中島敦のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
何故いま中島敦?という感じで書店に並んでいたこの角川文庫は初版が昨年、2020(令和2)年11月となっている。「奇妙な作家」円城塔さんが2017年に川端康成文学賞を取った『文字渦』という短編(未読)は、本書の「文字禍」に由来しているということのようで、それで角川書店がこれを発行してみたのであろう。
中島敦は私が中学生だか高校生だかの頃国語の教科書に載っていて、ちょっと古くさくて硬い文体は非常に簡潔で、物語を端的に刻み上げる感じなのが私の周りの同級生たちの間では好評だった記憶がある。たしか高校の頃に新潮文庫の『李陵・山月記』を購入して読んだが、それきりになっていた。
この新潮文庫版短編集を読み、中国に由来する説話的な物語を書く作家だと思った。
しかし今回の角川文庫を読んでみると、確かに漢文学に親しんだ中島敦は中国の物語も書いているが、それだけでなく、本書にはアッシリア王国(表題作)、古代エジプトを舞台にしたものもあるし、やや長めの後半の2編は「現代」の話で、しかもどうやら作家本人の体験を織り込んでもいるようなのだ。しかし、それでも「私小説」とは全く異なる、物語メインの小説である。
この本には初出年月日のデータがまるで無いのが困ったものだが、表題作はウィキペディアの記事によると1942(昭和17)年2月に雑誌「文學界」に掲載された「デビュー作の一つ」とのこと。しかしその同年12月に33歳で死んでしまったのだから、デビューして次の瞬間にはもう死んでた、みたいな凄まじい話だ。もはや神話的なレベルである。
漢文学などに通暁したいかにもブッキッシュな作家だが、硬質で簡潔な文体と物語構成には、やはり見事なものがある。あと10年生きていたらどんな長編を書いたろうか、などと無駄な想像をしてしまう。
表題作「文字禍」は確かに、円城塔さんを触発しそうなそれ系(奇想・不条理)の特質を持っていて、これだけでもなかなかの可能性を秘めている。
本当に惜しい人が早世してしまったものだ。 -
Posted by ブクログ
中島敦の短編集。
多くの人は"山月記"でその名前を知っていると思いますが、氏は中国古典に関する造詣が深く、"山月記"を代表に中国古典を題材にした名作をたくさん書いています。
中国古典を題材にした作品は、文体が硬く、本短編集収録作品も読みづらさを感じるものが多いです。
また、"山月記"のように物語の筋がはっきりした作品は少なく、哲学や思想が文章を占める割合が意外に多いです。
"山月記"のイメージでページを捲ると、意外なとっつきにくさに驚くかもしれません。
中島敦には喘息の持病があり、33歳で若くして亡くなりました。
文学活動時期は太平洋戦争真っ只中で、そういった不穏な環境と病魔に侵されゆく肉体から、自我の不安、人生哲学の答えを中国古典の中の物語の中に認めたのかもしれないです。
本書収録の各作品の感想は以下です。
・李陵 ...
中島敦の死後に発表された作品。
氏の作品の内、最も優れた作品として名高い名作であり、本書収録作の中では最も後に書かれた作品です。
複数の中国古典を元にして書かれていて、中国古典に造形の深い中島敦ならではの作品と言えると思います。
漢の武帝の時代の軍人"李陵"を中心として書かれていて、勇猛果敢に匈奴と戦うも捕虜となってしまった李陵が、匈奴達から奇妙な礼遇を受けたことで、見方を変えて自分のポジションを見直す内容となります。
また、李陵を弁護したような態度が武帝に穿った受け止められ方をされてしまい、不名誉にも腐刑に処された司馬遷と、同じく匈奴に捕らえられるも異なる選択をし続けた蘇武もまた、主要人物として登場します。
本作に限らずですが、中島敦の作品は漢文的な硬質な文体が特徴で、慣れないと非常に難解な印象があり、とっつきにくいです。
ただ、小説としてのおもしろさがあり、読み出すと不思議とスルスル読みすすめる作風だと思います。
本作もまさしくそういう作品で、氏の代表作ということもあり、本作を目的として手にとってもいい名作だと思いました。
・弟子 ...
