あらすじ
漢の最盛期、武帝の時代。が、北辺の地に匈奴の来襲があいつぎ、時代に影が兆しはじめた。李陵は、五千の少兵を率い、十万の匈奴と勇戦するが、捕虜となった。その評価をめぐり、華やかな宮廷に汚い欲望が渦巻く。司馬遷は一人李陵を弁護するが、思いもかけぬ刑罰をうける結果となった。讒言による悲運に苦しむ二人の運命に仮託して、人間関係のみにくさ美しさを綴る「李陵」他に、自らの自尊心のため人喰い虎に変身する李徴の苦悩を描く「山月記」など六編を収録。
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『李陵』
主人公の李陵の他に、蘇武、司馬遷の生き様が書かれていて、
蘇武は、李陵の旧友で同じく匈奴に捕まってしまったけど、超立派な漢気の持ち主で、己の愛国心を貫き、最後は祖国に呼び戻された、まさに天命の持ち主。
司馬遷は、李陵を擁護する発言が原因で腐刑(男性器ちょん切り)と言う彼のプライド的に死ぬ程耐え難い屈辱を受けながらも、史記を書き上げると言う使命だけで生き、書き上げた後すぐ亡くなったらしい。
李陵は、充分戦ったし、匈奴の捕虜になったのも仕方ないし、祖国もそんな李陵に対して冷たい仕打ちだったけど、蘇武と比べちゃうとそこまでの人じゃないって言うか中途半端で。
李陵自身、蘇武に会うとイライラしてしまうのは崇高すぎる彼と比べてしまうからかな。
自分を庇って窮地に陥った司馬遷のことは、李陵は気にも留めてない。でも司馬遷は史記を後世に残すという偉業を達成。(李陵より何かを成し遂げている。そして、李陵は司馬遷の史記によって歴史に少しでも名が残ったんだよね。たぶん。)
2人と比べてしまうと霞む李陵だけど、私は、李陵も極限状態の中で精一杯生きたと思う。残念ながら歴史に回収されたのは英雄としてではなかったけれど。。1番リアルで人間味があると思う。
漢にも匈奴にもどっち側にもつききれなかった李陵。どっちの社会からもはみ出しちゃったような居場所のなさを感じて少し悲しくなった。最後の数文がなんだか物悲しかった。
『弟子』論語のスピンオフみたいな感じで好き!ずっと子路の心の中のモヤモヤに共感しながら読んだ。最期は孔子が心配したとおりになってしまったけど、子路の望んだ生き方。残された孔子の悲しみに想いが傾く。
『名人伝』
弓の名人・紀昌の生涯から、「枯淡虚静」とは何かを問う。
名人への執着に満ちていた紀昌だが、極限まで道を極め、最後には2度と弓を手に取らなくなる。
それは俗世間の価値観からの解放と、心の奥に訪れた静けさのように感じた。
若い頃の情熱から成熟を経て、やがて一見枯れたような静かな心境に落ち着いていくのが理想の人生なのかもしれない。
『山月記』
悲しい虎、李徴。
自嘲癖は、自分を守る鎧なんだと知った。
李徴も、虎になる前にもっと自分の弱さに気づけたら良かった。
それでも、虎になってなお作品を残したいという強い意志には、凄みを感じた。
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## 感想
『李陵』は勇猛な将である李陵が敵軍に捕えられ、祖国へ帰りたいと思いながらもその祖国から辛い目に遭わされ、捕えられた敵軍の中にも好人物や良い風土があることを知り、葛藤する話。
途中、同じく漢にいた蘇武という人と会う。
この蘇武は同じような境遇ながらに祖国を愛し続けていて、しかも最後には運良く漢に帰れることになる。
そんな李陵を見て嫉妬や羨みのような感情を覚えて悲しむ李陵の心中は計り知れない。
私たちは常に何かに所属している。
家族、学校、会社、国。
自分が属するものが信じられなくなることは、どんな気持ちだろう。
こんな風に祖国に裏切られるなら、確かに諦めてしまうかもしれない。
私も、絶望して、諦めて、蘇武のようには生きられず、李陵のように祖国を恨み続ける。
今の自分が日本に生きて、会社で働き、家族とともに過ごしていられるのは、当たり前のことではないのだということを、こうした歴史を知ると常に思う。
『弟子』は、孔子の弟子である子路に焦点を当てた物語。
子路から見た孔子や周りの国々の姿を見るうちに、その報われなさに辛くなる。
> いかなる場合にも絶望せず、けっして現実を軽蔑せず、与えられた範囲で常に最善を尽くすという師の智慧の大きさもわかるし、常に後世の人に見られていることを意識しているような孔子の挙措の意味も今にして初めて頷けるのである。(p95)
