伊藤典夫のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
ワン・アンド・オンリーな孤高のSF作家、ハーラン・エリスンの日本独自編集短編集。
日本人SF者として何が嬉しいかって、収録作全てが伊藤典夫氏の翻訳だということ。エリスンの作品は、全編これ暴力と狂気の世界です。猥雑で非情で容赦のないこの世界観を、悪趣味一歩手前のギリギリのラインで美しい言葉遣いでまとめる手練の技は、正に伊藤典夫氏の職人芸。
10編の短編が収められていますが、「これSFじゃないでしょ」な作品も結構あります。でも、何だろうなぁ、SFというジャンル分けするのがもったいないような独特の存在感。
ブラッドベリの妖艶さでもなく、ディレイニーのスタイリッシュさでもなく、正に「エリスン節」としか言いようの無い独特のグロテスクさと、並行して光り輝く問答無用の「カッコよさ」。何が言いたいのかよく判らない描写も、正直結構あります。でもそんなことどうでもいいんだよ、だってカッコいいじゃん!と大声で主張したくなる、唯一無二の香気。表題作の壮大にして壮絶な香り高さといったら、語弊を恐れずに言えば筒井康隆「幻想の未来」に通ずるものを感じました。
他に鴨が気に入ったのは、「おれには口がない、それでもおれは叫ぶ」「プリティ・マギー・マネーアイズ」「ジェフティは五つ」の3編。SFのネタとしてはどれも大して面白いネタじゃないんですけど、表現次第でここまで面白くなるんだなと思わせるカッコ良さです。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ吉野朔実が子どものときに読みたかった本として挙げていたため、興味を持って読むことにした。どうしてこれを子どものときに読みたいと思ったのだろう、と疑問に思ったが、確かに小さな頃に見ていれば、価値観というか見方がひっくり返ったかもしれない(?)。
最初はただの普通の話だと思っていたが、空想の島「サン・ロレンゾ」が出てくるにつれ、段々と不思議な世界に突入していく。一般人がアイス・ナインという一歩間違えば大量殺戮兵器にもなり得るようなものを持っていて、この道具を個人の好きに使ってしまって、きな臭くなっていく。ハニカーの子どもたちに対しては、良心もある程度の分別もあるけれど、私欲も勿論持っている人間なんだな、と思った。天才はどうなのか知らないが、一般人がこういった危ない兵器を利用しようとすると、最初から大きな自体にはならないが、小さなところから波紋のように大きく影響が広がっていくと分かった。
読んでいて一番気になったのは、ボコノン教から見る宗教のあり方(この宗教は独裁があるからこそ島民の心に平和と歓喜をもたらす)だった。宗教と社会的平和は共存できないのだろうかと考えるに至った。
おそらく話の内容は世界全体に通じることなんだろうけれど、世界規模で急に書き出すと、規模が大きすぎて問題が浮き彫りになりにくいのだと思う。それをサン・ロレンゾという小さな規模の社会(小さな世界?)の出来事として書くことによって、宗教や戦争は何なのかという問題と答えが、読者(というか私)に考えやすく、自分や作者なりの答えが見つかりやすくなっているように思った。 -
Posted by ブクログ
・R・F・ヤング「たんぽぽ娘」(河出文庫)の 「編者あとがき」にかうある。「ヤングの短編集を編むとき、ぼくが特化したのは、ロマンスものーーというか、彼のボーイ・ミーツ・ガールものである。ほか の作家ならいざ知らず、彼の作品中ずばぬけた出来ばえを見せているのはボーイ・ミーツ・ガールものとそのさまざまなヴァリエーションだった」(384 頁)。確かに、これはこの通りの短篇集である。これ以上でもなくこれ以下でもない、ボーイ・ミーツ・ガールもの集成である。巻頭の「特別急行がおくれた日」から最後の「ジャンヌの弓」までの全13編、外れはない。どれもおもしろい。
