マーガレット・ミッチェルのレビュー一覧
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ネタバレスカーレットとメラニー。対称的な二人の女性の強さが強烈に描かれた巻だった。
スカーレットは食えない、という強烈な負の経験から、金を稼ぐことに執着し始める。「・・・もう二度とひもじい思いはしない。〈タラ〉の皆も飢えさせはしない。-ものを盗み、人を殺めることになろうと-神に誓って、もう決してひもじい思いはしない。」何というすさまじい意志か。彼女はどんなことをしても、家族を食わせていく決心をする。この誓いの後の彼女の行動はすさまじい。家に侵入してきたヤンキーを撃ち殺し、死体を隠して金品を奪う。金を援助してもらうために、バトラーを誘惑する。企てが失敗するや否や、ターゲットを妹の婚約者に変更し、まんまと結婚までこじつける。このなりふり構ない強かさ。彼女の強さをだいぶわかってきた。
一方、メラニーも不可解なほどの強さを見せる。スカーレットがヤンキーを撃ち殺したとみるや、彼女を誇りに思い、てきぱきと死体の処理をしはじめる。ヤンキーの残党がタラに火をつけたとき、家に残って火を消そうとしていたスカーレットを単身救助する。外見上の彼女の弱弱しさといいざという時の強さ。この差が不可解なほど大きい。彼女のこの芯の強さはいったい何なのだろうか。だんだん彼女が恐ろしくなってきた。 -
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ネタバレスカーレットの青春時代の終わり。わがままなお嬢様ではもういられない。戦争により自分を守ってくれる者たちがみんないなくなり、自分の肩に家族の命運が重くのしかかってきた。母が亡くなり、アシュリも生死不明、父はショックで呆け、レットも戦場に行ってしまった。
かつて自分に求愛してきた男たちもみんないなくなった。アシュリから頼まれた義妹メラニーとその子供、息子のウェイド、父と妹たち。スカーレットはその小さな肩にこれだけの人の命運を背負うことになった。
なんて気丈で強い娘だろうか。迫りくる戦火に恐れおののきながらも決して逃げずに、妻のメラニーを頼むというアシュリからの約束を守り抜いた。憎んでいたはずのメラニーを守り、出産まで助け、彼女とその赤子を必死にタラまで連れて帰ってくる。この強さは、義理堅さはどこから来るのか。彼女の体に流れるアイルランド人の血、そしてアシュリとの約束(呪縛)によるものなのだろうか。
第2巻のクライマックス、アトランタからタラへの脱出のシーケンスは本当に圧巻だった。彼女が感じた恐怖、絶望、焦燥が自分も感じているかのように胸に迫り、思わず息をするのも忘れ、苦しくなった。このシーンの描写、翻訳が素晴らしい。 -
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長編小説を読み始める直前の、あの期待のこもった緊張感が好きだ。これから数か月、この本が描く世界とともに生活していくのだと思うと、まるで長い旅に出る前夜の眠れない気の高ぶりに似たわくわく感が胸を満たす。
登場人物の来歴、信条、性格、容姿などが細かく描写されている作品はすべからく名作である——これが私の持論だが、本作はその条件を完璧に満たしていた。そして『風と共に去りぬ』第1巻を読み終えた今、やはりそれは間違っていなかったと確信した。
主人公のスカーレット・ハラは、笑ってしまうほどわがままで高慢ちきだ。最初は「大丈夫か、この子は」と呆れながら読んでいたのだが、物語が進むにつれてその印象は一変する。
彼女のわがままさは、決してブレることのない一本の太い芯に基づいている。だからこそ、次第に強烈な魅力として映り始める。特に第1巻の終盤、未亡人となった彼女が世間の冷たい目を跳ね返し、バトラー船長からのダンスの誘いを引き受けるシーンの爽快感たるや。「あっぱれ」と膝を打ちたくなる名場面であった。
本作を通して当時のアメリカの情勢を知るのも面白い。「ヤンキー」という言葉が、アメリカ人全体ではなく「北部人」を指す言葉だったとは恥ずかしながら知らなかった。
一方で、疑問に思う点もあった。「自由の国」というイメージに反して、当時の南部社会には息が詰まるほどの強固なジェンダーステレオタイプが存在していたことだ。女性は自然体など論外で、か弱く、男性に守られるべき「淑女」であることが絶対に求められた。
歴史の浅い新興国であり、既存の社会規範に不服な人々が移り住んでできたはずのアメリカ(南部)で、なぜこれほど人間を縛るステレオタイプが形成されたのか。