>
孔子の弟子、子路が長い放浪の旅のなかで孔子に対して思うこと。
一言にまとめると簡単に見えるが、難しいことだ。
「与えられた範囲で最善を尽くす」ことが、今の世の一員である私たちがやることだ。
常に後世の人に見られていると思って、最善を尽くす。
自分もそうありたいと思う。
『名人伝』は、弓の修行をする紀昌という人の物語。
「まばたきをするな」「目を良くしろ」という師の指示に従って、長年かけて鍛錬を行う紀昌はめきめき上達する。
しかしある時、「もう師を超えてるよな?師さえいなければ俺が最強だよな?」というようなことを考え、師に向かって矢を放つ。
それは失敗するが、それまで素直に修行していた紀昌の印象がだいぶ悪くなった。
その後、紀昌はさらなる高みを目指して、山にいる仙人のような人に教えを乞う。
また長年の修行を経て、今度は弓を持たなくなった。
『名人伝』では多分、「名人になるほど物にこだわらない」というか、ただ技術云々を鍛えるのではなくて、世界そのものと繋がるのだ、というようなことを言いたいのかなあと思ったが、私は紀昌が長い年月をかけて素直に単調な修行を実施する場面が良いと思った。
才能は大切だが、それ以上に努力を積み上げることだ。
『山月記』は、虎になった李徴の語りがメインの話。
こんな文章が印象的だった。
> もちろん、かつての郷党の鬼才といわれた自分に、自尊心がなかったとは言わない。しかし、それは臆病な自尊心とでもいうべきものであった。己の詩によって名を成そうと思いながら、進んで師についたり、求めて詩友と交わって切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。かといって、また、己は俗物の間に伍することも潔しとしなかった。ともに、わが臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為である。己の珠に非ざることを怖れるがゆえに、あえて刻苦して磨こうともせず、また、己が珠なるべきを半ば信ずるがゆえに、碌々として瓦に伍することもできなかった。己はしだいに世と離れ、人と遠ざかり、憤悶と慙イとによってます
ます己の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。(p124)
>
「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」とは凄まじい表現だと思う。
「この尊大な羞恥心が猛獣、虎だった」とその後に続く。
誰しも皆、傷つきたくはない。
『悟浄出世』は、西遊記で有名な妖怪である沙悟浄が主役の話。
沙悟浄が人生に悩み、様々な人に話を聞きに旅に出る。
旅の果て、こんなことを思う。
> 昔の自分は愚かではあっても、少なくとも今よりは、しっかりとした、それはほとんど肉体的な感じで、とにかく自分の重量を有っていたように思う。それが今は、まるで重量のない・吹けば飛ぶようなものになってしまった。先からいろんな模様を塗り付けられはしたが、中味のまるでないものに。(p151)
>
色々な偉い人の話に触れた末に、「なんだか薄っぺらいものになってしまった」と思う沙悟浄。しかしその後、沙悟浄はある考えに至る。
> とにかく、自分でもまだ知らないでいるに違いない自己を試み展開してみようという勇気が出てきた。躊躇する前に試みよう。結果の成否は考えずに、ただ、試みるために全力を挙げて試みよう。決定的な失敗に帰したっていいのだ。今までいつも、失敗への危側から努力を放棄していた彼が、骨折り損を厭わないところにまで昇華されてきたのである。(p156)
>
「考えるよりやってみよう」という考えに、考えに考えた末になったのは面白い。そしてこれは私自身も大切にしている考えだ。あれこれ考えると、良くないことが頭をよぎり、身動きできなくなる。誰も人生の正解なんてわからないのだから、やるだけやってみればいいのだ。家族を不幸にするようなこと以外は。
『悟浄歎異』は、先程の『悟浄出世』の沙悟浄の手記という体の物語。孫悟空の天才性や、三蔵法師の素晴らしさが沙悟浄目線で語られる。
こんな文章がある。
> 外面的な困難にぶつかったとき、師父は、それを切抜ける途を外に求めずして、内に求める。つまり自分の心をそれに耐えうるように構えるのである。いや、そのとき慌てて構えずとも、外的な事故によって内なるものが動揺を受けないように、平生から構えができてしまっている。いつどこで窮死してもなお幸福でありうる心を、師はすでに作り上げておられる。(p176)
