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著者の渡辺和子さんは上皇后さまと同じカトリック系の大学出身の修道女の方だけど、日本の女性の美の価値観てこれなんだよ。造形を丸ごと改造するような整形手術なんて日本人の発想じゃないから。
キリスト教系の本て愛という言葉が多用されるから考えたんだけど、時代とか場所によって正しさとか間違いというのは変わるけど、親に愛をもらったという事実はどこに行っても時間が経っても色褪せないものだから、子供に絶対的に与えなきゃいけないものは愛だと思った。
母がカトリックだったからか、渡辺和子さんとか曽野綾子さんとかカトリックにどっぷりの世界観の本読むのホント好き。仏教の僧侶の本も好きだけど。
渡辺和子
1927‐2016年。キリスト教カトリック修道女。9歳の時、二・二六事件で父・渡辺錠太郎を目の前で暗殺される。成蹊小学校、雙葉高等女学校(現 雙葉中学校・高等学校)卒業。聖心女子大学、上智大学大学院卒業後、ノートルダム修道女会に入り、アメリカに派遣されてボストン・カレッジ大学院で博士号を取得。その後、36歳の若さでノートルダム清心女子大学学長に就任し、のちに同学園理事長、日本カトリック学校連合会理事長となる。『置かれた場所で咲きなさい』(幻冬舎、2012年)は230万部を超えるベストセラーとなる。その他、『面倒だから、しよう』(幻冬舎)、『目に見えないけれど大切なもの』(PHP研究所)、『幸せはあなたの心が決める』(PHP研究所)、『どんな時でも人は笑顔になれる』(PHP研究所)等、数々の名著を世に贈りだした。
この大学に学びつつ、成長していらっしゃる皆さんの美しさは、お化粧または衣装による美しさでなくて、知的な美しさでなければなりません。もし皆さんが人の目をひくとすれば、それは決して、奇抜な行動、服装、言動によってではなく、むしろ、深い教養と、今の世に数少なくなった他を先にする態度、美しい言葉づかい、やさしい思いやりによってでなければならないのです。皆さん方の強さというものも、男子と肩を並べ、しのぎをけずるその強さ、他人をけおとしてまで、自らが抜きん出ようというその強さではなくて、自らと闘い、自らに勝つことができる強さです。
大学での教育を英語で、リベラル・エデュケーションと言います。皆さんもよくご存知のウーマンリブという言葉の「リブ」に表わされるように、リベラルという言葉は、自由、解放という意味を持っています。それでは人間を自由にし、人間を解放する教育とは、いったいなにから自由にし、なにから解放するのでしょうか。それは無知からくる不自由からの自由であり、情欲にとらわれている自分自身が正しく判断し、その判断にしたがって選択する自由であります。また頑固に一つのことを固執して、他を入れない自分からの自由、小さなことにこだわることなく、本当にたいせつなものをたいせつにして生きる自由とも言えましょう。換言すれば、真理に対し、善に対し、美に対して、すなおに開かれた人になること、これが自由人を育成する大学の使命であり、仕事でもあります。ですから、大学で享受する自由というのは、決して勝手気ままなことをすることでもなければ、間違ったことを押し通そうとすることでもなく、怠けたり遊んだりする自由でもありません。正しく考え、正しく選ぶ自由。今まで自分が正しいと思っていたことが誤りだとわかった時に、すなおに真理にしたがっていくその自由です。
最近、総理府が国民の余暇の使い方を調べた社会生活基本調査によると、中学生は一日に八時間四分勉強するそうです。それに比べると、高校生は七時間九分、そして大学生は四時間四十四分という結果が出ています。「大学に入るまでは必死で勉強するけれども、入ってからは、遊ぶ一方だ。大学はレジャーランドではないだろうか」という巷の声を裏づけるような時間の長さです。しかしながら、大学における勉強は質において異なるものでなければなりません。すなわち、「覚える」ことに専念した自分から、「ものを考える」自分に変わってゆくということなのです。ものを覚えることは機械でもできることですね。それに対して、自分なりに、考えて、選んで、その選んだことに対して責任を取っていく、人格としての生き方というものは、人間にしか許されないものです。
それはどういうことを意味しているかというと、私はいったい誰かという自分のidentityを求める生活であり、自分はなんのために生きているのか、という人生の意味、または自分の存在価値について友人と話し合う時期であり、さらに自分は人のために、社会のために、なにができるだろうか、どう生きるべきか、という生き方、使命というものを考える貴重な四年間と言っていいでしょう。たぶん皆さん方の一生の中で、今日から始まる四年間ほど、精神的にも、時間的にもゆとりのある期間はないと思います。それだけに、どうぞその間に、自分を自分らしく育てていくこと、ほかの人と違う自分の確立をめざしてください。
この大学は、カトリック大学です。そして、それは決して、皆さん方一人ひとりが洗礼を受けるということを意味していません。それは私たちの授業、生活、学校運営などの根本に、キリスト教的な価値観があるということです。そうでなければ、看板に偽りあることになります。それは一言でいえば、「愛」をたいせつにすることだと言ってもいいでしょう。
