あらすじ
≪TVアニメ「文豪ストレイドッグス」アニメ描き下ろしコラボカバー版≫
古代アッシリヤの大王は、毎夜図書館に出没すると噂される「文字の霊」について、老博士に調査を命じる。博士は万巻の書に目を通すがそれらしい説はない。ある日、ひとつの文字を終日凝視していると、いつしかその文字が解体し、意味のないひとつひとつの線の交錯としか見えなくなった。この発見を手はじめに、文字の霊の性質が次第に判って来たのだが……(「文字禍」)。知られざる傑作6篇を選りすぐって収録。解説・池澤夏樹
<「文豪ストレイドッグス」シリーズとは>
中島 敦、太宰 治、芥川龍之介、与謝野晶子、泉鏡花、F・スコット・フィッツジェラルドなど国内外の文豪のイメージをモデルに擬人化されたキャラクターが、横浜を舞台に「人間失格」「羅生門」などといった各文豪に関連する異能力を用いて戦うバトルアクション。
感情タグBEST3
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短編でこれほどの完成度とは、本当に畏れ入る。
芥川龍之介とはまた違った秀作ばかり。
そんな文筆の才を持った中島敦でも、「言葉で記憶していると、よくこんな間違をする(「虎狩」より)」と考えることがあったのだろうか。
なんとなく、「文字禍」から小説に対する彼の思いが伝わってくる気がする。
◼「狐憑」作家は必要な存在なのか。
◼「木乃伊」エジプトに攻め込んだギリシャ人将軍の記憶。
◼「文字禍」単なる線の集まりが何故音と意味を持つのか、文字に囚われた老博士の話。
◼「牛人」魯の大夫と昔一夜を共にした女との子・豎牛の話。
◼「斗南先生」中島が親族の中で最も強く影響を受けた伯父の晩年を、似通う気質を持つ甥の視点から活写した私記的作品。
◼「虎狩」「半島人」の友人との思い出。
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教科書に載っていた山月記が印象的で中島敦は他のも読みたいなーーっと漠然と思ってはいたんだが、機会がなく、
文豪ストレイドッグスが始まった時点でまた、ああ、中島敦だーーーっと。
角フェスコーナーで目にして山月記以外だったのでこれは読むべし、と購入。
思った以上に暗い?終わり方が多くびっくり。
死ぬとか殺される、とか。
狐憑、は作家の原初の形、を描いてて面白いなーーっと思っていたらまさかのラストに驚愕。
コロナ禍で勃発したエンターテイメントは生きることに必要か否か、の問いが既にこんなところで発せられていたとは…
文字禍で文字が線と点になりなにかちがうものになるような感覚、とか、ああ、なんかわかるーーーっという感覚から、ことばが人を縛っていくそれを禍と表すとこに、なんというかなにか突き詰めたことから生まれた話、というか、
これが作家というものか、と。
牛人はシンシンと怖い。
ひえーーーーっという感じ。
世界史的な知識の豊富さがなければかけない作品なんだろーなーっと。
この世界で冗談に云ったことも別の世界では決して冗談ではなくなるのだ
自身の私小説的な短編の中の一文が非常に印象的。
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中島敦というと山月記が真っ先に浮かぶ。
また、中国の故事に因んだ作品というイメージがあったが、この本は古代アッシリアの故事に因んだ「文字禍」や「狐憑」、「木乃伊」といった少々洋風な作品と自伝的な「斗南先生」、「虎狩」といった作品群で、新たな印象を受けた。
特に「虎狩」は旧友との思い出や再会を描き、こういう感じあるなぁ、と共感できるものがあった。
中島敦の新たな印象、という意味で、ぜひ。
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「狐憑」…最後に2つの意味でギョッとした。想像力と創作とそれを発表する事が許される自由な時代に生まれて良かった。(私は読む側だけど)
「木乃伊」…今なら実際に行くことができたり、ネットで写真や動画で知る事ができる外国を舞台に、どんな風に思い描きながら書いたんだろう。
「文字禍」…かなり好き。長年海外に住んでいると、ネット以外では日本語を目にする事が殆どないので、たまに手書きで文章を書いてると、手が勝手に動くくらい書き慣れた漢字なのに間違ってるように思えて、長く見つめれば見つめるほど見覚えのないような、変なモノに見えてきたりする事がある(ゲシュタルト崩壊)ので、それが作中に出てきた時にはちょっと嬉しかった。共感する部分もたくさんあるんだけど、やっぱり私は文字・文章が好き。特に日本語。
