き込まれる好編でした。
“世界最古で最大の大英博物館。その膨大なコレクションを管理する修復士、ケント・スギモトのもとには、日々謎めいた美術品が持ち込まれる。すり替えられたパルテノン神殿の石板。なぜか動かない和時計。札束が詰めこまれたミイラの木棺。天才的な審美眼と修復技術を持つ主人公が実在の美術品にまつわる謎を解く、豊潤なるアート・ミステリー”と内容紹介にうたわれるこの作品。このレビュー執筆時点で5冊目まで刊行されている一色さゆりさんの人気シリーズです。
一色さゆりさんといえば、東京藝術大学美術学部を卒業後、都内で3年間のギャラリー勤務を経て、香港中文大学大学院美術研究科に入学というご経歴をお持ちの方です。”このミス”大賞を受賞したデビュー作「神の値段」もそんな一色さゆりさんならではの”アート”な魅力たっぷりに描かれた作品世界に酔わせていただきました。そんな一色さゆりさんがこのシリーズで描くのは作品のサブタイトルにもある通り『大英博物館の天才修復士』であるケント・スギモトとそのアシスタントになった糸川晴香を主人公とするこれまた”アート”な魅力たっぷりに描かれる物語世界です。シリーズ第1作となるこの作品ですが幾つもの魅力に満ち溢れています。三つに分けてご紹介しましょう。
まず一つ目は作品の舞台が『大英博物館』のあるイギリスだというところです。私は今までに1,000冊の小説ばかりを読んできましたが、その作品の舞台は、海外旅行を描く作品でもなければ、ほぼほぼ日本国内です。それに対して、この作品は全編を通じてイギリスが舞台となり、主人公・晴香の日常に描かれるのは全てそんなイギリスとなります。幾つか見てみましょう。
『春はまだ肌寒く、夏も暑くないこの街では、五月から九月という長期間にわたって、芝に代表される花粉に見舞われる』。
『花粉に見舞われる』という描写にえっ?と思われた方は多いと思います。私も花粉症に長年悩まされてきた人間の一人ですが、てっきり日本の国民病だと思っていました。しかし、主人公の晴香は、『ロンドンに来て花粉症に悩まされるようになった』と、『鼻がむずむず』、『目も痒くなった』という日々を送っています。イギリスにも『花粉症』があるんだ、とビックリしました。次は、空に目を向けてみましょう。
『フラットを出ると、さきほどの青空は分厚い雲にすっぽりと覆われていた。窓辺の花にも緑豊かな公園にも、すべてに灰色のフィルターをかけてしまう、典型的なロンドンの天候である』。
ロンドンと言えばこのどんよりと曇った天気の風景がよく言われるところです。この感覚が物語の全編を包み込んでいくことで、日本ではないイギリスを舞台にした物語ならではのリアル感が漂います。もう一つイギリスならではのものをご紹介しましょう。
『俺はフィッシュ・アンド・チップスを愛してるんだ。あんなにうまいものはこの世にないよ』
そんな風にスギモトが語るイギリスを代表する食の登場です。
『フィッシュ・アンド・チップスとは、魚とじゃが芋の衣揚げを意味する、イギリス中どこの地域にも必ずある国民的ソウル・フードだ』。
『こちらではフィッシュ・アンド・チップスの衣にビールや炭酸水を使う』といった豆知識含め、この作品の食の場面は、とにかく『フィッシュ・アンド・チップス』が演出していきます。私もイギリスを旅した時に口にしましたが、個人的には悪くないという印象です。しかし、この作品の主人公である晴香は、『一生食べずに済ませられるならそうしたい食べ物ナンバーワン』という設定です。細かい点ですが、この設定も物語のちょっとしたアクセントで活きてきます。いずれにしても舞台がイギリスであるという新鮮な感覚がこの作品の一番の特徴だと思います。
次に二つ目は、”アート”に関するさまざまな知識がこれでもか!と登場するところです。この作品の目次を見てみましょう。
・〈コレクション1 パルテノン・マーブル〉
→ 高浮彫のメトープ《ラピタイ人とケンタウロスの戦い》
・〈コレクション2 和時計〉
→ 駒割式やぐら時計
・〈コレクション3 古代エジプトのミイラ〉
→ 庶民のミイラ
・〈コレクション4 HOKUSAI〉
→ 葛飾北斎「グレート・ウェーブ」
この作品は4つの短編が連作短編を構成していますが上記の通り、主人公・晴香が『大英博物館』に勤めているという点が一つのポイントとなります。”アート”を描く作品と言えば原田マハさんが有名です。そして、私は一色さゆりさんを知ることになって”アート”な小説の世界がさらに広がりましたが、この作品の舞台がさまざまな国のさまざまな芸術作品を蒐集した場所が故に、この作品では、ギリシャ彫刻、和時計、エジプトのミイラ、そして葛飾北斎の浮世絵というようになんとも幅の広い贅沢な”アート”に触れることができるのです。『アメリカ合衆国よりも長い歴史を持つ』という『大英博物館』は私も一度だけ訪れたことがありますが、とにかく巨大な建物の中に、もう何でもありという位にさまざまなものが展示されていることに圧倒されます。しかし、この作品にはそんな博物館についてこんな記述が登場します。
『人類の歴史そのものを凝縮した大英博物館の収蔵庫は、無限のようにつづく薄暗い廊下状になっている…ここに全所蔵品の九十九パーセントが眠っていると知り、度肝を抜かれた。
すなわち、展示室で来館者の目に触れるコレクションは、ほんの一パーセントなのだ』。
これは、驚きの記述です。一日ではとても見切れない圧倒的なコレクションが、全体の『ほんの一パーセント』に過ぎないという圧倒的な規模感。改めて『大英博物館』の凄さを思い知らされます。物語では、
