河合隼雄のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
河合隼雄先生のまなざしを追体験できたような、そんな読後感をもった。いいかえれば、すこし優しくなれるかもしれない、と思った。児童文学への導きとしても参考になる。引用された作品はどれも知らないものだったが、その魅力をひきだす河合先生の語りに誘われ、いくつも興味をもった。以下引用。
私は心理療法という仕事を通じて、多くの子どにも大人に会ってきたし、そのようなことについて報告を受けたり、指導をしたりすることを長年にわたって続けてきた。そして、私は実に多くの子どもたちが、その宇宙を圧殺されるときに発する悲痛な叫びを聞いた。あるいは、大人の人たちの話は、彼らが子どものときにどれほどの破壊を蒙ったか、そしてその修復がいかに困難なものであるか、ということに満ちていた。彼らの発する悲痛な叫びや救いを求める声はまったく無視されたり、かえって、「問題」だという判断 のもとに大人たちからの圧迫を強めるだけに終ったりした。本書を書こうとする私の主要な動機は、そのような宇宙の存在を明らかにし、その破壊を防止したいからに他ならない。 p.6
ラモーナはその夜、寝室の鏡に自分の顔を映してみた。
「どうして、だれも、わたしのことを、いちどもおかあさん子ねっていわないんだろう? ラモーナは、考えました。どうして、おかあさんは、あたしのこと、この子なしにはやっていけませんわ、と言わないんだろう?」
ラモーナがこのように考えて悩み、眠れずにいるときに、ラモーナの両親は、自分たちの何気ない言葉や行動が、愛する娘の心をどれほど傷つけたかなどとは露知らず、パーティの疲れの後で安らかに眠っていることであろう。親は自分が子どもを愛しているということに、あまりに安心しすぎている。どれほど愛しているにしても、その愛をいかに伝えるか、ということ、 それに、愛していることにかまけて、自分たちの行っている行為を子どもたちがどのように受けとめているか、を知ろうとすること、などにおいて努力しないのは、親として怠慢であると言わねばならない。 p.15
『クローディアの秘密』のなかで、クローディアは、「人が秘密をもってたとしても その人が秘密をもってることをだれも知らないと、そのうちつまらなくなっちゃうから。それで、その秘密が何かってことは人に知られたくないけど、せめて秘密をもってるってことくらい、人に知られたくなるのね」と言っている。秘密の扱いというものは、なかなか厄介なものである。それをいつまでも自分だけでもっていたいという気持と、誰かと共有したいという気持との相克の間に存在している。このことは、取りも直さず、アイデンティティというものが、あくまで自分だけに固有のものでありつつ、他の人々とのつながりのなかに、存在しなければならぬというパラドックスをもつことと相応するのである、と思われる。 p.52
「王様の耳」の話を、王様の立場から考えてみよう。王様にとって「ロバの耳」は運命によって与えられ、いかんともし難い欠陥であった。彼にとって出来ることは、あらゆる手段を講じてそれを隠し通すことであった。そのためには、殺人ということも避けられなかった。王の犯した多くの「殺人」は、彼が秘密を守るために、どれほど多くの「感情を殺し」、「人間関係を殺し」てきたか、と考えると了解しやすいだろう。実際、われわれは自分の欠点を隠すために、どれほど多くのことを殺すことだろう。 p.55
「三十歳近くなって、今更子どものときの痴漢のことなど言い出して……」という母親の認識は、ひとつの事実の認識としてそれほど間違っていないかも知れない。しかし、娘が母親に共有を願った「秘密」の意味は、母親の感じ方をはるかにこえる深さをもっていた。母親の何気ない拒否は、娘にとって世界からの拒否とさえ受けとめられ、死ぬより他にないと感じられたのではなかろうか。この女性にとって、痴漢に襲われたことは、人生の恐ろしさ、不可解さ、 それらすべてを凝集でした体験であったのである。それは簡単に言語化できるものでもなかった。それは身体的とか精神的とか区別して呼べるような体験ではなく、存在そのものにかかわる体験なのであった。 p.57