歴史とは?の問いもいい。
歴史は勝者によって書かれたもの。それが真実とは限らないって事を最近しみじみ感じます。
「牛人」…ホラー。 怖い。
「斗南先生」…中島敦が伯父の事を書いたもの。なかなか興味深かった。最後の方は叔父にとって彼がどれだけ大切な存在だったのかが伝わってきてグッときました。
「虎狩」…これも面白かった。併合後の朝鮮半島が舞台。実際、中島敦も父親の仕事の都合で11歳からの5年間を朝鮮で過ごしているので、題材はその時の経験から?かはわからないけど、当時の生活を想像しながら読むのも楽しかった。
初・中島敦 文豪ストレイドッグスに感謝
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「牛人」の恐ろしい表情の表現の仕方がとてもイメージしやすくて怖い。こういうホラー、どこかで見たことがあるような気がする、というような表現だった。最後の「虎狩」も、些細な話なのにここまで読ませる魅力は何なんだろうか、と不思議に思った。
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狐憑き
現在の詩人、小説家にあたるシャクが物語を思い描けなくなるやいな村人に食べられてしまう話。生活に必要不可欠でない行動は表面上受け入れられていても、心の底では軽蔑されており、つまらなくなれば笑いは怒りに変わり、排斥されてしまう。
牛人
恋人に不義理を働いた主人公が、産まれた子供にジリジリジリと追い詰められ、最終的に怒る気力もなく、その悪意への畏怖の中餓死していく話。不義理が産んだ子はこの世の悪意そのものであり、自然への畏怖に匹敵するほど透明な恐ろさをもつ。
文字禍
文字の不思議。なんで線の集合体が意味や音を持ち得るのだろう。この問いを深く考えてはいけない。文字の精霊に食い殺されてしまう。というより、世界に押しつぶされてしまう。文字によって食い荒らされたスカスカの認識力に対して、世界は重すぎるのである。我々は文字という杖に頼りすぎてしまった。字を追うごとに目は悪くなり、腰が曲がり、手足の筋肉が衰えていき、脳は記号で埋め尽くされていく。もはや文字なしで世界を見ることはできない。文字の傀儡である。精霊達がせせら笑う声が聞こえる。あな恐ろしや。命だけはどうかお助けを。
2023.3.15追記
なんで線の集合体が意味や音を持ち得るのだろう
→
線の集合体という無意味・無音な記号に、人が意味や音を与えたから。って思ったけど、そんな単純なことじゃなくて、もっと複雑なことを問うていたような気がする。シンプルな考え方をするようになってしまったことが寂しい。
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何故いま中島敦?という感じで書店に並んでいたこの角川文庫は初版が昨年、2020(令和2)年11月となっている。「奇妙な作家」円城塔さんが2017年に川端康成文学賞を取った『文字渦』という短編(未読)は、本書の「文字禍」に由来しているということのようで、それで角川書店がこれを発行してみたのであろう。
中島敦は私が中学生だか高校生だかの頃国語の教科書に載っていて、ちょっと古くさくて硬い文体は非常に簡潔で、物語を端的に刻み上げる感じなのが私の周りの同級生たちの間では好評だった記憶がある。たしか高校の頃に新潮文庫の『李陵・山月記』を購入して読んだが、それきりになっていた。
この新潮文庫版短編集を読み、中国に由来する説話的な物語を書く作家だと思った。
しかし今回の角川文庫を読んでみると、確かに漢文学に親しんだ中島敦は中国の物語も書いているが、それだけでなく、本書にはアッシリア王国(表題作)、古代エジプトを舞台にしたものもあるし、やや長めの後半の2編は「現代」の話で、しかもどうやら作家本人の体験を織り込んでもいるようなのだ。しかし、それでも「私小説」とは全く異なる、物語メインの小説である。
この本には初出年月日のデータがまるで無いのが困ったものだが、表題作はウィキペディアの記事によると1942(昭和17)年2月に雑誌「文學界」に掲載された「デビュー作の一つ」とのこと。しかしその同年12月に33歳で死んでしまったのだから、デビューして次の瞬間にはもう死んでた、みたいな凄まじい話だ。もはや神話的なレベルである。
