佐伯啓思のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
ネタバレ自分のことを棚に上げて書いてしまうけれども、佐伯さんはずるいと思う。
そう感じてしまう理由として、佐伯さんの評論家的立ち位置である。とりあげるどの問題に対しても、結局最後まで解決策や道筋を示すことなく、それぞれの課題に個別に取り組んでいる政治家や専門家、学者、行政等の振る舞いを批評するスタンスをとっている。
その都度、「その問題を論じること自体が目的ではない」と断りを入れて、「その背景にある○○が問題なのだ」というが、その「○○」に対する解決の道筋も示していないように思われる。
とりあげる諸問題の裏には「日本の無脊椎化」がある、と言っているが、「無脊椎化」がどんな価値観の喪失によるものなのか、またそれを回復することが望ましいのか、新たな時代に新たな価値観が必要とされているのか、イマイチ明確ではない気がする。
だから研究者、というより評論家・批評家との印象である。
「1980年代論」の中で、戦後日本が戦争で亡くなられた方々の上に築かれてきたものである、との認識に伴う「疾しさ」の感覚が失われていることを嘆いているが、これが「無脊椎化」でいうところの価値観の喪失なのか?であれば、それが現代の諸現象にどうつながっているのか、もっと解き明かしてほしい。(個人的には、戦後に生まれた世代として「疾しさ」と言われていも今一つ、ピンとこないものもあるが…)
もう一つ気になるのが「開国という強迫観念」の中で西洋的な知と日本的な知を対比させている割には、「日本的な知」についてが曖昧で、「なんとなく」「イメージ的」な議論になっている印象がぬぐえないところである。読んでいて、じゃあ佐伯さんのいう評価されない、下等とみなされている「日本的なもの」って何なのか?それは本当にいま評価されていないのか?下等・劣等とみなされているのか?そもそも「誰に」そうみなされているのか?
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さてと、上までの内容とは別の視点での感想。
この本の中で一番印象に残ったのは第9章の「1980年代論」、この中に紹介されている記述にハッとさせられた。
三島由紀夫や吉田満の文章を引いて、戦後日本が陥ったお金や快適さを求める自己中心主義がもたらした社会の退廃を指摘している。この現象への危機感は右・左関係ないものだったんだ、という気づきにびっくりした。その背景や解釈はことなるかもしれないけど、この危機感は共通しているものだったのだ、ということが新鮮だった。 -
Posted by ブクログ
本書は現代のグローバル化した経済と、それを支持する経済学的思考を批判するものである。筆者の主張は、そのような一辺倒な経済学の視点を改め、本質を見なければならないとするものである。
ワルラスらの限界革命以後、経済学は「希少性」を扱うものと定義されてきた。すなわち、無限に増加する人間の欲望に対して資源の量は決まっているため、その適切な配分を考えるのが経済学なのであった。
このような経済学の原点に対して筆者は、経済学が「過剰性」に支配されていると指摘する。モノが安価で大量に生産される社会である現代においては人間の欲望が大量生産される商品に追いつくことができない。かくて供給の過剰が発生する。また、投資においても将来の見通しが悪い現代においては簡単になされるものではない。通常、貯蓄の余剰分が投資に回されるが、このような状況にあると貨幣の余剰分を処理することができない。そのため、余剰貨幣は再帰的な金融派生商品として経済を駆け巡るのである。こうして、実物経済におけるデフレと金融経済におけるバブルが両立する奇妙な状況がおこる。だが、このとき経済は停滞し所得は上昇しないために国民は自らがほしいものを手にすることができない。こうして、あたかも現代の経済問題を「希少性」が支配しているように思われるのである。しかしながら、前述の通り、現代の経済学的問題は「過剰性」に起因するものなのである。
