あらすじ
考えに考え抜き、自分の底を突き破った先にあるものは――。世の不条理、生きる悲しみ、人生のさだめなどを、歩きながら沈思黙考し、「日本人の哲学」を誕生させた西田幾多郎。自分であって自分でなくする「無私」とはどんな思想なのか。その根源にある「無」とは何か。純粋経験、理性と精神、死と生、論理と生命、根本実在……難解な言葉をかみくだき、「西田哲学」の沃野を、稀代の思想家が柔らかな筆致で読み解く至高の論考。
...続きを読む感情タグBEST3
Posted by ブクログ
私は、古今東西の思想家、哲学家の考えを佐伯啓思氏の頭脳でフィルタリングしたものを読むのがお気に入りである。
過去、西田幾多郎の著作は読んだことはない。
難解な西田ワールドを稀代の思想家が関西人特有のユーモアを交え、読み解いている。
西田幾多郎の観念、佐伯啓思の観念、信じるか信じないかはそれぞれの読者の任せるしかない。
私にとっての「善き人」は佐伯啓思という偉大な思想家なのである。
Posted by ブクログ
【2015_002】
およそ100年前の京都大学で独自の哲学を探究し、唯一の日本発の哲学を打ち立てた西田幾太郎。その文章の難解さで知られる「西田哲学」を、佐伯啓思がかみ砕いて解説する。といってもじゅうぶんに難しいのだが。
グローバリズムが喧伝されて日本独自の思想など旗色の悪くなってきた今だからこそ、西洋の哲学や倫理を知った上でのローカルな知性を守らなければならない。おそらくそんなつもりで筆者は西田哲学を読み返したのだろう。妻子を次々に亡くし深い悲しみの中で西田は決してニヒリズムに走らず、その虚無の中にこそ日本の精神があると考えた。「情」を持つことこそ日本文化の特性だと考え、その特殊性を守ることの重要さを説いた西田。グローバリズムのひとつの理想は民族や国民国家というものを解体して融合していくことにあると思われるが、本当にそんなことが可能なのか?またそうなった方がいいのか?ということはいちどきちんと議論するべきであり、「好むと好まざるを問わず、時代は既にそう動いているのだから」グローバリズムを推進する、というのは知性的なふるまいではない。いちど立ち止まって考える勇気を持たねばならない。
Posted by ブクログ
難しいけど面白かった。
本の中で書かれてある所謂『西田中毒』になりそうな
かんじを受けます。ただ、西田本人が言っているという
ことですが、非常に難解な文書だそうで、読めるか
どうかはわかりません。
歎異抄や、仏典・御経など日本の精神・難解な考え方、
究極の屁理屈的な理論は非常に面白いと思います。
色即是空空即是色。人は人であらずして人である。
永遠の今。無常。絶対の無。無私。。。
そういえば、西田幾太郎氏は京都の哲学の道の
由来の人物。
Posted by ブクログ
西田幾多郎の評伝あるいは西田哲学の入門書というよりは、西田幾多郎(西田哲学)を絡めて著者の自論を開陳したエッセーという感じ。著者の独善的な考えに過ぎないのではないかという部分も散見された。特に「第五章 特攻精神と自死について」は読んでいて不快になった。しかし、「於いてある場所」の説明は非常に飲み込みやすかった。
Posted by ブクログ
西田哲学は、無の哲学と呼ばれている。彼の人生上の苦難や悲哀と無関係でない。キリスト教で言う絶対者は、仏教的には本質的には「無」となる。
過去の思い出なくして我というものは、ない
裏と表の社会 天武天皇が「日本書紀」(表)を編線させたときに同時に「古事記」(裏)も同時に編線された。裏である出雲の国譲りがなければヤマト王権による国の統一はなかった。
我々日本人の中に敗北してゆくもの、西郷隆盛・源義経・後醍醐天皇・楠正成など、貶められた者への深い共感をもっている。一方で西洋の「勝つこと」を目指し、他方で時代に取り残された去るものへの愛着が抑えがたくある。
「哲学は悲哀から始まる」自分の経験に発し経験に戻ってくるべきもの
日本文化の核心とは、己を空しくし、無私や無我にたって事物に当たる精神。
「伝統」とは、ただ過去の保守ではなく、今ここでの世界性をもっていなくてはならない。「永遠の今の自己限定として物を創造し行くのが伝統である」
西洋の論理は、「物の論理」で日本の論理は「心の論理」だ。日本の論理は、主体を無化し、無化することで、歴史的現実へ実践的に参与する。日本文化の象徴は皇室である。
Posted by ブクログ
西田幾多郎の哲学入門書というより、それを下敷きにして、これからの大学教育が直面する問題について思考したエッセイという感じ。
なので、このタイトルは、いささか内容とそぐわない。いささか期待はずれ。
途中で読むのをやめた。
国際力教育から大学の自治を守ろう、という意味あいで、西田や小林秀雄やらを引用したかったのだろうが。
まず、この著者のようなただの西洋哲学の解説者でしかない学者たちが、学生に生きる為の哲学を教えなかったせいで、大学の意義が問われていることに向き合ってほしいものだ。