>
三蔵法師は問題を切り抜ける道を外でなく内に求めると言う。
自分の心の有り様で世界の捉え方は違う。
同じ物事を見るのも、考え方次第だ。
### まとめ
それぞれの短編は中国の古典を題材にしていて、芥川龍之介のような寓話的な雰囲気がある。
史実のような話の中に、人間の嫌なところが滲み出るように描かれていて、「ああ、こんな気持ちになることあるよなあ」と思う。
特に私は「山月記」が好きだ。
自分が何者かであると信じながらも挫折し、自己理解に苦しみながらも諦められずに、「せめて少しだけでも」と自分の生きた証を残そうとする。
世界の歴史と比べて、人生は短い。
その中でもがき苦しみ、何かを残そうとしてきた人たちがいたから、今の世界はある。
名前も残らないような大勢の人の仕事の上に世界は成り立っている。
自分もその世界の歯車の一つとして、何か形として残して死んでいきたいものだと考えているし、そのように行動するよう心掛けている。
だから「山月記」の李徴の痛みは刺さる。
中島敦自身、こうした苦心があったのかもしれない。
作家は孤独だろうから。
でも、こうして中島敦自身が亡くなった後もたくさんの人に作品が読まれていることを思うと、李徴は少し報われたのか?と考えたりもする。
「山月記」の李徴のように、「弟子」の孔子のように、私も後世の人に何を残していけるような人間でありたい。
昔、教科書で読んだ時の「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」というフレーズが忘れられず購入。
若い時にも衝撃を受けたものだが、大人になってからもまた違った意味で衝撃を受けた。
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思えば私の中華風物語好きもここから始まったのかもしれない。
中学時代この本を読んでから今に至るも読み返している。
最初の部分は暗誦できるまでになっていた。
その後、20年ほどしてある本屋さんで高校ぐらいの男子二人連れが本を選んでいた。一人の子が冒頭部分を語り出したのを聞いて、この年代の子供たちには印象の深い文学なのだなと思った。
今も電子本で携帯しています。
何度読んでも味わい深い。
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割と定期的に読み返すんだけど文体が好き。
漢文調でお堅いかと思いきやどことなく艶っぽくてリズム感が良い。声に出して読みたい感じ。
『山月記』が特に有名だし切なく滾るものがあるけど、個人的には『弟子』と『悟浄歎異』が好き。子路から孔子への思いとか、悟浄の悟空語りとか「これだけの圧倒的語彙力で推しを褒め称えるのマジ尊敬」ってなる。
Posted by ブクログ
「李陵」「山月記」「弟子」「名人伝」「悟浄出世」「悟浄歎異」
正義感あふれる李陵が敵国匈奴に捕まる。司馬遷は李陵を庇うが、武帝に逆ギレされて宮刑を受ける。
報われない自分の境涯に発狂し虎になる李徴。ノイローゼぎみの沙悟浄。
どの作品も不安や不快、やるせなさが漂うが、人間の愚かさや弱さを直視することで、人間の本質がジワジワ浮き上がってくる。
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名人伝 ー 技を極めるため、成長しつづけて辿りつく先は… 初めて読んだ時、ラストは軽い衝撃でした。人生における老いの一つのモデルとして今も心しています。段々と衰える、ではなく本質を極めていく人の姿が見えます。
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≪引用≫
地に落ちた矢が軽塵(けいじん)をも揚(あ)げなかったのは、両人の技がいずれも神(しん)に入っていたからであろう。
(なんじ)がもしこれ以上この道の蘊奥(うんのう)を極めたいと望むならば、ゆいて西の方(かた)大行(たいこう)の嶮(けん)に攀(よ)じ、霍山(かくざん)の頂を極めよ。そこには甘蠅(かんよう)老師とて古今(ここん)を曠(むな)しゅうする斯道(しどう)の大家がおられるはず。老師の技に比べれば、我々の射のごときはほとんど児戯(じぎ)に類する。の師と頼むべきは、今は甘蠅師の外にあるまいと。