登校拒否の子に対して、どうしたら登校できるか、登校拒否の原因は何か、などと短絡的な発想に陥らず、心理療法家はまず、子どもとその世界を共有しようとする。この例の場合でも、治療者は「絵、音楽、テニスなどを介して」少しずつ二人の共有できる世界をつくりあげていったと述べている。そのような地味な努力に裏づけられ、時が熱したときに、一匹の犬が二人の前に現われる。汚い犬を自ら抱きしめることによって、少女は自らが「けがされた」と思い込んでいた経験についての秘密を、治療者に告げることを決意する のである。
このような全体の流れ、「時熟」するときの素晴らしさを味わうことなく、これらの話から、「登校拒否の子には動物を与えるとよい」などと判断するのは、誤解も甚だしいと言わねばならない。動物にしろ、「とき」にしろ、やってくるのであって、人間が与えたり、しつらえたりできるものではない。あくまで子どもの主体的な動きによって、動物とのかかわりが生じてくること、それを意味あるものとするのに必要な、子どもとの人間関係をもつ人が存在していること、などが大切な条件であることを忘れてはならない。 p.87
ところで、ノンちゃんは自分のことを話すとき、自分がどれほど「よい子」であるかについて語った。すると、おじいさんは「なんじゃい! それじゃ、おまえ、まるで修身の目次を読んどるみたいじゃないか」と言う。その上、「そういう子は、よくよく気をつけんと、しくじるぞ!」とまで言うのである。それまでは「よい子」だと誰からもほめられていたノンちゃんは、これを聞いて不安になってしまう。それに対して、おじいさんは「人にはひれふす心がなければ、えらくはなれんのじゃよ」と教えてくれる。 p.124
しかし、人間の生き方というものはそれほど一方向に規定できるものであろうか。あるいは、 何が「正しい」かそれほど簡単にきめられるのだろうか。人間の魂はそれに対して、強く 「否」と叫ぶだろう。たとえば、洋は同級生の白石なぎささんや、ふと電気科学館で知り合った、京都に住む島恵津子さんなどとつき合いたいと思う。洋の魂がそれを呼びかけるのだ。しかし、当時の道徳律は、そのような軟弱なことをはっきりと「悪」ときめつけるのである。佐脇さんはそれに対して、何がよいとか、まちがっているなどと論じたりはしない。ただ、洋が 「女の子」たちとつき合えるように援助し、それを妨害しようとするものには敢然と立ち向ってゆくのである。導者は社会的規範や、指導者の言葉にまどわされることなく、魂の呼びかけに応じてゆく。そこでは、言葉より行為が、概念や規範よりも人間存在そのものが、重みをもつのである。 p.136
森崎は、まっとうに答えられぬ自分を責め、「ただひたすら、一緒に生きるからゆるしてね」と心から思っていると、
『 そのうち、子がわたしの背へちいさな手をのばし、撫でつつ言った 。「泣かないでね、もうこわいこと言わないから」 』
母の涙を見て、子どもはけなげにもを慰めようとしている。大人が本当に心を開いて接したとき、大人と子どもとの地位が反転するときがある。三歳の子は、母の涙によって慰められ、 またその母を慰めようとしている。これほどの母子の心の深い交流が、「死」を契機として生じていることにも、注目したい。死を遠ざけて生きている人は、真の心の交流を体略することは非常に難しいであろう。死は真剣に取りあげられる限り、生に深みを与えてくれる。 p.159
ところで、バーバラはロスを連れ出して、近くの墓地にゆき、ある墓石を示して 「お母さんはこれをどう思うか」ときく。見ると、その墓石には、ある家族の四人の名が記されており、そのうち二人は死んでいて死亡日が記されていたが、二人は生きているので、生まれた日だけで死亡日が記されてなかった。言わば、生きているうちに早手まわしに墓がつくられていると言うわけである。これに対して、ロスは「これは少しばかりやり過ぎじゃないの。死んでから名前を入れたって遅くはないでしょうに」と言う。すると、 バーバラは大きな安心の吐息をつき、母親に抱きつき、「ありがとう、私の知りたかったのはそれだけ」と言って、大いに満足の様子を示した。
