あらすじ
シスターフッドがポリティカルになりすぎると、それはシスターたちのあいだに分断や対立をもたらすことにもなりかねない。その一方で、シスターフッドが政治に無関心になりすぎると、互いの涙を拭い合うばかりで、「元気を出して明日からまた同じ日常を頑張ろう」という激励会になり、つらい日常を変えていこうという動きに発展しない。 ――本書 「はじめに」 より
2022年にスタートした雑誌『SPUR』の同名連載を新たに加筆修正。コロナ禍以降の社会の動きを鋭く見つめ、これからのわたしたちの生き方を考えた、エンパワメント・エッセイ集。
◎アイスランド発「ウィメンズ・ストライキ」の“共謀”に学ぼう
◎シスターフッドのドレスコードはむしろ「差異万歳!」
◎完璧じゃないわたしたちでいい
◎焼き芋とドーナツ。食べ物から考える女性の労働環境
◎古い定説を覆すママアスリートの存在
・・・・・・etc.
無駄に分断されず、共に地べたに足をつけてつながる。前に進むための力が湧く39編を収録!
ブレイディみかこ
ライター・コラムニスト。1996年より英国在住。2017年、『子どもたちの階級闘争 ブロークン・ブリテンの無料託児所から』(みすず書房)で第16回新潮ドキュメント賞受賞。'19年、『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(新潮社)で第73回毎日出版文化賞特別賞受賞、第2回本屋大賞 ノンフィクション本大賞などを受賞。小説作品に『私労働小説 ザ・シット・ジョブ』(KADOKAWA)、『両手にトカレフ』(ポプラ社)、『リスペクト――R・E・S・P・E・C・T』(筑摩書房)などがある。近著には『地べたから考える――世界はそこだけじゃないから』(筑摩書房)。
感情タグBEST3
Posted by ブクログ
読んだ直後は★4つ。でも日々の出来事の中で、ああこういうの、この本にはなんて書いてあったっけな、と読み返すことが何度かありました。高市総理を批判するフェミニストを見たときとか。
Posted by ブクログ
アイスランドの女性たちの「ウィメンズ・ストライキ」イギリスのシングルマザーたちが蜂起したスクウォッティング、bimbo…行動を起こしている女性達はいる。SNSの中で呟いてるだけでは社会を変える動きは起こせない。理不尽に立ち向かおうと行動することが、恥ずかしいこと、スマートでないことというイメージを覆さないと、日本で同じような流れはできないだろうと思う。そのような、お偉い施政者によって意図的に仕掛けられたイメージに惑わされず、他国に目を向けることができる良書。
イタリア初の女性首相について。
なんだか今の日本の状況が被る。
p73女性政治家が女性たちにとって生きやすい社会をつくりたいと言うとき、それが彼女自身のように強くて野心のある女性たち限定のシスターフッドを意味していたら、排除された女性たちにとってはかえってつらい状況になる可能性もある。
p74女性の政治リーダーは、女性というだけでロールモデルと呼ばれがちだ。だが、彼女たちが謳うシスターフッドにはエンパシーはあるだろうか?だまされないよう、ぼったくられないよう、注視し警鐘を鳴らし合おう。
p226女性にしても、移民にしても、マイノリティと呼ばれてきた人々のグループ自体がもう本当に多様性あふれるメンツになっていて、「この属性の人たちはこういうことを望んでいるはず」の思い込みでひとからげにはできない。多様性とは人を属性で括って箱に入れることではなく、個々の人間は違うという現実を認めることであり、人を属性の箱から出すことなのだ。そこから始めなければ、シスターフッドは単なる「意識高い」人たちの集まりで終わってしまい、自分たちもまた「わたしたちが納得できるフェミニズム」の箱に入った人たちのあいだでの助け合いで終わってしまうだろう。
SNSで入ってくる情報は、自分の好みに偏る。そして、同じ傾向のある人々とつながり、「私たちが正しいよね」と確かめ合う。それでは、自分と違う人の足元に目をやり、ましてや違う靴を履いてみることは難しいだろう。本を読むにしても、やっぱり自分の好みの本を選んで読んでしまうし、現実のコミュニティでの偶然的な出会いの中でしかエンパシーは育っていかないと感じた。
この本、男性は読まないのかな…
Posted by ブクログ
ブレイディみかこさんの本は、女性として社会の中で感じる小さな違和感や痛みを、的確な言葉で表現してくれてる。読むたびに、いつも少し勇気をもらえる。
私もまた、他者へのエンパシーを忘れずにいたい。
Posted by ブクログ
絶対やりたくないことではないけれど、自ら進んでやりたくなるわけでもない勇気がいる行為。
そういう意味で、他者の靴を履くって絶妙な表現だなと思った。
Posted by ブクログ
Never Mind the Bollocks (アホらは気にすんな)。
「サード・プレイス」
愛知県豊橋市の大豊商店街の「みずのうえ文化センター」でウィキペディア編集講座が行われていた。
「ニューロマイノリティ」
シスターフッドには、そういうアナーキーな力があるのだ。
思想とか理念とかそういうことを超えた、パワフルで根源的な生き延びるためのカがある。
Posted by ブクログ
たくさんの人が読むべき一冊だと思いました
わいなんかあれですよ
まぁまだまだ古い価値観に縛られてるところがあるってことを自覚した上で、フェミニストでありたいと思ってるんでね
それこそ共感しかなかったわけです
エンパシーですよ!