「既に、我と彼との別、是と非との分を知らぬ。眼は耳のごとく、耳は鼻のごとく、鼻は口のごとく思われる。」というのが、老名人晩年の述懐(じゅっかい)である。
≪レビュー≫
中島敦を読んだのは初めてである。
漢文学者の父を持つ敦は、15歳にして3人の母親を持ったという。33歳で亡くなっている。
「名人伝」は、趙の邯鄲の都に住む天下第一の弓の名人になろうと志を立てた紀昌という男の物語である。
紀昌はまず、百歩を隔てて柳葉を射るに百発百中するという達人の飛衛に弟子入りする。飛衛の教えのままに弓の名手になった紀昌は、「天下第一の名人となるためには、どうあっても飛衛を除かねばならぬ」と飛衛に矢を向ける。この戦いは互角だったが、飛衛は身の危険を感じ、紀昌に新たな目標を与えた。それが甘蠅(かんよう)老師だった。
飛衛が「己の業が児戯に類する」というほどの甘蠅老師は、紀昌に「不射の射」を教える。
9年の歳月が流れ、山から降りた紀昌は、「以前の負けず嫌いな精悍な面魂はどこかに影をひそめ、なんの表情も無い、木偶のごとく愚者のごとき容貌に変って」いた。そして不思議なことに弓も矢も再び手にすることはなかったという。
やがて老いた紀昌は、「既に、我と彼との別、是と非との分を知らぬ。眼は耳のごとく、耳は鼻のごとく、鼻は口のごとく思われる」と述懐する。
不思議なエピソードが唯一残っている。知人の許に招かれた紀昌が、弓と矢を見て「 それは何と呼ぶ品物で、また何に用いるのか」と聞いたというのだ。射の名人たる紀昌は、既に弓を忘れてしまっていたのである。
物語の概要は上記の通りである。
とても不思議な話だ。
業の深奥を極めたはずの射の名人が、最後には弓の名前も使い方も忘れてしまっていたというのである。
名人というよりは神の域に達してしまった者にしか見えない世界がある、とも取れる話である。
興味深いのは、「神に入る」や「蘊奥を究め」などの表現が、囲碁名人の允許状や将棋名人の推戴状に通じているところだろう。
もしくはこの作品から取ったのかもしれない。
囲碁や将棋の物語を書くには、この話は使えるかもしれない。
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●山月記●
この気持は誰にも分らない。誰にも分らない。己と同じ身の上に成った者でなければ。
事実は、才能の不足を暴露するかも知れないとの卑怯な危惧と、刻苦を厭う怠惰とが己の凡てだったのだ。己は漸くそれに気が付いた。
この胸を灼く悲しみを誰かに訴えたいのだ。
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中国の古典を材にとった漢文調の格調高い文章。有り余る才能と誇りを持て余しながら、自分の存在意義を深く追求せずにはいられない人間の苦悩を鮮やかに描き出している。その主人公たちの姿はたぶんそのまま中島敦本人の姿なのだろう。
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中島敦の作品集。
いまさらのように、万城目学氏の悟浄出立との関連に思い至り、悟浄出世、悟浄歎異の2編が含まれている本書を読んだ。
いずれの作品も素晴らしい。伝説に場を借りつつ、人についての洞察が巧みに織り込まれている。あらためて面白かったし、戦中の作家であるけれど現在読んでも読みやすい文体も素晴らしい。
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暗い文体だが、小説とは思えないくらいに理路整然とした文章だな、という印象。冗長な部分がなく、スッと頭の中に入ってくる。
個人的には表題の李陵・山月記よりも悟浄出世・悟浄歎異の方が好みかな。1人で悩んで悩んで何も解決せず、他の仲間と行動を共にしてみたら「ま、いっか」という結論に落ち着く感じ、分かるなぁ。
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『山月記』の感想。
高校での国語の授業で『山月記』を読み初めて中島敦を知った。友達から文豪ストレイドッグスの主人公はこの人がモデルだよと言われたことと『山月記』自体が妙に心に残る作品であったことを思い出した。
特別でありたいと願う高校生に「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」というワードを読ませるのかと今になって思う。
