三浦綾子のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
真面目に、正しく一生懸命に生きている者に、どうして苦難が降りかかるのか --- 「泥流地帯」では示されなかったこの問題に対する著者の回答が本書で示される。著者は聖書のヨブ記を引き合いに出して、善因善果、悪因悪果は人間の理想であって現実はそうではないと主張する。人は、良い行ないをした者には良い報いが、悪い行ないをした者には悪い報いがあって欲しいという願いから、いいことが起こった時には日頃の心がけが良かったからだとか、悪いことが起こった時には先祖や神様の祟りだとか考えようとするが、悪い行いをしたものが幸せになったり、良い行いをしたものに災いが起こったりするのも現実なのである。
前作では、登場人物らの幼少期の純粋な目を通して描かれた北海道の大自然の美しさと、真面目に正しく生きていく姿の美しさが相俟って、読むたびに心が洗われるような、純粋な気持ちになれる。
本作では、善因善果、悪因悪果は理想に過ぎないという、ともすると生きていくことに絶望するような結論を導き出しながらも、生きていくことを勇気づけてくれるフレーズを随所に散りばめ、励ましてくれているように思える。読み終えた後に「よし、がんばろう」と力が湧いてくる。 -
Posted by ブクログ
偶々出くわした小説が興味深く、「同じ作者による他の作品」と幾つかの作品を紐解く中で出会った作品である。なかなかに興味深く拝読した小説である。
「小説」というモノは、作者が自由自在に想像の翼を羽ばたかせて綴るモノであろう。作者本人の経験や見聞、人生と然程関連が無くても何らの支障もない。それでも、場合によっては作者本人の人生が色濃く反映される小説というモノも登場する。
三浦綾子作品に関しては、丁寧に取材をして様々な人達の話しを参考にしながら綴られている作品が見受けられると感じられる他方、御自身の人生の中での経験や、考えて来た事柄等が色濃く反映されていると想像させる面も大きいように感じる。小説家として登場した当初から、活躍を続ける中、晩年近くに発表されている作品に至る迄、一貫して「取材成果」と「御自身の人生の中での経験や考察」とを巧みに織り交ぜるような感じで作品を綴り続けたのではないかと、一読者としては思う。
本作『道ありき(青春編)』は三浦綾子の「自伝」と言われている。戦前に勤めていた小学校教員の仕事を辞めた戦後間もなくの頃、病を得てしまって療養生活に入ることとなる。長く療養生活を続けるという中で、幾つかの出会いや別れが在って、やがて結婚に至ったという経過は知られている。本作もそうした、少し知られた経過の物語である。
が、それでも作者自身の「自伝」というよりも、「小説家として少し知られるようになった主人公の“堀田綾子”が来し方を回顧する物語」というような、「純粋な小説」という感覚で読んだ。そういうように「読まされた」と言い換える方が妥当かもしれない。
小説によく在るような感じで「堀田綾子は…」というような叙述が早目な段階に出て来るのでも何でもなく、「私」という第一人称での語り、「御自身の心の移ろい」を一部に旧い記録等も少し引っ繰り返しながら綴っている。眼前の他の人から「綾ちゃん」、「綾子さん」、「堀田さん」という程度に呼ばれている描写が出て来ることから、綴られている物語、読み進めている物語の主人公が「堀田綾子」と知れる訳である。本作の最終盤で結婚し、「三浦綾子」となるのである。
20歳代から30歳代の通算13年間程を療養に費やしたというのは、凄く特異かもしれない人生のようにも思う。その中の概ね半分程度は、症状の関係で自由に身体を動かせない羽目で、御手洗を使う、食事を摂るという動作にさえ不便していたのだという。そういう中、不自由さを呪うというようなことに終始する、または不運であると何もかも諦めるということではなく、出逢った人達との交流の中に様々な可能性を拓こうとするような様子に心動かされる。更に、周辺で「誰が何と言おうと…」という感じで「堀田綾子」を支えようとする人達の様子にも驚かされる。
本作の物語は、昭和20年代、昭和30年代を背景としている。当然ながら、その様々な状況は現在とは大きく異なる。それでも、苦難を嘆く、呪うに終始しない生き様、苦難の中に在る人を何とか支えようとする人の様というのは、時代や場所を超えて心揺さぶるモノが在ると思った。
