佐伯啓思のレビュー一覧
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アメリカという外の軍事力によって日本の安全を確保した上で、内においてはいっさい武力行使を放棄するという平和国家なのです。このことそのものが矛盾であり、欺瞞なのです。
普遍 universal uni 単一 vertere 方向づける ひとつのものへと方向づける
戦後がはじまったのは 1952/4/28 サンフランシスコと講和条約
単純に侵略戦争の一語で片付けられるような戦争ではなかった。
すでに戦争がおわって何十年もたって、それを歴史のそとから傍観してあまりに簡単に断罪すべきではないでしょう。まずは当時の人々がどのような意識をもっていたのか。その一点こそが重要ではないでしょうか
日本国憲法 占領下主権を持たない時に作られた
共和国は市民が武装して国を守る
アメリカに自国の防衛を委ねている日本は、主権国家にならない
技術的法的な手続き論も必要ですが、本当に重要なのは「だれが国を守るか」という原則論にこそあるのではないでしょうか
半主権国家の平和で民主的な60年
岸信介首相 新安保条約 日本は米軍に基地を提供する代わりに米軍は日本および極東の安全保障の責務を負うという、相互の責務を明確にしたもの。より双務的で、多少は対等に近づいた安保改定がなぜかくも国民的反対にあわなければならないのか、たしかに心外であったかもしれません
ポツダム宣言 トルーマン、チャーチル、蒋介石の連盟だが、事実上トルーマンが一人で作る
日本の戦争遂行能力が破砕されるまでは、連合国は、日本国の諸地点を占領する。日本から軍事的勢力がなくなるまで、日本国の中の諸地点を占領する。日本国を占領するとは書いていない
無条件降伏するのは軍隊 uncontional surrender of Japanese armed forces
天皇及び日本政府の統治権はGHQ最高司令官によって
従属する、外務省訳 制限される subject toの訳
アメリカに従属していながら、しかし日本の国内では、何か、主体的に物事を決めているかのように装っている。(戦後レジームの二重構造)
われわれが、いかにも主体的に物事を決定したと自ら考えている、そのこと自体を疑ってみたいのです。問題はアメリカでなく、われわれの側にある。われわれが自明だと思っていることそのもにおおきな落とし穴がある
それを生み出すのは、日米間の非対称な二重構造
無意識で自発的な自己検閲を生み出すことこそが、占領政策の重要な意味でした
1950/7 外務省がはじめて侵略戦争という言葉をはじめて使った。ここでは侵略戦争も無条件降伏ももはや当然のこととなっている 1945がら1952年までの間に、戦争解釈が大きく変わっているのです。自存自衛の戦争から侵略戦争に変わった
war guild information program
この戦争を日本軍国主義による世界秩序への挑戦とする侵略戦争観が、反省に基づくあらたな再生へと向かう日本にとっても実は好都合だったのかもしれない
朝日新聞こそが、戦後日本の公式的価値を代表した。戦後日本の公式価値とは、あの戦争を日本のアジア侵略によってはじまった侵略戦争とみなし、敗戦を連合国による日本の軍国主義からの解放とみる。そして占領政策をへて、日本は民主国家、平和国家へと再生したという歴史観
日米安保体制は、もともと、どうみても力の差がありすぎる。軍事力をもたない国(行使できない国)と軍事大国との同盟というのは奇妙なものです。だから本当のいみでも同盟にならない。同盟ごっこになってしまう
勝ち負けは力の問題であり、時の運であり、状況の問題である。敗北は分かっていても戦わなくてはならぬときはあり、戦うべき時に戦うこと、それ自体に義がある。その義をすてることは卑怯者のすることであり、卑怯者として生き残ることは義について死ぬことより恥ずべきことだ、という観念が日本には伝統的にあります。
諦念と覚悟という道徳 -
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非常に考えさせられる本であった。現代において「自由」という言葉の意味はまさに混迷している。例えば、リベラリズムという言葉も新市場主義から社会福祉主義まで意味するところは様々である。また、自由はどこまで認められるべきか。女子高生による売春も「自由」なのか。他国に「自由」を強制できるのか。
