ブレイディみかこのレビュー一覧
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Posted by ブクログ
続編、息子(僕)自身と母ちゃん(筆者)の文章が相変わらずクール。筆者の社会を覗く透徹した目と文章がとても心地よく、Emotionalなところとうまくバランスが取れていて非常に読みやすい。するする読めるんだけど、内容的には結構重い話が多くてイギリスの貧困、移民、人種差別、階級断絶、ブレグジットといった内容が息子の学校生活との絡みから語られており、どこの国も違いはあれど問題山積みなんだなぁと気付かされる。確か筆者がまだこんなにバカ売れする前、本人曰くの底辺保育士時代のコラムを昔どこかで読んだことがある気がするのだが、そのころから平易な言葉でイギリスの問題を下から語っていて非常に印象に残っている。もうこの息子さんも20代になっているはずで、どんな大人になったのか気になるためいつか大人になった『僕』についてのさらなる続編も読んでみたい気もするが、ここで終わりの方が良い気もする。そして筆者が日本のブームに浮かれていなければ、後者を選択する気がする。
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Posted by ブクログ
「他者の靴を履く」という表現が使われるエンパシーについて、色々な視点から考察した1冊。アカデミックなようで、かつ著者のお子さんの話など、身近な事例も織り交ぜられていて、面白かった。
エンパシーとシンパシーの違いは、「気持ち」の問題なのか、あとから会得できる能力なのかであること。
エンパシーは他者の立場に立って物事を考えることだが、それが行き過ぎると他者に自分を明け渡すことになる。だからこそ、アナキズムに言われるような、自分が自分である自由を追求する姿勢と共存する必要がある。
エンパシーの身につけ方は、幼児期までに遡り、色々な人や本の中の登場人物の気持ちを、「この人はどういう考えで、こういう行動したのか」を考える癖をつけることから始められるという。
そして、エンパシーには、感情に寄り添うことを指すケースや、相手の立場を理解することなど様々な種類のエンパシーがあって、それらに対してそれぞれ議論が起こっていることも知った。
私はもし将来子供ができたら想像力のある子になってほしいと思い続けていたけれども、他者の靴を履く能力が高すぎることにも弊害が現れることや、それを悪用することもできるという見方は目に鱗だった。それでもエンパシー能力がある人が増えることで、結果的には皆より自由で幸せな世の中にはなるのではないだろうか。
個人的には仕事について、人のケアをする職(看護師、介護士、教師など)とブルシット・ジョブ(別になくても特にこまらない職)の2種類があり、大半はブルシット・ジョブをしている、という記述が耳に痛かった。今から介護職にはなれないものの、そういった人のケアをする職の人を支えること、あるいはいつかケアをする側の人間になることにも興味がわいてきた。 -
Posted by ブクログ
短編集。筆者のあとがきと一緒になってしまうが、どの話も労働と負債(何が"負債"になるかは各短編で異なる)について書かれている。
考えたこともなかったが、言われてみれば私が働いている理由も、家や車のローンやら負債に満ち溢れている。生きているだけで、負債を抱えてるということか。言葉にすると結構嫌な響きだが、普段、負債のことは忘れている。
督促を仕事としている女性は、「督促は正義と暴力」と考えていた。貸したものを催促することは正しいが、一方で、正義のもと振りかざされる暴力という見方も確かにできる。私も借りたものは返すべき、返さない者は底辺だと思っている。
しかし、返さない側からしたら、自分が底辺だなんて思ってないような気がする。返済が滞るのは当たり前、いつか返せば良いぐらいに思っていそう。いやぁ、怖い。お金の貸し借りはたとえ家族間でも何らかの遺恨が残りそうだ。