漢文学などに通暁したいかにもブッキッシュな作家だが、硬質で簡潔な文体と物語構成には、やはり見事なものがある。あと10年生きていたらどんな長編を書いたろうか、などと無駄な想像をしてしまう。
表題作「文字禍」は確かに、円城塔さんを触発しそうなそれ系(奇想・不条理)の特質を持っていて、これだけでもなかなかの可能性を秘めている。
本当に惜しい人が早世してしまったものだ。
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堅苦しくて難しそう。って決めつけていたけど、個人的に芥川龍之介より読みやすいかも。世界観が少し不思議なのも好みで、他の作品も読み進めたいと思った。
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中島敦の短編集。
ちょっとおもしろいセレクションで、「狐憑(きつねつき)」「木乃伊(ミイラ)」「文字禍(もじか)」「牛人(ぎゅうじん)」「斗南先生(となんせんせい)」「虎狩(とらがり)」の6編を収める。
中島敦といえば、流麗高雅な漢文調の文章が思い浮かぶが、それも知識人一族の中に育ち、漢文の素養があってのこと。祖父も伯父たちも漢学者、父は漢文教師、生母・継母・伯母も教師。とにかく教養を叩き込まれていなければ、自分の手であれだけの作品を生み出すことなどできないのだろう。敦の強みはその上に、英語も学び、世界への目が開かれていたことだ。遠く、ギリシャ、エジプト、メソポタミアまで。時を超え、それらの地で栄えた古代文明まで。
最初の3編は、古代オリエントを舞台とする。ホメロスの故事やヘロドトス『歴史』の一節が引かれ、物語の雰囲気を盛り上げる。
「狐憑」は、ある事件がきっかけで語り部・詩人となった男に起こる悲劇。
「木乃伊」は、エジプトに攻め込んだペルシャの将軍に呼び覚まされるある「記憶」。
「文字禍」は、”文字の霊”に取りつかれた学者が主人公。彼は、文字の精霊が人類を滅ぼそうとしていると思い込んでいる。だが、他の誰もそんなことは信じない。文字を見詰めるあまり、何だかそれが今でいうゲシュタルト崩壊のように崩れ始めるのだが、崩れていくのはそればかりではなくて・・・といったお話。
いずれも奇妙な味の怪異譚の趣。
「牛人」の舞台は古代中国で、中島お手の物の一編。
大夫(小領主)の庶子で、愚鈍と思われている男。色黒で背が曲がり、身体は大きい。全体として牛によく似ている。大夫に忠実で、側に常に付き従う。だが、大夫が病に倒れた後、次第に牛人の邪悪な顔が姿を現す。
ぬぼーっとした牛人の不気味さに背筋が冷える。
直接関係はないが、「件(くだん)」(顔が人、体が牛の妖怪。重大な事柄について予言をし、それは必ず当たると言われている)も少し思い出させる。
最後の2編は私小説風。
「斗南先生」とは、敦の伯父、中島端のこと。作中では敦は三造の名になっている。端は、学はあるが偏屈な老人であった。三造はなぜかこの伯父に気に入られ、その世話に駆り出される。老人のわがままに振り回され、しかし彼の中に自分に似た気質を見る。知識人ではあるけれど、ある種、不遇というか、世に珍重はされていない、個性の強い老人が活写される。
「虎狩」は子供の頃の思い出を含む。敦は少年時代を京城(現在のソウル)で過ごしている。その時、親しくしていた朝鮮の少年と出かけた虎狩の話。思春期の少年の交友と微妙な心の揺れ。そして臨場感のある虎狩。さて、どこまで実体験に基づくのかはわからないが、「山月記」の虎は、リアルな虎を知ってこその描写なのかもしれない。
いずれも佳品。知識人、中島の底力に唸る。
早逝が惜しまれる。
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「狐憑」「木乃伊」「山月記」「文字禍」の四つの短編を合わせて「古潭」と呼ばれているのだが、この短編全てが文字や文学、言葉に振り回されて破滅した者が登場する。
「狐憑」は作家という職業がない時代の話である。今でこそ娯楽等を生み出すという点で重宝されている職業だがシャクが生きた古代では何かあれば切り捨てられた。しかし、現代でも何かあれば真っ先に切り捨てられるのは…。
「文字禍」は今でこそゲシュタルト崩壊と呼ばれる現象が登場し驚いた。
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6話からなる短編集。
バッドエンドが多い。
山月記もだけど中島敦って暗い話が好きなのだろうか。
狐憑が一番印象的だった。こんな終わり方あり?と思わず呟いた。