おおたとしまさのレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
習い事って昔からやってる人はやっていたが、本当に最近の習い事は多種多様。機能別の家電みたいだなあと思っていたところに読んだ。
結論としては
-小学校低学年のうちは数を絞る=自由時間を作る
(この点、東大生が社畜希望笑だったのは寂しい話。暇が潰せない大人)
-10歳以降は形式的操作期。抽象的な思考を高められるので勉強習い事打ち込んで良い
-何をするかよりどうさせるか。(賞や第一志望合格のような)結果が得られなくても身につくものがあって納得できるかが親の力量。結果ばかり求める教育虐待
また地方出身の東大生が言っていた「東大に近づくほど周囲にピアノをやっている人が増えた」のは、まさに私の実感とピッタリ。正確には「頭もいい=勉強もガッツリやっているが、ピアノガチ勢も多い=わかりやすく言えば家にグランドピアノがある率が高まった」だろうか。よく考えると経済=教育格差でもあり、地方格差でもあり、考えさせられる問題だなあと思った。では例えば習い事のできない家庭の子供に、習い事で身につけるような力gridを身につけさせるには、公的教育で何ができるのだろうか。何もできないのだろうか。それこそ学校では結果(特に体育では、生まれ持っての運動能力を測って終わった記憶)に注視しがちでプロセスの力を得られた記憶がなく、だからこそ今非認知能力だのプログラミングだのを叫んでいるのだろうが、その力が公的教育だけで身についたらすごいだろうなあ。
ということで、親が自分で考えてねということなのだが、色々あって迷う場合、何を身につけてほしいかという観点から考えるという視点を得られた。 -
Posted by ブクログ
素晴らしい本でした。スッと心に刺さる、澄んだ文章が印象的でした。
冒頭の「はじめに」の最後に書かれていた、
「もしあなたが教育虐待の被害者なら、過去の経験を客観視しその檻から抜け出すきっかけとなることを願う。もしあなたが教育虐待の加害者になることを恐れているなら、その不安を少しでも払拭できればと願う。」
という言葉に、著者の優しさが溢れていて、それだけで期待感がグッと高まりました。
本書で取り上げられているテーマは教育虐待ですが、そもそも「幸福な人生とは?」というテーマにも繋がっているような気がします。教育に、そして人生に、絶対的な正解がないことーーそれを理解することが、不幸な人を減らす第一歩なのではないかと思いました。 -
Posted by ブクログ
かつては、子どもの貧困について、教育格差という社会問題があった。現在では教育格差にプラスして体験格差なる言葉まで出てきた。
子どもの能力を伸ばすため、社会的成功のためには学力(認知能力)だけではなく、非認知能力の獲得が欠かせない。
そのために、子どもにあれもこれも習い事をさせ、小さいうちから海外も含めた色んな旅行に連れて行くべきという価値観だ。
しかし、その価値観が暴走し、〇〇力を獲得するための〇〇体験なるものが流行り、子どものあらゆる体験が親の課金ゲームに成り下がっていると著者は警告する。
誰もが子どもの頃に感じた「ちょっとほっといて!」という感覚を忘れてはいけない。
特に今は少子化ということもあって、大人が子どもに構いすぎる。何でも先に答えを教えすぎる。
子どもが聞いてきたことには真剣に答える必要があるが、それ以外について、大人の方からあれこれと、これどうだった?と聞いみたり、これもやってみれば?と提案したり、これはこうなんだと先に答えを教えるのはいかがなものか。子どもは興醒めして逆に興味や関心を失ってしまう。
習い事にいくつ通っているとか、旅行に何回行ったとか、それが子どもの将来にどう影響を与えるかはわかっていない。それなのに、大人たちはそれが多いほど良くて少ない子はかわいそうという目で見る。そんな社会で育った子どもは同じように感じてしまう。それは社会全体にとってとても不幸なこと。
