山折哲雄のレビュー一覧
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延命治療の自粛、緩和医療やホスピスケアの充実、推進に理解を示すようになってはきた。しかし安楽死そのものの核心に手を突っ込むことはしなかった。医学はそもそも人間を生かすためにこそ存在する。死ぬことに手を貸すことなどもっての外、の一点張りを通してきたからだ。人間における「死の現場」、あるいは「死に逝く場所」に立ち入ることを禁ずる思想であり、哲学であると言っていいだろう。人が病室で死ねば、医師は首を垂れ、言葉少なく静かに病室を去っていく。その最期のときが近づいたとき、病床の遺体から去っていく。そこはもはやお医者さんの立ち入る場所ではなくなっているからだ。あと一歩、あと半歩前に進めば、そこにはまだ「死
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山折哲雄が監修してるのに笑った。
専門家なのか?彼は?
この人選、どーなの?
でも、それだけに、むしろ客観的に説明されているのかもしれない。
23
263代教皇
ヨハネ・パウロ1世 1978年
が
在位33日間で不審死、との記述があるし
バチカン銀行のマネーロンダリング事件のことまで書いてある。
14歳に、伝える内容か?
教会寄付金を管理するバチカン銀行を使って、イタリアの政財界や、アメリカのマフィアなどの不正な裏金を、表経済で使える資金にする、マネーロンダリング犯罪が発生。
その中心だったアンブロシアーノ銀行が破綻し、その頭取がロンドンで変死した。
アンブロシアーノ銀行 頭取ロ -
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宗教民族学者である著者が、能について比較的自由にさまざまな思索を展開している本です。
雑誌『観世』(檜書店)に連載されたエッセイなどをまとめたもので、各記事は独立して読めるようになっており、本書を通じてひとつのテーマを論じたものではありません。そのなかで個人的に興味深く読んだのは、能を通して生と死についての考察を展開している箇所でした。著者は、和辻哲郎が『日本藝術史研究』のなかで、能における「物まね」の本意は、「らしさ」の否定であると述べていることに注目し、「これを換言すれば、能は生体を死体に近づけることによって究極の美的超越を志向するものだといっていることになるのだろう」といいます。
さ -
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日本図書センターのキャラクターシリーズの絵を描いているいとうみつるの絵は、個人的には好きでないのだが、地獄をリアルに描くと子どものトラウマになってしまうのでこれくらいコミカルでふざけた感じがちょうどいいのかもしれない。
絵本『地獄』がちょっと前に流行ったが、あれは地獄絵図に文章をつけただけだったので日本の仏教における地獄がどういうものなのか具体的にわかるものではなかった。あれを見て、もっとちゃんと知りたいという子どもがいても子どもに読めるような本はなかったから、これはその点で評価できる。
私も知らないことがたくさんあり、勉強になった。生きている間悪いことをしないようにするため考え出された地獄な -
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上野千鶴子さんの鋭いツッコミに対し、山折哲雄さんがタジタジになりながらも吸収していく展開が読んでいて楽しかった。
「ひとり」の概念すら両者では異なり、本文中では互いの考えをぶつけ合うが、最終的に、超現実主義の上野さんが、最終的に死の五段階説を発表したキューブラ・ロスの私を引き合いに、混乱の中で死んでいったこともアリと思えるようになったと結ぶところに、このvsのノーサイドをみた。
私は上野さんの考え方が清々しく好みだ。
「野垂れ死にを希望するのは男だけ」という話、言われてみれば確かにそうかも。
結局、男の弱さからくる現実逃避思考から生まれた妄想が野垂れ死というわけだ。 -
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親鸞を「頭」で読むのではなく、親鸞その人に対面することをめざした本ということですが、親鸞について著者が比較的自由に思索を展開させたエッセイのような叙述になっています。
『教行信証』の中で、親鸞が「神祇不拝」を主張しつつ、現世利益の源泉としての神祇を肯定的にとらえるような叙述をおこなっているところに注目しているのは、宗教民俗学を専門とする著者らしいという気がします。この問題についての著者の結論は、「あれかこれか」というイデオロギー的な呪縛から解放された親鸞のコスモロジー的思考を積極的に認めるべきだというものです。
また、親鸞とその妻である恵心尼の関係についても、興味深い考察が展開されています -
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【涅槃願望】
すごいタイトルで買ったはいいがずっと読んでいなかった。昨晩、素敵な人たちと飲みに行く機会があって、そこで僕は長寿世界一を目指しているんですよ、なんていう話をしたところ、僕以外の皆がピンピンコロリ志向であった。僕は少しずつ死んでいきたい。そんなわけで、引っ張りだしてみた。
本書にあるような、芭蕉や良寛の、いつなんどき髑髏となってもかまわない、なんていう覚悟は僕にはしばらく出来そうもない。ただ、さあ少しずつでも死んでいくぞ、というのは、涅槃願望としてわからないわけでもない。
著者の、そして文豪たちの涅槃願望。今の世の中、見たくないものものをそっと遠ざけてくださるから、死について -
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唯円の『歎異抄』をめぐって著者の考えを記した比較的自由なエッセイです。宗教に帰依する、ないし師の教えにしたがうことと、それによって自由を得ることとのあいだのパラドクスが主題になっています。
親鸞の死後、弟子や後学の者の間に、他力の宗旨についてさまざまな疑惑が生じました。親鸞が生前に語ったことばを記すことで不審や疑惑の念を一掃したいと考えた唯円は、『歎異抄』を執筆します。著者は、そうした唯円の姿を、太宰治の『駈込み訴え』に描かれたユダの姿に重ねあわせて理解しようとしています。太宰は、イエスに対する愛に導かれて師を売り渡した弟子として、ユダを描きました。著者は、唯円もまた、親鸞の墓の前で、自分こ -
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仏教の歴史や現代的課題について解説しています。民衆の精神史という広い文脈のなかで日本仏教の意義をとらえなおすべきだという著者の観点が、積極的に押し出されている解説書です。
釈尊は入滅に際して、人びとが望むならば長くこの世にとどまって教えを広めようということを弟子のアーナンダにほのめかしましたが、悪魔にとりつかれていたアーナンダは、釈尊の真意に気づかず、その言葉を聞き流してしまいます。彼の態度を見た釈尊は、悪魔の誘いに応じて3ヶ月後に入滅することを決意します。著者は、『大般涅槃経』に記されているこうしたエピソードを紹介し、ここには仏教徒の釈尊に対する裏切りという問題があるといいます。その後の仏