本作も中島敦の代表作として著名な一作。孔子の弟子・子路を中心とした作品です。
李陵同様、漢文調のとっつきにくい文体で書かれています。
また、内容の大部分は孔子に教えを請う子路のエピソードで、頷ける部分もあるものの、起伏に乏しく、個人的にはあまり楽しんで読めなかったです。
ただ、粗暴で無邪気な子路が、まっすぐに孔子に問いかけを投げ、教えを受ける様は軽快な感じを受けました。
・名人伝 ...
本作、名人伝と李陵、弟子は、死後に発表された作品です。
特に本作は、李陵と執筆時期が重なっていたため、最後に書き上げられたという可能性がある作品ですね。
都に住む「紀昌」が師匠の元で厳しい修行の末、弓の奥義を極めますが、さらなる精進を求めて深山に隠棲する老師「甘蠅」を訪ねます。
老師は"不射の射"という、矢を射ること無く飛ぶ鳥を落とす技を持っており、それを見せられた紀昌はその山に留まるが、という展開です。
ミステリーのような作品で、謎の残る終わり方になります。
紀昌は真に弓の名人となったのかは意見の分かれるところで、とても奇妙な作品に感じました。
・山月記 ...
中島敦といえば本作を上げる人が多いと思います。
話が短く、ストーリーがわかりやすいので、多くの国語に教科書に採用されているため、あらすじは中学生でも知っているような有名作です。
若くして科挙に合格する秀才だった「李徴」は、官職に就いて大官に傅くことが耐えられず、詩人として名声を得ようとする。
そのうち年を取り、焦りを覚えてきて、そのまま山に消え行方知らずになる。
李徴の旧友「袁傪」は、旅の途中、トラに襲われるが、そのトラが急に襲うことをやめると、「あぶないところだった」と李陵の声でつぶやくのを聞くという話。
とても短い話ですが、中島敦らしい硬い文章で書かれています。
既に内容を知っているので、懐かしさもありスラスラ読めましたが、教科書で習いでもしないと、所見で読むのはなかなか難解と思います。
・文字禍 ...
アッシリアの博士を中心に置いた作品で、本作は中国古典を題材にしていないです。
山月記"とともに『文學界』に掲載された氏のデビュー作の一つですね。
"文字"に宿る霊を探す「ナブ・アヘ・エリバ博士」が、その魔力、文字を知ってしまったことによる弊害に気づいてしまうという内容です。
現代日本に置いて、文字を知る人と文字を知らない人の比較は難しいですが、そういうところもあるのかもしれないと恐ろしさを感じました。
文字を見つめることでゲシュタルト崩壊を起こし、文字に引きずられて様々な物質が正常に認識できなくなる恐怖が描かれています。
・悟浄出世 / 悟浄歎異...
"悟浄出世"と"悟浄歎異"は、中島敦の連作『わが西遊記』の一遍として書かれたと言われています。
両作品とも『西遊記』の登場キャラクター「沙悟浄」を主役に置いて、中島敦の独自解釈が加えられています。
本作では沙悟浄は中国の妖怪なのですが、常に「自分とは何か?」という問いの答えを探し求める存在として書かれています。
悟浄は答えを探すべく、いろいろな賢人の元を渡り歩くのですが、結論はついに出ず、疲れ切って倒れてしまいます。
そんな悟浄の元に、観世音菩薩とその弟子が舞い降りで、悟浄に「ここを通りかかる玄奘法師と弟子たちについていく」よう啓示を与えます。
かくして、悟浄は三蔵法師玄奘の弟子になることになるまでが悟浄出世のあらすじ。
三蔵の弟子になった悟浄が、悟空、八戒、三蔵と、それぞれの関係性について分析した内容が書かれるのが悟浄歎異です。
"悟浄出世"は、答えを求めて方方を訪ねて回る悟浄と、賢人たちの持論がメインとなるため、物語としてのおもしろさはそれほどではないです。
ですが、三蔵に出会っても答えは出ないのに、気持ちだけが楽になるという結末は、疑問に対する答えではなくが一つの対処法に思いました。
"悟浄歎異"は"悟浄出世"とは違い、キャラクター同士の掛け合いが楽しいい作品でした。
ページ数がそれほど多くないですが、物語として楽しんで読めました。
・環礁
中島敦は喘息の療養を兼ねて、パラオで現地の教科書作成業務に携わっていました。
本作はそこでの自然や人々の暮らし、日々の生活を綴ったものとなります。
何作かの短編の連作となっていて、他の作品と違い文体は漢文調ではなく、特に筋というものもない徒然としたものとなっています。
硬い文体で文学初心者をふるいにかける他作品に比較するととっつきやすいように思います。
明光風靡な自然の描写は美しく、こういう文章もかけるんだという驚きがありました。
ただ、一方で、小説としてのおもしろさには今ひとつ欠けるところがあり、最後もぷっつりと終了します。
中島敦はパラオ行きを嫌がっていたフシがあり、療養のために来たのに病状はかえって悪化して、最後は希望して東京に帰ってきたそうなので、そういった思いが出ているのかもしれないと思いました。
・牛人 ...