現在は、体験格差ではなく、体験消費社会といえる。体験に非認知能力獲得という機能が紐づけられ、非認知能力は経済的成功に欠かせないと錯覚させられ、体験の格差が経済格差の世代間連鎖と紐づけられて語られるようになった。
本来、体験というのは習い事や旅行とは関係なく子どものあるゆる経験(親の離婚、貧困などマイナス体験も含めて)お金のかからないものであった。
本書では、そもそも教育格差も体験格差も幻想であると主張する。
職業による収入の差が大きいからこそ社会に格差が生まれ、やがて世代を通じて子どもに連鎖する。それならば、職業による収入の差をなくすべきだというのが本書の結論。
そうすれば学力や非認知能力の違いはあっても、皆んなが等しく尊厳をもって生きることができ、そこには格差が存在しない。
教育格差や体験格差の格差をなくすことは理想社会実現のための一つの手段にすぎず、目的では決してないと締めくくっている。 -
Posted by ブクログ
とても面白かった。
ーどんな人生送りたいかではなく、結果的に自分が生きてきた人生を自分でちゃんと引き受けて、そこに意味づけをできる。そんな子どもになっていればいいんじゃないか。
ー子供は結果を見られるより自分が踏んでいるプロセスを見られると安心する。褒める必要はない。頑張りを評価するわけでもない。頑張り評価はポーズ評価。見せかけだけ。どう学んでるかではなく、時間をかけてやるとか量をやったとか、そこを評価してきるだけ。子どもは評価されたいので、頑張ることが評価のためのポーズになっちゃう。
ー子を信用してないから不安になる。親から心配さらると、子どもは自分が信用されていないことに気づくから嫌になる。しかも、親が先回りして心配していたら、子どもはずっと他人事でいつまでも自分ごととして捉えない。
私自身子どもの時、大人に見せるためのポーズが得意だったし、親が先回り心配する人で確かに自分ごとに出来ていなかったので納得感がありました。自分の人生を引き受けて意味づけをできる人でありたいし、子どもにもそれを願います。 -
Posted by ブクログ
同じく新書で話題となった『体験格差』と同類かと誤解される向きもあるかもしれないが、本書は逆に「体験格差」なる概念が子どもの世界に持ち込んでしまう諸々に対して大きな懸念を示す。
世代を超えて経済的な格差が受け継がれ固定化されてしまうのは問題であるとの前提は共有した上で、各家庭の抱える細かな違いを揃えることでかえって競争の結果の正当性が強調されてしまうことにならないか?様々な体験を外注することで得られる結果が保証されているかのような倒錯が起きていないか?そもそも体験で得られるとされる「非認知能力」とは何なのか?など、著者の様々な疑問を子ども支援の現場で奮闘する人々とともに議論する。
最後には著者が違和感を感じる『体験格差』の著者にも直接疑問をぶつけ回答を得ている。言いっ放しではないところに好感を持てる。 -
Posted by ブクログ
子どもの習い事について色々悩んでいたので読んでみました。
内容は、体験格差の定義、社会的な構造などについて書かれています。
著者が教育ジャーナリストということもあり、教育に関するカタカナも多く、慣れない人はこれどういう意味だっけ?となるかと思います。
体験格差について考える機会がないまま、TV、雑誌などで取り上げられるので体験(習い事、旅行など)について新しい視点を持つことができました。
体験についての私の解釈は、以下の通りです。
体験は、多くしてほしい(チャレンジをしてほしい)。
しかし、その体験をやる前に子どもの判断でどの体験をするのかを選ぶ機会を設ける。
やりたいと思わないこと(気持ちが入らないこと)をしても能動的な作業となり、新たな学びにはつながりません。
親にできることは、この体験の種類を多く提供しすることで、何が自分の好みなのかを判断する材料の提供です。
あとは、家族で体験するのか、友達と体験するのかなど誰と体験するかを変えることでまた新たな学びになると思います。
-
Posted by ブクログ
なぜ子どもの体験サービスはこんなに高いのか?