どの話も、心から楽しんで働いてます!という感じは全然なく、何らかの圧力の中で心苦しい思いをしながら皆、働いている。それでも鬱屈した印象を受けないのは、筆者の書きっぷりがいやらしくないからだと思う。 -
Posted by ブクログ
イギリスで起こった占拠事件を元に書かれた物語。
イギリスには移民問題や経済格差があると同作者の別作品でなんとなく知ってはいたが、この事件については知らなかったので色々考えさせられた。
家賃が高騰し、庶民が普通の家に住めなくなっているが、誰も住んでおらず手付かずの住居が沢山ある状況で、何もしてくれない行政。
当事者と周りの支援者との温度差や、当事者の訴えが当事者達の手の届かないところで大きくなっていく様子などリアルに感じた。
日本でも同じような問題が起きる(既に起きてる?)のではないかと思った。
本作の内容と関係ないが表紙のジェイドのイラストは本文の「ふくよか」「赤毛」といった表現からするとちょっと離れているんじゃないかと思った。
だが表紙のイラストで主要登場人物を描いているのはイメージがつきやすく良いと思った。 -
Posted by ブクログ
著者の文章はスっと頭に入ってくるし、ありのままを書いているというか嫌味や驕りがなくて気持ちが良い。
息子さん、13歳だか14歳だかの年齢にしては明らかに大人びている感じがするし、考えることも私が同じくらいの年齢だったときと比べてスケールがだいぶ大きい。私のレベルが低かっただけかもしれないが。
でも、ノンバイナリーとかホームレス避難所拒否の問題から自分なりに考える姿勢、本当に素晴らしいと思う。
で、そんな息子さんのことを褒めそやすでもなく、「息子はこう感じている」等の等身大の文章で、飾らずに書いてくれるところが良いのだ。
息子、すごいなと思ったのは、冒頭のリサイクルの話だった。
「リサイクルする=自分の不要になったものを循環させることによって、ごみにならないようにする=地球環境に良い」という考え方しかしていなかった私にとって、息子さんがもっと深い考え方をしているのに驚かされた。
他にも、父親にテストの点数が悪くて叱られたときのエピソードだったり、息子さんが他人の気持ちを考えようと常にしていることがよく分かり、もう非の打ち所がないよと思う。
彼の成長がまた読みたくなる。是非、次巻も書いてほしい。
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Posted by ブクログ
「ファクトリーウーマン」
「リトルパンプキンの怪文書」
『焼き芋とドーナツ』
『むずかしい女性がかえてきた あたらしいフェミニズム史』
『ducks 仕事』
p.53 言うと、彼女はきりっとした顔つきになってこう言ったことがあった。
「運だけじゃない。自分をオープンにしていたからです。自分を開くと未来のほうからこっちにやってくる。若くてどん底にいたときは、生き延びるために自分を開くしかなかったから、あの頃のわたしは最強だった」
もし彼女が80代だったとしたら、このわらしべ長者ストーリーは1950年代後半から60年代ぐらいの話だ。わたしが若い頃、日本でバイトを掛け持ちしてお金を貯めては渡英してしばらく住み、また帰って働いては渡英するという暮らしをしていたのは1980年代だったけど、はっきり言って、あの頃だって単身で英国に来ていた若い日本人女性には猛者が多かった。
「英国に憧れていたけど、いざ住んでみると年中暗くて嫌になった」と言って英国を去り、イタリアのトマト農家で働いているというポストカードが届いたかと思ったら、今度はスペインでワインを造っているという手紙をくれた女の子もいた。ビザが切れても滞在していたのが当局にバレて強制送還されたはずだったのが、なぜかまたリバプール港から再入国を果たしてロックバンドでドラムを叩いていた女の子もいた。
p.55 地図を片手にいろんな人に道を尋ねなければならず、道に誰一人歩いていないときや、尋ねた人がまったく間違っている情報をくれることもあった。目的地にたどり着けるかどうかは、運だった。側然というまったく頼のおけないものに任せて、わたしたちは生きていたのである。それなのに、いろんなことを正確に知るのは不可能だった時代の女性たちのほうが、先のことを案じてくよくよ落ち込んでいなかったのだ。