ロスはこのことに大いに感激した。バーバラが母親に言いたかったことは何なのだったろう。 彼女が言いたかったことは、死の問題を取り扱うのはいいけど、お母さんはやり過ぎて止まるところがわからなくなるのじゃないの。死人も生きてる人も一緒に考えてしまって、ワークショップが終っても、普通の生活に戻れないのじゃないの、ということだったのだ。それを、墓石の名前の一件を尋ねることによって、見事に確かめ、母親が止まるところを知る人であるこ とを明らかにし、安心したのである。 p.164
彼女が息を引きとったとき、他家に嫁いでいる姉から電話があり、次のような夢を見たと報せてきた。《 気がつくと白い上衣に赤いはかまをはいた舞美子(この少女に山中がつけた名)が枕元に三つ指ついて坐っている。「これまで大変永らくお世話になりました。お母さん、お父さんを大切にしてあげて下さいね。それでは……」と言って、すっと宙に浮き、だんだん身体が小さくなって、神棚の戸を開けてその中に入っていった。 驚くべきことに、これと同様の夢を少女の伯母も見ていたことがわかったのである。…(中略)…
心理療法の仕事をしていて、特にそれが死にまつわることであるとき、このようなまったく不思議な現象に出会うことが多い。われわれはこれをどう説明するかなどと言うよりも、事実は事実として受けとめ、そこにこめられた意味について考えてみるべきであろう。少女の姉と伯母が見た夢は、彼女の短い、苦しみの多い人生が決して無意味なものではなく、普通の長い一生よりは、はるかに高い次元において達成されたものであることを告げているように思われる。彼女は満足して逝ったことを、最後に家族たちに告げたくて、その夢に現われたとさえ感じられるのである。 pp.172-173
マルティンの父は彫刻家になろうと努力したのだが、逆に自分の才能に見切りをつけ、電気製品のセールスマンになって生活している。このため収入は増え、生活は随分楽になった。マルティンはこのような父の生き方に対して、何か割り切れぬものを感じていた。ある夕食のとき、マルティンはそのことにひっかかり、もし自分に父親ほどの才能があったら、「電気製品のがらくたなんか持って走りまわったりしないな」とずけずけと言う。父親は「自分の望みが何かを考えるのは自由だが、三十年たったらおまえの考えも変わるだろう」と平然としている。マルティンは腹が立ってますますつっかかっていく。このときの父親の態度が素晴らしい。父は静かにマルティンに言った。
「おれは、おまえの望む父親ではないだろう。理想の父親とか、そんなんじゃないだろうよ。 だからといって、おれを傷つけることは許されない。おれがおれ自身にいうのをはばかったこと、それをおまえがいっていいと思うのはまちがいだ。おまえが知りたいのならいうがね、 おれは自分自身と戦って、考えぬいたのだ。そして、ある日、はっきりと悟った。おれの才能、 その限界。おれの才能は、はたして自分の家族を飢えにさらす価値があるのか、計りにかけ、 その価値なしと認めて、真剣な気持でパンをかせぐことにとり組んだんだ。さあ、おれは今、 静かに食事をしたい。」 pp.200-201 -
Posted by ブクログ
心理療法家の河合隼雄さんが素晴らしい児童文学の数々を紹介してくださる。児童文学は子どものための読み物ではなく大人にとっても子どもにとっても大切なものであるというメッセージが繰り返される。創元社がつけた帯は、現代人のたましいの危機は、ファンタジーと切り離されたときから始まった、と。
私は私のために児童文学をもっと読まなければならないと強く思った。ただ、そういった使命感からだけではなく、紹介される本はすべて間違いなくおもしろい匂いがぷんぷんするのだ。こんなにたくさんの素晴らしいことが保証された本と出会うきっかけをこの1冊から頂けて有難い!
