辻原登のレビュー一覧
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昭和50年代の和歌山。
1人のコケティッシュな女がいる。
この女に群がる3人の男がいる。
1人は不動産屋。1人はヤクザ。1人は町役場の出納室長。
時代はバブル期を目前にし、国際空港の建設に沸く。山口組分裂に伴う、いわゆる「山一抗争」で血みどろの戦いが展開されていた頃でもある。
女は元々、長崎の浦上出身である。流れ流れて和歌山に来た。
女はまず、不動産屋と結婚し、一女をもうける。元々ホステスだった女は、不動産屋が悪行で手にした大金を元手に、自身の小さなバーを持つ。ここに客として訪れたヤクザが女に横恋慕し、不動産屋から彼女を奪い取る。バーの客に役場の出納室長がいることを知ったヤクザは、女を唆して既婚者の出納室長を誘惑させ、これをネタに大金をせしめようとする。
いずれも善人とは言えない女1人に男3人、彼らのもつれた関係の顛末やいかに。
暴力団の抗争に、不動産詐欺、公金横領、そして完全犯罪の計画。犯罪のオンパレードである。昭和のある種の熱狂の中で、あるいはこんなことも本当にあったものか。たまたま見つけた著者インタビューによれば、作中の事件のいくつかには、まったくそのままではないものの、モデルとなった出来事がある。
著者は歴史上の出来事を背景に、時代を駆け抜ける、あるいは時代に翻弄される、男女の欲望のドラマを描いてみせる。
女は、チェホフの「かわいい女」にも譬えられるような、その時々に関係する男に強く影響される女である。とは言いながら、どこか芯の強さもあり、したたかさを秘めてもいる。
そしてまた女はニンフォマニア的な面も持つ。彼女が出納室長に宛てて書く「ラブレター」というのが凄まじすぎて閉口した。欲望を赤裸々に書き綴ったもので、こんな手紙をもらったら、うれしいよりぎょっとすると思うのだが(とはいえこれも著者インタビューによれば実際こうした手紙を書く「マニア」のような人はいるのだそうである)。
まぁこのあたりはともかくとして、一番解せなかったのは、不動産屋と女の間の娘がまだ幼稚園児で、父親が引き取っている点だ。いくら自由が効く仕事とはいえ、小さい子の面倒を誰が日々見ているのか。幼稚園児となればお弁当の日や何かもあるだろうに。
人物像には、ところどころ、共感できない部分もあるのだが、とはいいつつも、女に誘惑されそうになる出納室長がふと女の腕が棒のように伸びてきたと思うシーンや、正体を隠している人物が「さ」行の特徴的な発音で不動産屋に気付かれる場面など、ディテールの書き込みが作品に厚みを生む。
映画や音楽、関西各所の土地柄、文学作品の一節も取り込むあたりもうまい。
貧乏くじを引かされて身を隠しているヤクザ者が唱える説経節「をぐり」の一節、袋小路に突き当たった出納室長が夢見る補陀落浄土。
人間はいつだって愚かで、でもいつだってどこか愛おしい。
タイトルは高峰三枝子の戦前のヒット曲、『南の花嫁さん』の一節から。南国の美しい花嫁の嫁入り風景だ。
「おみやげはなあに」
「籠のオウム」
言葉もたったひとつ
いついつまでも
動画を探して聴いてみた。明るく甘やかで異国情緒がほのかに漂い、透明でどこかしら哀しい。
「籠の鸚鵡」は誰だったのだろう。あるいはそれは手に入りそうで入らない、「青い鳥」だったのだろうか。 -
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人生には時折、予測不能な出来事がある。出会い頭の事故のような「不意撃ち」が、時として、人生の流れを大きく変えていく。そんな短編集。
「渡鹿野」。デリヘル嬢のルミと、送迎ドライバーの左巴。顔見知りではあるが、店の決まりで特に話をしたこともなかった2人は、仕事中に遭遇したある事件がきっかけで連絡先を交換する。2人は徐々に、互いの過去や将来の夢を語り合うようになる。やがてルミは姿を消すが、しばらくして、お伊勢さん近くの島にいるとメールが来る。
渡鹿野はかつて売春島として知られた地である。
流れ流される男と女、風に舞って消える儚い縁。
「仮面」。神戸に住む甲斐。かつて、神戸の震災の際にボランティア活動をし、NPO法人を立ち上げた。だが時を経て、資金繰りに追われるようになっていた。そこに東日本大震災が起こる。ともに運営に当たっていたかすみ、そして2人のボランティアを連れ、東北へ向かうことになる。追い詰められていたかすみには、1つの企みがあった。それに薄々気づきながらも、かすみに押し切られる形で、甲斐は被災地へと赴く。
