井上靖のレビュー一覧
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ネタバレ闘牛」は、井上靖の第二作目の作品である。処女作は『猟銃』で、芥川賞の候補には、この二作とも選はれていた。が、第二十二回の芥川賞は『聞牛」に決定している。
新聞社内部の実話をもとに
『聞牛』は、新聞社内部を描いたモデル小説だと言われている。モデルとなったのは、新大阪新聞が行った闘牛大会である。作品では伏せ字にしたり名社を変えてはいるが、阪神球場というのは、西ノ宮球場。B新聞というのは、井上賭がいた毎日新聞社であり、大阪新夕刊というのが、新大阪新聞のことである。生人公津上は、新大阪新聞の小谷正一氏のことであるが、そこまで現実と重複(だぶ)らせては、ノンフイクション物になってしまう。この小説は、あくまで、 『闘牛大会』という背景を借りた、恋愛小説として勝むべきである。
同じ新大阪新聞社の創立当時を扱った小説に『夕刊流星号」があり、作者の足立巻一も社員であった。内部から見たエピソードのひとつとして書かれている「闘牛大会」の部分を合わせ読むと、さらに興味深い。
終賭直後の生きる手懸りを”賭ける”
編集局長である主人公は、たえず行動に駆り立てられながらも、行動の裏側には孤独とニヒリズムの影がまといつている。彼は、W市て年三回開かれる闘牛大会では、観衆の殆ど全部が牛の競技に賭けていると闘き、それだけで、社運を賭した闘牛大会をやろうと決める。
『賭ける、これはいけると津上は思う。阪神の都会で行っても、W市と同じようにそこに集まる観衆のすべては賭けるだろう。終戦後の日本人にとっては生きる手懸かりといえば、まあこ人なところかも知れないと、津上は思う』
彼は闘牛大会の実現に奔走する。久しぶりに会いに来た恋人のさき子さえ、じゃまあつかいに冷たくする。闘牛大会の初日、二日目と雨が降り、興行的には失敗する。が、津上は無感動に、競技を進行させている。これをみていたさき子は言う。
『あなたは初めから何も賭けてはいないのよ、賭けれるような人ではないわ』
しかし、反対に津上から、君はどう?と聞かれて、『もちろん、私も賭けてるわ』と 答える。実際さき子は賭けたのだ。いまリングの真中で行われている二匹の牛の闘争に 賭けたのだ。赤い牛が勝つたら津上と別れてしまおうと…。
終戦直後に書かれた作品でありなが、今読んでも、不思議と古さを感じさせない。
さき子の自立した生き方などは、現在そのものである。津上の生き方は、験争を深く体験した日木人の姿であり、五木寛之の作品に出てくる男の姿に似ているように思うのは、私だけだろうが。 -
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琵琶湖で娘のみはるを失った架山。しかし、遺体は7年経った今も、まだあがらないままである――。
『名短編、ここにあり』に井上靖の「考える人」が収録されていて、それがとてもよかったので、今回長編も手に取ってみた。
本書では、娘を亡くした父親が主人公である。
娘の死という題材を扱っていながら、井上靖の筆は哀しみに寄りかからず、かといって虚勢も張らない。
私は、死は乗り越えるものでもなければ、受け入れるものでもないと思う。変な言い方だが、死というものは、馴染んでいくものではないかと思うときがある。
架山はみはるのことを考えるうちに、次第に彼女がまるで自分の愛人であったかのような気持ちになっていく。
しかし、そんな架山の想像も、不思議と痛ましくない。娘のみはるは、永遠に17歳の、清らかで、汚れなき愛人なのだ。
架山が作中でこんな発言をしていたのが印象的だった。「娘を愛人にしたら、もうだめだ。ほかの女を愛人に出来なくなる」。