・巻頭の「特別急行がおくれた日」は蒸気機関車運転手ルークの片思ひである。最後はプロポーズしようと思つたルークが「そんな日が決して来ないことも彼は知つてゐた。」(17頁)と終はる。想像通りだし、ありきたりで予定調和だとも言へる。しかし、主人公の雰囲気、物語の雰囲気が良い。これは他の作品にも言へることで、ヤングの特質でもあらう。3作目「エミリーと不滅の詩人たち」は異色作であらう。ボーイ・ミーツ・ガールならぬガール・ミーツ・ボーイズで ある。しかもそのボーイズは生きた人間ではない。「アンドロイドの詩人」(53頁)である。エミリーは博物館の補助学芸員であつた。そこに展示されるテニ スン、ブラウニング、フィッツジェラルド等々、エミリーはこれらの「誰からもかえりみられない詩人たちに、深い同情を寄せ」(55頁)てゐた。ある時展示 替へとなり、詩人達は文字通りお蔵入りとなつた。ところが、エミリーが新展示の自動車にその詩人達を乗せてみたところ、それは上司にも好評であつた。「そうだね、お手柄といってもいいかもしれんな。ミス・メレディス。理事会も喜ぶんじゃないか。」(72頁)といふわけで詩人達は展示の中で生き延び、エミ リーは詩人達との朝の対話を楽しむのであつた。恋愛ではなく、しかも相手は生身の人間ではない。それでもこれはロマンスと言へばロマンスであらう。これは私の好きな作品である。普通のロマンスが好きではないからかういふのを好むといふことがあるかもしれない。しかし、それ以上に「アンドロイドの詩人」の機械さ加減、いや奇怪さ加減と、それに対するエミリーの反応、態度が楽しい。ある意味、これも恋は盲目である。そして、これが古めのSFであるからこそかういふ味が出せたのである。最新の知見をもとにしたSFであつたらとてもこんな雰囲気は出なかつたはずである。「第一次火星ミッション」はたぶん火星探検ものである。物語はかう始まる。「宇宙船はラリーの家の裏庭で建造された。」(204頁)そして、その「最後にコントロールパネルを取り付けた」(205 頁)。それは「一九五七年型フォードのダッシュボードである。」(同前)そんな宇宙船で火星に行つた少年は〈火星の女王〉(210頁)に会ひ、ナイフを忘 れてきてしまつた。それがかうなるのである。「地球管制官『リード中佐、いましがたかがんで、なにか拾いあげていたが、ひょっとして科学的に興味を引きそうなものでもあったか?』」(218頁)さう、「真実をいったとしても、誰が信じてくれるだろう?」(同前)これはSFといふよりファンタジーであらう。 少年が会つたのは〈火星の女王〉であつたが、成人した中佐は何を見るのか。錆びたナイフだけなのか。科学的でないSFであるからこんな雰囲気が出るのであ る。表題作「たんぽぽ娘」はおもしろい。正統的なボーイ・ミーツ・ガールもののSFである。しかし、私はこれらの相当に崩れた変奏の方により惹かれたのであつた。 -
Posted by ブクログ
かわいいタイトルだけど、内容は相当に人を喰っている(笑)。
ジャンルは終末世界SFになるのだろうか。架空のボノコン教という宗教が出てくるのだが、その『ボノコンの書』の冒頭はこんなだそうだ。
「わたしがこれから語ろうとするさまざまな真実の事柄は、みんな真っ赤な嘘である」
すべての物事は大まじめに進んで行くが、それらは同時にとても滑稽で、それでいて哀れである。
目がまわる、目がまわる。うんざりするほどの混沌と単純さが入り混じった世界で、しかしヴォネガットさんは現実をありのままに語る。この作家さんは、そんな現実をそのままジョークにしてしまうのだ。いやはや。
現実に対してユーモアで反骨しているのだと思う。ほんとに皮肉屋ね。でも、それは一つの許しなのだとも思う。人間は愚かだということへの。
