関口英子のレビュー一覧
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物理学の入門を理解したというよりも、これが物理学の入門なのかということが分かった。難しい。でも面白い。
読み終わってから2週間もたってからレビューを書こうとすると、かなり忘れてしまっていることに気付く。
とりあえず付箋を付けた部分。
・ニュートンが定義した「空間」と、重力を帯びている「重力場」が実は同じもの(P.22)
・素粒子の振る舞いや性質は量子力学によって記述されている。動く層の素励起である。波動が消えたり現れたりしている。(よく分からん)(P.65)
・量子力学と素粒子実験によって、この世界は物質が不安定な状態で常に揺らいでいることが分かってきた。(P.67)
・星は崩壊して自らの重みで押しつぶされブラックホールになるると、さらに沈み込んでいき、量子的な波動から生じた圧力と釣り合って、「プランク粒子」と呼ばれる仮想の状態になる。プランク粒子は反動で跳ね返り爆発する。ブラックホールの中と外では時間の流れる速さが違うので、外から見たブラックホールは、反動による爆発を超スローモーションで見ていることになる。(P.87〜P.90)
・熱が熱いものから冷たいものにしか移動しないのは、熱い分子のほうが運動するスピードが速いため、冷たい分子よりもエネルギーを与える可能性が統計的に高いから。(P.100)
・引用「物語を創作することと、何かを突きとめるための手掛かりを追うこと、これら二つの異なる人間の営みの混同は、現代文化の一部に根強く残る、科学に対する無理解と警戒心の源ともいえます。(P.125) -
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古代ローマ人の24時間---よみがえる帝都ローマの民衆生活
(和書)2011年04月06日 19:53
アルベルト・アンジェラ 河出書房新社 2010年7月21日
柄谷行人さんの朝日新聞の書評をみて読むことにしました。
どういう社会なのか知ることができて現在の自分自身の存在すら批判ができる。ただそこにアナーキズムというか革命というか絶えずある対抗運動みたいなものは全くかかれていない。原始キリスト教のようなものとか様々あるとおもうけど、そういうものは処刑されるとか奴隷にされるとか兎に角ひどい目に遭う。そういう趣旨の本じゃないからいいけど、逆にそういう部分の姿勢が読者自身に喚起される様な気もする。
読み応えのある本でした。損はないと思う。 -
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ネタバレ小説というよりは、寓話集。というか昔話集、と言いたい趣きすらある。
というのもマックス・リューティの所謂「昔話3回」の方程式があるからだ。
またカフカに比されるのは作者としても不本意だろうが、しかたない、と「変身」および短編数作しか読んでいない者でも感じざるをえないくらい、カフカチック。
というか同じグラデーションに安部公房も星新一も筒井康隆もいて、その源流を仮に想定するならカフカと言わざる得ないくらい、カフカのすそ野が広いせい、なのだろう。
寓話的な短篇の中にあって、やはり個人的な好みは、比較的長めの小説的な数作だ。
「コロンブレ」「神を見た犬」はまだ寓意強めだが、「七階」「護送大隊襲撃」「小さな暴君」「戦艦《死(トート)》」は極私的短編アンソロジーに入れたいくらい、短編小説の見本として輝いている。
というより、そのエグさ・涙腺刺激度数は他に類を見ない。
このへんにこの作家の良さを見出してみたい、そして今後「タタール人の砂漠」を読もう。
■天地創造……天使がデザイナーという視点は面白いね。
■コロンブレ★……近づいたら死ぬと言われた海に、むしろ憧れてしまう。そして老いてから相対する、これも死そのものだ。最後はひどく皮肉。
■アインシュタインとの約束……地獄の大悪魔たちの望みなのだ」……早く原爆を造れ、という人類史的悲劇の暗示?