魯国の歴史書内の記事を元に書かれたと思われる作品です。
中島敦らしい、中国古典を下敷きにして硬い文体で書かれています。
魯の大夫「叔孫豹」は、ある晩、夢の中で天井に押しつぶされそうになる悪夢を見る。
その夢の中で、近くに立っていた牛のような黒い男に助けられるのだが、その後のある朝に、若い頃に路傍で一夜限りの契りを交わした女が叔孫の元を訪れる。
彼女が叔孫の子として連れてきた子供は、夢で見た牛の風体の男そっくりだった、という展開です。
数ページほどの短い話ですが、ゾッとする展開が続きます。
正直なところ、私にはその子供「豎牛」の思考がわからず、不気味な作品でした。
・狼疾記 ...
"かめれおん日記"と共に"過去帳"の中の一遍として書かれた小説で、"文字禍"や"山月記"よりさらに前に書かれた作品です。
漢文調ではない通常の文体で書かれているためとっつきやすいですが、内容は難しく、また、小説というには起承転結もないです。
何かと感じやすい青年が、思うところをつれづれ述べるだけの文章で、面白みというものも特に感じませんでした。
一万年とか後には太陽も死に絶えて人類は滅びるんだけど、それを思うと怖いんだけどみんな平気なのが信じられないとか、愚鈍に見える男には彼なりの思考プロセスがあり、愚鈍に見えるが我々よりもっと崇高なことに気づいているがそれに周囲も気づいていないだけなのかもしれないなあとか、そういう哲学的な思考が書かれてた文章で、好きな人は好きなんだろうなあと思いました。
・斗南先生 ...
"狼疾記"よりもさらに前、中島敦の最初期に書かれた作品です。
主人公の名前は狼疾記と同じく、「三造」となっていて、三造は中島敦本人がモデルです。
本作も漢文調ではなく、実在の人物をモデルにした作品ですね。
斗南先生は、中島敦の伯父・中島端蔵氏で、彼は頑固で偏屈、わがままですぐに人を叱責する、いわゆる『カミナリオヤジ』です。
高齢で体が弱ってきた伯父に渋々ながら付き合う三造の話で、傍若無人っぷりな振る舞いにいらつくところがありながらも、単純に"憎悪"のみと言い切れない難しい思いが感じられる名著でした。
"環礁"、"狼疾記"は微妙でしたが、本作は楽しく読めました。 -
Posted by ブクログ
中島敦の短編集。
ちょっとおもしろいセレクションで、「狐憑(きつねつき)」「木乃伊(ミイラ)」「文字禍(もじか)」「牛人(ぎゅうじん)」「斗南先生(となんせんせい)」「虎狩(とらがり)」の6編を収める。
中島敦といえば、流麗高雅な漢文調の文章が思い浮かぶが、それも知識人一族の中に育ち、漢文の素養があってのこと。祖父も伯父たちも漢学者、父は漢文教師、生母・継母・伯母も教師。とにかく教養を叩き込まれていなければ、自分の手であれだけの作品を生み出すことなどできないのだろう。敦の強みはその上に、英語も学び、世界への目が開かれていたことだ。遠く、ギリシャ、エジプト、メソポタミアまで。時を超え、それらの地で栄えた古代文明まで。
最初の3編は、古代オリエントを舞台とする。ホメロスの故事やヘロドトス『歴史』の一節が引かれ、物語の雰囲気を盛り上げる。
「狐憑」は、ある事件がきっかけで語り部・詩人となった男に起こる悲劇。
「木乃伊」は、エジプトに攻め込んだペルシャの将軍に呼び覚まされるある「記憶」。
「文字禍」は、”文字の霊”に取りつかれた学者が主人公。彼は、文字の精霊が人類を滅ぼそうとしていると思い込んでいる。だが、他の誰もそんなことは信じない。文字を見詰めるあまり、何だかそれが今でいうゲシュタルト崩壊のように崩れ始めるのだが、崩れていくのはそればかりではなくて・・・といったお話。
いずれも奇妙な味の怪異譚の趣。
「牛人」の舞台は古代中国で、中島お手の物の一編。