因果応報と言えばその通りだが、甲斐らの旅を締めくくるのは鮮烈で皮肉な幕引きである。
「いかなる因果にて」。主人公は作家である。以前、彼の目に留まった事件に、「元厚生事務次官自宅連続襲撃事件」があった。元厚生省事務次官の自宅が襲撃され、家族を含めて2人が死亡、1人が重傷を負うという事件である。犯人は子供の頃、飼っていた犬が誤って野犬狩りで殺されたことを恨んでいた。その管轄が厚生省だったと誤解した(実際には環境省)ことから起こした事件で、いわば何の責任もない職員が殺傷された形である。これとは少々異なるが主人公にも昔、「何の因果で」と思うような経験があった。正確にはそれは同級生に起きたことであったのだが。
あるものが見れば、そこに確かに「因果」はあるのだが、他人からすればまったく関係がわからないような出来事がときにはある。波一つない水面下での事件をじっと見つめる作家の目。
「Delusion」。大学病院の精神科を1人の女性が訪れる。宇宙飛行士の猿渡由紀子である。由紀子は宇宙でのミッションを終え、地球に帰還していた。実は彼女は宇宙から戻って以来、「予知能力」のような不思議な力を持つようになってしまったのだと言う。
舞台を近未来に設定した少々SFめいた作品。アイディアはそれなりにおもしろいのかもしれないが、個人的には、作品としてあまり成功しているようには思えない。
「月も隈なきは」。奥本さんは出版社を定年退職した初老の男性。特に大きな問題もなく勤め上げ、妻との夫婦仲も良好である。妻はカルチャーセンターの講師を務める傍らボランティアに精を出し、娘もNPO法人で生き生きと働いている。奥本さんは将棋や山歩きにいそしみ、悠々自適の年金生活だが、彼には1つ、秘めた願いがあった。
「花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは」(徒然草・下・第百三十七段)。
果たして、欠けることのないことは本当に「幸せ」なのだろうか。人生にはどこかで「運命の不意打ち」を食らうことがあるのではないだろうか。
どこか現実味のない不安に駆られる男。そんな彼が「らしくない」行動に打って出るのだが。
結局は妻と娘の方が上手であったというような、幾分ユーモラスな味わいもある。本書中では最も後味がよいように思う。
現実の事件や、映画、文学作品が時折クロスオーバーする。いわば「借景」のように時代背景や作品世界も取り込んでいるところがこの著者の魅力の1つであるのかもしれない。 -
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ずいぶん以前に読んで好きだった『遊動亭円木』の辻原さんを久しぶりに読んでみようかと。
ただ、私にとって辻原さんは当たり外れの大きな作家さん。で、これは「やや、外れ」という印象です。
合本と言うのでしょうか、中編『抱擁』と短編集『この世でいちばん冴えたやりかた』(旧題『約束よ』)が1冊にまとめられた文庫本です。どちらも”この世ならぬ”という雰囲気と匂い立つようなエロティシズムがあり、また、文章的にも流石と思わせるのですが、ストーリーが私に合わないのでしょうね。
ちなみに『抱擁』はヘンリー・ジェームスの『ぬじの回転』のパスティーシュ作品。二・二六事件を背景に侯爵邸の小間使いと5歳の令嬢・緑子の異様な事件を描いたものですが、何せ本家の『ぬじの回転』を未読なもので、どうパスティーシュされているのか判りません。
『この世でいちばん冴えたやりかた』には『遊動亭円木』のサイドストーリが3作と、若き日に中国貿易に携わった辻原さんの経験を生かした、ちょっと中島敦を思わせる(ずっとエロティックですが)中国の奇譚3作が収録されています。 -
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著者の本は小説以外では書評「熱い読書 冷たい読書」「熊野でプルーストを読む」は読んだ。
本書は、小説とは何かという講義を元にしたもの。
まずゴーゴリと二葉亭四迷を語る講義。
四迷に関しては関川夏央「二葉亭四迷の明治四十一年」を思い返した。「あひびき」の引用があり、国木田独歩の「武蔵野」への影響もより納得させられた。近代が風景をその心境を映す対象として発見したという言説は、橋本治「江戸にフランス革命を」にもあった。
ドン・キホーテ