■戦の歌……人物も群衆も匿名の、山尾悠子が好みそうな。
■七階★……これは凄まじく怖い! 役場のたらい回し的なもどかしさを飛び越えて、もはや死と老いそのものを描いている。この窓のブラインドのSEは「悪魔のいけにえ」の鉄扉の音かもしれないくらいだ。
■聖人たち……聖人が死後「納められる」という発想は一般的なのだろうか? 独特なオトボケ感。
■グランドホテルの廊下……コントだね。関係ないけど、全裸でビジホのドアから出てしまったときの、酔い醒める瞬間よ。S県のアパホテルにて。
■神を見た犬★……ディストピアを描くのはだいたいSFというジャンルだが、この作品は相互監視という現実にある集団心理を、SFに頼らず描く。なおかつディストピア、ニアリーイコール、ユートピアなのだ、という視点は保持されているのである。ユニークに皮肉を描いており、面白い。
■風船……すべてを見通せるかわりに、とある感覚を失っている、という設定は、まるで「ベルリン・天使の詩」のようだ。その設定を引き破るかのような悲鳴の、強烈さ。
■護送大隊襲撃★……頑固一徹親父の幻覚に過ぎぬのかと思いきや、幻想が現実を食い破ってくる! 浪花節と言えば言い方は悪いが、そのギリギリ手前のリリシズムおよびダンディズムがある、かと思いきや、なんというラストの軽やかさよ。とても映像的な幻想文学。イーストウッドに任せたい。
■呪われた背広……星新一ブラック味120%。源流はたぶんカフカなんだろうけれども。
■一九八〇年の教訓……「神を見た犬」の同工異曲。
■秘密兵器……星新一よりは筒井康隆の味か。
■小さな暴君★……これは怖い! 単純な癇癪ではなく、ひと呼吸おいて、大人の持つそれぞれへの悪意を観察しているところが。サイコパスと一言で言って片づけることは、この作品ではできない。家族の持つ歪みを、敏感に吸収して歪んでしまう少年の歪みを、歪みをそれでも取り繕おうとしていた大人のうちで「綻び」になってしまった祖父が、暴いてしまう。暴かれた姿はもはや大人の手に負えない、もとは大人が熟成してきたものなのにもかかわらず。実写にするなら「危険な遊び」のころのマコーレー・カルキンくんだね。
■天国からの脱落……本作では「ベルリン天使の詩」だけでなく、「かぐや姫の物語」をも彷彿。
■わずらわしい男……この作家の描く神や天使や聖人はひどく人間的に辟易している。
■病院というところ……この作者で病院といえばもはや「七階」だが、迫り方の角度は結構違う作品。
■驕らぬ心……サキやオスカー・ワイルドの短編にもありそうな、皮肉と温かみの綯い交ぜ。
■クリスマスの物語……他人に不寛容を示した瞬間に、その場にいた神が消えてしまう、という描き方が面白い。あったかい気持ちこそが神なんだよ、と言い出せば神学的に話がずれてしまうかもしれないが、ブッツアーティは厳密な一神教という感じはしないね。
■マジシャン……作家ならではの寓話。
■戦艦《死(トート)》★……「護送大隊襲撃」と同工異曲だが、本のレビューという枠物語がある。とはいえ安穏としたレビューではなく、結論はない。世界へ開かれている。投下された爆弾を、読者が受けざるを得ない作りになっている。(漱石「こころ」の第4部があえて書かれなかったように)
■この世の終わり……忽然と現れるのはモノリスだったり、ばかうけ(小説「あなたの人生の物語」=映画「メッセージ」の)だったりするが、本作では割と凡庸に握りこぶしなんだな、と連想。 -
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・食事のさい、料理のくずは皿のなかではんく床にすてる
・平均的な家庭で大体10人くらいの奴隷がいた
・家の内装 壁や床の装飾は豪華。反対に家具や調度品は隠していた
・夫婦は別々に寝ることが優雅とされる
・毎朝 神棚にお供えものをしてお香をたいて神に祈る
・ファッション
トゥニカ:実用的。大きいTシャツみたいなもの
トゥーガ:正装。スーツみたいな。裕福な人は外出するときはこれ。ローマ市民のみ許可。