三浦綾子作品の多くは長く読み継がれて「古典」という存在感を放っていると思う。本作もそうした「古典」の一つに上げなければならないであろう。 -
Posted by ブクログ
80年以上も前の事件、それに巻き込まれる羽目に陥った人物という題材を軸とした物語で、30年も以前に発表された小説ではある。が、そういう「何十年前」という変な旧さは微塵も無い。現在の時点でも考えさせられる内容を大いに含む小説だ。
美瑛を訪ねた際に、十勝岳噴火の災害に纏わる話題として小説『泥流地帯』が知られているということを何度も聞いていて、思い切って入手して読んでみた。実質的な上下巻ながら、別作品扱いである『続 泥流地帯』と併せて読み、これが非常に好かったので「同じ作者の別な作品」と三浦綾子作品を何作か続けて読んでみた。何れも、新聞や雑誌の連載で初登場、そして単行本が初めて登場という時期が半世紀やそれ以上も前という作品だった。
三浦綾子は『氷点』でのデビュー以降、概ね35年間の作家活動という経過が在る。その活動の後期というような頃には、少し体調も好くなかったということだが、1990年代にも深い問題意識で幾つもの作品を発表している。その1990年代の作品と言っても、既に30年程度も以前ではあるが。
本作は少年時代に小学校の教員を志すようになり、その道へ進んだという北森竜太という青年が主人公だ。作中の殆どの部分がこの北森竜太の目線で綴られている。
上巻は北森竜太の少年時代、長じて教員となり、教員としての活動に励みながら、同じく教員となった子ども時代からの馴染である女性と幸せな家庭を築くことを夢見るようになって行くという展開である。昭和に元号が改まったような頃から、昭和17年頃迄の経過となる。
この竜太の来し方が描かれている旭川での場面だが、昭和の初め頃の雰囲気が活写されていて凄く読ませる感じだ。そして教員となって赴任するのは空知管内の炭鉱町である。この炭鉱町の雰囲気が、何か凄くリアルに伝わる感じだ。
そして教員としての活動に関することだが、「あの時代の学校?」という様子が非常に詳しく描かれる。そして熱心に授業に取組む竜太達の様子も凄く引き込まれるモノが在る。 -
Posted by ブクログ
小説を愉しんだ後に思う場合が在る。作中の最終盤辺りの経過の後、「如何いうようになってしまう?」ということが凄く気になる場合が在って、「こういうように?」と勝手に考えを巡らせてしまう場合も在る。
『氷点』という小説を読んだ。不幸な事件が契機で、一家は重大な秘密を密かに抱え込んでしまう。その秘密に関るヒロインは、その秘密を突き付けられる羽目に陥り、最終盤で騒動を起こしてしまう。やがて一家の秘密の真相を知る人物が、その真相を伝える。そういう具合で「ヒロインの陽子は如何なる?」という場面で物語が幕を引くのが『氷点』であった。
作者の三浦綾子の中で、『氷点』は発表されている「ヒロインの陽子は如何なる?」という場面で完結していたようである。が、小説が大好評を博し、三浦綾子が次々と作品を発表するようになって行く中で「『氷点』の陽子のその後?」という声は高まったようである。色々な人達が随分と、その件を話題にしていたらしい。
そういうことで、取材を重ねた上で登場した「続篇」である。
『氷点』は「昭和30年代の終盤頃」という時期迄の物語である。対して『続 氷点』は「昭和40年代前半頃」という時期の物語である。
『氷点』に登場の啓造、夏枝、徹、陽子という「辻口家の人達」は『続 氷点』でも引き続き主要な人物達ということになる。そして『氷点』に登場した、辻口家の人達と交流が在る人達も引き続き登場する。その他方で、『続 氷点』には新たな人物達も登場する。
上巻は、『氷点』の最終盤での騒動の直後という情況から物語が起こる。そして時間が少し経過し、『続 氷点』の鍵になる「三井家の人達」が登場するようになる。
下巻では、血の繋がらない兄の徹と、兄の友人ということで知り合って親しくなった北原との間で揺れていた陽子、そして「三井家の人達」を巡る挿話が多くなる。