わいの中で「エンパシー」って、みかこさんが輸入した言葉だと思ってるんだけどね
何か?っていうと、「他者の感情や状況を理解し、共感する能力」のことだそうです
差別をなくすにはこれが重要なんよ
まぁ、ムズいけどね
とはいえ、ムズいから無理ーでは一歩も進まないので、そうあることを意識するだけでも世界は変わってくるはずだよね
エグってくる言葉がたくさんありました
めんどくさいからいちいち書かないけども(出た)
みかこさんは最後に生物学におけるクロポトキンの相互扶助論にも言及していて、これがまた良いのよ
「生物は、互いに競争して殺し合うのではなく、助け合う本能を持っているから今日まで生き延びてきた」
うん、そうであると信じよう
Posted by ブクログ
ブレイディみかこさんの最新刊。
とっても楽しみだった!
ブレイディさんはイギリスに長く住まわれているということで、ヨーロッパ的観点から日本を見ているから、ヨーロッパに15年住んだ私からするとシンパシーを感じる。
ブレグジットがあり、経済的や政治的にイギリスはヨーロッパではなくなってしまっているけど、やっぱり考え方や文化的な要素は、ヨーロッパに近いものがあり、イギリス人は「ヨーロッパ人」としてのルーツを否めないよな〜と読んでいてつくづく思う。アメリカとは違う。
そして日本は完全にアメリカに近いんだなーと思う。
でもそんなことはこの本の大事な部分では全くなく、ただの私にとって感慨深い点ってだけで、メイン要素は
「全世界のシスター(女性)たち!!貧富の差、学歴の差、外見の差、年齢の差、政治的指向の差、主婦かフルタイムで働いているか、結婚してるかしてないか、子供がいるかいないかとか、そんな様々な『差』なんか関係なく、お互いの靴を履きあって、お互いにエンパシーをもち、結束しようぜ!!!!」
ってこと。だからシスターフッド(結束)=シスターフット(足)なんだよね。相手の靴を履いてみるから。
もちろんブレイディさんなので、ただ安直にそんなことをおっしゃっている訳ではなく、それを歴史的実例や、政治、ニュース、時事ネタ、昔から現代に至るまでのドラマや映画、音楽、本、その他研究などを用いて淡々と分かりやすく語ってくれている。
そしてブレイディさんは多分敢えて触れられていなかったと思うのだけど、「全シスターたち」というのは、本の文脈からしてどうしても生物学的な女性の意味だと思う。
そこは生物学的な女性であることで虐げられてきた歴史を振り返りながら辿る「シスターフッド」なので、どうしてもしょうがないのかなと。でももちろん男性の靴を履いてエンパシーを持つ大切さも、イギリスのサフラジェット(女性参政権運動家)を例に挙げて伝えてくれている。
私がモヤモヤする「フェミニズム」や「フェミニスト」に対しても、ブレイディさんが上手く代弁してくださっていて、すっきりした。
そしてお休みだったとある平日のお昼に夫と2人で行ったロイヤルホストで見た、どこからどうみても「ママさんたちの集まり」のグループの数々が、本当にみんな同じ系統の服を着ていて、自分もママでありながら、「あれ?なんでこういう服装みんなしてるだっけ?」となったので、尚更
シスターフッドのドレスコードはむしろ「差異万歳!」
という章で、「私の違和感を解決してくれそう?」と思って読むのが楽しみだった。
ママのことが直接的に書かれている訳ではないけど、私がこの章からママに当てはめて理解したのは、
理想とするママたちのシスターフッドは、似た環境のママ(専業主婦かワーママかとか、夫の職業が似ているかとか、シングルなのかとか、家庭の金銭感覚が似ているのかとか、子供の発達に差異があるかとか)だけの集まりではなくて、全く違う環境で子育てをしているママたちが、お互いの靴を履きあいエンパシーを持ち、「お母さんはこういう服装をしているはず」という固定概念を捨て、連帯することなんだろうな〜と。
