めちゃくちゃ面白かった。鋭い見解のオンパレード。全部面白くて感想をうまく書けそうにない。
「これまでも『移民文学』とか『クレオール文学』というような言葉はよく聞いたが、『エクソフォニー』はもっと広い意味で、母語の外に出た状態一般をさす。外国語で書くのは移民だけとは限らないし、彼らの言葉がクレオール語であるとは限らない。世界はもっと複雑になっている。」
そうなのだ。ここでわたしはグレゴリー・ケズナジャットのことを思った。あと今読んでいるルーマニア人が日本語で書いた本のことも。
確実にそういう書き手が増えている。多和田葉子さん自身もドイツ語で創作する人だし、この本のあとがきを書いているリービ英雄さんもそういう書き手の先駆者的存在なのだそうだけど、わたしは読んだことがない。
p10~11、のっけから引き込まれたなぁ。その通りだと思う。
外国語で創作するうえで難しいのは、言葉そのものよりも、偏見と戦うことだろう。外国語とのつきあいは、「上手」「下手」という基準で計るものだと思っている人がドイツにも日本にもたくさんいる。日本語で芸術表現している人間に対して、「日本語がとてもお上手ですね」などと言うのは、ゴッホに向かって「ひまわりの描き方がとてもお上手ですね」と言うようなものでとても変なのだが、まじめな顔をしてそういうことを言う人が結構いる。創作者が外国人だと、急に、「上手」「下手」という基準で見てしまうらしい。
日本人が外国語と接する時には特にその言語を自分にとってどういう意味を持つものにしていきたいのかを考えないで勉強していることが多いように思う。すると、上手い、下手だけが問題になってしまう。そうなってしまう歴史的背景もあるだろう。特に英語やフランス語など西洋の言語は、日本社会の内部での階級差別の道具として使われてきた。英語が下手だと入試に落ちて一流大学に行けないというだけのことではない。もっと漠然とした「階級意識」の演出に外国語が使われることが今でもある。
(略)
しかし、誰が上手で誰が下手かということが確実に言えるということは、それを決定する権威が自分たちではなく、どこか「外部の上の方」にあるということである。その権威は日本で抽象化された「西洋人」の偶像であり、その権威が、自分の言葉が「上手」かどうかを決めてくれる、という発想である。それは家元制度的な発想というよりは、むしろ植民地的な発想だと言えるだろう。なぜなら、家元制度では師匠は組織の内部の人間だし、抽象化された偶像ではなく一応血の通ったひとりの人間だからだ。抽象化された「西洋人」を権威機関として崇めるということは、具体的な西洋出身の個人を無視するということにもなる。実際に生きている生身の西洋人は、トルコ系ドイツ人、日系アメリカ人など色々な人たちから成り立っているが、そういう多様性があっては、「西洋」が差別の機械として機能しないので、生身の西洋人は無視し、自分の頭に思い描いている「西洋人」像を保持するというような状況が、ごく最近まで日本にあったような気がする。
以下はアパレル業界から転職してきた同僚のことが思い出された。景品orおみやげのことを「ノベルティ」とか言う彼女。
p72
カタカナで入ってくる言葉で一番多いのは、商品名と、それを飾り立てる形容詞で、中身の分からない外来物をありがたがる消費者の愚かさに付け込んで新製品を売るために外来語を入れているとしか思えない。「ズボン」など、せっかく長年疲れてきて、「ずぼら」や「すっぽん」と似た古風な響きが面白くなりかけてきた単語を、勝手に「パンツ」などと呼び変えてしまう。デパートの洋品売り場がそういう言葉を使うのは勝手だが、やがて小説の中でもそう書かないとおかしいということになってくる。デパートの方針になぜ小説家が従わなければならないのか。
p90
文字を書くということは、いつも耳から入ってきている言葉をなんとなく繋ぎ合わせて繰り返すことの逆で、言語の可能性とぎりぎりまで向かい合うということだ。(略)
だから自分がこれだと思うドイツ語のリズムを探して文章を作り、それを朗読するときには、いわゆる自然そうな日常ドイツ語からは離れる。(略)ドイツ語として聞いていて大変聞き取りやすいとはよく言われるが、それでもどこか「普通」ではない。それはまず何より、わたしという個体がこの多言語世界で吸収してきた音の集積である。ここでなまりや癖をなくそうとすることには意味がない。むしろ、現代では、複数の言語がお互いに変形を強いながら共存している場所であり、その共存と歪みそのものを無くそうとすることには意味がない。むしろ、なまりそのものの結果を追求していくことが文学創造にとって意味を持ちはじめるかもしれない。
p193
日本でドイツ語を勉強している人にも、ドイツ語で日記をつけることを勧めたい。文法、スペル、その他、いろいろ間違いを犯すかもしれないが、そういうことは取り敢えずあまり気にしないで、書きたいことをなるべく楽しんで書く。面白いのは、日本語では恥ずかしくて書かなかったかもしれないようなことを平気で書けることもあるということである。そうやって、毎日書いているうちに、綴られた文章の連なりが織物のようなもう一人の自分を生み出していくかもしれない、外国語を学ぶということは、新しい自分を作ること、未知の自分を発見することである。
読みたい本
野村進「脳を知りたい!」