『氷点』は陽子が成長する過程の子ども時代が相当に入るのに対し、『続 氷点』は陽子が既に高校生や高校卒業後、或いは大学生である。それ故に「陽子の目線」という部分が多い。
『氷点』の最終盤で陽子は高校2年であるが、『続 氷点』の中では大学生になっている。数年経っているということになる。そういった事情を踏まえ、<見本林>が在って、辻口邸が建っていることになっている神楽や旭川の街での挿話に加え、札幌での挿話も少し多くなり、加えて作中人物達が旅行に出るような場面も在る。 -
Posted by ブクログ
小説を愉しんだ後に思う場合が在る。作中の最終盤辺りの経過の後、「如何いうようになってしまう?」ということが凄く気になる場合が在って、「こういうように?」と勝手に考えを巡らせてしまう場合も在る。
『氷点』という小説を読んだ。不幸な事件が契機で、一家は重大な秘密を密かに抱え込んでしまう。その秘密に関るヒロインは、その秘密を突き付けられる羽目に陥り、最終盤で騒動を起こしてしまう。やがて一家の秘密の真相を知る人物が、その真相を伝える。そういう具合で「ヒロインの陽子は如何なる?」という場面で物語が幕を引くのが『氷点』であった。
作者の三浦綾子の中で、『氷点』は発表されている「ヒロインの陽子は如何なる?」という場面で完結していたようである。が、小説が大好評を博し、三浦綾子が次々と作品を発表するようになって行く中で「『氷点』の陽子のその後?」という声は高まったようである。色々な人達が随分と、その件を話題にしていたらしい。
そういうことで、取材を重ねた上で登場した「続篇」である。
『氷点』は「昭和30年代の終盤頃」という時期迄の物語である。対して『続 氷点』は「昭和40年代前半頃」という時期の物語である。
『氷点』に登場の啓造、夏枝、徹、陽子という「辻口家の人達」は『続 氷点』でも引き続き主要な人物達ということになる。そして『氷点』に登場した、辻口家の人達と交流が在る人達も引き続き登場する。その他方で、『続 氷点』には新たな人物達も登場する。
上巻は、『氷点』の最終盤での騒動の直後という情況から物語が起こる。そして時間が少し経過し、『続 氷点』の鍵になる「三井家の人達」が登場するようになる。
下巻では、血の繋がらない兄の徹と、兄の友人ということで知り合って親しくなった北原との間で揺れていた陽子、そして「三井家の人達」を巡る挿話が多くなる。
『氷点』は陽子が成長する過程の子ども時代が相当に入るのに対し、『続 氷点』は陽子が既に高校生や高校卒業後、或いは大学生である。それ故に「陽子の目線」という部分が多い。
『氷点』の最終盤で陽子は高校2年であるが、『続 氷点』の中では大学生になっている。数年経っているということになる。そういった事情を踏まえ、<見本林>が在って、辻口邸が建っていることになっている神楽や旭川の街での挿話に加え、札幌での挿話も少し多くなり、加えて作中人物達が旅行に出るような場面も在る。 -
Posted by ブクログ
1974(昭和49)年から1976(昭和51)年に雑誌連載として登場した作品だという。1976(昭和51)年に単行本となった。後に文庫本にもなっていて、幾つかの版が出たと見受けられるが、今般入手したモノの初版は1985(昭和60)年ということだ。
上巻では1923(大正12)年頃から1938(昭和13)年頃という背景だ。下巻では上巻の最後の辺りに在った場面の数ヶ月後から物語が起こり、1945(昭和20)年の戦争の終結の頃迄、最終盤辺りは戦後に相当する昭和22年頃という時代が背景だ。上下巻を通じて、概ね四半世紀の期間、その時代を生きた作中人物達の人生が描かれる物語ということになる。
下巻の物語は樺太での孝介とあき子の夫婦、須田原家の人達という物語が続く。
孝介、貴乃、完治の「過去」と、それを知らずに居たあき子ということになる。孝介はあき子との関係に悩み、あき子も孝介との関係に悩むことになる。そしてあき子の不倫という問題が生じる。
やがて時代は動く。完治が、そして孝介が各々召集されて兵役に就くという展開にもなる。各々が樺太に戻るが、戦争の時代が進んでいる。やがてソ連軍の侵入という事態へ向かって行く。
揺れ動く時代の中で、作中の池上家や須田原家の人達は如何いうような経過を辿って行くのかというのが本作の物語ということになる。