体の露出度が高くて、化粧も濃い女性=「外見は良いが知性のない女(通称bimbo)」と言われていたけど、Z世代の左派フェミニストにはいわゆるbimboルックの人もいて、「フェミニストはこういう服装をしているはず」という概念を捨てているとブレイディさんが語ってくれる。バービーもマリリン•モンローもフェミニストとしてウェルカムなのであれば、バービーもマリリン•モンローもママとしてウェルカムだよね。
気に入ったフレーズは他にも数えきれないほどあったんだけど、最後に書き留めたいのは、「40歳を過ぎると、女は美魔女かババアしかいないのか」というところ(笑)
「オルタナティブな40代女性の道もある」ということで、「Never Mind the Bollocks(アホらは気にすんな)」!とパンクロックの名盤のタイトル(セックスピストルズ)を思い出すブレイディさんが大好き!
Posted by ブクログ
「ファクトリーウーマン」
「リトルパンプキンの怪文書」
『焼き芋とドーナツ』
『むずかしい女性がかえてきた あたらしいフェミニズム史』
『ducks 仕事』
p.53 言うと、彼女はきりっとした顔つきになってこう言ったことがあった。
「運だけじゃない。自分をオープンにしていたからです。自分を開くと未来のほうからこっちにやってくる。若くてどん底にいたときは、生き延びるために自分を開くしかなかったから、あの頃のわたしは最強だった」
もし彼女が80代だったとしたら、このわらしべ長者ストーリーは1950年代後半から60年代ぐらいの話だ。わたしが若い頃、日本でバイトを掛け持ちしてお金を貯めては渡英してしばらく住み、また帰って働いては渡英するという暮らしをしていたのは1980年代だったけど、はっきり言って、あの頃だって単身で英国に来ていた若い日本人女性には猛者が多かった。
「英国に憧れていたけど、いざ住んでみると年中暗くて嫌になった」と言って英国を去り、イタリアのトマト農家で働いているというポストカードが届いたかと思ったら、今度はスペインでワインを造っているという手紙をくれた女の子もいた。ビザが切れても滞在していたのが当局にバレて強制送還されたはずだったのが、なぜかまたリバプール港から再入国を果たしてロックバンドでドラムを叩いていた女の子もいた。
p.55 地図を片手にいろんな人に道を尋ねなければならず、道に誰一人歩いていないときや、尋ねた人がまったく間違っている情報をくれることもあった。目的地にたどり着けるかどうかは、運だった。側然というまったく頼のおけないものに任せて、わたしたちは生きていたのである。それなのに、いろんなことを正確に知るのは不可能だった時代の女性たちのほうが、先のことを案じてくよくよ落ち込んでいなかったのだ。
たぶんそれは、ギャンブルに失敗はつきものだと知っていたからじゃないだろうか。
そして、うまくいくかどうかは運だったから、前もってしっかり調べなかった自分が悪かったとか、情弱だった自分のせいだとかいって、自分を責める必要もなかったの
だ。
逆に、失敗しないように、そしてうまくいかなかったことで自分自身を責めずに済むように、検索を重ねて情報を調べて吟味し、たった一つの正しい答えを見つける作業は、自分の身に起こることの可能性を狭め、未知の扉を閉じていく作業でもある。
「自分を開けば未来のほうからやってくる」というくだんのおばあさまのモット!とは逆行しているのだ。
p.173 おばあちゃんが言った。
「あら、わたしは皺くちゃのままでいいですよ。この年になったら、まだ生きてるだけでラッキーだから。わたしの顔に刻まれているのは幸運なんです」
幸運を顔に刻む。なんていいことを言うんだろうなと感心していると、玄関の扉が開き、また若い女性が入ってきて、受付の列に並んだ。
それぞれの地点で、それぞれの旅をわたしたちは続けている。
p.252 「フェミニストも世代交代」とか「新しい世代の女性たち」とかいう表現や見出しは、わりと頻繁にメディアなんかで使われるものだ。「世代」という言葉は、何か文化的なグループであるかのように使われがちな表現だが、それが年齢による括りである以上、平たく言ってしまえば、前述の言い回しは、「年齢が低いフェミニストが出てきた」「若い女性たち」と言っているに等しい。
