【感想・ネタバレ】経済学の犯罪 稀少性の経済から過剰性の経済へのレビュー

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Posted by ブクログ

いろいろと考え、感じていたことが、昔から経済学でちゃんと扱われてきたことが分かった。そして、私は左派なのだと理解した。
二重の経済という考えがとてもしっくりきた。

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2019年11月03日

Posted by ブクログ

『「希少性の原理」による経済学の発想は、基本的に間違っていることになる。「希少性の原理」とは、繰り返すが次のようなものだ。

無限に膨らむ人間の欲望に対して資源は希少である。したがって、市場競争によって資源配分の効率性を高め、また、技術進歩などによって経済成長を生み出すことが必要となる。
……

が、もしも私がここで述べてきたような「過剰性の原理」が支配しているとすればどうなるか。「過剰性の原理」は次のようにいう。

成熟社会においては、潜在的な生産能力が生み出すものを吸収するだけの欲望が形成されない。それゆえ、この社会では生産能力の過剰性をいかに処理するかが問題となってくる。』

佐伯先生、前読んだ本と同じこと言ってるなと思ったら、3年前にすでに読んでる作品だった…。
読み返してみても、本作は面白いし、言っていることは感覚的にしっくりくる。

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2017年03月22日

Posted by ブクログ

本書で言う「経済学」とは、いわゆる「新古典派」とか「新自由主義」と呼ばれる経済学のことである。そしてその「経済学」は、現代人が当たり前のように受け入れている考え方でもある。
「いや、私は新自由主義経済には反対の立場だ!」と言いたい人もいるだろうが、経済のことを考えるとき、だいたいの人が新自由主義経済学的な思考に則っているんじゃないかと思う。

「新古典派」や「新自由主義」は、数ある経済学諸派の一つであったシカゴ学派が自らの経済学を「教科書化」したために、なし崩し的に「標準化」されたものにすぎない、と著者は警鐘を鳴らしている。

複雑に入り組んだ経済システムを確信犯的に単純化し、数学的に厳密に表現することに経済学者たちが執心した結果、「経済学」は経済の実態とは随分とかけ離れてしまった。しかしそれでも理論だけは独り歩きし、新たな金融商品が開発されては売りさばかれ、グローバリズムによって国外に開かれた市場はマネーゲームに明け暮れる投機的資本家たちに荒らされ、不安定なものとなっていった。金融市場がバブル状態となる一方で、実体経済は低迷し続けた。やがてサブプライムローン問題を発端に、リーマンショックが起こり、世界は大不況に陥った。これらはすべて「経済学の犯罪」である、と。

また、新自由主義経済学は経済の「時間性」(モノとその対価の交換には時差があるということ)を無視しているために、貨幣の起源を正しく捉えることができない。未開社会の「クラ交換」に貨幣の起源を見出し、それが現在の金融市場バブルにつながっていると説明する著者の論考は刺激的だった。

本書を読んでいると、自分がいかに新自由主義経済の思考法に毒されていたかがわかる。

筆者は思考の「大転換」をしきりに求める。もう我々は十分成長した、これ以上の成長が望めないのは当然だ、と。

「大転換」を実現するためには、我々がこれまで歩んできた道がいかに根拠のない、不安定な、間違ったものであったかを素直に自覚できるかどうかにかかっている。

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2013年07月22日

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本著は、混沌とする日本経済の現況に対して、先ずは時代の変換期である認識を与え、その上で日本の在るべき立ち位置を示す。
それをこれまでの経済学、経済思想史を遡りつつ、立証することろに説得力がある。
著者が導き出した解が、自らの問題意識と合致するところも多く頭の整理になる。
グローバリズムなどの普遍的な概念を批判的に考察することが新鮮でもある。

要すれば、身近な生活基盤を確りと確立し、そこに如何に有意義に暮らしていくのか、という原点を軸として持つことの大切さに気付かされた。


以下引用~
・戦後日本は「復興」「高度成長」「アメリカに追いつく」などを価値としてきた。それはもう不可能だし、不必要でもある。いまわれわれが置かれているのは、真に我々の文化や生活に根ざし、歴史に掉さした「日本の価値」をもう一度取り戻すことであろう。さもなければ「善い社会」など構想のしようもないだろう。
・「内向き」とは、国内の生産基盤を安定させ、雇用を確保し、内需を拡大し、資源エネルギー・食糧の自給率を引き上げ、国際的な投機的金融に翻弄されないような金融構造を作ることである。端的にいえば、「ネーション・エコノミー」を強化することにつきるのであって、スミスやケインズの考え方の伝統に立ち戻ることなのである。私には、これこそが本来の意味での「自由経済」だと思われる。

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2013年07月13日

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現在の安倍総理のやろうとしていることがどうなるかを予測しているのかと思わせる内容であった。これを読むとこれからの日本に対して悲観的にならざるを得ない。日本の問題の本質は、「豊かだけれど幸せでない日本人」の節で指摘されているように、豊かさの実感が得られず自信喪失と焦燥に陥っているということに尽きると思う。これを修正していくには外に向けての活動ではなく、国内を固めることから。ホントにその通りだと思う。