こうした過剰性に支配された現代の経済システムは、2000年半ばのリーマンショックや2012年のユーロ危機など、重大な経済危機を引き起こす元凶だったと筆者は指摘する。その原因は先に述べた「過剰性」にあるのだが、それは現代だけに当てはまるのではなく、そもそもの古典的な経済学的な考え方に根源的に備わったものであると筆者は指摘する。かくて、その見かたを変えることこそが、経済危機を回避し、未来を創っていくものなのである。具体的に筆者は、「成長主義」から脱した経済路線を志向し、肥大化した知識を効率的に活用するための公共計画や内需の拡大していくことを求めている。
以上のような筆者の主張は、古典的な経済学を「希少性」と「過剰性」という現代に通ずる視点で語っている点では読者に新しい視点を与えてくれるものであろう。しかしながら、結論の部分における「成長主義」から脱した経済路線の定義が曖昧である。本文中で筆者は「経済成長」を否定しているわけではない。国家内に民間企業が存在する場合、彼らは本質的に成長を志向する存在であり、それらがある限り経済成長を否定することができない。また、現時点で経済成長を否定するというのは、未来に対する責任放棄と同義である。この状況に鑑みて、どの程度「成長主義」を改めればよいのかが明確ではない。また、知識を効率的に利用するための公共計画というのは理解できるが、内需を利用するというのは賛同しがたい。そもそも日本は内需によって成長してきた国であるし、国内人口が減少しつつある現代において内需先導の経済政策というのはありえない。極論すれば内需のみに依存することは理論的には可能であろうが、それは筆者のいう「成長主義」を脱するということではなく、そもそも成長を諦めた国家であろう。 -
Posted by ブクログ
タイトルからは分かりにくいけど、本当の「保守」とは何かを主張する本。国が豊かになり、自由や民主主義が過剰に浸透した結果としてニヒリズムが蔓延してしまった現代社会に対する処方箋が、いわゆる「保守」思想であるという。著者は、単なる進歩主義として自由や民主主義を追いかけるのではなく、地域における伝統や慣習を活用して社会秩序を継続していくことが「保守」の基本的な考え方だと主張している。全体的に専門用語が多くて、政治学の基礎を知らないと論旨をきちんと捉えることが難しいのだが、タイトルは刺激的で面白いし、実際、自由や民主主義が日本でうまく機能しているようには思えないので、提起された問題は的を得ていると思う。
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Posted by ブクログ
著者は最近「反幸福論」などで話題を集めているが、基本的に氏の戦後民主主義に対する疑念・懸念に同じような考えを持っている。
もともとはヨーロッパからの言葉を訳した「市民」が日本においては欧州と異なる定義・意味で使われている。一般に日本では市民は「自由・平等を求め国家からの束縛・義務を回避する民」を意味している。
結局のところ端的に言えば、市民を強調する日本人は反抗期にある中学生のようなものなのである。保護され、教育され、囲われる立場にありながらしだいにカミソリのような脆い自我の目覚めを保護者との作用‥反作用によって確認していくものである。何故民主主義を明治期に導入しながら、戦後になって遅まきながら反抗期を迎えることになったのかについての考察は長くなるので後日したい。 -
Posted by ブクログ
人は幸福にならなければならないという脅迫観念に異議を唱える。功利主義・権利主義・公共主義から無縁社会を論じ、家族論、宗教論、技術論、政治論を説く。読んでいて、疑問を感じざるを得ないところが多い。この感じ方の差に世代間を感じざるを得ない。
世の人が「利益」「権利」による幸福を目指しているかというと、そうではないと思う。
「利益」「権利」に縛られない幸福というのが、最近流行の「絆(俺はこの言い方嫌いだけど)」であり、社会のつながりを認識することで幸福を感じる人も多いと思う。社会的起業、ボランティア、などなど。
「利益」「権利」にとらわれた前の世代の反動が今の世代なのではないか。世代間の価値観の違いについては島田裕巳「人はひとりで死ぬ」に詳しい。これが一番しっくりくる。