本作の物語は適宜視点人物が切り替わりながら、各作中人物の身の上に起こること、時代の動きが描かれるのだが、自然や街等の描写の丁寧さと精緻さということも手伝って、何か「美しい映像の作品」に触れているような気もする小説になっていると思う。具体的な誰かを思い浮かべるというのでもないのだが、作中人物達の風貌や体格の雰囲気が何となく浮かび、言葉を発した場面での話し口調やその声音が聞こえてくるかのようで、描かれている時代の自然や街の中で動き廻る様が凄く強く伝わる感だった。
篤実な生き方を目指し、出逢った網元に見込まれて後継者となり、事業家として成功し、学校への寄贈というような篤志家という活動までする他方、胸に秘めた熱い想いが揺れている中で色々と悩みながら歩む孝介が在る。
独特な価値観で正直に生きようとする腕の良い職人の父の薫陶を受けて育った貴乃は、孝介への想いが断ち切れないということも在るが、忍従というような中で子ども達の成長を見守りながら暮らすような感である。
こういう二人に対し、完治や伊之助は「儲かれば勝ち」とか「自分が良ければ他は知らん」というようなことを地で行くような様子だ。完治は策謀を巡らせるようなことまでして、誰もが羨むような女性を妻に迎えていながら、妾も囲っている。
そして「先生」こと孝介を愛したい、孝介に愛されたいという熱いモノを胸に、複雑な心境の孝介が見せる「距離感」に当惑し、やがて不倫に走ってしまう、そういう情況の中で揺れる想いを抱えるあき子が在る。或る意味で、本作は「このあき子を囲む人々の物語」というような色彩も帯びているかもしれない。
作中人物達は、樺太で色々なモノを得て、それを時代の動きの中で喪う。そういう思うようにならない様々な事柄と向き合って生きて行く人生というのが、本作以前に読んだ『泥流地帯』、『続 泥流地帯』にも通じるかもしれない。
作中人物達の様々な事柄が揺れ動く時代を背景にする物語が非常に好いのだが、頁を繰る手が停まらない、また「停められない」という様相を呈しながら読んだというにには、作中世界の「場所」という要素も在ることを挙げておかなければならない。「稚内」や「樺太」なのである。自身が住む街や、縁在って何度も訪ねた地域ということになる。勿論、作中の時代の何十年も後ではあるが。
作中の稚内に関しては、「北浜通」、「山下通」というような住所、郵便局の場所、何となくモデルが判るような廉売と称する商店、寺、銭湯等と、やや遠い時代の街で動き廻る作中人物達の様が凄く生き生きして見える。
作中の樺太の豊原に関しては、鉄道駅、郵便局と建物こそ作中の時代と変わっていても、最近になっても同じ用途の施設が在る様子、「神社通」というような場所、現在は公園になっている嘗ての大きな神社、街の少し北側の「ウラジミロフカ」というような、ディーテールが丁寧に描き込まれている。大泊に関しては、北海道と樺太とを結ぶ船が発着する港の様子や、繁華であったという「栄町」というような場所への言及が在る。
作中の樺太に関しては、完治が手掛ける造材業、恐らく林業と言う方が判り易いのであろうが、そうした仕事や携わる人達の様子、孝介が関わった鰊漁やその周辺、または収益安定化を図って手掛けた他の漁業の情況、街の料亭というようなサービス関係と「当時の社会や経済」というようなことも伝わる。更に寒さや吹雪や、美しい自然というような事柄も織り込まれる。
これらに加え、稚内や樺太と、兵役に就いた完治が目指し、一家の人達が面会に訪ねることになる旭川、貴乃の兄や老後の父が居る小樽、函館やら東京という「他地域とを結んでいた交通」に関する話題が、さり気なく詳しく、「作中世界の時代の空気感」というようなモノが溢れている。