「<フォーマ>(無害な非真実)を生きるよすべとしなさい。それはあなたを、勇敢で、親切で、健康で、幸福な人間にする」 ――『ボコノンの書』第一の書第五節 -
Posted by ブクログ
ネタバレこの本は「2001年宇宙の旅」から始まったシリーズの完結編です。
2001年宇宙に放り出された飛行士が1000年後、
海王星付近で偶然回収され、蘇生しました。
浦島太郎となった飛行士フランク・プールが見た3001年の世界は、
宇宙と繋がる軌道エレベーターや、脳に直接情報をダウンロードできるキャップなど、
まさに「未来はこうだ!」みたいな科学雑誌の世界でした。
だけどタイムマシンや光速宇宙船はありません。
ここら辺の、SFでありながらリアリティを感じさせる絶妙なサジ加減に
アーサー・クラークの勉強熱心さと作家の腕を感じます。
SFの大家が描く未来予想図を楽しんでいるうちに、
物語は人類の危機を迎えます。
あの絶対的“神”モノリスが、どうやら人類を滅ぼそうとするのです。
1000年後の人々は、この事態にどのように対応するのでしょうか。
「人類にとって何よりも関心があるのは、いつだって愛と死なのだ」
2001年宇宙の旅から、人間は所詮サルだというテーマはぶれませんが、
3001年ではブレインキャップによって人間同士が完全にネットワーク化した
共同体として平和に暮らす世界を描いています。
最終話にあたり、齢80を迎えたアーサー・クラークが、
未来への夢と希望を託したのかも知れません。
HALとボーマンの結末、モノリスの意味など全てが明らかになります。
謎に満ちた2001年からの読書の旅も、スッキリ完結しました。 -
Posted by ブクログ
ネタバレもはや説明の要すらない大傑作「2001年宇宙の旅」の9年後を舞台とした続編。設定上は、小説版ではなく映画版の続編となっており、遺棄されたディスカバリー号が漂流しているのは木星衛星群の宙域です(この辺りのいきさつは、クラーク自身による「作者のノート」に詳しいです)。
宇宙飛行士4人が死亡、1人が行方不明となったディスカバリー号事件から9年後、木星衛星群探検のきっかけを作ったヘイウッド・フロイド博士は、ディスカバリー号回収のためにHAL9000の生みの親・チャンドラ博士と共にロシアの宇宙船に乗って木星へと旅立つ。9年前と何ら変わらぬ政治的な駆け引きに翻弄されつつも、ボーマン船長が残した謎のメッセージを頼りに木星周辺での探索を続けるフロイド博士が観た事件の真相、そして更なるモノリスの企みとは?
前作の小説版は、いわゆる「ハードSF」としてきっちりと作り込まれた物語的ダイナミズムが最大限の効果を発揮した傑作だと、鴨は思っています。映画を観る限りだと何が何だかよくわからないんですけどねヽ( ´ー`)ノ小説版では、TMA-1の存在理由もHAL9000が発狂する過程もボーマン船長が変容したものが「何か」もSFとして全てちゃんと説明されており、SFとしての(実にクラークらしい)オチも付いています。
続編である「2010年」も、前作のテイストを引き継ぎ、「ハードSF」として隙のない、きっちりと美しく構成された物語世界が展開されています。まぁ、モノリスによる変容後のボーマン船長(であったもの)が登場したり、コンピュータであるHAL9000の「意識」がディスカバリー号消滅後にも精神体として生き残ったり、多分にオカルティックかつスピリチュアルな描写もそこかしこに見られるのですが、クラークのスゴいところはそれがハードSF世界の一風景として何ら違和感なく存在しうるというところ。ボーマン船長(であったもの)がクルーにとある警告を発して以降の物語の緊迫感は、タダものではないです。最終的に警告を受け入れたクルーが危機一髪で木星圏を脱出する描写に、鴨は痺れましたね。これぞハードSF!