たぶんそれは、ギャンブルに失敗はつきものだと知っていたからじゃないだろうか。
そして、うまくいくかどうかは運だったから、前もってしっかり調べなかった自分が悪かったとか、情弱だった自分のせいだとかいって、自分を責める必要もなかったの
だ。
逆に、失敗しないように、そしてうまくいかなかったことで自分自身を責めずに済むように、検索を重ねて情報を調べて吟味し、たった一つの正しい答えを見つける作業は、自分の身に起こることの可能性を狭め、未知の扉を閉じていく作業でもある。
「自分を開けば未来のほうからやってくる」というくだんのおばあさまのモット!とは逆行しているのだ。
p.173 おばあちゃんが言った。
「あら、わたしは皺くちゃのままでいいですよ。この年になったら、まだ生きてるだけでラッキーだから。わたしの顔に刻まれているのは幸運なんです」
幸運を顔に刻む。なんていいことを言うんだろうなと感心していると、玄関の扉が開き、また若い女性が入ってきて、受付の列に並んだ。
それぞれの地点で、それぞれの旅をわたしたちは続けている。
p.252 「フェミニストも世代交代」とか「新しい世代の女性たち」とかいう表現や見出しは、わりと頻繁にメディアなんかで使われるものだ。「世代」という言葉は、何か文化的なグループであるかのように使われがちな表現だが、それが年齢による括りである以上、平たく言ってしまえば、前述の言い回しは、「年齢が低いフェミニストが出てきた」「若い女性たち」と言っているに等しい。
世代論はエイジズムという偏見につながると言われて久しいが、偏見とは、一人ひとり違う存在である人間を同じ箱の中に押し込めて、「この人たちはこういう性質を持っている」「この人たちにはこういう特性がある」という大雑把な決めつけのラベルを貼ることである。
p.257 彼女は、60歳になってすぐにADHDの診断を受けたという。そして、ADHDの子どもたちに向いている習い事は水泳だとどこかで聞き、自分もやってみたらとても快適に過ごせるようになったという。
一般的に、何かの診断を受けたとか聞くと、わたしたちは「大変でしたね」とか「何かできることがあれば」とか言って、同情したり助けの手を差し伸べたくなったりするものだ。が、わたしにADHDの話をしたときの彼女の表情は、ちょっと羨ましいぐらい清々しく、にこにこと輝いていた。
「ADHDの診断は、わたしにとって最大のエンパワメントだった」と彼女は言った。
「わたしはそんなにダメな人間じゃなかったんだって、自言をくれたから。60歳で人生が始まったって感じ」
彼女は子どもの頃から、どうして自分は人と比べて落ち着きがなく、いろんな物事を忘れ、ほかの人たちのように何かに集中して成し遂げることができないのだろうと思い、苦しんだ。学生の頃は、何か大切な試験とか、面接とか、そういうことをいとも簡単に忘れてしまって久席したりするので、「まじめにやれ」と親や教員にいつも叱られたという。年齢を重ねるにつれ、「いい加減だ」とか「君は人生をバカにしている」とか言って離れて行く大切な人々も出てきた。
彼女はまじめに生きているつもりなのに、他人が絶対に忘れないことをぽろっと忘れてしまったり、友人たちが集中して最後までやり遂げることがなぜか途中でできなくなったりする。
わたしはダメな人間なのだ、と彼女はずっと思っていたという。自言を失い、自分自身が借用できなくなると、人は常に不安から逃れられない。「どうせまたうまくいかない」「わたしにはほかの人たちができることができない」と思うようになり、生きることがつらくなって鬱の症状が長く続いた。
「本当にいい加減な人間で、何も考えずに生きているのなら、苦しむことはなかったと思う。そうじゃなくて、本当にこちらは持てる力を振り絞って、ほかの人たちのようにできるよう、一生懸命に努力しているのに、どうしてもできない。こんな人間は社会の役に立たないし、幸福にもなれないから、死んだほうがいいと思ったこともあった」
