子どもの頃はそうと意識して読んでいたわけではありませんが、いわゆる少女小説と言われるジャンルの小説は、小学生の頃の愛読書でした。
19世紀後半から20世紀前半に書かれて、作者も多くは女性です。
”少女小説は、広い意味での児童文学に含まれますが、文学史的には「家庭小説」と呼ばれるジャンルに属します。家
...続きを読む庭小説は、家庭を主な活動の場とし、将来的にも家庭人となることを期待された少女のためのジャンルとして発展しました。”
小学生の私にとっては家庭人となるための知識ではなく、遠い外国の知らない世界を見せてくれるのがこれらの作品でした。
もちろん少女小説以外にも「宝島」や「トム・ソーヤ」なんかも読みましたし、民話や童話なども読みましたけど。
なんでこんなに少女小説が好きだったのか考えてみると、主人公たちが伸び伸びと活動しているのがうらやましいというか、眩しかったんだと思います。
だから実は『小公女』はあまり好きではなかったな。
ちょっといい子過ぎて。
あと、校長先生の掌返しが怖かった。
帯の裏側にポイントが書いてあります。(なんと親切設計だこと)
”あの名作にはいったい何が書かれていたのか――!?
魔法使いと決別すること@バーネット『小公女』
男の子になりたいと思うこと@オルコット『若草物語』
資本主義社会で生きること@シュピーリ『ハイジ』
女の子らしさを肯定すること@モンゴメリ『赤毛のアン』
自分の部屋を持つこと@ウェブスター『あしながおじさん』
健康を取り戻すこと@バーネット『秘密の花園』
制約を乗りこえること@ワイルダー『大草原の小さな家』シリーズ
冒険に踏み出すこと@ケストナー『ふたりのロッテ』
常識を逸脱すること@リンドグレーン『長くつ下のピッピ』”
これらの作品に書かれているのは、自分の居場所をつくること、守ること。
自分らしく生きること。
子どもの頃は気づきませんでしたが、そういうことです。
「ピッピ」以外は全部完訳版や一般向けの文庫本で読みなおしましたが、大人が読んでも十分に楽しめました。
この本を読んで、子どもの頃にはわからなかった、深いメッセージの意味を知り、また読み返してみたいと思いました。
特に、ケストナーの『ふたりのロッテ』。
ナチスに強く抵抗していたことは知っていましたが、両親の離婚により別れ別れになった双子のロッテとルイーゼの物語は、戦勝国の勝手により分断された祖国ドイツの物語である、とは気づきませんでした。
子どもにとって親は独裁的な権力者。
著者は、少女小説には父親の影が巧妙に遠ざけられていると言います。
それは、少女が自由に活躍するためには、家父長的な父親が邪魔だからだ、と。
唯一父が健在の『大草原の小さな家』は、自由人の父親が定住派の母親の希望通り、町に住むことで家庭内権力闘争に負けたということになるのだそうです。
少女が飛び立つための大きな障害が父親という存在(または家父長制という家システム)。
私常々思っていたのですが、どうして朝ドラの主人公の父親はろくでなしが多いのだろう、と。
いい人であっても、家長としては役立たずとか、いい人ですらなかったり、とか。
それは、しっかり者の父親が健在であっては朝ドラのヒロインが活躍できない、ということなのですね。
腑に落ちました。