では、自由人というのは、いったいどういう人をさすのか。これもいろいろの考え方がありますが、皆さん方もおわかりのように、決して自分勝手な、好きなことをする人という意味ではありません。その言葉が示すように、自らに由ることができる人、自らに由る思考、行動、それのできる人であり、その責任を取ることができる人。他に由るのではなく、つまり、他人の言いなりになったり、他人への思惑に振りまわされたりする人ではなくて、自分の内部に行動の理由、または信念を持っていて、自分の手で自分の人生を築いていくことのできる人。これが、自由人の一つの解釈といっていいかと思います。
自分の人生を輝かせて生きるということは、どういうことなんだろうか。人が人としてよりよく生きるということは、どう生きることなんだろうか。これを、この大学の四年間、皆さん方が一人で、または、先生方やお友だちとともに考え続ける日々であってほしいと思います。輝いた人生ということは、必ずしもステージの上で脚光を浴びるような、または、名誉、地位、財産に恵まれることを意味しておりません。よりよく生きるということも、必ずしも、今言ったようなことを意味していないのです。もしかすると輝いた人生を送り、よりよい人生を送るということは、他人に振りまわされることなく、自らに由って自由に生きるということを意味しているのではないかと思います。
これから先、皆さん方がどんな生活にお入りになるにしても、「自分一人ぐらい」と思ってはいけません。その一人ぐらいと思っている自分に、たくさんの人がかかわっています。ある一人の人がでたらめな生活を送ることによって、その人間の一生に出逢うすべての人が、不愉快になり、迷惑を被り、そして不幸にもなります。「自分一人ぐらい」という考え方は、「相手一人ぐらい」という考え方と通じます。自分をいとおしむ心は、相手をいとおしみ、相手をたいせつにするのと同じ心なのです。
「もし、あなたが期待したほほえみが得られなかったら、不愉快になる代わりに、あなたの方からほほえみかけてごらんなさい。なぜなら、ほほえむことができないその人ほど、あなたからのそれを必要としている人はいないからなのです」。これも、皆さんが在学中にお聞きになった言葉です。
私たちには、自分の運命の輪郭を選ぶことが許されていません。しかしながら私たちは、その輪郭に内容を与えることはできるのです。「人間らしく生きる」ということは、ぜいたくに、安楽に、きらびやかに、そして有名な人になって生きることではなく、私の人生に与えられた輪郭に、私でなければつけられない意味を与えながら、私でなければ生きられなかった命を使って生きることです。
今日、ここにいらっしゃる三七〇人の方々、その中には、今日を限りに一生二度とお会いしない方がいらっしゃいます。そしてそれだけに、今日という日が本当に尊く、名残り惜しいものとなりますけれども、どこにいらしても、どうぞ置かれた場で美しく咲いてください。人の一生の価値は長さでは決まりません。内容の豊かさで決まります。それはちょうど、私たちが伝記を読む時、その価値が伝記の長さや、本の厚さにあるのでなくて、その内容の充実度によるのと同じです。ある人が「たいまつは輝くためには、燃えることに耐えなければならない」と言いましたけれども、どうぞ赤々と燃えて、そして、その燃えるがための苦しみがあるかも知れないけれども、あなたしか与えることのできない輝きと愛を持って、美しい一輪の花がこの世に咲いたという証拠を残して生きていってください。
私たちの美しさというものは、生まれつきの器量によるものでも、高価な化粧品をたくさん使うことによって得られるものでも、整形手術を施すことによって得られるものでもありません。それはむしろ、その人の内面から、つまりその人の生き方から生まれてくるものであり、年齢に関係なくあるもの、素顔の美しさといってもいいでしょう。やがて自分の顔に責任を持たなければならない皆さん方が、今日、人生のスタートを切るに当たって、どうぞこの美しい人となる条件を一生忘れずに、ことあるごとに思い出していただきたいと思います。
幸せの条件には、いろいろあって、人それぞれに違うかも知れません。ですけれども、共通して言えることは、自分が愛するもの、価値あるものに取り囲まれて、心が満たされている状態といっていいでしょう。ですから、幸せを願う人たちは、たやすく愛せる人を探し、やりがいのある仕事を求め、そして、すてきなもの、すばらしいもので、自分のまわりを囲みたいと願っています。今日の日本は、この種の幸せをあおるかのように、そして、それを満たすに十分な、物質的な豊かさと、過剰といっていいほどの刺激と情報に溢れています。お金さえ出せば、ほしいものがほとんどすべて手に入る世の中です。では、それらを手に入れた人たちがみんな幸せなのかというと、必ずしもそうではありません。なぜでしょう。 星の王子さまが答えを出しています。「地球上のみんなは、特急列車に乗りこむけど、いまではもう、なにをさがしているのか、わからなくなってる。だからみんなはそわそわしたり、どうどうめぐりなんかしてるんだよ……」「おなじ一つの庭で、バラの花を五千もつくってるけど、……自分たちがなにがほしいのか、わからずにいるんだ」。そして続けていうんです。「だけど、さがしているものは、たった一つのバラの花のなかにだって、すこしの水にだって、あるんだがなあ……」「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ」