『山月記』の元である『人虎伝』と比較して読むと中島敦が作品に込めた想いが分かるような気がする。
「人生は何事をも為さぬにはあまりに長いが、何事かを為すにはあまりに短い」という一文が私は大好きなのである。
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高校の頃の教科書にでてきたときはイメージがあまりわかなくて、ぴんとこなかった『山月記』
「史記」「三国志」「キングダム」など読んで中国歴史ドラマみて、中国史を勉強して、イメージできるようになってから改めて読むと、深く心に届きました。
その時代の考え方、習慣を知っていると理解も深まるしおもしろさも増すのね
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中国の故事を元に描かれたものが多いからか、とっつきにくい印象だったけど、全ての作品に引き込まれてしまった。
特に山月記と悟浄出世。
全てに底通する、自己の弱さや迷いに向き合わざるを得ない主人公達は、きっと敦くん自身の姿なのだろう。
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中島敦の本を開くと紙面が黒々としている。つまり、漢字が多いのだ。中国の古典に題材をとった小説が多く(この本に収められてあるのは、そういうのばかり)、難しい漢字、知らない言葉が多く、実は四割くらい意味が分からなかった。内容も哲学的で一字一句理解しようとすると疲れる。が、全体的に面白かった。
面白かった理由のその一は、読んでいて賢くなった気がするからだ。北風のことをいう「朔風」という言葉など漢文から来ている格好いい言葉遣い、漢字使い、漢文の知識がありとあらゆる所に散りばめられており、意味は半分くらいしか分からなくとも「これも日本文学の源流の一つなんだ。この短い熟語の中にぎゅっと意味が凝縮された魅力」と思いながら、読んだ。
言葉や漢字が難しいのに、読み続けられた理由は、話が面白かったからである。登場人物が人間的である。
高校の教科書で読んだ「山月記」。あまりにも自尊心が高すぎ、自分が人に負けているのを認められないため、人を避けるようになり、ついには山の中で孤独な虎になってしまった人の話
。当時、自分のことだと思って読んでいた。
「わが西遊記」からの抜粋で「悟浄出世」。悟浄というと、今だに堺正章が主役だった「西遊記」の中の悟浄を思い浮かべる古い人間なのだが、悟浄は元々流沙河の川底に住んでいた妖怪の一人で、「自分はダメだ。自分とは何ぞや。」と苦しみ、神経衰弱になった結果、流沙河の中の何人かの哲学者の弟子になり、却って自分が分からなくなって、最終的に三蔵法師の一団な出会う。
その悟浄の目から悟空と三蔵法師。観察している「悟浄嘆異」も面白かった。「全く、悟空のあの実行的な天才に比べて、三蔵法師はなんと実務的には鈍物であることか。これは二人の生きることの目的が違うのだから問題にはならぬ。外面的な困難にぶつかったとき、師父はそれを切り抜ける道を外に求めずして、内に求める。つまり、自分の心をそれに耐えるように構えるのである。………悟空には赫怒はあっても苦悩はない。歓喜はあっても憂愁はない。彼が単純にこの生を肯定できるのになんの不思議もない。……二人とも自分たちの真の関係を知らずに、互いに敬愛しあっているのは面白い眺めである。」
この世のあらゆる人間それぞれの短所がその逆のタイプの人を救うような長所である。そういう人間模様を観察している悟浄。
そのように人間の性格の短所を掘り下げたあと、愛情を持って第三者的な視点で肯定する、分かりやすく、面白い作品が多かった。
Posted by ブクログ
万城目学の悟浄出立にて中島敦の本作からの影響が語られており、読みたいと思った。
李陵 万城目学の『父司馬遷』と対に読む事をお勧めします。
弟子 子曰く〜に出てくる子路の話 孔子の清廉さと子路の潔白さを知る事ができた。
山月記 藤田和日郎の『うしおととら』を思い出した藤田氏も本作からの影響を受けていたのだろうかと ふと思う。
名人 極めすぎると一周するって事ですかね・・・ 個人的には本作の白眉!
悟浄出世・悟浄歎異 悟浄考え過ぎ!流石の傍観者なだけある!
因みに中島敦の写真がロンブー淳に似てると思うのは私だけでしょうか?