世代論はエイジズムという偏見につながると言われて久しいが、偏見とは、一人ひとり違う存在である人間を同じ箱の中に押し込めて、「この人たちはこういう性質を持っている」「この人たちにはこういう特性がある」という大雑把な決めつけのラベルを貼ることである。
p.257 彼女は、60歳になってすぐにADHDの診断を受けたという。そして、ADHDの子どもたちに向いている習い事は水泳だとどこかで聞き、自分もやってみたらとても快適に過ごせるようになったという。
一般的に、何かの診断を受けたとか聞くと、わたしたちは「大変でしたね」とか「何かできることがあれば」とか言って、同情したり助けの手を差し伸べたくなったりするものだ。が、わたしにADHDの話をしたときの彼女の表情は、ちょっと羨ましいぐらい清々しく、にこにこと輝いていた。
「ADHDの診断は、わたしにとって最大のエンパワメントだった」と彼女は言った。
「わたしはそんなにダメな人間じゃなかったんだって、自言をくれたから。60歳で人生が始まったって感じ」
彼女は子どもの頃から、どうして自分は人と比べて落ち着きがなく、いろんな物事を忘れ、ほかの人たちのように何かに集中して成し遂げることができないのだろうと思い、苦しんだ。学生の頃は、何か大切な試験とか、面接とか、そういうことをいとも簡単に忘れてしまって久席したりするので、「まじめにやれ」と親や教員にいつも叱られたという。年齢を重ねるにつれ、「いい加減だ」とか「君は人生をバカにしている」とか言って離れて行く大切な人々も出てきた。
彼女はまじめに生きているつもりなのに、他人が絶対に忘れないことをぽろっと忘れてしまったり、友人たちが集中して最後までやり遂げることがなぜか途中でできなくなったりする。
わたしはダメな人間なのだ、と彼女はずっと思っていたという。自言を失い、自分自身が借用できなくなると、人は常に不安から逃れられない。「どうせまたうまくいかない」「わたしにはほかの人たちができることができない」と思うようになり、生きることがつらくなって鬱の症状が長く続いた。
「本当にいい加減な人間で、何も考えずに生きているのなら、苦しむことはなかったと思う。そうじゃなくて、本当にこちらは持てる力を振り絞って、ほかの人たちのようにできるよう、一生懸命に努力しているのに、どうしてもできない。こんな人間は社会の役に立たないし、幸福にもなれないから、死んだほうがいいと思ったこともあった」
そんな彼女は3人目の夫である現在のパートナーと知り合い、一緒に暮らし始めてしばらく経った頃、彼からある新聞の記事を読むように言われた。
「これ、君とまったく同じだよ」
とすすめられてそれを読んでみて、目から鱗が落ちたのだという。それはADHD
の当事者である著名人のインタビューだった。すぐ医療機関に連絡を取って、数々の検査やカウンセリングを受け、診断を受けるに至ったそうだ。
診断を受けたことで、霧が晴れたように気持ちが楽になったと彼女は言った。「=
ユーロダイバーシティ」(人間の脳や神経にはさまざまな違いがあり、「ふつう・障害」
「優劣」という考えから離れて人間の多様性として捉えようという概念)という言葉を使って医師は説明してくれたそうで、彼女の脳は、「ニューロマジョリティ」と呼ばれる大多数の人たちとは違う働きをするのだとわかった。つまり、彼女は「ダメな人間」なのではなく、「ニューロマイノリティ」なのであり、多数派の人々とは違うから理解されなかったというわけだ。
この文脈で考えると、子どものときの自分や、若き日の自分が苦しんだことの原因もわかるようになり、その時代に戻って自分自身を抱きしめてやりたい気分になったと彼女は言った。これまでは、過去の失敗や苦しみは、自己嫌悪の原因にしかならないので思い出したくもなかったが、「ああ、よくがんばった」という気持ちで過去の自分を考えられるようになったというのだ。
これは、50代からの「ハピネス・カーブ」とかいうのとはまったく違う、彼女自身の、きわめて個人的な経験である。そして彼女の場合はニューロマイノリティであることがわかったという、特殊な体験であるように聞こえるが、でもこういうことは、ここまでドラマティックではないにしろ、誰にでもあるのではないかと思う。