中には8才の娘もそろそろ読めるものもあるだろう。親娘で同じ本を読んで感想を言い合うなんて夢のような体験がすぐそこにありそうでワクワクする。
残念なのは本書で度々登場するカニグズバーグの作品が現在では入手困難であること。きっと素晴らしい作品たちなので、復刊されることを切に願います。 -
Posted by ブクログ
先日、長らく外見で悩んでいたコンプレックスの一つが解決に向かう出来事があった。その時、コンプレックスの解消がここまで心を軽くするものかと感動し、同時に、他のコンプレックスも解消していけば人生はもっと快適になるのではと考えた。
そこで、そもそもコンプレックスって何だっけを知りたく手に取った一冊。
コンプレックスの定義等は本書参照だが、自分の中でも抱えていた内面のコンプレックスを考えるいい機会になった。家族との関係性、結婚に対する束縛感、苦手な同僚に対する嫌悪感と言ったものがどこから来ていたのか。
最終章の元型の話はあまり理解出来無かったが、全体通して、本を置きながら自問自答出来る良書だと思う。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ本書は、四天王寺人生相談所が開催していた年一度のカウンセリング研修講座に、著者が講師として招かれ、実施した講演の記録をもとに編集されたものである。その研修の受講者は、学校の先生などの教育者であったり、学校カウンセラーもいたかもしれないし、これからカウンセラーになろうとしていた人かもしれない。
著者は「別にカウンセラーになろうとする人でなくとも、教育、福祉、医療などの領域で、何らかの意味で対人援助の仕事をしている人々にとって、本書はどこかお役に立つところがある、と思っている」と述べている。
上下巻あるうちの上巻である。
章のタイトルを見れば、講演に対する興味が膨らむ。
第一章 家庭・学校で問題が生じたとき
第二章 心を聴く
第三章 カウンセラーという人間
第四章 「治る」とき
第五章 限界があることを前提に
第六章 役に立つ反面の危険性
本書の内容のすべてと言っても過言ではない内容が、第三章に記されている。読者の期待に対するズバリの回答である。カウンセラーの三つの条件である。
たった3つの条件を満たすことができれば、特に勉強などしなくても誰でも一流のカウンセラーになれるという。
①カウンセラーは、クライエント(カウンセリングを受けにきた人というような意味)に、まったく無条件に積極的に関心を払っていく(無条件な積極的関心、積極的尊重)。
②共感するということ(クライエントの悩み、苦しみ、悲しみ、あるいは喜びをともに感じていく)
③自己一致(カウンセラーがその時に言っていることと、感じていること・思っていることがぴったり一致していること)
河合先生は、プロの商売道具のエッセンスをいとも簡単に開示されたが、これは簡単なようで、実は非常に難しく、素人には到底できない、トレーニングをつんでもなかなかクリアできない条件だからである。
本書の内容のすべてはこの3条件の実施に関する話であって、そのニュアンスをとらえるには、全体の講義を聞く(読む)しかない。ただし、読んだからといって、すぐに実践できるものでもない。だけども、これを知っているか、知らないかで、問題をかかえる人と正しく向き合えるか、全く誤った対応をしてしまうかという大きな差を生じさせてしまう。
現代社会はとくに、自分の周りを見回しても、このようなコミュニケーションを求められる場面が非常に多いように感じる。カウンセリングとまでいかなくとも、人の話をきちんと聞かねばならない場面は多い。
その時に、この意識をもって接するのと、そうでないのとでは人間関係に全く正反対の結果をもたらすように思える。話の聞き手として、コミュニケータとして、誤った対応をしないために、この知識は非常に有効であると思う。
もちろん深刻な内容での本来のカウンセリングを要する場面では、プロのカウンセラーによるカウンセリングで対応せねばならない。本書の中でも、著者が「カウンセリングは命がけである」という趣旨のことを述べているように、中途半端なカウンセリングは危険である。
そして、もう一つ重要な事実が本書で明かされている。
それは、カウンセラーがクライエントを治療するのではないということである。カウンセリングにより、クライエントが自らの力で治癒していくのだそうである。つまりクライエントの自己治癒力をアシストするのが、上記の三条件の遂行ということだ。
身近にメンタルの病と闘っている人がいるならば、少なくとも三条件を誤らないことが、本人の自己治癒を阻害しないためにも重要だなと感じた。