交通に関連する話題で感じた「作中世界の時代の空気感」について例示しておく。東京へ旅行する孝介が、好奇心旺盛な貴乃の娘に尋ねられ、子どもにモノを伝える経験を有する元代用教員として真面目に教える場面が在る。汽車で豊原から大泊へ出た後、船で稚内へ渡り、寝たままで旅が出来る寝台車という客車に乗って函館まで向かい、船で青森へ渡り、また寝台車に乗って東京の上野駅を目指す。「寝台車に2泊しながら、連絡船に2回乗る」というのが、昭和の初め頃の東京・樺太間の移動というモノだ。稚内は「乗換の場所」だった。更に「東京はどんな所?」という問に「大きな建物が沢山在る」と応じると、「豊原郵便局と同じ位?あれより大きい?」と問が重ねられる。「同じ位の建物も、それより大きい建物も在る」と応じる。昭和の初め頃には、3階建てや5階建てで、少し大きな通の交差点辺りのやや広い一画を占めるコンクリートや石の建物は、様々な街で見受けられたということになる。また「旭川以北」では樺太の豊原が「最大級の街」であった時期が終戦の頃まで続いていた。(或いは“現在”でも、サハリンのユジノサハリンスクが、旭川以北で最初に姿を現す大きな街という様子かもしれない。)
ハッキリ言えば、本作は既に随分と以前―単行本が登場した時点で47年も前―の作品だが、小説のようなモノは「出遭って読んだ時に“最新作”」ということになるのだと思う。本作に出遭えて善かったと思う。
本作が綴られた時代の前後は、作中の孝介や完治のように、樺太の主要産業で指導的な役割を担った人達、孝介や完治の世代や少し若い様々な仕事を経験している人達が未だ多数存命で、戦後に住んだ各地域に在って各々の分野で活躍中でもあった時代だと思われる。多分、色々な方の御話しも聴きながら、それを参考に綴られた部分も多く在る作品だとも思う。そういう意味では貴重かもしれない。
広く御薦めしたい作品だ。 -
Posted by ブクログ
或る小説を興味深く読んで愉しんだという経過が在ると、「同じ作者による別作品?」という興味が沸き起こる。
その種の興味に駆られて入手するに及んだのだが、紐解き始めてみると頁を繰る手が停まらない、また「停められない」という様相を呈し、なかなかに愉しんだ。
題名の「天北」である。明治の初め頃、現在の北海道内に所謂「旧国名」に相当する地方の地域が設定された。北海道の北には「天塩国」、「北見国」というような「国」が設定された。ここから「天北」というような呼び名が起こっている。使用例を見ると、2つの「国」の頭文字を取っているという例も、「天塩国の北側」という意味が起こりという例も在るという「天北」である。
実は「天北」というのは稚内に関係が在る用語だ。1922(大正11)年に初めて現在の稚内市内に至った鉄道は、後に「天北線」と呼ばれるようになる「天塩国」、「北見国」というような地域を経由する路線だった。この路線を通る<天北>という急行列車が稚内・札幌間で1961(昭和36)年から長く運行された。天北線は1989(平成元)年に廃止されている。
本作はこの「天北」という地域、加えて「樺太」を主な舞台とする物語である。作中で少し長い年月が経ち、その中での作中人物達の人生が描かれる、所謂「大河小説」という体裁である。
上巻では1923(大正12)年頃から1938(昭和13)年頃という背景だ。下巻では上巻の最後の辺りに在った場面の数ヶ月後から物語が起こり、1945(昭和20)年の戦争の終結の頃迄、最終盤辺りは戦後に相当する昭和22年頃という時代が背景だ。上下巻を通じて、概ね四半世紀の期間、その時代を生きた作中人物達の人生が描かれる物語ということになる。
上巻の物語はハマベツという北海道北部の小さな集落から起こる。「左手に天売島、焼尻島が、右手に利尻岳が見える」とされている場所である。「ハマベツ」は架空の集落名だが、場所は苫前町辺りをモデルとしていると言われる。
このハマベツに菅井貴乃という、美しく気立ての好い大工の娘が在った。小学校の校長の息子で代用教員である池上孝介と相思相愛であり、双方の両親も賛同していて間もなく結婚ということになっていた。
集落の有力者で、造材業を手掛けて製材所を営む須田原伊之助の息子である完治は貴乃に密かに強い好意を抱いており、何とか自身の妻としたかった。そこで「一計」を案じる。結果、予定の結婚式を前に池上親子はハマベツを去らざるを得なくなった。孝介は代用教員を辞め、樺太で仕事をして人生を拓こうと旅立った。
孝介が樺太へ去った後、完治は貴乃に執拗に言い寄り、やがてまた「事件」も在った。終に貴乃は完治と結婚する。
10年程が経った。須田原家の造材業等に関しては、経済や社会の様々な動きで頓挫してしまっていた。一家は稚内で海産物店を営んで暮らしていた。貴乃と完治との間には一人息子を頭に二人の娘と3人の子ども達が在った。