この「ハードSFっぽさ」に加えて、いかにもこの作品がクラークらしいポイント。それは、地球人類の未来に対するニュートラルな視点です。
物語の途中で、どこかで読んだような気がする一章が挿入されます。実はこれ、前作「2001年宇宙の旅」と全く同じテキストによる、モノリスの存在理由を説明する一章なのです。地球人類のちっぽけな自尊心など全く意に介さない、巨大な存在の提示。そして、物語の最後の最後に登場する、モノリスによって選ばれた「地球人類以外の知性」。地球人類の存在意義を徹底して客観的に見つめる、「幼年期の終わり」にも通じるクラークの冷徹な視線を感じます。
そんな壮大なヴィジョンを提示しつつも、その一方でフロイド博士の離婚騒動とか宇宙船クルー内の恋愛模様とか、ものすごく卑近な地球人類ならではの人間模様も描いてみせたりして、あぁもぅこれだからクラークやめられないのよヽ( ´ー`)ノ
面白いです! -
Posted by ブクログ
SFもあり、ちょっといい話風な短編もあり、の短編集。
序文などにもある通り、テレビが普及する前の時代、雑誌の読み物が一般的な娯楽として広く楽しまれていた頃に雑誌に掲載されていたもの。
古きよきアメリカ、的な香りもし、同時に、皮肉のきいた社会批判も織り込まれていて、まだ作家として駆け出しの頃のものでありながら、独特の個性が感じられます。
いちばん印象に残ったのは、「パッケージ The Package」かな。
ちょっと先の未来(書かれた当時はだいぶ先の未来、だったはず)の話、という設定。
苦労して事業を成功させ、念願の新型住居を購入したアールとモードのフェントン夫妻。
世界一周旅行を終えて新居に帰ってきた二人のもとに、チャーリーという男が訪ねてくる。
彼はアールの学生時代の級友で、裕福な家庭に育ち医者になった男。
苦学生だったアールは裕福だったチャーリーに対し、コンプレックスのようなものを抱いていた。
今や成功者となったアールのもとにやってきたチャーリーは、擦り切れた服、ほこりまみれの靴、といういでたち。
きっと金を借りに来たのでは、と思ったフェントン夫妻は――という話。
短めの短編が23編も入っていて、あまり読書慣れしていない人でも読みやすいし、内容も楽しめると思います。
娯楽小説的に書かれているけれど、垣間見える姿勢、のようなものが個人的にはとても好き。
2007年の4月に亡くなってしまったんですね、この人。
新作を楽しみに待つ、ということがないのは残念です。
そういう楽しみ方をしたかった作家です。 -
Posted by ブクログ
2000年に上製本として発売されていた、ヴォネガットの短編集がこのほどようやく文庫化された。
書かれたのは1950〜60年代で、半世紀も前のもの。
ヴォネガットが短編を生活の糧として量産していた時期があり、
その大半はスリック雑誌に掲載された。
かつて、短編集「モンキー・ハウスへようこそ」が編まれたが、
そこから漏れてしまった23篇がここに収録され、短編の大方が網羅されたことになる。めでたい。
ここに収録されているのは短編で、しかもアーリー・ヴォネガットと言うべき作品群。
彼一流の文明批判や、どうしようもない人への「諦めと愛情いっぱいのまなざし」はすでに健在、
さすがというべき。ただ、長編に見られるようなあの独特の味わいはほとんどないので注意が必要。
短編としての出来は決して悪くないが、やはりヴォネガットは
長編でユニークな存在になったと思う。圧倒的に。 -
Posted by ブクログ
本を読むのなら、とりわけ「小説」を読むのなら、あなたは自分自身がひっくり返っても書けないと思える本を読むべきだ。結末の予想や著者の思想・背景を探るような余裕さえ無い程、自分を振り回してくれるような本を読むべきだ。
そういった本を見つけるために本屋に行くべきだ。その際は出版社別ではなく、著者別にあらゆる出版社の文庫が雑然と並ぶ本屋を選ぶのが好ましい。あ行からわ行までくまなく検分するうちに、きっと心に引っかかったまま忘れかけていた作家の名前が見つかるからそれを手に取ってみるのが良い。そんな名前が見つからないなら、題名の良い本を引っ張り出して背表紙のあらすじを読むと良い。そんな題名が見つからないなら、装丁の優れたものを探して読むと良い(ただしこれははずれも多い)。
そこまでしても読みたい本が一冊も見つからなかったなら、ヴォネガットを読みなさい。