今年(2024)のGWの大掃除で発掘された本のレビューは大方終わりましたが、その前に娘夫婦が宿泊した時に大慌てでスースケースにしまい込んだ本があり、それらの本のレビュー書きを終了させたく思っています。
記録によれば今(2024.6)から3年ほど前に読み終わった本ですから、ウクライナ紛争については触れられていません。しかしこの10年以上「地政学」について興味を持ってきた私にとっては、この本の筆者である出口氏による「地政学」の解説は大変興味深かったものと記憶しています。レビューを書きながら、それらを思い起こしたいと思います。
以下は気になったポイントです。
・奈良盆地に徐々に日本的な王権が確立していったという地政学的な見方は、近畿地方の巨大な古墳は、ほとんど全てが大和川沿いに存在しているという事実で立証できる(p30)
・文明が起こって道路が作られて、初めて車輪が考えだされて、西アジアで戦車(チャリオット)が発明された。それゆえに、鉄砲が開発されるまで、凹凸のある大地を高速で移動できる遊牧民の騎馬軍団が地上では最強であった(p39)
・ローマ教会は、751年にピピン3世がカロリング朝を開いたこと、そして新王朝の初代であるピピン3世が、その権威を認められず苦労していることを知っていた。ローマ教皇は、ピピン3世に対して、国王であることを認める特別な宗教儀式「聖別」を授けられた。大きな宗教的権威を得たピピン3世は、大軍を率いてイラリアに乗り込み、ランゴバルト族を駆逐し、占拠した土地の一部をローマ教皇庁に寄進(754,756)した、これが有名な「ピピンの寄進」である(p48)
・1054年、大シスマ(東西教会の分裂)、ローマ教皇とコンスタンティノープル教会の総主教が、南イタリアの教会の帰属などを巡って対立、相互に破門しあった。この時以降、両者は自らの正統性を主張、コンスタンティノープル教会は「東方正教会」と自称し、ローマ教会は「カトリック教会」と自称、カトリックとは「普遍=あまねく行き渡る事」の意味で、その分裂は、1965年まで続く(p57)
・カノッサでは譲歩した(カノッサの屈辱=1077)ハインリヒ4世は1084年、グレゴリウス7世を迫害しローマから追い出す、そしてクレメンス3世をローマ教皇に据えて、彼からローマ皇帝として戴冠される。グレゴリウス7世は、追われて南イタリアのサレルノにイタリ、その地で憤死した(1085)(p59)
・オスマン朝の母体はモンゴル高原に生まれた「突厥(チュルク)」である。突厥は552年にそれまでモンゴル高原を支配していた最強の遊牧国家「柔然」を倒して草原の覇者になった。その後に、突厥は東と西に分裂して、再びウイグルという統一国家を樹立する。そのウイグルがキルギスに倒されると、彼らは西走してイスラム教を授与して、トゥルクマンと呼ばれるようになった。彼らの一部がやがて、現在のトルコ半島に小さな国を作った、それがオスマン朝である。このように国民国家ができるまでは国も自由に引っ越しができた(p84)
・ローマ教会の信者でもあったカール5世は、1519年ローマ皇帝として戴冠するとルターを断罪するために、ヴォルムスの地にドイツ諸侯を集め帝国議会を買い足、1521年の帝国議会でルターは有罪判決を受け、市民権を剥奪された。ルターはカール5世に批判的なザクセン選帝侯に匿われ、聖書をラテン語からドイツ語に訳した。これで誰もが聖書を読めるようになった。これにより宗教改革のノロシが上がり、ドイツ国内は、ローマ協会派とルター派(後にプロテスタントと呼ばれる)に分かれて揺れ動いた(p85)
・ローマ帝国の時代、ライン川とドナウ川はリーメスと呼ばれた国境の役割を果たしていた、その両河川から北方に広がる森林地帯のことを「ラテン語を話さない人々のすむ場所」と読んだ、その呼称が、ドイツの語源となった。フランク王国が東西に分裂したときに、東フランク王国が現在のドイツとオーストリアを含み領域、西フランク王国がフランスの領域を占めるようになる、ドイツという概念にはもともと、オーストリアが含まれていた(p106)