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2012年12月26日

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科学としての装いで、市場主義経済学者が政治を巻き込み、とんでもない社会を形作ってしまった現在、単なる経済学だけではなく、文化人類学を含む、多様な先人学者の言説を取り入れ、「脱成長主義」へ向け、現代文明の転換の試みを書いた名作だ。

第五章 アダム・スミスを再考する

第六章 「国力」をめぐる経済学の争い

第七章 ケインズ経済学の真の意味

第八章 「貨幣」という過剰なるもの

は圧巻である。

人間が歴史的に継続してた営為を総合的に分析することの大切さを改めて思い知らされる著作である。

佐伯啓思氏の主張されること終始一貫性があることに敬意を表したい。

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2012年10月16日

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現在の経済学が、いかにしいまの不安定な社会に繋がっているかの本。

現代の先進国に暮らす全ての人に薦めたい。
経済や経済学に対する考え方を大きく揺さぶり、変えるほどの衝撃をもった本。

それとともに、全ての経済学徒に薦めたい。
スミスの経済学は必ずしも現在の市場至上主義の経済の源泉とは言えないなど、経済学の捉え方について、新しい視点をもたらしてくれる。

ここ最近で一番のヒット。

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2012年10月16日

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ネタバレ

TPP加入への議論などを見ていると「新自由主義」「グローバリズム」を掲げる人たちがやたらと威勢がいい。しかし筆者は日本の「失われた20年間」とは「構造改革により金融や労働力の自由化を推進してきたにも関わらず、国民はどんどん貧しくなっていった」時代だと看破します。「グローバリズム」は世界をハッピーにするどころか、本来その恩恵を一番に受けるはずのアメリカ合衆国までもをも貿易赤字や貧困、失業といった苦しみに追いやっているのが事実。EUをはじめ他の国々はいうまでもなく、おしなべて失敗している。皮肉なことに経済的にいちおう成功している中国、ロシアなどは「新自由主義」とは正反対で、国家による統制の比重が大きい経済体制である事に着目すべきです。著者はこの状況になった理由を「経済学を誤って理解していること」であると推論します。私たちはアダム・スミスを読み違え、ケインズを誤解していたのではないか。そういった経済学の歴史の見直しから導かれる「今日の先進国の資本主義経済においてはもはや高度な成長は不可能である。にもかかわらず成長を続けなくては経済は破綻しかねない。」というディレンマを、私たちは解決する必要があるようです。資本主義経済はもう、次の段階に移行すべき時が来たのでしょう。とても理解しやすく、大切な事がわかる一冊です。

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2012年09月28日

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 佐伯先生の本を、初めて読み通した。なぜ景気が良くならないのか。将来の安心のための貯蓄が、結局は投機の資金につながるメカニズムは何か。市場に任せればよいという乱暴な発想が、何に帰結するのか.....。世の中の考え方を方向転換させるということが無理な人にとっても、自分家族の身をどう守るのか、人類が生き残るとしたら、どんな経済システムが必要かということを考える良書だと思う。お手軽なハウツーものの新書と、たいして値段が違わないというのが、うれしいやら、情けないやら。
 しんどいけど、一読お勧め。

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2012年09月17日

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リーマンショックからのEU危機の年代に書かれた本。
主にアダム・スミスとケインズを中心にして、グローバル経済や金融問題について書かれている。

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2015年01月18日

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 「生活の経済」、つまり基礎的な衣食住という必需品への需要が容易に満たされるようになった後には、物の「過剰性」をいかに処理するかが経済の課題となります。
 その「過剰性」は、商品に付与された社会的イメージを基礎にして「他人の模倣」という「欲望」を抱いてしまう人間の本性に依ります。そのように生み出された「欲望」から資源の「稀少性」が派生するのであって、稀少だから欲するのではないということです。
 
 社会的イメージによる欲望は必需ではないという意味で本質的に過剰なのであるから、過剰から欲望が生まれ、その欲望から稀少性が生まれるということになります。したがって、過剰こそが根本的現象なのであって、故に稀少のための経済学というよりも過剰のための経済学と言ったほうが本質を突いていることになります。

経済学や経済に対する(もちろん1つの側面であり仮説ではありますが)本質的見方を学べました。

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2014年02月04日

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タイトルは経済学となっていますが、内容は経済を中心としたグローバリズムや国家に関する全体像が書かれています。特に前半1章〜3章は現代の諸問題の裏にある要因がわかりやすく解説されています(中盤はちょっと難しい面もあり)。市場(大企業)と国家の現状に興味ある人にはお勧めです。

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2013年08月09日

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昔のような高度成長はもはや望めない状況で、将来への選択肢として、「グローバル化や自由競争のレベルを落とし、各国におけるそれぞれの国内経済の安定化制作を可能ならしめること」を提唱している.安倍さんのやろうとしている方向はやや的外れの感がしていたが、著者の考えが妥当だと思った.