若い頃は自分がよくわからなかったり、これからまだ長い人生の道のりを自分がどうたどっていくのかがわからないゆえに不安になり、自己嫌悪に陥りがちだ。でも、ある程度の経験を重ねると自分の限界がわかるようになるし、「ああ、この道はいっか来た道。またたどるのはやめとこう」みたいな生きる知恵も身につき、この境地にいなかった頃の自分はつらかったよね、と過去の自分を慰め、応援したくなる。たぶん、ここで発動しているものも、エンパシーと呼んでいいと思う。過去の自分に対するエンパシーだ。
自分を愛せない人間は他人も愛せない、というのはドラマや本やネットなどでも、よく見聞きする言葉だ。これを言い換えれば、他者とのシスターフッドを築くには、自分とのシスターフッドも築く必要があるのだ。
自分とのシスターフッドは、過去の自分を抱きしめ、応援することだ。そして、ここまでサバイバルし、今日もそれなりにやりくりしてどうにかやっている自分に、「よくやってるぜ、シスター」と声をかけてあげること。これは、書くには易く、実践するのは遥かに困難だ。なぜなら、それは一人ひとりが個人的に行うことで、SNS
で誰かの意見に「いいね」したり、批判のリツイートを飛ばすより、ずっと時間もかかるし、ノリや瞬発的な感情でできることではない。
生身のわたしたちが生きている日常、つまり、ネットや本の中にある先進的な話題ではなく、地べたで一人ひとりの女性たちが体験している事柄は、100年や200年ぐらいでガラッと変わるものではない。だからこそ、この本では、何度も100年前にあったこと(英国の女子サッカー界の歴史とか、「ポイズン・ペン・レター」とか)に触れてきた。
過去のシスターたち、そしてそれだけではなく、過去の自分たち(子どもの頃、ティーンの頃、30代の頃など、きっと何人もいる)とのつながりは、シスターフッドでもあるが、同時に個人的なものでもある。そしてそれは、最新のフェミニズムの知見とかとはあまり関係がない。わたしたち個人の日常的体験を基盤とするつながりだから
だ。
こちら側の、どこかに書かれたことではない、足もとでの体験に基づくつながりの感覚や実践は、シスターフッドより、シスター「フット」と呼ぶほうが相応しいのではないか。
その土くささとたくましさのある言葉は、人を年代や時代で括り、箱の中に入れて整理するための呼称より、ずっと広がりがあるものだと言じている。あれこれ分類して細分化するより、ごろっとした原初の怒りを共有しよう。できるはずだ。そういう祈りを込めて、シスター「フット」という言葉をわたしは唱えているのである。
Posted by ブクログ
日本にいると気づかない事が多くて驚く。
文句ばっか言ってないで皆んなで力を合わせて女性の環境を変えなずっと変わらん、と思わされた。
具体的にどうやったらいいのかはわからんけど…
以下、印象的だった箇所を自分用の備忘録として記録。
◯エンパシーとは見たいものだけを見たり想像したりすることではなく過酷な現実にも目を向けなければいけない。知ることで視野が広がり目を見開かされる。
◯歴史は男性目線や男性が主人公の事が多い。(確かにそう)
それを支えた女性や草の根活動、変革を起こした人もいるはずなのに描かれていない。
声無き声を無いものとしてはならない。
描かれてないことの方が多い。
◯AIは事実を学習する。だから例えば男性が多い職種で人事評価をつける場合、女性というだけで前例が少ないから正しく評価されなかったりする。つまり格差を広げかねない。
◯大事のは「平等」ではなく「対等」。
人には身体的、性格的や環境の違い様々な違いがあるのにその違いをフラット=平等にしようとすると各々の差異(違い)を許さないフラット地獄が出来上がる。みんなで手を繋いでゴールする徒競走が良い例。
各々の違いを許容する社会に必要なのは対等の方である。身体が弱くても、お金がなくても、走るのが遅くても、他者との関係性において対等であり、見下したり侮辱したりしてはならない。
Posted by ブクログ