筆者は自由の背後にあるもの=価値観を強調する。そしてその点を無視したところに現代における自由の混迷がある、とする。特に現代では「個人の選択の自由」という局面ー重要な自由の一側面であるにしてもーに矮小化されがちである。結局筆者は、衝突の場面において社会の価値観を自己反省・自己相対化せざるを得ない、として歴史の判断の問題にある意味「丸投げ」している。とはいえ、現代における答えとして、社会としての特定の価値観を示さざるを得ないように思われる。現代的自由には多くの問題・混迷がありつつも、そのような議論をまさしく現代的自由が可能にしていることは忘れてはならない。 -
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佐伯啓思のすごい所は、その簡潔さと分かりやすさだと思う。
階級と権利による政治から、誰もが等しく参加できるようになった政治への移行。
世界が大衆化することによって、失われてしまった価値があると説いている。
マニフェストを掲げなければならなくなるほど、均質になった政党。それらが求めている普遍化された自由や民主主義は、反対に中身のない空虚なものとなってしまう。
社会の方向性に価値を見出せなくなった人間は、今を消費することにばかり目が向いて、長い生を生きるためにせっせとお金を貯めてゆくことで安心する。
本書を読む中で、ふと筆者が言いたいことを先回りして理解した部分がある。
結局、私たちは今を便利に消費するあまり、ニヒリズム的状況に気付いていないのではないか。
どのように生きるかを自分の内に見出すのではなく、自分の外に求める在り方。
均質で、良質なサービスを求め、不当や理不尽に耐えられない顧客のそれと同じである。
こうした手がかりを、ゆっくりゆっくり追っていくことは本当に面白い。 -
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ネタバレ【2015_002】
およそ100年前の京都大学で独自の哲学を探究し、唯一の日本発の哲学を打ち立てた西田幾太郎。その文章の難解さで知られる「西田哲学」を、佐伯啓思がかみ砕いて解説する。といってもじゅうぶんに難しいのだが。
グローバリズムが喧伝されて日本独自の思想など旗色の悪くなってきた今だからこそ、西洋の哲学や倫理を知った上でのローカルな知性を守らなければならない。おそらくそんなつもりで筆者は西田哲学を読み返したのだろう。妻子を次々に亡くし深い悲しみの中で西田は決してニヒリズムに走らず、その虚無の中にこそ日本の精神があると考えた。「情」を持つことこそ日本文化の特性だと考え、その特殊性を守ることの重要さを説いた西田。グローバリズムのひとつの理想は民族や国民国家というものを解体して融合していくことにあると思われるが、本当にそんなことが可能なのか?またそうなった方がいいのか?ということはいちどきちんと議論するべきであり、「好むと好まざるを問わず、時代は既にそう動いているのだから」グローバリズムを推進する、というのは知性的なふるまいではない。いちど立ち止まって考える勇気を持たねばならない。 -
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佐伯啓思を数冊読んできたが、この一冊に様々なエッセンスが詰め込まれているように思う。
英語は手段であるのに、目的化された現代。
京大に勤める彼が、京大が第二の東大を目指した時点で破綻していると言えるのがすごい。
大学や教育が目指しているものは、もはや学問でないという部分から、西田幾多郎の哲学にゆっくりシフトチェンジしてゆく。
西洋の、現在に至るまで進歩し続けてきた価値観とは対比的な場所に、日本のものの見方は存在すると言う。
存在が無くなる、死ぬことを前提とした生の煌めきや愛おしさ。無常観。
それらを放棄することは、真のグローバリズムではないと説く。
世界が繋がり合う時だから、確固たる己を持て。潰されない目を私たちは持っているではないか、と鼓舞する佐伯啓思。かっこいい。
まずは足下を見よ。
何度も言われてきた言葉だが、改めてこの人の捉え方に惚れてしまう。 -
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ネオ・リベラリズムが席巻する中で凋落の憂き目を見ることになったケインズの思想の新たな可能性を取り出し、国民経済に足場を置いて市場主義の幻想を批判することを試みた本です。
ケインズは、金本位制からの脱却を支持しましたが、それはグローバルな貨幣の無制限な流動を認めることではなく、むしろ貨幣に対する人びとの信頼が国家に置かれていることによるものだったと、著者は指摘しています。そして、ケインズの経済理論のさまざまな側面に、国民経済を信用の基礎とする考え方が見られることを明らかにしてきます。