この稚内の須田原家に孝介が訪ねて来る。樺太で鰊漁の網元の後継者となり、各種事業を手掛けて水産業界で成功しているのだという。この孝介が、完治の妹である、ハマベツの代用教員時代の教え子でもあるあき子を妻に迎えたいと言い出したのだ。
やがてあき子は樺太へ渡って孝介と結婚する。完治は樺太で造材業を手掛けたいということで、須田原家の人達も樺太に遷って活動しようということになる。 -
Posted by ブクログ
人間の弱さを理解していることが強く優しく生きるためには大事、みたいなテーマ。いつもの三浦綾子さんらしさを感じる。
親しい友達も家族でもお互いの気持ちを完璧に理解することはできないという点で自分以外はみな他人であり、だから人は孤独。自分も他人のことを心から思ったり理解することはなかなかできなくて、親しい人が悲しんだり苦労していることはよくよく知らずに自分が一番不幸であるかのように思い込んでしまう。そういうことに気づく経験をして人(というか自分)の弱さを知ったときに少し優しくなれる。でもどんなに優しい人でも人を傷つけない人はいない、優しいからこそ人を傷つけうる。っていうお話だなと思いました。
三浦綾子さんの本のテーマはいつもこんな感じで、とても純粋で根源的な愛みたいなものについて描かれたものが多いと思う。捉え方によっては乳くさいとか幼いとか説教くさいテーマかもしれないけど、私は好きというか、大事なことだと思う。
妻とか身近な人に対して負の感情を抱きがちになったときに意識して読むようにしている。
自分を省みること、人に感謝することは本当に大切だと思い起こされる。 -
Posted by ブクログ
誰かが話題にした本が記憶に残り、気になって入手して紐解き、その本との出会いが善かったと思える場合というものが在ると思う。本作はそういう、話しを聞いて気になったという切っ掛けで出会った。そして読後に、本との出会いが善かったと余韻に浸っている。
少し長く読み継がれていて、これからも読み継がれていくであろう作品、或る意味で「古典」という趣も在る作品だと思う。
本作は上富良野町(作中の時代は上富良野村)を舞台とする物語で、実際の大きな災害の頃のことに題材を求めている。この作品を知る切っ掛けとなったのは、上富良野町の隣りである美瑛町を訪ねた経験だった。
美瑛町を訪ねて、景色を愛で、写真を撮るようなことを何度もしている。そういう中、観光協会によるバスツアーに参加して<青い池>や<白髭の滝>を訪ねることも愉しんでいる。バスツアーでは観光協会の方の御案内に耳を傾けるのが面白い。<青い池>が形成された経緯、<白髭の滝>を眺め易い橋が出来た経緯というのは、「十勝岳の噴火」を想定した防災工事ということが契機になっている。そういう話しの中、「大正時代の噴火で大きな被害が生じた経過」ということに言及が在り、その様子が描かれた読み易い小説として本作が話題になる訳である。
話題になる都度、「読んでいない小説だ…」と思い、「機会が在れば…」とも思って記憶に留める。が、「機会」とは「在れば」というモノではない。「設ける」というモノなのだ。そう思って、愈々その「機会を設けてみた」という訳である。
前置きとでもいうような、本作との出会いに纏わる話題で少しばかり文字数は嵩んでしまった。
現在では「大正泥流」というような言い方もするようだが、十勝岳は1926(大正15)年5月25日午後4時17分に噴火による「岩雪崩」という現象を起こしている。噴火時の爆発で山の一部が崩れ、高温の岩が雪崩のようになった。これが「岩雪崩」だ。熱い岩が流れ出て、高い山に残る残雪を溶かしてしまった。そうなると「火山泥流」ということになり、麓に向かって行ったのだ。「火山泥流」は森を破壊し、森の木が夥しい量の流木となり、土砂を取り込みながら、驚くべき速さで辺りを破壊してしまったのだ。
本作は、その「大正泥流」という出来事が起こる迄の一家の物語、そして終盤は出来事の起ったその時と、直後の様子が描かれることになる。
本作の主要視点人物は石村耕作である。耕作には3歳上の兄である拓一が居る。殊に子ども時代はこの兄と行動を共にしていることも多い。そして姉の富が在り、妹の良子が在る。耕作の兄弟姉妹だが、原木切出し作業中に事故で父を失っていた。母は髪結いの仕事を覚えるとして他地域へ出てしまい、兄弟姉妹は祖父母の所で暮らしていた。
