山折哲雄のレビュー一覧
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上野千鶴子さんの鋭いツッコミに対し、山折哲雄さんがタジタジになりながらも吸収していく展開が読んでいて楽しかった。
「ひとり」の概念すら両者では異なり、本文中では互いの考えをぶつけ合うが、最終的に、超現実主義の上野さんが、最終的に死の五段階説を発表したキューブラ・ロスの私を引き合いに、混乱の中で死んでいったこともアリと思えるようになったと結ぶところに、このvsのノーサイドをみた。
私は上野さんの考え方が清々しく好みだ。
「野垂れ死にを希望するのは男だけ」という話、言われてみれば確かにそうかも。
結局、男の弱さからくる現実逃避思考から生まれた妄想が野垂れ死というわけだ。 -
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親鸞を「頭」で読むのではなく、親鸞その人に対面することをめざした本ということですが、親鸞について著者が比較的自由に思索を展開させたエッセイのような叙述になっています。
『教行信証』の中で、親鸞が「神祇不拝」を主張しつつ、現世利益の源泉としての神祇を肯定的にとらえるような叙述をおこなっているところに注目しているのは、宗教民俗学を専門とする著者らしいという気がします。この問題についての著者の結論は、「あれかこれか」というイデオロギー的な呪縛から解放された親鸞のコスモロジー的思考を積極的に認めるべきだというものです。
また、親鸞とその妻である恵心尼の関係についても、興味深い考察が展開されています。著者は、恵心尼の「尼」は出家者を意味する「尼」というよりも、むしろ夫を喪った未亡人を意味する「尼」である可能性が高いという考え方を示し、親鸞の思想を受容した人物としてではなく、親鸞とともに「非僧非俗」の立場をさぐりつつ生きる女性として理解しようとしています。そして、「恵心尼文書」の中に見られる『無量寿経』の書写断片を手がかりに、みずからのうちにある「執心自力」の根強さにおののく親鸞が、『無量寿経』を静に音読している恵心尼の姿を見て、心を打たれたのではないかという推測が示されています。 -
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【涅槃願望】
すごいタイトルで買ったはいいがずっと読んでいなかった。昨晩、素敵な人たちと飲みに行く機会があって、そこで僕は長寿世界一を目指しているんですよ、なんていう話をしたところ、僕以外の皆がピンピンコロリ志向であった。僕は少しずつ死んでいきたい。そんなわけで、引っ張りだしてみた。
本書にあるような、芭蕉や良寛の、いつなんどき髑髏となってもかまわない、なんていう覚悟は僕にはしばらく出来そうもない。ただ、さあ少しずつでも死んでいくぞ、というのは、涅槃願望としてわからないわけでもない。
著者の、そして文豪たちの涅槃願望。今の世の中、見たくないものものをそっと遠ざけてくださるから、死について考えることが少なくなっている。だが涅槃を前に人は何を考えるのか。「ぼんやりとした不安」で命を断った芥川龍之介の死を、年間3万人(を切ったようだが)の自殺者から思い起こすものはいない。死は敗北か。僕の目標からすればそうだけど、やはりここで例の、レイの言葉を。「あとは死に方だけの問題だ」 -
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唯円の『歎異抄』をめぐって著者の考えを記した比較的自由なエッセイです。宗教に帰依する、ないし師の教えにしたがうことと、それによって自由を得ることとのあいだのパラドクスが主題になっています。
親鸞の死後、弟子や後学の者の間に、他力の宗旨についてさまざまな疑惑が生じました。親鸞が生前に語ったことばを記すことで不審や疑惑の念を一掃したいと考えた唯円は、『歎異抄』を執筆します。著者は、そうした唯円の姿を、太宰治の『駈込み訴え』に描かれたユダの姿に重ねあわせて理解しようとしています。太宰は、イエスに対する愛に導かれて師を売り渡した弟子として、ユダを描きました。著者は、唯円もまた、親鸞の墓の前で、自分こそが師の教えをもっともよく理解しており、ほかの弟子たちの誰よりもあなたを愛していると訴えるようにして、『歎異抄』を書き継いだのではないだろうかといい、だがそのことがまさに、親鸞に対する唯円の裏切りを表わしているのではないかと論じています。
親鸞は、阿弥陀如来の本願が真実ならば、釈尊のことばも、善導のことばも、法然のことばも、そして親鸞のことばも、偽りであるはずがないと確言していました。彼は、正統と異端の区別を越えて、一直線に阿弥陀如来のもとに直結しているという確信だけがあったのだと著者はいいます。しかし唯円は、阿弥陀如来への帰依を語る親鸞の思想を、ついに理解するには至りませんでした。彼は、師に帰依するところにとどまって、阿弥陀如来と一つになってこの世で働く「無上仏」の境地を知るには至らなかったと、著者は主張しています。 -