・靴下はない。外用の靴は帰宅すると脱ぐことが作法。うち履きのサンダルに履き替える。
・公衆浴場にいくのは昼過ぎくらい。
・朝食を一番食べる。昼は質素。
・食後は歯磨き。歯磨き粉は重曹か尿
・現代の国会議事堂。モンテチトーリオ宮殿のオベリスク 日時計。もしくは水時計。
・洗濯屋(ふっ炉にか)
尿で洗う
・インスラ:集合住宅
6~7階建て。法律で上限が決まっている(16~21メートル)
土地がないので違法建築だらけ
上階にいくほど家賃が安く貧乏人が暮らす。上階は水がでないので不衛生。料理に使った水を再利用するためトイレと台所が隣にあった
上階:貧乏人。1階に間仕切りで複数の家族が暮らしている。プライバシーはない。
中階:公務員とか
1~2階:裕福な人
・食事は日常生活ではテーブルに座って食べる。がだいに寝そべって食べるのは宴のときだけ。
・水の運び屋:奴隷の中でも最下層の仕事
・ローマは巨大なキャンプ場。ローマ全体で1軒の家
・平均労働時間は6時間くらい
・神殿でお香をたく理由
神殿を消毒する。神殿におまいりに来る人の大半が大病を抱えている。
・ローマ人の大半は小学校(青空教室)で読み書き計算を学ぶだけで働き始める
12歳以上は私立学校に通う。文系がメイン。理系は重視されない
・教師の給料は安い。副業で代筆屋。今でもインドなどで路上で代筆屋をしている人は多い。
・古代ローマは必ず右手で文字を書かないといけない
・文章は1人でも必ず声に出して読む。黙読は修道院で他の修道士の祈りの邪魔をしないために生まれた。
・街中に文字があふれていたため、識字率は高い。
・指の形で数字を表現できる。片手で百まで、両手で1万まで表現できる。
・動物を売買するさいには、公衆の面前で行う。
・平均寿命
男;41
女:29 出産は命がけ
・ローマ人は墓碑に生きた年数を刻んだ
・奴隷商人はうそばかり。
・逃亡奴隷には額に焼印”F”
・奴隷は首に首輪
・奴隷の解放制度はローマ社会の活力になっていた。社会が絶え間なく改善されていくから
・奴隷には現代のペット的な権利しかない。
・奴隷=家電製品 だから結構数が多い。古代でありながら、高度な社会が成立する理由
・ローマの巫女
・キケロ
論戦の戦術
同情をそそる、楽しませる、説き伏せる
・法廷ではさくらが使われることもめずらしくなかった。
・ローマで子供がうまれると父親が運命を決める。
抱き上げれば、一家に迎える。捨てることも自由
赤ちゃんポストあり。
父親であることを示す証としては、メダルを割ったものが一般てき
・コロッセオでは何十万人~何百万人の人間が死んだ
・剣闘士
養成所が全国にある。教官の存在。鬼軍曹
訓練は非常に厳しい
奴隷が多いが、志願するものも
生き残るものもいた。引退する剣闘士には悪夢が終わったことを示す質素な木の剣が贈られた
試合中に降参すると主催者に慈悲をこう。生死は主催者が決める
実際はあまり死ななかった。育てるのが大変だから。死なせたら主催者が賠償金を払う。
・トマト、チーズはない。ピザ、パスタはない。
・娼婦は髪を青かオレンジに染める。薄着。
裕福な女性は厚着。 -
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タイム・スリップしたのは西暦115年。場所はトラヤヌス帝の治世の古代
ローマ帝国である。周辺の蛮族との闘いに次々と勝利し、繁栄真っ只中
のローマ帝国で、庶民はどんな生活を送っていたのかを記したのが本書。
言ってみれば架空の紀行文なのだが、発掘された遺跡や古文書、美術
品から綿密に当時の衣食住を描いている。
日の出前から日没後、ローマの街が眠りにつくまで。ローマのあちこち
を覗きながら話が進む。
面白いです。男性、女性、それぞれの身支度の様子。人で溢れかえる
ローマの街角の描写。奴隷を現代の電化製品に置き換えてみたら…
なんて、妙に納得。
富裕階級と貧困階級の住宅事情の相違なんて、ほとんど現代と同じ。
更新時に家賃が払えないと追い出されちゃうのだもの。