遺体の揚がらない娘の死。どうにもはっきりしないその事実にも、年月が少しずつ少しずつ、架山の心に降り積もってゆく。
愛しさの形は変わっていく。
みはるとの数々の対話の中で、彼女はこういう発言をしている(実際は架山の考えた、みはるの発言なのだが)。
「だって、お父さん、いいじゃありませんか。人間って、幸福になるために生まれてきたんじゃないでしょう。わたしだってそう、お父さんだってそう、二人のお母さんだってそう、光っちゃんだって、みんな、そうよ」。
人は幸福になるために生まれてきたのではない。文字だけだと、なんと希望のない台詞だと思うけれど、この言葉は娘の死をずっと胸に秘めた架山の真摯なひとつの答えである。
救いとはなんだろう。安らぐとはどういうことだろう。
架山は琵琶湖湖畔の十一面観音を拝んだり、ヒマラヤへ月を見に行ったりするけれど、それはあくまで彼がみはると自分との関係に契機が起こることを期待した、ただの行為である。
そこで見たものはと訊ねられれば、観音像だとか月だとかと答えるだろうが、実際にはそこにあった人々の救いへの、信仰へのあり方を見たのだと思う。
この小説で一番感動したのは、実は、ヒマラヤの場面でも最後の湖に並ぶ十一面観音の景観でもなく、架山が人々に十一面観音を見せてもらっているときの、その地元の人々の観音様への愛情だった。
その像を守り続けるうちに、守る側が自然と像を尊び慈しむ気持ちを、ただただ美しいと感じた。 -
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『姨捨』『胡桃林』『グウドル氏の手套』『湖の中の川』『大洗の月』『孤猿』『蘆』『川の話』『湖上の兎』『俘囚』『花粉』『四つの面』の短編12編を収録。
「棄老伝説を持つ姨捨山のイメージを作品の中心に据えて、著者の一族のなかに世襲の血として流れる<出家遁世の志>とでもいうべき現実離脱の心を探った表題作。
ほかに、男まさりで狷介なひとりの女性の孤独な生涯を鮮やかに浮かび上がらせた『湖上の兎』、
川に寄せる著者の愛着がにじみ出た『川の話』、
あるいは自伝的要素の強い『グウドル氏の手套』『蘆』など、多彩な短編全12編。」(作品紹介より)
『姨捨』は遁世の志や厭世観という言葉がぴったり。筆者やその母、妹らもそうだけれど、「本当に一人きりだけになって、一切の煩わしいことから離れ、心から、どこかの山奥へ棄てられたい」と思ったことのある人は多いんじゃないかしら。どこか共感できる感じがしました。険しい斜面を超えた姨捨山から見る月は、美しくて、孤独だけれど、一切のしがらみを断ち切った潔さが感じられそう。
『胡桃林』は、結局他人しか頼れる者のいなくなった孤独な老婆が、唯一最愛の孫を自殺で亡くした後に車の窓硝子に顔を押し付けて泣く様子が印象的。
『グウドル氏の手套』は、曾祖父の妾であったお婆さんの、神聖な記憶の記念碑。
『湖の中の川』は、自分の偽物に会う旅というのが面白かったです。
『大洗の月』は、坂本紫水と斎藤紫水の紫水ちがいだったけれど、滅びの予感を感じさせる作家と月が良いです。
『湖上の兎』は、隣の病室で亡くなった見知らぬ女性の、烈しさと哀しさの入り混じった生涯を聞き伝えで記したもの。
『俘囚』は、様々な噂の後、アフリカの富豪の後妻となって異国へ旅立った同級生をめぐる出来事と複雑な想いを描いた作品。大豪邸に住み豪華な宝石を身につけて現れた彼女は、陽気にはしゃいだかと思うと部屋でヒステリーを起こしたり。彼女が不幸だとも幸福だとも必ずしも言い切れないけれど、何かの「俘囚(とりこ)」になっている、でも一体何の俘囚になっているかは誰にも正確には判らない…というのが印象的でした。