そんな彼女は3人目の夫である現在のパートナーと知り合い、一緒に暮らし始めてしばらく経った頃、彼からある新聞の記事を読むように言われた。
「これ、君とまったく同じだよ」
とすすめられてそれを読んでみて、目から鱗が落ちたのだという。それはADHD
の当事者である著名人のインタビューだった。すぐ医療機関に連絡を取って、数々の検査やカウンセリングを受け、診断を受けるに至ったそうだ。
診断を受けたことで、霧が晴れたように気持ちが楽になったと彼女は言った。「=
ユーロダイバーシティ」(人間の脳や神経にはさまざまな違いがあり、「ふつう・障害」
「優劣」という考えから離れて人間の多様性として捉えようという概念)という言葉を使って医師は説明してくれたそうで、彼女の脳は、「ニューロマジョリティ」と呼ばれる大多数の人たちとは違う働きをするのだとわかった。つまり、彼女は「ダメな人間」なのではなく、「ニューロマイノリティ」なのであり、多数派の人々とは違うから理解されなかったというわけだ。
この文脈で考えると、子どものときの自分や、若き日の自分が苦しんだことの原因もわかるようになり、その時代に戻って自分自身を抱きしめてやりたい気分になったと彼女は言った。これまでは、過去の失敗や苦しみは、自己嫌悪の原因にしかならないので思い出したくもなかったが、「ああ、よくがんばった」という気持ちで過去の自分を考えられるようになったというのだ。
これは、50代からの「ハピネス・カーブ」とかいうのとはまったく違う、彼女自身の、きわめて個人的な経験である。そして彼女の場合はニューロマイノリティであることがわかったという、特殊な体験であるように聞こえるが、でもこういうことは、ここまでドラマティックではないにしろ、誰にでもあるのではないかと思う。
若い頃は自分がよくわからなかったり、これからまだ長い人生の道のりを自分がどうたどっていくのかがわからないゆえに不安になり、自己嫌悪に陥りがちだ。でも、ある程度の経験を重ねると自分の限界がわかるようになるし、「ああ、この道はいっか来た道。またたどるのはやめとこう」みたいな生きる知恵も身につき、この境地にいなかった頃の自分はつらかったよね、と過去の自分を慰め、応援したくなる。たぶん、ここで発動しているものも、エンパシーと呼んでいいと思う。過去の自分に対するエンパシーだ。
自分を愛せない人間は他人も愛せない、というのはドラマや本やネットなどでも、よく見聞きする言葉だ。これを言い換えれば、他者とのシスターフッドを築くには、自分とのシスターフッドも築く必要があるのだ。
自分とのシスターフッドは、過去の自分を抱きしめ、応援することだ。そして、ここまでサバイバルし、今日もそれなりにやりくりしてどうにかやっている自分に、「よくやってるぜ、シスター」と声をかけてあげること。これは、書くには易く、実践するのは遥かに困難だ。なぜなら、それは一人ひとりが個人的に行うことで、SNS
で誰かの意見に「いいね」したり、批判のリツイートを飛ばすより、ずっと時間もかかるし、ノリや瞬発的な感情でできることではない。
生身のわたしたちが生きている日常、つまり、ネットや本の中にある先進的な話題ではなく、地べたで一人ひとりの女性たちが体験している事柄は、100年や200年ぐらいでガラッと変わるものではない。だからこそ、この本では、何度も100年前にあったこと(英国の女子サッカー界の歴史とか、「ポイズン・ペン・レター」とか)に触れてきた。
過去のシスターたち、そしてそれだけではなく、過去の自分たち(子どもの頃、ティーンの頃、30代の頃など、きっと何人もいる)とのつながりは、シスターフッドでもあるが、同時に個人的なものでもある。そしてそれは、最新のフェミニズムの知見とかとはあまり関係がない。わたしたち個人の日常的体験を基盤とするつながりだから
だ。
こちら側の、どこかに書かれたことではない、足もとでの体験に基づくつながりの感覚や実践は、シスターフッドより、シスター「フット」と呼ぶほうが相応しいのではないか。