殺菌洗浄されていない女性たち
→よい言葉、誰もが間違うし、偉人だってやばい面がある、でもそれと功績は共存する
女性の指導者であることと政策は別
彼女たちのフェミニズムが強くて野心のある彼女たちのような女性だけを受け入れるなら、結局差別だよな
ブラザー(男性たち)フット
→人間は助け合いが根底にある生き物だと最近どこかで読んだ
SNSにおけるミソジニーが「女叩きをした方が盛り上がって儲かるから(=炎上商法?)」が起点になってるということは、我々がいくら呼びかけても無駄ってことか
お金儲けに利用されて苦しい思いをするなんて悲しすぎる
「あんまりお互いを不自由にすることを言わないようにしよう」
→これこそエンパシー
Posted by ブクログ
“むしろセルフケアとは、「もっとよい自分にならなければいけない」という脅迫から逃れて自由になり、「素敵」「清潔」「知的」「おしゃれ」といった出来合いの誉め言葉で称賛されることへのプレッシャーから自分自身を解放してあげることだろう。”(p.128)
“支配とは、「人をなめる」ことから始まるのである。”(p.142)
“「ADHDの診断は、わたしにとって最大のエンパワメントだった」
と彼女は言った。
「わたしはそんなにダメな人間じゃなかったんだって、自信をくれたから。60歳で人生が始まったって感じ」”(p.257)
Posted by ブクログ
私たちの足元に転がってる、シスター「フット」の話
女性の政治参加の話で、英国ですら未だに女性政治家が重要ポストに就くと洋服やらトイレやら家族やらの話になるって、衝撃……
ジェンダーギャップ指数4位でもこれ…?
SNSでの女性の連帯はよく目にするけれども、オンラインよりも自分の身近な人間との関係性をまず大事にしてみようと思った
Posted by ブクログ
アイスランドの女性ストライキがインパクト大!
恥ずかしながら、このストライキのことを今まで知らなくて…
内容を詳しく見てみると、いわゆる女性差別としてよく挙げられるものに留まらず、もっと小さなことまで女性の労働として挙げられていてびっくりした。
例えば、「やることリストを覚えておくこと」「家族や親せきへの気遣い」「家族の食事」など。
最近、家族みんなの予定管理にイライラしていたところだったので、私もストライキしたくなってしまった。
この本では、女性側の問題として書かれていることが多かったけど、男性でも同じ様に不公平を感じている人もいるかもしれない。
男女問わず、「こうあるべき!」という考えから解き放たれて、自由に生きられたらいいなと思う。
Posted by ブクログ
自分が無意識に受け入れてしまっていることの中にも女性ならではの難しさが潜んでいることに気づいて、この無自覚さが日本の男女平等がなかなか進まないことに繋がっているのかも、と反省した。
Posted by ブクログ
今の世界の有り様といかに女性は
向き合い生きて行くのか
歴史に触れつつ考えさせる
わかりやすくて面白かった
ママアスリートも増えている
以前なら考えられない
年齢を超えて競技に取り組んで
結果を出している女子アスリートもいる
世界は変わる
価値観も変わる
それぞれにリスペクトして
生きていきたい
Posted by ブクログ
ブレイディさんの本はいつも、様々なことを考えるきっかけをくれる。その着眼点にいつも、新たな気付きがある。
特に印象に残ったのは、数学が分かるようになり、自分を傷付けるのを辞めた子の話。
勉強が分かるということも、何かのきっかけの一つとなるんだろうなあと。
Posted by ブクログ
イシューを絞ったうえでの筆者のエッセイ集ということで、今まで触れて著書とは感触が違う面もある一方で、その中での話題の多様性も担保されているのはさすが。何篇かは、折りに触れ見返してみたいものもあった。
Posted by ブクログ
ブレイディみかこさんは、僕はイエローでホワイトでちょっとブルーからのファン。日本ではなくイギリスに住んでいる筆者だからこそ感じる、見えてくる視点でのエッセイでした。
特に印象に残ったのは、