この三条件の裏返しは、①無関心、②共感できていない、共感しようとしない ③自己一致していない(言ってること、やってることと、心で思ってることが一致していない)だ。・・・確かに、これはよくなさそうだ。
河合先生の本は、いろいろと考えさせてくださる。下巻のほうも楽しみである。 -
Posted by ブクログ
ユング派の臨床心理学者だった故・河合隼雄さんの講演から、
子ども時代について、
青年時代について、
中年期について、
老年期について、の四つを書き起こした本です。
なんていうか、
子どもにしても中年にしても、
その表面的な行動や言動なんかのベースにある、
見えないところを考えていくことで、
すごく人間理解が進むんですよね。
河合隼雄さんは膨大なカウンセリングをしてこられた方ですから、
それまでよく認識されてこなかった、
人間の行動の背景や原理、仕組みなんていうものを、
こういう比喩は適当か微妙ですが、
ジャングルの奥地の遺跡を発見するみたいな感じで、
見つけてきたような百戦錬磨の心領域冒険家みたいな印象を持ちます。
木を見て森を見ずっていいますが、
木を見て森を見たからこそできあがった学問領域です。
それは、現象学からの流れなんですかね。
本書は、河合さんのユーモラスな語りを、
会場で楽しみながら拝聴しているような感覚で読めます。
しかも、平易な言葉遣いなのに無駄がなくて、
じっくり読み進めているとけっこうきわどいところを舞台としていることに
あるとき気付いたりして、
読み手はそんな場所にいつしか誘われていたりします。
びっくりするくらいです。
そうだそうだ!とか、うわすごい!とか、
再確認したり再発見したり、
解けなかったところを上手に紐解いて見せられたり、
そういう経験ばかりの読書になりました。
そんななかでも、たとえばこういう気付きが得られました。
何か欲しいときに
「へえ、へえ」
と腰を低くして接するのは常套手段というか定石だと思いますけど、
昔からそこにどこかずる賢く立ち振る舞っている感じがして、
自分がやるにはなかなかできない、みたいなのがありました。
そして、同じように感じるかたも多くいらっしゃると思います。
でも、「水は高い所から低い所に流れるもの」と聞くと…、
あれまあ!と思っちゃう。
そっか、そういうもんだよね、と自然に腰を低く出来そうな気がしてきます。
何かが欲しいなら、自分を低くして
そこに流れ込んでくるようにするといいんでしょう。
で、ちょっと角度を変えて考えてみると、
なんか好ましくないものが流れ込んでくるなあと思うのなら、
自分が低い位置にいることに気付けるかだ、と。
そんでもって自分が低いところにいるから、
妙なものが転がり込んでくるということがわかれば、
自分を高くするように仕向けるといいんですね、理論上は。
さらっとそういうことが本書には出てくるから、
そこから自分なりのやり方で解きほぐすように、
そして自分に寄せた知見から考えてみました。
これだけじゃなしにですが、本書から窺えますが、
河合隼雄さんはすごいんです。
というわけですが、
これが本年最後の読書記事になりますが、
本書は本年最大のおすすめ本といえます。
おもしろかったです。 -
Posted by ブクログ
箱庭療法が大好きで、できたら、勉強し、カウンセリングに使いたいと思っている。
箱庭の勉強の仕方がわからず、公認心理師で、実際に箱庭療法をやっている方に聞いたところ、「とにかく河合隼雄先生の本を読みなさい」と言われたので、手始めに読んだのがこの本。
今まで、自分が箱庭体験をし、それを周囲のカウンセラーに話した時、「なんで治るのか?どんな解釈をするのか?」という質問をよく受ける。
他の箱庭療法の本で、「言葉にしたことで、本来見るべきところが見えなくなることがある。」という旨の話が載っていたので、それを語ることが多かったが、この本を読んで「こういうことか!」と、うっすらとわかった。
もう一度、読み込まないと、明確には語れないが。。。
日常生活の中で、好きなペンを買う、好きなノートを買う。など、色々な物の中から、たくさんの選択をしている。そして、それらを何処に置こうか?どう使おうか?というのも無意識に考えている。
それを箱庭の中に置くミニチュアが代替しているということは、つまり、箱庭とは、日常生活の再現なのかな。というのが、イメージとしてもったこと。
だから、その人の無意識が出るし、置いた物に対する意味は、置いた人にしかわからないので、解釈はできないのだと。
奥が深いなー。。
でも、面白い。やっぱり!