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仏教の歴史や現代的課題について解説しています。民衆の精神史という広い文脈のなかで日本仏教の意義をとらえなおすべきだという著者の観点が、積極的に押し出されている解説書です。
釈尊は入滅に際して、人びとが望むならば長くこの世にとどまって教えを広めようということを弟子のアーナンダにほのめかしましたが、悪魔にとりつかれていたアーナンダは、釈尊の真意に気づかず、その言葉を聞き流してしまいます。彼の態度を見た釈尊は、悪魔の誘いに応じて3ヶ月後に入滅することを決意します。著者は、『大般涅槃経』に記されているこうしたエピソードを紹介し、ここには仏教徒の釈尊に対する裏切りという問題があるといいます。その後の仏教の歴史は裏切りの歴史であり、現代の私たちもまた「アーナンダの徒」として、釈尊の真意を捉え損ねているとされます。そのうえで、「アーナンダの徒」である私たちは何をするべきなのか考えなければならないと主張します。
また、日本仏教の特徴についても、著者自身の見解が示されています。日本仏教の黄金期とされる鎌倉仏教は、親鸞や道元といったカリスマ的指導者と彼らを取り巻く少数のエリート信者による知識人的宗教であり、民衆の生活に根ざした宗教とはいえないと著者は主張します。そして、仏教が本当の意味で日本の民衆に根づいたのは、山岳信仰、他界=浄土観、遺骨信仰との習合がいきわたった15世紀ないし16世紀以降であり、先祖崇拝や死者儀礼を中心とする現代の仏教のあり方のなかに日本人の宗教意識がしっかりと根を張っていることを認めなければならないと主張しています。 -
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≪目次≫
はじめに
エリア1 鶴岡八幡宮とその周辺の寺社
エリア2 荏柄天神社から瑞泉寺、滑川沿いの寺社
エリア3 小町・大町(鎌倉駅東域)の寺社
エリア4 材木座周辺の寺社
エリア5 扇ヶ谷と佐助周辺の寺社
エリア6 長谷界隈と極楽寺、さらに腰越の寺社
エリア7 北鎌倉駅からめぐる山ノ内の寺社
エリア8 大船駅周辺と市の北域の寺社
付けたり 鎌倉とゆかりの深い市外の三寺社
≪内容≫
PHP新書の寺社巡りシリーズ第6弾。京都、奈良、東京と来て鎌倉となった。まあシリーズなので買ったが、鎌倉は中学時代から庭のように歩き回り、かつてのブルーガイドをそれこそ暗記するほど読んだので、この本については新たに知ったことはちょっとだけだった。
そういえば、浄妙寺の項で「山の中腹にはバーベキュー場か何か…」との記事があったが、ガイドブックを謳っている以上、書く以上はちゃんと調べてほしい。あるのは『石窯ガーデンテラス』というイタリアンレストランである。こうしたガイドブックでないことは重々承知だが、上記の文を書くのなら、記してほしかった。 -
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一口に仏教と言っても、日本で論ずるときには注意が必要だ。まず釈迦の考えた「仏教」があり、弟子達が考えた「仏教」があり、日本で文化的・世俗的に融合された「仏教」がある。また統一的な教典を持たない仏教は解釈が多様で、実質仏教と定義できるものはないといっていいだろう。
また筆者は現代における宗教の役割について懐疑的だが、それは自分も同感。「神様」「天国」を無垢に信じることのできた時代の信仰と「科学」の進んだ時代の信仰とは自ずと性格が違ってくるだろう。新書故にそこまで突っ込んで深く論じてはいないが、宗教論はその点を含んで研究しないと意味がなくなるだろう。 -
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宗教学者と哲学者という異質な組み合わせの対談。
「救いとは何か」のタイトルよりも、生死について……そこに関わってくる「魂」をどう捉えるかという部分の方が深く語られている。
花が供えられていた時に、なんとなく手を合わせたくなる気持ち。
それがなぜなのか、そこにあるのが何なのか分からないという感覚。
批判的というより、神や仏という感覚がわからないという立場で問い掛ける森岡氏側から私はこの本を読めた。
元々宗教的な部分を期待して購入した本書だが、今生きている中で目を逸らしてはいけない部分を、柔らかく提示されてしまったような気がする。
様々な文学作品や映画に触れて砕かれている為、読みやすい。