子供の頃に読んだが、風車に挑んでいくクダリしか記憶がない。グレアム・グリーン、矢作俊彦のパスティーシュは読んだので、原作もそんなものだろうと思っていた。いや~、これは面白い。最初キホーテを止めていたサンチョ・パンサもキホーテの狂気に引きづり込まれるとか、続篇では登場人物達はキホーテの前作の物語の読者で、キホーテとの邂逅を喜びつつ、からかって合わせているうち、やはり同じように狂気に囚われていくとか、贋作の印刷にキホーテが立ち会う等々。
騎士物語の否定は神話の否定に繋がり、近代小説の誕生を齎したという論考。
ボヴァリー夫人。
タイトルしか知らなかった。この分析も堪らなく面白い。
白痴
高校生の頃に読んだが、ムイシュキンの無垢さとロゴージンの周囲をも悲劇を齎す黒い情熱が印象に残っている。そんなに恐ろしい話だったか。再読しなきゃいけないな。
ポストモダンに対し批判的な論考もあり、暗喩の持つ力に対し、慎重であれとも説く。若き文学の徒に対し様々考えさせる内容。
パスティーシュの題材にあったスティーヴンスンの南洋での晩年を描いた中島敦の「光と風と夢」は大学の頃読んでいたが完読していない。読み返そうかな。
読書について、色々考えさせられる内容。読みたくなった本がまた増えたな。 -
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辻原さんの本だからと買ったけど正月に読む本じゃなかったな。
大災害や周囲の狂気や欲望に躓き、転落し続ける主人公。主人公に不幸を齎した人間や主人公と同じく不幸だった人間の人生も語られる。
毎日の新聞やテレビのニュースで知るように、こうした不幸は世に溢れている。僕はどうにか人並みの生活を送っているが、例えば職を失ったら、家庭が失われたら、どうなるだろう。街でホームレスの人を見ると、ふと、そんなことを思うこともある。
違う終幕を予想していたんだが。
求めても仏に遭えない世なのだろうか。
救いのない話だった。辻原さんのペンの力に怖気てしまった。 -
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太平洋戦争末期にボルネオで姿を消した民族学者の三上隆を四度にも渡り、捜索する友人達。三上が追い求めていたのは矮人族。友人達は三上を捜し出す事が出来るのか。
ジョセフ・コンラッドの『闇の奥』に着想を得た作品という事なのだが、ジャングルに消えた三上隆はクルツというより南方熊楠のような人物に映った。この作品もコンラッドの『闇の奥』と同様、ジャングルを舞台に虚構と現実が混沌とした世界が展開して行くのだが、コンラッド『闇の奥』のような重苦しい暗さは感じない。コンラッドが描いた『闇の奥』ではクルツの心の闇にまで迫っており、善と悪の境が解らなくなるような妖しい雰囲気が展開するのだが、この作品では登場人物の誰の心の底も見えなかった。
数十年前にフランシス・フォード・コッポラの傑作映画『地獄の黙示録』を観て、虚構と現実の混沌とした難解な雰囲気にのめり込み、五回も映画館に足を運んだ。『地獄の黙示録』の原作がジョセフ・コンラッドの『闇の奥』と知り、最初はかなり苦戦しながら原書を読み、次には岩波文庫の翻訳版も読んでみた。この作品はテイストは似ているものの、コンラッドの『闇の奥』には遠く及ばない。 -
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ネタバレ戦争に反対していた「毒取る」槇は、脚気に苦しむ兵士を助けるべく医者として戦地に赴く。
そこには、脚気について誤った主張・治療をしなければならず苦悩する森林太郎(森鴎外)がいた。
森宮に帰国後、槇はもとの生活にもどるが、
そこでは社会主義運動が広がり始め、怪しげな空気に包まれていた。
槇は、はからずもその騒動に巻き込まれてしまう。
上巻を読み終えた後、本書の題材である「大逆事件」について少し調べてみました。
槇のモデルとなった医師は、大逆事件で無実の罪で処刑されています。
だからきっと、「この物語も悲しい結末をむかえるんだ」と身構えて読んでいました。
しかし、最後まで読んでいくと、槇は想い交わしていた永野夫人と結ばれます。
二人で海外に移住します。
ハッピーエンドなのです。
「永野夫人」という存在は創作なので、この時点で史実とは一致しないのですが、
槇のモデルとなった大石誠之助が悲しいおわりを迎えているというのに、
こんな幸せな結末って、アリなのでしょうか。
史実を題材にした物語なのに、こんな真逆な終わり方なんて・・・。
もっと鳥子署長がイヤな感じで槇にからんでくると思ったのに、あっさり身をひいたしな。
納得がいきません。
「大逆事件」のこと、あまり調べないで読めば、
もっと違う感想をもっていたかもしれません。