著者の理解するケインズは、アダム・スミスの経済学と対立するものではありません。上巻で論じられたように、アダム・スミスは国民経済に確固とした足場を持つことで、人びとのうちに「徳」が育つと考えており、そうした足場を掘り崩してしまう当時のグローバリズムというべき重商主義に対して厳しい批判をおこないました。
一方ケインズは、もはや土地に根ざした労働によって徳の育成を確保することのできない時代に生を受けました。ただし彼も、その時代の中でグローバリズムの潮流が、国家に対する信頼という私たちの経済と道徳の基礎を押し流してしまうことに気づいており、そうした動向を鋭く批判したのです。こうして著者は、スミスと同様にケインズも、反グローバリズムの立場を取る国民経済主義者だったと論じています。
スミスと同様、ケインズについても著者の理解がどこまで妥当なのか判断することはできないのですが、ケインズのグローバリズム批判の視点が一貫した形で論じられており、説得的に感じました。 -
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経済のグローバル化が叫ばれ、市場がすべての問題を解決するかのような勇ましい言葉が聞かれる現状を横目で睨みながら、市場主義経済学の鼻祖と目されるアダム・スミスが、じつは共同体の価値を重視し、当時のグローバリズムともいうべき重商主義に対して厳しい批判をおこなっていたことを明らかにしようと試みています。
著者はまず、スミスが「自然価格」を「市場価格」として規定していたのではなく、反対に理想的な自由競争のもとでは「市場価格」が「自然価格」に落ち着くはずだとしていることに着目します。その上で、スミスの考える「自然価格」は、土地に根ざした共同体的な価値によって決まるとみなされており、そこに彼の道徳哲学との結節点があるのではないかと著者は主張します。他方でスミスは、土地と労働に根ざした「徳」を離れて、貨幣を富とみなす重商主義に対して批判的だったと述べて、そうしたスミスの批判した重商主義の正嫡が、現在のグローバル市場経済にほかならないと論じています。
著者のスミス解釈がどの程度妥当なものなのか私自身は判断ができませんが、興味深い内容でした。 -
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日本の「正義」を考えると、民主主義とか民意とか、国民の多数が考えて述べることが適当なのかもしれない。その結果、かつての民主党政権やアベノミクスは「正義」となった。しかし、ちょっと考えると民意を唱えるのは国民の多数ではなく、民主党や自民党だ。
木に止まったセミのごとく、ひたすら「ミンイ、ミンイ」と鳴いていれば「民主主義」ができあがる。実は独裁者こそが民意を語り、国民を代表することができる。それが著者の言う「正義の偽装」だ。
こうした欠陥をはらんでいる民主主義ではあるが、現状ではその体制を選択するしかない。それもまた、大きな矛盾。
「正義」とは考えれば考えるほど、ループしてしまうものなのだ。 -
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一度読んだ本を読み直しました。グローバリズムが叫ばれた時の本ですが、今、読んでも、まったく本質論から外れていません。
IT、インターネット環境がより進展した現在の社会経済状況において、ますますグローバリズムの進化が増しています。
それでも、佐伯啓思氏の、社会経済活動に対する深い洞察力からなる分析は、何ら、陳腐さを感じさせないものであります。
原理原則を外さない、論理。
この本においては、アダムスミスが生きていたイギリスを中心としたヨーロッパ社会と南北アメリカ、アジアとの絡みは外せません。
なぜ、イギリスが重商主義に走らなければならなかったのかという因果関係の分析もよく理解できました。
名誉革命以後、イギリス社会の動向もよく分析されています。
自由主義経済の父としたかった勢力が如何に薄っぺらなアダムスミス解釈であったかが、よくわかる一冊でした。
続いて、ケインズの予言を読んでいきます。 -
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「生活の経済」、つまり基礎的な衣食住という必需品への需要が容易に満たされるようになった後には、物の「過剰性」をいかに処理するかが経済の課題となります。
その「過剰性」は、商品に付与された社会的イメージを基礎にして「他人の模倣」という「欲望」を抱いてしまう人間の本性に依ります。そのように生み出された「欲望」から資源の「稀少性」が派生するのであって、稀少だから欲するのではないということです。