Posted by ブクログ
もう何度読んでいるかは分からないが、折に触れて中島敦を読みたくなる時がある。
「隴西の李徴は……」から始まるあのリズム美に触れたくなるのだ。もはや中毒である。
そういう意味で、中島敦はすごい作家だなあと思う。33歳という若さで亡くなったが、この人が作品を生み出し続けていたなら……と想像してみると面白い。
私が角川版を購入したのは、森村玲さんのカバーが中島敦観とマッチしていたから。
最近、どの出版社にも言えるのだが読者獲得のために、不必要なほどマンガテイストのものに変えないでほしい。。。
さて。
「山月記」は言わずもがな、私は「名人伝」も大好き。
紀昌が世話になった師匠を倒さんとするも失敗したあとの、謎の和解ハグシーンはいつ読んでも笑ってしまう。
この「名人伝」から改めて繋がった作品が、オイゲン•ヘリゲル『日本の弓術』である。
こちらはエッセイだが、ぜひ触れて欲しい。
【2016.12.29再読】
万城目学『悟浄出立』を読んで、改めて「悟浄出世」「悟浄歎異」、「李陵」を読む。
沙悟浄の立ち位置。
活躍する者ではなく、調停する者であるという、いわゆる脇役でしかない嘆き。
けれど、悟浄の視点だからこそ、物語は小説へと変化出来たのだろうし、三蔵と悟空の持つ性質を言語化出来る思考を持ち合わせる存在は、悟浄しかいない。
「李陵」は、李陵と司馬遷の二人の苦悩から成る。
どちらも主君に見捨てられた者として辛酸を舐める。
しかし、宿命とも言える仕事に没頭出来た司馬遷と、匈奴の中で身を休めることが出来ながらも、蘇武との決定的な差にジリジリとする李陵ではその後が違う。
自分の足元に何が拡がっているのか。
人が宿命を感ずる時とは、一体どのように訪れるのだろう。
Posted by ブクログ
友人が好きだということで再度読む。
山月記の臆病な自尊心と尊大な羞恥心は非常に印象的な言葉。
李陵、弟子、悟浄出世も面白い。
生ある間は死なし、死いたらばすでに我なし。何をかおそれん。
賢者が他人について知るよりもグ社が自分について知る方が多い。
悟浄出世の女偊の話が良い。P153
Posted by ブクログ
北方の「史記」を読んでいる流れから、「李陵」を再読したくなり購入。
はじめて読んだのは中学で、その後高校で「山月記」が出てきて。
どちらの頃も、ふーん…という感想でしか持たなかった。
でも、今回はどの作品も夢中になって読み進めたし、響いた。
あの頃すでに良書に出会えていたのに、気付けなかったんだなあ。
遅くなったけれど、気付けて良かった。
「李陵」「山月記」「弟子」「名人伝」「悟浄出世」「悟浄歎異」収録
Posted by ブクログ
山月記が一番好きだ。
中島敦の文章は本当にかっこいい。
というか、めちゃくちゃ知性的といった印象。格調高い。
李徴が自分に重なるとことも多々あり、衝撃を受けた作品。
月に吠える虎…、せつなくて美しくてしびれます。
李陵も印象深い。
かっこいい男とはなんなのか。
国と国との戦争のなかに完全な悪なんて存在しないということも教えてくれます。みんな、正義と正義のぶつかりあいなんだろう。
いやしかしほんとに、かっこいっす、中島敦。
Posted by ブクログ
ipadのi文庫に入っていた。
国語の教科書などで読んだ事はあるが、流石に長年読み伝えられただけあって、短い話でも話自体も面白く、また教訓も深い。
将棋の羽生さんは、著書「決断力」の中で名人伝の様な心境で将棋を差してみたいと語っているが、なるほどと思う。
Posted by ブクログ
読み始めると案の定、「漢文訓読体」というのでしょうか、
その古い文体に悪戦苦闘しました。
しかし、知らぬ間になんだかどんどん夢中になっていきます。
単純に物語が面白い。どの話も。
特に良かったのは、西遊記の河童の沙悟浄を主人公とした二作。
悩める沙悟浄が妖怪の賢者たちを訪ね歩き、教えを乞う。
そののちの三蔵法師一行との旅を彼の視点から綴った悟浄歎異。
まさか沙悟浄をこんな風に描くとは。
読み切るのはとても苦労しましたが、非常にユーモラスで、
とても楽しめた一冊です。
<収録>
1.李陵
2.弟子
3.名人伝
4.山月記
5.悟浄出世
6.悟浄歎異
Posted by ブクログ
私が持ってるのは55版だからこの表紙じゃないよ!
高校の授業で「山月記」を読んだ時は、この作家さんとは仲良くなれそうにないなぁと思ったものだけど、今読んでみると、これだけ漢語語彙が多いのに読みやすい!
慣れない漢語語彙は確かに難解なんだけど、それでも登場人物の感情が手に取るようにわかる。
今までずっと挑戦しようと思って積みっぱなしだったのは損してたなぁ。