そして、最大の娯楽であるコロッセウムでの催しの数々。公開処刑
から剣闘士の闘いまで、1日中、びっしりとスケジュールが埋まって
たのね。
古代ローマの富裕層の男性が着用していたトーガの着方が載っている。
これはやってみない手はないでしょう。と、言う訳でやってみました。
本当は6mの布でやるのだけれど、そんな長い布はないのでカーテン
で代用。でも、我が家には奴隷はいない。生憎と旦那も留守。ひとりで
ああだこうだとやってみたが、実際のところ、上手には着られません
でした。
それでも「むふふ。ティベリウス帝もこうやって着てたのか」とひとりで
ニヤニヤしながら家の中を歩き回る。裾を踏んで、何度も転びそうに
なったけど。
おまけに、ローマ人の晩餐を真似てみる。左腕を支えにしてソファに
寝そべって、夕飯を食べる。ああ、なんてお行儀の悪い。いやいや、
今日の私はローマ人。これでいいのだ。
でも、ソファに食べこぼしをしそうで緊張した。しかも、ローマ人のよう
に床に食べ残しを捨てられないし。
こっそりローマ人になれる1冊だった。 -
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「詰め物をしたナス、辛味のペペロナータ(パプリカの炒め煮)、土鍋で煮込んだインゲン豆にソラ豆にヒヨコ豆、ラザーニャか、ヤギや仔ヒツジのミートソースで味付けした手打ちパスタ、シーラ山地特産のアニスで風味をつけたリコッタチーズ入りラヴィオリ。そして、お祖母ちゃんの自慢料理もあった。ポテトとズッキーニを添えたムール貝、カボチャの花のフライ、そしてカブの芽のオレッキエッテ(耳たぶの形をした小さなパスタ)」
イタリアを描いた小説らしく、料理の名前がこれでもか、というくらい次々出てくるので参った。こういうのをフード・テロというのか。特に大好きなトリッパ(牛の胃)まで登場すると俄然食べたくなって困った。いつでも食べられるというものではないのだ。主な舞台になっているのはカラブリア。長靴にたとえられることの多い半島の爪先にあたる部分である。
「イオニア海とティレニア海、二つの海に挟まれた丘のうえに、蹄鉄のような形でちょこんと乗ってい」るロッカルバという村に、その昔アレクサンドル・デュマも訪れたことのある《いちじくの館》という旅館があった。火事に遭って、今では恐竜の門歯が虫歯になったような壁が残っているだけだが、館の主と同じ名前をもつジョルジョ・ベッルーシは、いつかは旅館を再建するという強い意志を持っていた。
物語の中心人物は、燃え盛るように気性の激しいことから炎のベッルと綽名されるジョルジョ・ベッルーシ。語り手であるフロリアンというハンブルク生まれの少年の祖父にあたる。少年の母ロザンナは若い頃、父の旧友で有名な写真家ハンス・ホイマンに会うため、ハンブルクを訪れ、息子のクラウスに出会う。クラウスは、何年も経ってから映画『ゴッドファーザー』を見て、アル・パチーノが結ばれる褐色の肌の娘にかつてのロザンナを思い出し、二千五百八十一キロの道をひたすら飛ばして、結婚を申し込みに来る。ロマンティックな話だ。
今はハンブルクに住むフロリアンたちは、長い夏休みを過ごすため南イタリアにある母の故郷を訪れる。はじめは、蠅の多さや熱風にうんざりするフロリアンだが、女友だちも出来て次第になじむ。そんな時、祖父が逮捕されるという事件が起きる。肉屋を営んでいた祖父のところに、みかじめ料を要求する男が現れたのだ。きっぱり拒否すると、その後家の戸に火をつけられたり、羊や犬が殺されたりという嫌がらせが続いた。祖父は再度訪れた男を犬や羊がされたのと同じように殺して鉤にぶら下げたのだった。
祖父が監獄にいることは少年の耳には入っていなかったが、薄々は感じていた。写真家の祖父は弟が生まれたときに一度立ち寄ったきりで世界中を飛び回るのに忙しかった。殺人者と薄情者の血を受け継いだことを憎んでいたフロリアンだったが、ある年のクリスマス、ロッカルバの教会の前の篝火に照らされた髭面の男に祖父の帰還を知る。帰ってきた祖父は、早速《いちじくの館》再建に取り組むが、旅館が姿を現し始めた矢先、ダイナマイトによって爆破されてしまう。