大夫(小領主)の庶子で、愚鈍と思われている男。色黒で背が曲がり、身体は大きい。全体として牛によく似ている。大夫に忠実で、側に常に付き従う。だが、大夫が病に倒れた後、次第に牛人の邪悪な顔が姿を現す。
ぬぼーっとした牛人の不気味さに背筋が冷える。
直接関係はないが、「件(くだん)」(顔が人、体が牛の妖怪。重大な事柄について予言をし、それは必ず当たると言われている)も少し思い出させる。
最後の2編は私小説風。
「斗南先生」とは、敦の伯父、中島端のこと。作中では敦は三造の名になっている。端は、学はあるが偏屈な老人であった。三造はなぜかこの伯父に気に入られ、その世話に駆り出される。老人のわがままに振り回され、しかし彼の中に自分に似た気質を見る。知識人ではあるけれど、ある種、不遇というか、世に珍重はされていない、個性の強い老人が活写される。
「虎狩」は子供の頃の思い出を含む。敦は少年時代を京城(現在のソウル)で過ごしている。その時、親しくしていた朝鮮の少年と出かけた虎狩の話。思春期の少年の交友と微妙な心の揺れ。そして臨場感のある虎狩。さて、どこまで実体験に基づくのかはわからないが、「山月記」の虎は、リアルな虎を知ってこその描写なのかもしれない。
いずれも佳品。知識人、中島の底力に唸る。
早逝が惜しまれる。 -
Posted by ブクログ
中島敦の本を開くと紙面が黒々としている。つまり、漢字が多いのだ。中国の古典に題材をとった小説が多く(この本に収められてあるのは、そういうのばかり)、難しい漢字、知らない言葉が多く、実は四割くらい意味が分からなかった。内容も哲学的で一字一句理解しようとすると疲れる。が、全体的に面白かった。
面白かった理由のその一は、読んでいて賢くなった気がするからだ。北風のことをいう「朔風」という言葉など漢文から来ている格好いい言葉遣い、漢字使い、漢文の知識がありとあらゆる所に散りばめられており、意味は半分くらいしか分からなくとも「これも日本文学の源流の一つなんだ。この短い熟語の中にぎゅっと意味が凝縮された魅力」と思いながら、読んだ。
言葉や漢字が難しいのに、読み続けられた理由は、話が面白かったからである。登場人物が人間的である。
高校の教科書で読んだ「山月記」。あまりにも自尊心が高すぎ、自分が人に負けているのを認められないため、人を避けるようになり、ついには山の中で孤独な虎になってしまった人の話
。当時、自分のことだと思って読んでいた。
「わが西遊記」からの抜粋で「悟浄出世」。悟浄というと、今だに堺正章が主役だった「西遊記」の中の悟浄を思い浮かべる古い人間なのだが、悟浄は元々流沙河の川底に住んでいた妖怪の一人で、「自分はダメだ。自分とは何ぞや。」と苦しみ、神経衰弱になった結果、流沙河の中の何人かの哲学者の弟子になり、却って自分が分からなくなって、最終的に三蔵法師の一団な出会う。
その悟浄の目から悟空と三蔵法師。観察している「悟浄嘆異」も面白かった。「全く、悟空のあの実行的な天才に比べて、三蔵法師はなんと実務的には鈍物であることか。これは二人の生きることの目的が違うのだから問題にはならぬ。外面的な困難にぶつかったとき、師父はそれを切り抜ける道を外に求めずして、内に求める。つまり、自分の心をそれに耐えるように構えるのである。………悟空には赫怒はあっても苦悩はない。歓喜はあっても憂愁はない。彼が単純にこの生を肯定できるのになんの不思議もない。……二人とも自分たちの真の関係を知らずに、互いに敬愛しあっているのは面白い眺めである。」
この世のあらゆる人間それぞれの短所がその逆のタイプの人を救うような長所である。そういう人間模様を観察している悟浄。
そのように人間の性格の短所を掘り下げたあと、愛情を持って第三者的な視点で肯定する、分かりやすく、面白い作品が多かった。 -
Posted by ブクログ