これは、南部独特の事情によるものではないか。広大な綿花農園と奴隷制の上に成り立つ南部白人社会は、ヨーロッパの「貴族社会や騎士道精神」への強烈な憧れを抱いていたのではないか。自分たちの社会規範の正当性を示し、奴隷制という階層秩序を維持するためには、「強い男性と守られる女性」という明確な役割分担が必要不可欠だったのだろうと思われる。あくまで自分の想像なので、このことについて調べてみたい。
スカーレットが壊していく南部の「淑女規範」だが、その完成形として描かれるのがメラニー・ハミルトンである。
最初は大人しく、弱弱しい印象を受けるメラニーだが、彼女はスカーレットとは全く異なるベクトルで芯の強い女性であった。それが最もよく表れているのが、戦争のために自身の「結婚指輪」を寄付するシーンだ。
スカーレットが愛してもいない亡夫の指輪を「鬱陶しいから」と処分したのに対し、メラニーは最愛の夫アシュリとの大切な絆である指輪を、迷うことなく即座に差し出した。他者への無償の愛と絶対的な信頼。そこから生まれる彼女の自己犠牲と決断力は、ときに刃物のような強さを発揮する。
人間の偽善を見破る天才であるバトラー船長(レット)が、古い南部の気取りを嫌いながらもメラニーにだけは最初から深い敬意を払っていたのは、彼がメラニーの行動に一切の「嘘」がないことを見抜いていたからだろう。
エゴイズムと野性的な生命力で突き進むスカーレット。 無私の精神と高潔な信念で周りを包み込むメラニー。真逆の強さを持ったこの2人が、これから南北戦争という巨大な時代の渦の中でどう生き抜いていくのか。第2巻を読むのが楽しみだ。 -
購入済み
最高
映画で観たタラやアトランタの風景を思い浮かべながら読んだ。スカーレットだけでなく、全ての登場人物と南部という土地について、その魅力・欠点・醜さ・崇高さを生き生きと描き出している
マーガレット・ミッチェルはこれ一作しか書いていないというのが残念
他の小説も読んでみたかった -
購入済み
映画のイメージが
マーガレット・ミッチェルの原作の素晴らしは全く言うまでもないが、映画の方を先に見てしまったのでビビアン・リーとクラーク・ゲーブルのイメージがどうしても先入観を与えてしまう。それにしても「強い女」の代表とも言えるヒロインだが、幸せとはやや別物のように思える。
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レットが娘のボニーを溺愛し、甘やかしすぎてわがままになってしまったのは、スカーレットがレットと結婚した後もなお、アシュレーへの未練が残っていることが筒抜けだったことが原因であると思う。
最終巻である本書は、スカーレットがレットとの過去を懐かしむ描写、「今までレットは自分を愛していなかったと思っていたが、実は愛していたのでは?」と思う瞬間、盲目的に肯定していたアシュレーへの不満が募るシーンが目立つ。
また、スカーレットはここに来てようやくメラニーの大切さに気づくのが、グッとくる。メラニーが「もしかしたらスカーレットとアシュレーの関係性、気持ちに気づいていながら優しくしてくれていたら」と妄想してみるのも楽しい。ただ、スカーレットがメラニーの大切さに気づくのがあまりにも遅すぎた。
『風と共に去りぬ』の続編が望まれていた理由は最後のレットとの別れのシーンにある。スカーレットはレットを取り戻せると信じていて、一方レットはスカーレットへの愛が完全に枯れてしまっている。その後の2人のストーリーが気になるからであろう。
私個人の意見としては、レットとスカーレットは再び結ばれることはないと思っている。
風と共に去ってしまったのは、一体なんなのか。南北戦争によって去ったのは旧南部文化。アシュリーへの幻想。レットそのもの。 -
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アシュリーへの好感度が巻数を重ねるごとに下がっていく。そもそもメラニーと結婚した時、スカーレットが完全に諦めてくれるようにスカーレットを完全に拒むべきだったし、そうでなければスカーレットと結婚すべきだった。そして何より、メラニーほど優しい妻はいないのだから、メラニーを溺愛し、スカーレットを拒絶することだってできたはず。過去に囚われ前に進めないくせに男のプライドも完全に捨てられない、なよなよした性格に苛立ってしまう。そしてこのアシュリーに対する苛立ちはまた、レットの発言によってより強固にさせられるのである。
もちろんスカーレットもアシュリーが自分のせいで苦しんでいるということになぜ気がつかないのか。なぜ自分から身を引かないのか、というのもあるのだが..