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Posted by ブクログ
p.47
子どもが成長し、傷ついた心が癒されてゆく過程において、秘密をもつことがどれほど大切であるかがよく示されている。しかしその秘密は、育てられ、親しい人と共有され、最後にはすべての人の前に開示されるものへと変化し、発展してゆくものなのである。
→ 読書会入門で紹介される猫町UGの魅力とは「仲間との秘密の共有」なのだろう。閉鎖された安全な空間で極上の秘密を感情とともに共有・遵守することで、アイデンティティが確立される。それは、さなぎが蝶に変化を遂げるほどの激変を起こすこともある。のでは、なかろうか。
p.38
子どものことを述べているつもりが、知らぬ間に大人の深刻な問題に変わってきてしまった。これは最初にも述べたとおり、子どもの宇宙について知ろうとするのは、大人の宇宙について知ることになる事実を示している。変革者としての子どもは、大人の中に住んでいる、とも言えるのである。
→ 子どもが大人を見て学ぶように、大人も子どもをよく見て学ぶ必要がある。魅力的な人物ほど、子供っぽさを大切にしているものだ。
p.59
秘密を打ち明け、それを共有してゆこうとするとき、それに伴う苦しみや悲しみの感情も共にしてゆく覚悟がないと、なかなかうまくはゆかないものである。
→ 人が大きく成長するとき、感情が如何に重要な要素であるかを理解しておく必要がある。
p.68
この例を見てもわかるとおり、治療者にまず要求されることは、子どもの心に探りを入れたり、測定したり分析したりすることではなく、子どもの心の細やかな動きに敏感に反応し、そこに示された世界のなかで、できるかぎり共に生きようとする、感受性とコミットする姿勢なのである。
→ エスノグラフィー、行動観察の基本がこんなところでも語られています。今、自分の中で行動観察が熱いということか。
p.134
導者としての老人像を見事に描ききった作品、今江祥智の『ぼんぼん』を取りあげる。
→ 児童文学作品がどれも魅力的に語られますが、特にこの作品を読みたいと思いました。
本書で紹介されている文学作品で読みたいと思ったもの
・クローディアの秘密 カニグズバーグ著 p.24
・秘密の花園 バーネット著 p.42
・トムは真夜中の庭で フィリパ・ピアス著 p.105
・ぼんぼん 今江祥智著 p.134
・ジョコンダ夫人の肖像 カニグズバーグ著 p.140 -
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備忘録です。
臨床療法の過程で、相談者が見た夢とその分析をする具体的な話が載っていたけど、それが面白かった。何が面白いかって、人の無意識ってかなり勝手に物語をつくってるのが面白い。「勝手」というのは自我に対して遠慮なしにということと、自動生成的に作られているということがおもしろい。なんでわざわざ物語というカタチにするのか。
科学がない時代、人は安心して生きるための方法(宗教、神話など)を色々と考え実践してきた。それが事実心の平穏をもたらしていた。科学はその科学的でさなを証明したかもしれないが、安心の代わりとなるものは残してはいない。人類は輪廻転生や柳田國男の御先祖様の話のように本質を捉えたシステムをつくっていた。永続性を担保してほしい心。
個人主義といっても西洋的な捉え方と日本的な捉え方が違くて、日本では利己的なという意味合いが強いが、西洋では神と一体だったものが個として独立、相対化した状態という風に捉えられるらしい。日本は相対化する対象が神ではなく社会なのだと。なるほどテキスト上の意味はわかるが、実感がない。おそらく日本的な感覚の方が構造は複雑そうだが、なんだかわかる。西洋の感覚を掴むのは難しそう。
西洋では、宗教を持つことは当たり前のことで、日本人は宗教を聞かれた時に、無宗教だと答えてはいけない。日本の宗教は美意識のようなもので、日常生活に著しく混ざっている。「道」
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著名心理学者と翻訳家の対談でシェイクスピアの名作の数々の登場人物の心を読み解いていく!「ロミオとジュリエット」のジュリエットが14歳、ハムレットが30歳とあるのが、珍しい年齢の表記だそうで、両作品とも元作の年齢をシェイクスピアが変更していることにどんな意味があるのか。心理学的な観点から読み解いていく中で、シェイクスピアは凄い!ということを痛感させる2人の観察力に驚き。「ロミオとジュリエット」「ハムレット」の他、「真夏の夜の夢」「十二夜」「リチャード3世」。そして書名に「決定版」がつくのは、「リア王」「マクベス」「ウィンザーの陽気な女房たち」「お気に召すまま」に加え、最期に「タイタス・アンドロニカス」が追加になったからだという。シェイクスピアの作品をほとんど読んだことがない私でも、諸作品の登場人物の心理に非常に興味を持つことができる楽しい読み物になった。三つ子だっというエリザベス・キュープラ―・ロスの「私は何なの?」を感じた瞬間の話は実に面白い。日本の歌には「太陽」は全く出てこないが、西洋では多く歌われている!実に興味深い話を河合氏が紹介している。