私も疑問に思っていました。
子どもが消費者にされている。
子どもがビジネスに取り込まれている。
なぜ私たちの社会はそれを許しているのでしょうか。
今は子どもがやりたいこと、好きなことを見つけてあげることが親の使命のようになり、あらゆる体験をさせて子どもの反応を見ている。そんなふうに、私には見える。
教育は「親ガチャ」のように言われて、子どもが優秀ではないこと、子どもに頭抜けた取り柄がないことは親の責任のように感じてきた。この本は、そんな視点で子どもを見ていることがおかしいんだよと教えてくれる。
体験格差を切り口に、なぜ体験が消費される社会になったのか、私たちが煽られて体験させなきゃと思わされているかを説明してくれる。
負の連鎖を断ち切るためには、子どもたちを体験の数で比較して、数が少ない人を支援するのではなくて、社会に包摂してあげることの大切さを説く。
社会を良くするためのアプローチを、知恵を絞って考えるきっかけを与えてくれた。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ
お受験とか、つい子供にいろいろ習い事させたり、自分の夢をおしつけたりしちゃう親こそ読むべき。
男子校にしか当てはまらなそうなところもあるけど、子供そのものを見よ、というのは共通する。
コスパ、タイパとかパフォーマンスがあることが前提になってる社会で、子供の教育にもパフォーマンスを求めてしまう。でも大切なのは結果、成果ではなく、その子自身。
大人が、インプットすればアウトプットがでると信じ、子供にアウトプットを求めてしまうのは、現代の社会がそうだから。現代社会に送り出すために教育も現代的になってる。野人の子供は、いつ変身して、現代社会に対応できるようになるんだ?それとも、対応しないまま、変人として生きていくけど、本人がそれで幸せならいい、ってことなのか??
子供がもともと持っている力を信じて待て、というのは、現代で苦しむ大人には難しいんだよ。
子供を幸せにするには、まず大人が幸せにならなきゃいけないのでは。
二月の勝者の開成受験の子の話でも出てきたけど、産まれた時は生まれてきてくれてありがとう、呼吸してるだけでえらい、のに、成長するとどんどん子供に求めるようになって、親は欲が深い。
でも、人間は社会的な生き物だから、社会が求めるものと合わせて成長に合わせて要求レベルが上がってくのは仕方がないような気もする。でも、やっぱり、生まれてきてくれてありがとう、それだけ、の精神は大事。絶対忘れちゃダメ。
以下、刺さったこと
子育ては、一緒にいた時間ではなく、子供をその子そのままに受け入れることができるかという奥行き
子育てとは、子供をどう変える、どうコントロールするのがではなく、子供を通じて自分がどう変わるか
学歴信仰から逃れたいと思っているのは本当は親自身なのかも
丸暗記は大学受験までしかうまくいかない
敵に渡すな、大事なスイッチ
目に入れても痛くないほど子供を見られるか?
正解できたかどうかはどうでもいい。その子が何をどう考えたか、プロセスを見よ。
親の役割は、将来的には子供に要らないと言われること。本来、野人である子供と、社会との折り合いをつける存在。
産まれたときの写真貼って、いいなぁ、あの頃はなんでも言うこと聞いてくれて、って思う人は、犬でも飼っておけ -
Posted by ブクログ
【要は各家庭で抱え込みすぎ】
五味太郎氏と著者の対談記事を目にしたのがきっかけで本書を購入。
非認知能力の高さが収入に影響するという言説、
「体験格差」という薄気味の悪い概念の正体に迫る。
体験を「消費」する社会とはーー
社会は本来、助け合い支え合うための場なのに
いつしか競い合う場になってしまった。
将来の成功のために
子供に体験をさせて「あげる」ことで、
社会を勝ち抜ける人間に武装させようとする。
子育ての家庭依存が進みすぎていることも
親の不安を駆り立てる。
あの子は体験も習い事もたくさんしているのに
うちの子には「してあげられてない」。
このままだと子供の将来の選択肢が狭まってしまう。
村全体で子供を育てれば、偏りが補正される。
直接子供にかかわる大人を増やすべきだ。
子供の未来を案じすぎず、
今、子供が目を輝かすものに時間を割いては。
五味太郎氏のように下心やメッセージ性抜きで
子供と同じ目線で楽しむことが大人の役割なのだろう。