レットがいつでも正論を言い、常にスカーレットを含め全ての南部人の見解を上回る観察力で行動していることが、レットの言動のせいで気づかれておらず、然るべき賞賛を集められていないことにももどかしさを感じる。レットは言動が不適切なだけで、最初からずっと正しいことだけを言っている。
レットと結婚し、共和党の人たち(ヤンキー勢)とも仲良くしようとしているスカーレットにメラニーが考えの違いを初めて爆発させて吐露するシーンがかなり印象的である。嗚呼、スカーレットがチャールズと結婚してしまったばかりにメラニーが不幸になってしまうのが嘆かわしい。
レットと結婚してからのスカーレットの方が何百倍も魅力的に見える。 -
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ようやく戦争が終わり、待ち焦がれたアシュリーが遂に帰ってきた。しかし、アシュリーは以前のアシュリーではなく、「この世の美しさを傍観する平和な人」だったのだが、今や「戦争を通じて世の中の醜い部分に身を投じざるを得なかったことで、自分も醜い世界に組み込まれてしまった」ことに苦しむ人となってしまった。
現代でも起こっている、戦争神経症のようなものなのかもしれないが、とりわけアシュリーの悩みは違うベクトルで複雑な気がする。
訳者解説にあった、女性の社会的地位の変化の話を見て思い出したのは、『赤毛のアン』にも確か数学が得意な女の子が登場していたということだ。スカーレットは読書が嫌いだが、数学は得意だったとある。これはそれまでの典型的な女性像とは異なる。また、スカーレットは母の教えを守ろうとしながらも、根っこには当時の女性らしからぬ新鮮な考えを持ち合わせていたという点が、新しい女性の登場の萌芽のようなものを感じさせる。
『赤毛のアン』の時代は1900年頃だと思うのだが、ちょうどこれは南北戦争後に女性の社会的地位に変化が見られ、新しい女性像の象徴として「数学(理系分野)が得意な女」が見てとれる。
話を物語の内容に戻すと、レットからタラ農園を守るための金を貰うため、あたかもレットに気がある振りをしたものの、レットに見破られ、ひどく惨めな気持ちになったスカーレット。直後に会った妹スエレンの婚約者フランクを自分のものにするため、スエレンが他の人と婚約したと嘘をつく場面にゾッとした。
そして、レットがケネディ夫人となったスカーレットに会いに来て、アシュリーの存在がスカーレットの重荷になっていると口論するシーンも印象的である。レットがスカーレットを手に入れたいと思いつつも、アシュリーを忘れられずにいる(自分で自分の心を理解できていない)彼女にイライラもしているという不満が感じられた。
スカーレットが性格の違うアシュリーを好きになってしまったこと、レットが素敵な男であるにもかかわらず、周囲に理解されないほど正確に難ありという点がまさに不幸である。 -
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前巻に引き続き、後書きや注釈が良い。マミーを固有名詞と捉えて読んでいたが、偶然黒人乳母の名前がマミーであったのではなく、普通名詞をあたかも固有名詞のように、「もの」のように扱っている当時の黒人に対する向き合い方が滲み出ていることに気づけなかった。アマルガメーションについてあえて触れていないのは、物語の本筋ではなかったからなのか、触れたくなかったからなのかはわからない。
レット・バトラーが南部の人々を常に馬鹿にしたような振る舞いは、既に南北戦争の結末を知っている我々にとっては単にムカつく男だとは捉えにくい。むしろ、先見の明があるという魅力を感じてしまうので、彼を無意識に高く評価してしまう。
スカーレットは、メラニーを頭の悪いお人好しみたいな風にとらえ、冷たく接するが、メラニーを嫌いになれる読者がどれくらいいるのかシンプルに気になる。『虚栄の市』のアミーリアのようだと言ってどれくらいの人に伝わるのかわからないが、私はこのタイプの登場人物に弱い。