工事資金は、自分の店や祖母の土地まで抵当に入れて作ったものだった。もう一度初めからやり直すための資金はどこにもなかった。ギムナジウムを卒業し、進学か就職かを決める前に一年の留保を得たフロリアンは、祖父の夢を実現するために旅館建築の手伝いを始める。祖父の家には、デュマが《いちじくの館》を訪れた時に忘れていった書巻が大事にしまわれていた。その書巻を携えてフロリアンはスイスに飛ぶ。父方の祖父に借金の相談に出向いたのだ。
フロリアンの貢献もあって、見事に完成した《新・いちじくの館》。完成披露パーティの後、祖父は旅館の鍵束を孫に手渡すとその足で旅に出る。行く先々から孫に送られる絵葉書には祖父たちの笑顔が見えるようだ。輝く太陽と紺碧の海。相好を崩した二人の祖父がかつてともに旅した思い出の地を巡る旅程の背後には、しかし、影のようにつき纏う者の姿が。『ゴッドファーザー』についての言及は、周到な作者の目配せだった。
一つの家系の核となる建築が、諸国を往来する人々の憩いの場となり、盗賊の集会場となる。それが原因で火事に遭い、長く放置された末にやっと再建されるかと思ったら爆破される。《いちじくの館》にまつわる逸話と家族の物語が、時を超えて結び合わされる。季節が変わるたびに咲く花、祖母の作る料理の数々、性を知りはじめた少年の悶々とした思い、熱風がよどむ南イタリアの夏の炎暑の日々。精緻で華麗な自然描写のなかに、傲慢と思えるほど、自分の意思を貫こうとする男たちの気概に満ちた生き方が点綴され、何とも言えない詩情を漂わせる。美しい自然と人間の過酷な生の相剋に圧倒された。 -
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カルヴィーノの作品は邦訳あるものは殆ど全部読んでたつもりだった。もしかしてカルヴィーノのファンと言っていいかもしれない。幾つかのものは再読すらしているから。「くもの巣の小道」は自分の楽しみのために、「冬の夜一人の旅人が」は若い友人に勧めるために。
しかしこれは未読だった。半世紀以上も馬齢を重ねていれば大概の小説とインド映画の筋は忘れてしまうのだが、児童向小説は比較的記憶から抜け落ちることがない。そしてこの「マルコヴァウドさんの四季」は児童向小説なのである。
子供のために書かれたからと言って、決して楽しい小説ではない。主人公のマルコヴァルドさんはトリーノを思わす工業都市に暮らす労働者だが、かれと4人の家族が惹き起こす騒動に語り手は決して同情的ではない。かれらの愚行に対する冷ややかな距離感が、全篇に独自のペーソスを行き渡らせている。
面白いのは、マルコヴァルド一家の愚行が、ほとんどの場合食べ物に対する欲望によって惹き起こされていることである。飢餓がかれらを愚行に走らせているのではない。かれらはそれなりには満ち足りているのだが、終始美味いものへの欲求があり、それが虚栄心を刺激してやまないのである。
この作品は20の短篇から成っており、5つごとに春夏秋冬に振り分けられているが、それらが厳密に時系列上に並んでいるわけではない。たぶんこの区分は上記のような「美食への渇望」を導入するために設けられたものであろう。
しかしこの小説では美食が事細かに描写されるわけではない。欲望の対象となる「美味いもの」は漠然とフンギのフリッターとかチェルヴェッラとか(チェルヴェッラというのは豚のセルヴェッソから作った腸詰めのこと)ウサギのローストとか書かれているだけである。マルコヴァルド一家がこれらにありつくことは決してないからである。
カルヴィーノには左翼的傾向があるからこの中に資本主義批判を読み取る者があっても無理ないことに違いない。しかし食いしん坊の間では消費への欲求は容易に美食への渇望へと置換される。カルヴィーノもまた自らの(胃の)中に同様の変換装置を共有していたのであろう。だからこそこれらの物語はかほども悲しいのである。同じ胃の持ち主である私にはそれがよく分かる。