「自信は気の持ちようではない。
本物の自信は環境と経験で培われるもの。
環境も経験も他者が必要。」
という内容でした。自信は精神論ではない。これは女性に限らず、男女共通で現在の教育の中で大切な考え方だろうと。自信をつけるには、失敗できる環境下で努力など試行錯誤をしていく中で、だんだんとできることが増えた、上手にできたなどの成功体験から自然と身につくものなのだろうと。
他にも日本にいると気づけないかもしれない視点からのエッセイ、なるほどと感じながら読ませていただきました。
Posted by ブクログ
アイルランドの女性ストライキすごい。
また、コロナ中あんなに有名だったニュージーランドの首相もひっそりと辞めていたとは。日本にいると入ってこない情報が多い。
自信を持つには環境というのも、納得。
自己啓発本をいくら読んでも、他人からの称賛や、経験からじゃないと自信なんてつかない。日本は、女性が自信のつきにくい環境なんだなと。
Posted by ブクログ
人生なんてこうやらなきゃだめ。なんてないんだから、
私の人生やりたいことはどんどんやろうよ!!って気持ちにさせてくれた前向きになれた本です。
日々家事育児仕事で疲弊しているのですが、グローバルな視点で書かれているので世の中まだ組織等も男性主体だったりもするけれど、女性もっとチャレンジできるわよ!!!て感じ。
ママとは。仕事とは。型にはまらなきゃ型にはまらなきゃと堅苦しくなっていた生活だけど、もっと柔軟に行きていこうと思えました♪
Posted by ブクログ
「ポリティカルになりすぎると分断や対立をもたらす。政治に無関心過ぎるとただの激励会になる」…シスターフッドのあり方は「hood」ならぬ「foot」。足もとにこだわる。タイトルありきのファッション雑誌の連載企画。「ノリ」で始まり、意味が後から追いかける。女性の運動に限らぬ考察を引き起こす。…違いを認識し目的を共有する。敵の靴も履いてみる。意見の異なる相手を糾弾するのではなく、何故その人はそう思うかを考えてみる。達成目標は何かゴールをはっきりさせ、譲れるところは譲る。多数派を形成しなければ世の中は変わらない。
Posted by ブクログ
この本は人類をエンパワメントする本だ。。。というと書きすぎかもしれないが、古今東西の女性達の社会運動を取り上げ、現代の構造的欠陥に触れ、どうすればこの絶望的な状況を打破できるのか記している。社会派のエッセイストであるブレイディみかこらしい作風となっている。
Posted by ブクログ
女性たちが自分たちらしく普通に生きることの難しさとお互い認め合って助け合うこと,そして少しずつでもより良い社会の実現に向かうこと.大切なことが語られている.
しかし,女性もだけど,男性の意識改革はどうなってるんだろうと腹立たしい.
Posted by ブクログ
足元から始めろ。
シスターフッドと言うが、それってどういうことか考えたことはあるか。エンパシーという言葉を日本に広めた(と私は思っている)著者が書く、フェミニズム。
女性が、移民が、貧しい人が、と言ってその属性を持つすべての人が同じように考えるわけではない。99%が望んでいたとして、1%の反対をなかったことにしてはいけない。誰かを排除するための闘いではない。知らないで、知ったふりで、行動するのではなく、まずは自分から、自分のリアルにつながるところから。著者の指摘はハッとさせられる。自分と同じことを言う人だけではなくて、異なる意見の人をも排除しない社会、そして運動が求められているのだ。それが本当の誰も取り残さない社会だ。
最近のイギリスを知る意味でも面白い。特に政治的状況とか。
Posted by ブクログ
多様性が一様に叫ばれる現代において、何かと広がっている分断。知ることが相手を理解する第一歩だと思う。そして何を知るべきなのか?歴史から学ぶことは大いに有り、逆にそれが歴史を学ぶ意義ではないだろうか。そして、それは年号や起きた史実だけでなく、そこに確かにあった息づかいに耳を傾けることが大切であると、この本は教えてくれる。シスター達の息づかい、そして連帯に敬意を!