佐伯啓思のレビュー一覧
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「愛国心について書くことは難しい」 ではじまる序論、西洋発のナショナリズム論では捉えきれない 「日本の愛国心」 という問題を、「日本の精神」という磁場において考察したものです。
高度成長に入った時期から消えていった 「国家意識の喪失」 から説き始め、近代国家の論理を検証し、日本の愛国心の 「負い目」 に触れ、日本人の歴史観、歴史意識に辿り着く。議論は端緒についたばかり、『惰性的な状況判断』 など、私には理解できない言葉もあり、もう一度ゆっくり読み直してみたいです。
まず、今日の日本における 「愛国心」 に関する議論を検討し、それを戦後日本のナショナリズムや愛国心という、より広いコンテキストにおいて論じ、次にナショナリズムや愛国心の概念を整理しています。
第3章では、愛国心の教育を素材に、近代国家における 「愛国心」 の意味を論じ、あわせて、西欧社会における 「愛国心」 の歴史的な意味を概観します。
第4章以下は、「日本の愛国心は日本の歴史観と不可分である」 とする試論です。 -
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西田哲学は、無の哲学と呼ばれている。彼の人生上の苦難や悲哀と無関係でない。キリスト教で言う絶対者は、仏教的には本質的には「無」となる。
過去の思い出なくして我というものは、ない
裏と表の社会 天武天皇が「日本書紀」(表)を編線させたときに同時に「古事記」(裏)も同時に編線された。裏である出雲の国譲りがなければヤマト王権による国の統一はなかった。
我々日本人の中に敗北してゆくもの、西郷隆盛・源義経・後醍醐天皇・楠正成など、貶められた者への深い共感をもっている。一方で西洋の「勝つこと」を目指し、他方で時代に取り残された去るものへの愛着が抑えがたくある。
「哲学は悲哀から始まる」自分の経験に発し経験に戻ってくるべきもの
日本文化の核心とは、己を空しくし、無私や無我にたって事物に当たる精神。
「伝統」とは、ただ過去の保守ではなく、今ここでの世界性をもっていなくてはならない。「永遠の今の自己限定として物を創造し行くのが伝統である」
西洋の論理は、「物の論理」で日本の論理は「心の論理」だ。日本の論理は、主体を無化し、無化することで、歴史的現実へ実践的に参与する。日本文化の象徴は皇室である。 -
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佐伯啓思、三冊目。
段々、この人の文章に慣れてきた気がする。
幸福とは、どんな状態を指すのか。また、それは追い求めるべきものなのか。
この課題を捉える上で切り離せないのが、「死」という最期で、だからこそ生きている間をより良く在ろうとする人の切実な思いはよく分かる気がする。
ともすれば、無縁社会を不幸な末路だと思いがちだけれど、古来日本人は進んで自らを縁から切り離そうとしてきたじゃないか、と触れる。
無常の中で、生きることを見つめていくとき、そこには楽しさや嬉しさよりも先に、哀しさや畏れがあるのではないかと彼は述べる。
今現在の私は、歴史上最も良い状況にあるわけではない。
失われてしまったもの、見えなくなってしまったものは確実にあるし、それもまた流れなのだと思う。
どう生きるか、難しい問いの一つの見方を与えてくれる一冊であった。 -
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読み応えのあった一冊だったが、分かるのに言葉に出来ない(理解しきれていない)もどかしさが残る。
この人、すごく文章書くのがスマートでいい。
歴史が進歩するという発想そのものに、まず疑問符を付けてみる。
それは果たして進歩なのか?自由の獲得と富の拡大は善で、規制や貧困は悪になるという二元論からのスタート。
そこで近代社会の始まりを振り返る。
市民の誕生と、一般意志による社会の成立。
神がいなくなった社会で、個人は生きることの「確かさ」を失ってしまい、それが今の不安な時代を形作っている。
分からないものの代わりとして、何か定まったものを求める科学至上主義への転換。
その最中に私たちは生きている。
今、私が考えていることを、一つ外側から見つめてみる。これはすごく大切なことなのだと思う。
答えはない。けれど、今、私が立っている場について大きな手がかりを得たようにも思う。
他の著作にも手を伸ばしてみたい。 -
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西洋における「市民」という概念の歴史をたどることで、日本の戦後民主主義が理解する「市民」概念の歪みを明らかにした本です。
戦後民主主義の中で、マルクス主義に基づく進歩史観が広く受け入れられ、「市民」という概念は共同体や国家からの解放された自由な主体を意味する言葉として受け止められてきました。そうした考え方は、私的な権利を主張し保護を要求する放埓な人びとを生み出してきました。
しかし、西洋の歴史の中で「市民」という概念は、ギリシア時代のポリス以来の伝統を持っており、自分たちの共同社会を守るために戦う義務を負う者として考えられてきたと、著者は論じます。共同体を防衛することがみずからの生命や財産の安全につながるということを明確に自覚し、そのため「祖国のために死ぬこと」すら厭わない美徳を持った「市民」という発想が、西洋における「市民」の概念の中に息づいています。
著者は、こうした西洋における「市民」概念の重層性を指摘するとともに、日本古来の精神の伝統としての「士風」を重視した福沢諭吉の、「一心独立して一国独立す」という考え方に、わが国における「市民」概念のあるべき形を見ようとしています。 -
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資本主義と、それを動かす動力である「欲望」について論じた本です。
「市場経済」という観念とその基礎にある「自由」の観念は、個人主義や自由主義、デモクラシーといった西欧の価値観と深く結びついています。しかし、資本主義の中から現われ出た「産業主義」は、むしろ西欧の社会を支える骨格に対する挑戦とみなされると著者は言います。