『文字禍』
「君やわしらが、文字を使って書きものをしとるなどと思ったら大間違い。わしらこそ彼ら文字の精霊にこき使われる下僕じゃ」 文字には、確かに魔力がある。「文字にならないもの、文字にできないものは存在しない」と人に思わせてしまうのだ。逆に言えば、この世のものは文字によって名付けられて初めて、人に「それがある」と認識されるのだ。主人公に言わせれば、PC、スマートフォンは文字の精霊の悪知恵の精髄だろう。画面に表示される文字にあることのみが世界の全てだ、と人を盲目にしてしまう。日本にも言霊信仰があったが、日本人は主人公とは逆に、文字の精霊を尊んでいた。この違いはどこから生じたのだろう。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ「山月記」が好きなんだが、ほかの中島敦の作品も読みたくて手にとる。
表紙の色が大変綺麗。
南島エッセイ的なのと中国ものと。
内地、というのが日本のことだというのを理解するのにワンテンポ必要とした。
ある巡査の~は関東大震災での風評による朝鮮人虐殺の件が当事者の悲しみと怒りともに描かれている部分があり、しかもそれが言論統制により封じられていくという
結構日本に批判的だと思うのだがまだ昭和一桁代は発表が可能だったのだなあ。
悟浄さんのはとてもおもしろく読んだ。
万城目さんので悟浄出立ってのがあったと思うんだが、
そして大変おもしろかった覚えがあるんだが、
こっからか?
孔子のもおもしろかった。
各人の内側からの、語り、とゆーか、そーゆーところが好きだ。
やっぱ中島敦は好きだなー。
賢治さんは解説の「宮沢賢治は過剰である」の一言に
なんか非常になるほど~っと思わされた。
正直、嫌いではないが、理解不能な部分も多いので、
詩とか、そーゆーふうに解説されると、また味わいが違ってくるなあ、と。
狼森~とか改めて読んでみると意外とおもしろく、
あれ、こんな感じだったかなーっと。
私は雪渡りの子がメッチャ好きだ。 -
Posted by ブクログ
もう何度読んでいるかは分からないが、折に触れて中島敦を読みたくなる時がある。
「隴西の李徴は……」から始まるあのリズム美に触れたくなるのだ。もはや中毒である。
そういう意味で、中島敦はすごい作家だなあと思う。33歳という若さで亡くなったが、この人が作品を生み出し続けていたなら……と想像してみると面白い。
私が角川版を購入したのは、森村玲さんのカバーが中島敦観とマッチしていたから。
最近、どの出版社にも言えるのだが読者獲得のために、不必要なほどマンガテイストのものに変えないでほしい。。。
さて。
「山月記」は言わずもがな、私は「名人伝」も大好き。
紀昌が世話になった師匠を倒さんとするも失敗したあとの、謎の和解ハグシーンはいつ読んでも笑ってしまう。
この「名人伝」から改めて繋がった作品が、オイゲン•ヘリゲル『日本の弓術』である。
こちらはエッセイだが、ぜひ触れて欲しい。
【2016.12.29再読】
万城目学『悟浄出立』を読んで、改めて「悟浄出世」「悟浄歎異」、「李陵」を読む。
沙悟浄の立ち位置。
活躍する者ではなく、調停する者であるという、いわゆる脇役でしかない嘆き。
けれど、悟浄の視点だからこそ、物語は小説へと変化出来たのだろうし、三蔵と悟空の持つ性質を言語化出来る思考を持ち合わせる存在は、悟浄しかいない。
「李陵」は、李陵と司馬遷の二人の苦悩から成る。
どちらも主君に見捨てられた者として辛酸を舐める。
しかし、宿命とも言える仕事に没頭出来た司馬遷と、匈奴の中で身を休めることが出来ながらも、蘇武との決定的な差にジリジリとする李陵ではその後が違う。
自分の足元に何が拡がっているのか。
人が宿命を感ずる時とは、一体どのように訪れるのだろう。