・東ローマ帝国は滅んだのちもドイツ王はローマ皇帝として戴冠していた、しかしドイツ王も時間とお金を浪費してまでローマまで戴冠に行かなくなる、そして登場してきた呼称が「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」である(p106)
・ローマ帝国はローマという都市は捨てた(コンスタンティノープルへの遷都)が、ローマ帝国はいまだ地中海のシーレーンの覇権は握っていた、それが失われたのは、イスラム帝国が台頭してきてから(p149)南地中海の制海権をイスラム帝国が掌握した時、地中海の北半分は「ヤハウェ」南半分は「アッラー」という一神教を信じる形となった。両者は対立したが、多神教を否定することについては、お互いに異論はないので、ヴィーナス、ゼウスも消えてしまった、これを一神教革命と呼ぶ。多神教八百万の神々の復活は、イタリア・ルネッサンスまで待たなければならない(p150)
・イスラム帝国が分裂し勢力が弱まってくると、地中海のほぼ真ん中にあるイタリア半島で、その地理的な有利さを活かして、4つの海の共和国が登場する。アマルフィ、ピサ、ジェノバ、ベネチア、の順に大活躍した(p151)
・都市が自治権を持ち、都市国家として生き残る最適な環境は、群雄割拠で強大な大国が登場しないということ。商売はいかにして利鞘を得るかである。相手が巨大な国家になると、高いマージンを得るビジネスは成り立たなくなる。日本でも堺が隆盛を極めたのも鉄砲を売りつける戦国大名がたくさんいたから。織田信長や豊臣秀吉が境を支配するようになって商業都市の堺は衰退していく。ハンザも大国の登場(東:モスクワ大公国、西:ブルゴーニュ公)によって衰退していった(p164)
・鄭和艦隊は東南アジアからアラビア半島、そしてアフリカ東海岸まで進出し、インド洋の国々に明への朝貢を求めた、朝貢すれば中国の特産品の絹・お茶・陶磁器を交易品として入手できた。しかも破格に安い価格で。また訪れた国に内乱や謀反があると、それを陸戦隊によって鎮圧した。鄭和艦隊は、インド洋の大用心棒になっていた、海賊集団も一掃された。1405年頃から活躍したが、1433年に姿を消した。ポルトガルのバスコ・ダ・ガマがインド洋に入ってきたのが、1498年であった。廃止した理由は、万里の長城建設のため(p174)
・ポルトガルは、インド洋に進出。ソコトラ島、ホルムズ海峡、ゴア、マラッカを抑えた。香辛料の一大産地・モルッカ諸島、中国への海上ルートとなるマラッカ海峡の中心都市を得たことは、ポルトガルの中継貿易の利潤を著しく高めた、明にも西欧諸国に先駆けて、マカオを作っている(p178)ポルトガルは1580年からスペインとの同君連合に甘んじていたが、1640年頃に独立戦争を起こし、1668年に独立承認された。ポルトガルの植民地経営の中心がブラジルに移動するのも、この頃から。イングランドの政治的・経済的な影響を受けるようになる、1373年に結ばれたイングランド・ポルトガル永久同盟は、現在まで続く世界最古の同盟として知られている(p180)
・イベリア半島を統一した時、熱心なローマ教会の信者であった、イサベル1世・フェルナンド2世は、ユダヤ人を追放した。彼らは、イスタンブール(東ローマ帝国を滅ぼしたオスマン朝の都)に行った(p183)スペインから多くのインテリゲンチャが消えて、労働力も激減した(p186)
・二回行われた、ネーデルランド戦争でも決着はつかなかった。インフランドはネーデルランドから、北アメリカのハドソン川河口のマンハッタン島を得た、ここの港湾都市・ニューアムステルダムを、イングランドは、ニューヨークと改名した(p194)
2021年5月8日読破
2024年6月18日作成