著者は、ヨーロッパに資本主義が生まれた歴史的経緯について考察をおこない、ヨーロッパの外にある文明への「欲望」が、資本主義を動かしてきたと論じています。しかし、資本主義の「外」が容易には見いだせなくなり、さらに大衆の顕示的消費さえもが魅力を薄めつつある現在、人びとは改めて、資本主義によって覆い隠されてきた文化や知識、価値といったものに気づくことになるのではないかと論じて、資本主義の危機が新たな可能性にもつながっていると語られます。
資本主義と欲望をめぐる歴史的経緯についての解説は、興味深く読みました。ただ、著者が最後に語っている資本主義の「後」の可能性については、多くの問題があるようにも思います。直接「文化」や「価値」といったものについて語るとき、私たちはどのようにしてそれらを調停すればよいのか、まだ具体的な手段を持っていないように思われるからです。現在の社会制度に即した手続き的な正当化以上のものを求めることはよしたほうがいいような気がするのですが。 -
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世の中のふやけた正義の味方の皆さんを斬る本、かと勝手に想像していたら、そうでもなかった。民主主義という正義が本当に機能しているのか。そもそも民主主義はいいものなのか。そういう話。「民意」を「ミンイ」と書くことで、この本の言いたいことはかなり表せるのではないかと思う。「日本」を「ニッポン」と書くと急にわかったようなわからないようなナショナリズムが喚起されるのと同じだ。「専門家」への依存や不信も社会の不正義を助長しているが、そもそもexpertのpertとは、「小生意気な」とか「でしゃばり」、つまりexにpertするとは「外へ向かってしゃしゃりでる小生意気な者」だと。言われてみれば、本当にその腕や知識で飯を食っている人のことを専門家という風には認識できないなあ。他にも石原慎太郎の話やら、部分的に溜飲が下がるところはあるが、なんだか思い出に残りにくい本であった。
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グローバル競争の中で日本経済は大停滞から抜け出すことができず、仕事も不安定で、将来への見通しも立たない。誰もが殺伐としたものを感じている。大衆の不満や不安は、毒には毒をもって制する指導者、橋下氏を求めた。橋下現象を支えているのは薄く広く引き延ばされたルサンティマン。敵対者を悪者にしたてあげ大衆の不満の矛先と仕向ける。橋下氏を強引で自己中心的でとんでもないという人もいるが、残念ながら筋違い。我々が問題とすべきは橋下現象を生み出してしまうこの日本社会の現状そのもの。ネットなるものをほとんど見ない、橋下氏を全く知らないという著者が橋下現象の核心を突く。2章以降、総理の品格、独立論など、興味をそそるコンテンツが第9章まで続く。資料やデータは一切ない。著者の見識のみをもって思想的な観点で論じられているが、どれも読みごたえがある。自分の思想の遠近を正し軸もしっかり据えてもらえた。
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ネタバレ資本主義とは何なのか?がこの本の主題。そしてこの本でいう資本主義は一般的な使い方と若干違うようなので注意が必要。市場経済とセットとは考えない。
社会主義も市場経済は導入していたが競争がなく、失敗をチェックする仕組みがない。消費者が存在しないことが失敗の原因だという。
資本主義は大きく分けてアジア等外側に欲望が向いていた産業革命周辺の時代、理想のアメリカ人像を求めた1880年代終盤から1900年代初期。欲望がメディア、広告によって人々の刹那的になり絶えず移り変わる現代(1980年代から1990年代)と分けられるとしている。すこし昔に書かれた本だが現代からを見てもまだまだ欲望に取りつかれていて文化、知識の領域は取り戻せていない。
著者は資本主義発生のメカニズムはゾンバルトを指示していてヴェーバーには一部を除いて否定的。 -
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本書は「経済書」なのだろうか、それとも「経済思想書」なのだろうか。本書を読んで、現在の世界と日本で起きている経済的事象の全体像がより鮮明になったように思えた。
1990年代からの「失われた20年」については、マスコミでよく語られるが「構造改革」は小泉政権のみではなく、歴代の政権が常に声高に叫んでいた。そう考えれば、日本経済は相当「構造が改革」されているはずなのに一向にその成果が上がっていないと疑問に思っていたが、本書は「デフレに陥っている経済に対して新自由主義政策は明らかにマイナスに作用する。一層にデフレ圧力をかける」と喝破する。なるほど、説得力がある。
「グローバル資本主義の危機」「変容する資本主義」を読むと、現在の世界の現状がわかったような気もするが、その結論は「先進国においてはもはや無理やり成長を追求できる時代は終わったことを認識すべき」という。
それが苦い現実であるならば、現在の安倍政権は蜃気楼を追いかけようとしていることになるのだろうか。
また「経済学」についても多くの章を割いて論考しているが、その論旨は「合理的な科学としての経済学という虚構」である。実に興味深く読んだ。
その結論の「今日の資本主義のどうにもならないディレンマ・・・今日の先進国の資本主義経済においてはもはや高度な成長は不可能である。にもかかわらず成長を続けなければ経済は破綻しかねない」とは、まさにその通りと頷いた。
本書は、最終章の「脱成長主義へ向けて」で「日本経済はもはや高い成長は望めない」と断定している。
そのための意識のパラダイム転換を訴えているのだが、その内容は「経済思想書」のようでもあるが、本当にそうなのだろうか。日本がもう低成長しかできないのならば、「政治」においても「社会」においても相当な変貌を迫られるように思うが。
本書は、現在と過去の「日本経済」をわかりやすく解き明かした良書であると思うが、それにしても「経済学の犯罪」との「書名」はひどい。この表題からは、本書の内容は全く想像もつかない。もうすこし、内容がよくわかるような「書名」は付けられなかったのだろうかとも思った。