社会的イメージによる欲望は必需ではないという意味で本質的に過剰なのであるから、過剰から欲望が生まれ、その欲望から稀少性が生まれるということになります。したがって、過剰こそが根本的現象なのであって、故に稀少のための経済学というよりも過剰のための経済学と言ったほうが本質を突いていることになります。
経済学や経済に対する(もちろん1つの側面であり仮説ではありますが)本質的見方を学べました。 -
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現在の日本の抱える問題を「精神の無脊椎症」と批判し、日本は自らが立つ拠りどころ、揺るぎない考え方を得る必要があると主張する。
現象として批判されるものが「アメリカ化」や「政治のポピュリズム」。
なぜ、そのような状況に陥ったのか、黒船来航から遡り検証する。
ひとつの解として明治維新に植民地化を避け、「一国独立」を志した際の志士たちの精神構造を振り返る。福澤諭吉も登場。
政治家としてあるべき姿を論じる箇所では、現代の政治家であればトニーブレアを思い浮かべた。
以下引用~
・ナオミ・クラインの「ショック・ドクトリン」、、、ショックによって社会を活性化しようというのです。
・最初に政治学という学問を生み出したプラトンがもっとも警戒したのが民主政治だったということは改めて注意しておいてよいことでしょう。政治学は民主政治への警戒から始まったといっても過言ではありません。
・政治とは、私見では、三つの重要な要素をもっています。
第一に、国や社会の長期的なあり方を国民に提示する。そして、そのための方策をある程度実現する。
第二に、緊急事態など何か大きな事態が生じた時に、決定的に重要な決断をする。
そして第三に、今日の民主政治は多様な利害のからみあいですから、多様な利害を調整する。
それぞれ『構想の政治』、『決断の政治』、『調整の政治』といってよいでしょうが、今日の政治家に求められるのはこの三つの能力です。そしてもうひとつ付け加えれば、以上のことを国民に訴え、説得する能力です。
・少なくとも、戦後、われわれが「世界」といった時に「世界」とは何かというと、実は「アメリカ」なのです。「世界標準」とはアメリカの示したルールなのです。
・すでに、「開国」への強力なバイアスがかかってしまうのです。ではそのバイアスを生み出したものは何か。それはいうまでもなく明治の「開国」でしょう。
・「一身独立」しなければ「一国独立」もありえない。そのためには人は「報国心」をもって自分の「国」を引き受け、各人が「おのおのその国人たるの分」を果たすことが肝要だ、というのです。
・福沢がもっともきらったものは安直な便宜主義であり、簡単に「利」につく性癖であり、義を失っても恥じない奴隷根性でした。
(痩我慢) -
Posted by ブクログ
ネタバレ現在の日本を覆う、何となく筋が通らなくて、リーダーも人々も、どこもかしこもブレている感じ。著者はこれらの根本原因を、江戸時代後期まで遡って、西欧列強との立ち位置を巡っての日本人の態度、思想の変遷に見出そうとします。
以下、本書を思い切ってまとめてみます。
列強からの侵略を恐れた日本人は、武力による防衛を目指すが、あまりの実力差にそれが叶わかったため、西洋文明を取り入れて、国としての力をつけることを優先する。しかしいつのまにか「開国」自体が目的化してしまう。やがて力をつけた日本が欧米と衝突するのは歴史的必然であった。戦後は、防衛を米国に委ね、文化や経済のアメリカ流を受け入れ(これも「開国」といわれる)、自由と経済成長を信奉して経済大国となったが、やがて経済戦争ともいえる80年代の経済摩擦を迎えたのも歴史的必然。85年のプラザ合意以降は、米国を助けるための経済政策に勤しむことになってしまった。明治から一環して、自立自助の精神が欠けたままになっており、これが日本人の肝が据わらない原因である。
福沢諭吉や三島由紀夫など、まだまだ面白い話があったのですが、ざっとこんな感じでしょうか。
いわゆる保守派の意見として、これは正論だと思いますし、なるほどと考えさせられるところが多かった。でも、実際に、目の前にある、政治や経済や、もっといえば自分のビジネスの課題に対して、どうやって日本人として自立した矜持を持って対応していくかとなると、現実的にまた別の難しさがある。
こういう思想は、背骨作りのために、吸収し考えなければならないけれど、それだけでは生きていけないんですよね。背骨と小手先。どちらも大事なんだよな、という、ちょっと本書の筋から外れた感想になってしまいますが。