『大英博物館のコレクションのほとんどが略奪品で、ユネスコで採択された条約に引っかかるものばかりだ』。
といった今の時代には議論を生まざるを得ない負の側面にも光が当てられていきますが、一色さゆりさんらしく、”アート”一つひとつを細かく見ていく視点もたまりません。その中でも私の興味を掻き立てられたのは『この波に辿り着くまでに、何十年もかけて数々の波を描いてきた』という葛飾北斎の『グレート・ウェーブ』についてです。
・『画面のなかで、波濤が無数の白い飛沫をあげながら立ち上がり、江戸へと魚を運んでいる三艘の押送船を翻弄する。とくに大きく立ち上がるこの絵のランドマークともいえる中景の波は、ゴッホが「船を捕らえる爪」として引用した』。
・『この波濤の造形は、何千分の一秒のシャッタースピードで撮影した実際の波と、まったく同じだというのは有名な話である』。
そんな風に描写されていく世界的に有名な『グレート・ウェーブ』。そして、葛飾北斎が最後に残したという
『天があと五年の命を与えてくれるなら、真正の画工になったのに』
そんな言葉も含めて描写されていく様は”アート”な魅力たっぷりです。しかも、『修復士』の視点で、そんな絵を深く分析していく物語が描かれてもいくのです。この先、5作目まで刊行されている理由がよくわかるように思いました。
最後に三つ目が、『スギモトの修復は魔法みたい』と評される『天才修復士』のスギモトと、そんな彼のフラットに同居しながらアシスタントとして彼を支える主人公・晴香の”お仕事小説”の側面が描かれていくところです。
『百人ほどの修復士たちによって、八百万点を超えるコレクションが順番にケアされている』。
『大英博物館』ならではの圧倒的な規模感を誇るスタッフの陣容ですが、そこは分業制が徹底されているようです。
『大英博物館では基本的に、すべての作業が細分化、専門化されています。修復部門で言えば紙の修復をするのは紙の専門家で、他にも、木やミイラといったオーガニックなもの、石、陶磁器、ガラス、金属…いろいろな専門家がいます』。
主人公の晴香はそんな場所で『紙』を専門としています。そこでは、こんななるほど記述に驚かされます。
『白い帯が見えますよね?これ、和紙なんです。切れた部分をつなぎとめる補強材として使われています』。
『まず薄いこと』、『伸縮性があって破けにくく長持ちする』という特性を持った『和紙や麩糊といった日本の素材に関する知識』を”お仕事”に役立たせていく晴香。
『修復の世界って、知られていないことが多いんですね』
そんな言葉の通り、私たちが普段目にすることのない博物館のバックヤードで日々続けられる『修復士』の”お仕事”、そしてその存在がこの作品によって光を当てられていきます。これは非常に興味深いものがあります。そして、それは上記した通り幅広い”アート”にまたがってもいきます。”アート”が好きな方には必読書と言って良いシリーズだと思いました。
そんなこの作品は、物語の冒頭で、『今じつは助手を探してるんだが、もし君にやる気があるなら、試用期間だけ仮住まいさせてやってもいいぞ』と上司のケント・スギモトから声をかけられた晴香が、『パイプをくゆらす名探偵の横顔が、モザイクで大々的にデザインされている』『ベイカー・ストリート』駅至近なフラットで同居を始めたところから始まります。『天才修復士』として、『大英博物館』の中で『部門のトップに立つ男』、それがスギモトです。『三十七歳という若さにもかかわらず、有機物、無機物、科学調査、すべての知識に精通する自他ともに認める「天才」』というスギモトの凄さは4つの短編それぞれの中で披露されていきますが、一方で『やれやれこの男はいったい何人の女を相手にしているんだ』と晴香が呆れるほどに『女にだらしなさそう』な側面を見せるところが堅物ではないスギモトのもう一つの顔を見せてもいきます。そんなスギモトの下で、『猪突猛進するタイプなので、脇目もふらずに前へ進んで今に至』る晴香は『修復』という”お仕事”にこんな思いを抱いています。
『修復って、ものに隠された見知らぬ土地や時代を解き明かしていく行為だと思うんです。もっと言えば、ものに秘められた人々の想いを読み解く行為というか』。
そんな思いの先に、スギモトのアシスタントとしてさまざまな謎に立ち向かっていく晴香。さまざまな”アート”の舞台裏に触れていく物語は、スギモトと晴香のでこぼこコンビが良い味を出していきます。また、父親が姿を消してしまったことを気にかけるスギモトの心中を描く視点が物語を一本に繋いでもいきます。そんな物語は、この構成であればどこまでも続けていける!そんな面白さを感じさせる中に、まさしく”つづく…”という結末を迎えます。すぐにでも第2作を手にしたいと思わせる魅力溢れるこの作品。そこには、芸術への深い愛を感じさせる一色さゆりさんだからこそ描ける物語の姿がありました。
『コンサバターとは、作品をじかに扱う立場のプロフェッショナルだ』。
『大英博物館』で『修復士』として働く主人公の晴香とその上司である『天才修復士』・スギモトの活躍を描くこの作品には、”アート”な魅力を前面に押し出した魅力溢れる物語が描かれていました。幅広いジャンルの”アート”の登場に何かしら興味を惹かれるものが見つかるこの作品。そんな”アート”の裏側にある、あんなことこんなことに触れられるこの作品。
“アート・ミステリー”の面白さにすっかりハマってもしまう素晴らしい作品でした。