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2013年03月24日

Posted by ブクログ

 本書は「経済書」なのだろうか、それとも「経済思想書」なのだろうか。本書を読んで、現在の世界と日本で起きている経済的事象の全体像がより鮮明になったように思えた。
 1990年代からの「失われた20年」については、マスコミでよく語られるが「構造改革」は小泉政権のみではなく、歴代の政権が常に声高に叫んでいた。そう考えれば、日本経済は相当「構造が改革」されているはずなのに一向にその成果が上がっていないと疑問に思っていたが、本書は「デフレに陥っている経済に対して新自由主義政策は明らかにマイナスに作用する。一層にデフレ圧力をかける」と喝破する。なるほど、説得力がある。
 「グローバル資本主義の危機」「変容する資本主義」を読むと、現在の世界の現状がわかったような気もするが、その結論は「先進国においてはもはや無理やり成長を追求できる時代は終わったことを認識すべき」という。
 それが苦い現実であるならば、現在の安倍政権は蜃気楼を追いかけようとしていることになるのだろうか。
 また「経済学」についても多くの章を割いて論考しているが、その論旨は「合理的な科学としての経済学という虚構」である。実に興味深く読んだ。
 その結論の「今日の資本主義のどうにもならないディレンマ・・・今日の先進国の資本主義経済においてはもはや高度な成長は不可能である。にもかかわらず成長を続けなければ経済は破綻しかねない」とは、まさにその通りと頷いた。
 本書は、最終章の「脱成長主義へ向けて」で「日本経済はもはや高い成長は望めない」と断定している。
 そのための意識のパラダイム転換を訴えているのだが、その内容は「経済思想書」のようでもあるが、本当にそうなのだろうか。日本がもう低成長しかできないのならば、「政治」においても「社会」においても相当な変貌を迫られるように思うが。
 本書は、現在と過去の「日本経済」をわかりやすく解き明かした良書であると思うが、それにしても「経済学の犯罪」との「書名」はひどい。この表題からは、本書の内容は全く想像もつかない。もうすこし、内容がよくわかるような「書名」は付けられなかったのだろうかとも思った。

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2013年10月18日

Posted by ブクログ

本書は現代のグローバル化した経済と、それを支持する経済学的思考を批判するものである。筆者の主張は、そのような一辺倒な経済学の視点を改め、本質を見なければならないとするものである。

ワルラスらの限界革命以後、経済学は「希少性」を扱うものと定義されてきた。すなわち、無限に増加する人間の欲望に対して資源の量は決まっているため、その適切な配分を考えるのが経済学なのであった。

このような経済学の原点に対して筆者は、経済学が「過剰性」に支配されていると指摘する。モノが安価で大量に生産される社会である現代においては人間の欲望が大量生産される商品に追いつくことができない。かくて供給の過剰が発生する。また、投資においても将来の見通しが悪い現代においては簡単になされるものではない。通常、貯蓄の余剰分が投資に回されるが、このような状況にあると貨幣の余剰分を処理することができない。そのため、余剰貨幣は再帰的な金融派生商品として経済を駆け巡るのである。こうして、実物経済におけるデフレと金融経済におけるバブルが両立する奇妙な状況がおこる。だが、このとき経済は停滞し所得は上昇しないために国民は自らがほしいものを手にすることができない。こうして、あたかも現代の経済問題を「希少性」が支配しているように思われるのである。しかしながら、前述の通り、現代の経済学的問題は「過剰性」に起因するものなのである。

こうした過剰性に支配された現代の経済システムは、2000年半ばのリーマンショックや2012年のユーロ危機など、重大な経済危機を引き起こす元凶だったと筆者は指摘する。その原因は先に述べた「過剰性」にあるのだが、それは現代だけに当てはまるのではなく、そもそもの古典的な経済学的な考え方に根源的に備わったものであると筆者は指摘する。かくて、その見かたを変えることこそが、経済危機を回避し、未来を創っていくものなのである。具体的に筆者は、「成長主義」から脱した経済路線を志向し、肥大化した知識を効率的に活用するための公共計画や内需の拡大していくことを求めている。

以上のような筆者の主張は、古典的な経済学を「希少性」と「過剰性」という現代に通ずる視点で語っている点では読者に新しい視点を与えてくれるものであろう。しかしながら、結論の部分における「成長主義」から脱した経済路線の定義が曖昧である。本文中で筆者は「経済成長」を否定しているわけではない。国家内に民間企業が存在する場合、彼らは本質的に成長を志向する存在であり、それらがある限り経済成長を否定することができない。また、現時点で経済成長を否定するというのは、未来に対する責任放棄と同義である。この状況に鑑みて、どの程度「成長主義」を改めればよいのかが明確ではない。また、知識を効率的に利用するための公共計画というのは理解できるが、内需を利用するというのは賛同しがたい。そもそも日本は内需によって成長してきた国であるし、国内人口が減少しつつある現代において内需先導の経済政策というのはありえない。極論すれば内需のみに依存することは理論的には可能であろうが、それは筆者のいう「成長主義」を脱するということではなく、そもそも成長を諦めた国家であろう。

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2012年12月26日

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