二十世紀のすぐれた生物学者で神学者でもあった、テイヤール・ド・シャルダンという人が、こう言っています。「人生には、ただ一つの義務しかない。それは愛することを学ぶことだ。人生にはただ一つの幸せしかない。それは愛することを知ることだ」
ピエール・テイヤール・ド・シャルダン・・・1881年フランスに生れる。1899年にイエズス会に入り、哲学、神学、地質学、古生物学を学ぶ。1911年司祭に叙階される。1914年第一次世界大戦に担架兵として従軍。1920-23年パリのカトリック大学地質学助教授。1923年黄河流域学術調査隊の一員として中国に渡り、以後1946年までの大半を中国で過ごした。この間、ゴビ砂漠、オルドス地方の探検、インドからビルマ(ミャンマー)、ジャワに及ぶ学術調査旅行、さらに周口店における北京原人発掘調査などをおこない、地質学、古生物学の研究に情熱を傾けた。1946年以降はニューヨークの人類学研究機関ウェンナー・グレン財団にむかえられ、米国で暮した。『現象としての人間』『神のくに・宇宙讃歌』『ある思想の誕生』『科学とキリスト』など、諸科学の総合によって統一的世界観をもとめ、科学と信仰の調和をはかる多くの著作を残した。1955年歿。『テイヤール・ド・シャルダン著作集』(全10巻、1968-75、みすず書房)。
それは、反対から言えば、愛があれば、それが、たとえ小さな愛であったとしても、その行為には価値があるということを言っているわけです。たとえ寝たきりの病人になったとしても、または台所の隅で一日中じゃがいもの皮をむくような、そういう時間を過ごしているとしても、それが、誰かのために、世界中で苦しんでいる人、悩んでいる人、または飢えている人々のため、戦火にさらされている人々、そういう人たちを考えながら、その人たちに慰めが与えられるように、平和な生活が訪れるようにという愛をこめて行われた時に、その小さな行為、その過ごされる時間というものには、永遠の価値が与えられ、神の御まなざしの前に、財産家が多くの寄付をするよりも、政治家が大きな事業をするよりも、尊くうつるのだという価値観が、ここにございます。そして、この大学は、皆さん方に四年間、この目に見えないたいせつなもの、「愛」というものの存在と、その愛を、いかに深め、いかに広めていくか、ということをお教えしてまいりました。
愛するようになると言いましたが、愛とはそのように自分で努力して育つものなのでしょうか。金をふやす術、名誉や地位を獲得する道は血眼で、必死で学びながら、これよりはるかに尊く、はるかに重要な愛を生み、育て、増してゆく術を私たちはあまりにもおろそかにしているようです。なぜかといえば一つには私たちが「愛する」ことよりも「愛される」ことに夢中になっているからです。今日の社会では、化粧品の広告も、服の丈も、整形技術も、果ては教養までが、いかにして人を魅力的に見せ、その「商品価値」をあげるかということの手段となり、人もまた、それらにたよりすぎている感がします。ところが、愛されるためにいちばん手近な道は、愛すべき人になること、つまり、愛情豊かな人に自らがなることだと思うのです。
友情は美しい。幼稚園のこどもたちが手をつないで歩くあどけない姿から、若者同士のひたむきな友情、そして人生のたそがれ時の茶のみ友だちにいたるまで、それは孤独という運命を背負って生まれ、暮らし、死んで行く人間同士が寄り添いながら生きる「人」という字にふさわしい姿と言えよう。
著者の言葉を借りれば、バスチャンは「小さくて、太っちょで、気の弱い」男の子、風采があがらないばかりか、勉強もできず、学校ではいじめられっ子であった。その日も実は、学校へ行きたくなくて古本屋に立ち寄り、そこで見つけた『はてしない物語』という本を店主に黙って持ち出し、学校の屋根裏に隠れて読みふけっているうちに、いつの間にか物語の中に入り込んで、ファンタージェンの国に来たのであった。
私が宗教に入ったのには、多分に、無条件に自分の存在を認めてくれ、ありのままの姿で受け入れ、愛しつづけてくれる者への全面的委託と帰依の願いがあったように思う。信仰に入るきっかけとなった聖書の言葉は、「重荷を負って苦労している者は皆、わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」というキリストの呼びかけであったし、もし、好きな聖句はと問われれば、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と何のためらいもなくあげることができるほど、私には「優しさ」が魅力であった。
嫉妬というものが、何も生み出さない空しい想像力の働きであること、それはその人を醜くこそすれ、決して美しくするものではないことをしみじみ悟った一つの機会であった。
愛するものとともにある時、人は豊かであり、幸せである。たとえ、それが薄汚れた人形であっても、それを宝として抱きしめている子どもは、高価なフランス人形にまだ不足を感じ、満足できないでいる子どもよりも、はるかに幸せだといわねばならない。そうだとすれば、どこへ行くにもついて来て、いつまでたっても別れることのない者──自分──を愛すべき者と見ることのできる人ほど幸せな人はないと言えよう。その反対に、自分を厄介者と考え、嫌っている人ほど不幸な人はない。なぜなら、自分はどこまでも自分とともにあるからである。