【感想・ネタバレ】0から学ぶ「日本史」講義 中世篇のレビュー

あらすじ

「中世」がわかれば歴史は面白くなる!
平清盛は中世日本のジョブズ? 足利義満はなぜ「日本国王」を名乗ったのか? 幕府と将軍が登場し、実権を握る。その幕府は鎌倉から室町へ。さらに北条政子や日野富子などの女性たちも割拠し始め……。全体像がつかみにくい激動の「中世」を、教養の達人がわかりやすく解きほぐす。歴史学者・呉座勇一氏との対談も収録。

第1章 院政の始まり
第2章 平氏政権の実態
第3章 鎌倉幕府の虚実
第4章 モンゴル戦争と悪党
第5章 後醍醐天皇と足利兄弟
第6章 室町幕府の興隆
第7章 下剋上の時代へ
第8章 中世篇まとめ 天皇、公家そして武家

※この電子書籍は2019年6月に文藝春秋より刊行された単行本の文庫版を底本としています。

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Posted by ブクログ

この本の著者である出口氏には、日本史・世界史だけでなく地政学をわかり易く解説してくれてお世話になっています。この本は部屋の整理をしていて読みかけとなっていた本ですが、残りを最近になって読み終えました。

かつてはあまり興味のなかった、日本史中世ですが、中世が専門である本郷氏の本に出会ってから興味が湧くようになりました。この本でさらに中世の歴史を深くしておきたいと思いました。

以下は気になったポイントです。

・かつては中世≒封建社会と理解されていた、鎌倉幕府における頼朝と御家人の関係は封建制に似ているが、幕府の権力が、公家・寺社の荘園公領に及んでいないので、中世を封建社会と呼ぶのは適切ではない(p11)

・中国において宋の時代に起きたこと、1)政治・軍事革命、2)農業革命(人口が唐時代の倍の1億人)、3)三大技術革命(羅針盤、印刷機、火薬)、4)海運革命、5)飲茶革命・火力革命(石炭、コークス)、6)都市文化革命。7)仏教革命(国家に頼らない、浄土教)(p17)

・後三条天皇は1068年、宇多天皇以来、180年ぶりの、お母さんが藤原氏でない天皇である。後ろ盾がないので、権威づけのために都を造営したり、蝦夷征伐(坂上田村麻呂の活躍)荘園整理をした(p32)

・当時の女院(女性の院)は、上皇(院)に準じる立場として大きな権力を持っていた、女院が摂政関白の任命権を実質的に持っていた、これが摂関政治から院政へ移る上で大きな意味を持った、平安時代も女性が強かった、院政は上皇が天皇の実父なので、娘が男の子を産むかどうかという偶然に左右されない(p27)

・中世は一言で言えば「権門体制」である、検問とは、力があり権威のある家門(権門勢家)のこと。公家権門、つまり藤原氏が政治を行う、寺社権門、興福寺や延暦寺のような大寺院が護符、お祈りをする。新興の武家部門が治安を担う、この三者がいわば分業していた(p32)

・武士に欠かせない技能は、馬を自由に操りながら弓矢を射ることでした、馳射(はせゆみ)騎射(うまゆみ)などとさまざまに呼ばれていた(p40)

・源平藤橘が姓の代表と言われている、これに対して名字(苗字)がある、名字はなぜできたか、例えば藤原氏でも、道長から頼道に続く系統が本流となる、そうすると同じ藤原姓でも、本流とそうでない人を区別しないといけない、そこで本姓は藤原でも、近衛、九条、二乗、などと名字を作っていった(p42)源氏も足利とか新田という名字に分かれていくうちに、最初に住み着いたところの地名(一所懸命の地)をもとにして名字ができていった、明治時代になって法律で名字だけに決められたので、姓と名字を区別する考えは無くなった(p43)

・保元の乱で手柄を挙げた清盛は、太宰大弐(だざいだいに)=太宰府の実質的長官になった、太宰府の外港の博多津は中国(宋)との交易拠点であった(p77)

・最近の研究では、鎌倉幕府成立でなく「兵士政権」の成立を持って武家政権がスタートしたと考えられている、それは、1167年平清盛の嫡男・重盛に、東山道・東海道・山陽道・南海諸道の山賊海賊討伐権を委ねる宣旨が出した時(p82)

・鎌倉幕府滅亡まで幕府の知行国だったのは、駿河・相模・武蔵・越後の4カ国であった(p102)諸国では国司と守護、荘園では荘園領主と地頭の二重支配が行われた、次第に地頭の力が強くなり、領主は定額の年貢を地頭に請け負わせたり、分け合ったりするようになった(p105)

・御家人はつい自分の土地を売ってしまう、禁止されているのになぜ土地が取引されるのかと言えば、一つには相続の問題がある。この時代は全員均等相続であった、なので土地を基盤とした御家人が弱っていった(p138)

・1488年に加賀は「百姓(=一向一揆)の持ちたる国」となった、1580年に柴田勝家が加賀を制圧するまで、一向宗の宗教共和国が100年近く続いた、日本ではこれが唯一の例である(p196)

・応仁、文明の乱(1467-77)で京都が荒廃した後は、将軍に近侍していた守護たちも京都を離れ、将軍家も1493年に細川管領家に傀儡化されたので、中ごうの権威は有名無実化した。各国大名は、領内の武士だけでなく、残っていた貴族の荘園や寺社などの伝統的な中央とのつながりの糸も断ち切っていき、ここに「権門体制」から「戦国時代」になった(p325)

2025年7月8日読破
2025年7月15日作成

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2025年07月20日

Posted by ブクログ

中世を「1068年の後三条天皇の即位から1568年の信長の入京まで」と捉え、この500年間の歴史を学べる一冊です。

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2025年04月15日

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