その土くささとたくましさのある言葉は、人を年代や時代で括り、箱の中に入れて整理するための呼称より、ずっと広がりがあるものだと言じている。あれこれ分類して細分化するより、ごろっとした原初の怒りを共有しよう。できるはずだ。そういう祈りを込めて、シスター「フット」という言葉をわたしは唱えているのである。
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Posted by ブクログ
日本にいると気づかない事が多くて驚く。
文句ばっか言ってないで皆んなで力を合わせて女性の環境を変えなずっと変わらん、と思わされた。
具体的にどうやったらいいのかはわからんけど…
以下、印象的だった箇所を自分用の備忘録として記録。
◯エンパシーとは見たいものだけを見たり想像したりすることではなく過酷な現実にも目を向けなければいけない。知ることで視野が広がり目を見開かされる。
◯歴史は男性目線や男性が主人公の事が多い。(確かにそう)
それを支えた女性や草の根活動、変革を起こした人もいるはずなのに描かれていない。
声無き声を無いものとしてはならない。
描かれてないことの方が多い。
◯AIは事実を学習する。だから例えば男性が多い職種で人事評価をつける場合、女性というだけで前例が少ないから正しく評価されなかったりする。つまり格差を広げかねない。
◯大事のは「平等」ではなく「対等」。
人には身体的、性格的や環境の違い様々な違いがあるのにその違いをフラット=平等にしようとすると各々の差異(違い)を許さないフラット地獄が出来上がる。みんなで手を繋いでゴールする徒競走が良い例。
各々の違いを許容する社会に必要なのは対等の方である。身体が弱くても、お金がなくても、走るのが遅くても、他者との関係性において対等であり、見下したり侮辱したりしてはならない。 -
Posted by ブクログ
ネタバレコロナの頃だし物価もまだ上がってない時代の出版なので噛み合わないところもあったが面白く読んだ
以下引用↓
鴻上
小学生の飲料補給は先生が許可した時のみ
お茶か水でスポドリはダメ
勝手に飲むな!飲みたかったら飲んでいいのか!と言う引率の先生すごい
鴻上さんの悩み相談…経済的に発展してる時は悩みも割とたいしたことないって笑い飛ばせる。“絆”“つながり”という言葉が出てくるときは不況。高度経済成長のときは今よりもいろんな意味で縛りが強かったけどどうせ未来は良くなるんだからと楽天的になって、破天荒な人間も多かった気がする。
でも今はみんな出口の見えない中にいるから悩みがどんどん深刻化して内向化していると感じる。
子育てというのは“子供を守り育てる”ではなく“健康的に自立させる”こと
僕がなんで高速のことでこんなに熱くなるかと言うと、先生への信頼ということは勿論、そもそも、学校の教育現場は人を育てる場所なんです。人を育てる場所なのに人間を潰してどうするんですかって強く思う。地域の子がエリアの区分けで入学することになる公立中学でそんな無茶なことを言うのは、余計に許しがたい
幸せになることが1番
日本の国会中継は質問する人と答弁する人が決まってて、質問内容までも事前に答弁する側に提出されている、もう出来レースと言っていい。他の議員は参加できずできるのはせいぜい野次を飛ばすだけ。
日本で戦争がずっとないのは経験者の強い語りのおかげ
ブレイディ
日本に帰ってくると暗さ、陰気さを感じる。大学生は就活で頭がいっぱいで視野が狭くなって。
幸せになるために人間は生きてると思う。無駄な校則、救われない経済状況、特に今、日本社会は幸せになぜか背を向けているような気がする。
国会中継は迫力も抑揚もなくて棒読みだから論点も伝わらないし、議員もそりゃ寝るだろうと思う
イギリスの国会中継はエンターテイニング、議員が誰でも発言していい時間もある
日本は女が住む国じゃない、日本の抑圧的なところが嫌
あまりに“希望を感じさせる文章を”という原稿依頼が多い、そんな一時しのぎのドラッグみたいに“希望”“希望”って言っても詐欺みたい