物語は耕作の兄弟姉妹と祖父母、叔父や近所の人達、学校の同級生や教師、村の大人達という登場人物で織り上げられる。小学生であった耕作が次第に成長し、曲折を経て19歳の代用教員として村の小学校で勤めるようになる迄という感じの内容だ。
耕作は祖父の薫陶を受けるように育ち、或いは学んだ分教場の教師を慕うが、他方に感心しない大人達という存在も在る。何か響く内容が多く、心動かされながら頁を繰った。時に厳しく、優しさも内包する上富良野の自然の中で、少しずつ拓けて賑わいが出始めている上富良野村の市街の中で展開する物語は、様子が目に浮かぶような描写で引き込まれた。また作中人物達の会話も、自身より年長の人達の話し口調を思い出す「北海道に居る人達!」という風情が溢れて、彼らの声まで聞こえるような気がした。
作中、北海道内の地名が幾つも在る。上富良野村の範囲の地名に関しては位置関係がやや解り悪いが、旭川等に関しては「物語の舞台の大正時代の様子?」と色々と思い浮かんだ。細かいが、嘗ての函館本線の経路であった神居古潭駅というのも出ていて、嘗ての駅舎を再現した建物が在る辺りを訪ねた経過も在ったので何やら面白かった。
本作の終盤が近付く頃、耕作は教員としての路を歩み始め、一家の物語は「新たな章」に入るような様相だった。祖父が上富良野村に入植して畑を開いて暮らしを続けて30年程を経ていた。農地を一家が取得するには至らず、小作農家という立場が変わらず、経済的に豊かではないが、大正15年は穏やかな正月も過ごした。その一家が、大災害に巻き込まれてしまう。終盤は読んでいて涙ぐんでしまう感さえ在る。
作品の底流に「因果応報でもない人の人生」と「如何に向き合うのか?」というようなことが在るように思う。本作の終盤の大災害で、失われた生命も在り、そして生き残った人達が在って、生き残った人達のその後が凄く気になった。
或る意味で「古典」という趣も在る本作に、美瑛で何度も聞いたことが切っ掛けで出会えた。凄く善かったと思う。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ三浦綾子さんの7年間の教師時代。
情熱的で頭脳明晰な三浦綾子さん。
時代が違ったらという「たら」「れば」を言いたくなる。
しかし、迫り来る戦争をどんどん肌で感じ、
最後は今まで信じて疑わなかったことを
墨で塗りつぶさねばならなくなったことを自省しやめていく。
教育愛に燃え、子どもをとことん可愛だっていた彼女だったからこそ
虚無感や失望の念が強かったのだろう。
キッパリと教師を辞める潔さ。
彼女の真摯さに惹かれる。
教師時代、炭鉱の村に赴任し、そこで働く人の子達を見て
目を見開かれていく彼女。
中でも朝鮮半島から来た子が
風呂敷を振ってサヨナラを告げていた光景が目に焼きつく。
その後日談もいい。
入学するはずだった1年生が、学校に来られなくなってしまうところも
ズシーンと響く。
夕飯を食べてお風呂に入って布団で寝ることができている自分。
そんな日常が当たり前でなかった時代の
一教師の内面がここにある。
引き込まれて一気に読んでしまった。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ三浦綾子さんの7年間の教師時代。
情熱的で頭脳明晰な三浦綾子さん。
時代が違ったらという「たら」「れば」を言いたくなる。
しかし、迫り来る戦争をどんどん肌で感じ、
最後は今まで信じて疑わなかったことを
墨で塗りつぶさねばならなくなったことを自省しやめていく。
教育愛に燃え、子どもをとことん可愛だっていた彼女だったからこそ
虚無感や失望の念が強かったのだろう。
キッパリと教師を辞める潔さ。
彼女の真摯さに惹かれる。
教師時代、炭鉱の村に赴任し、そこで働く人の子達を見て
目を見開かれていく彼女。
中でも朝鮮半島から来た子が
風呂敷を振ってサヨナラを告げていた光景が目に焼きつく。
その後日談もいい。
入学するはずだった1年生が、学校に来られなくなってしまうところも
ズシーンと響く。
夕飯を食べてお風呂に入って布団で寝ることができている自分。
そんな日常が当たり前でなかった時代の
一教師の内面がここにある。
引き込まれて一気に読んでしまった。