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影はすべての人間にあり、ときに大きく、ときに小さく濃淡の度合を変化させながら付き従ってくる。それは「もう一人の私」ともいうべき意識下の自分と見ることができる。影である無意識は、しばしば意識を裏切る。自我の意図する方向とは逆に作用し自我との厳しい対決をせまる。心の影の自覚は自分自身にとってのみならず、人間関係においてもきわめて重要である。刺激に満ちた万人必携の名著。
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Posted by ブクログ
河合隼雄 [著]. -- 講談社, 1987. -- (講談社学術文庫 ; [811]) 目次 第1章 影(影のイメージ、ユングの「影」概念、影の種々相) 第2章 影の病い(二重身、二重人格、夢の中の二重身) 第3章 影の世界(暗黒、不可視の影、地下の世界) 第4章 影の逆説(道化、トリックスター...続きを読む、ストレンジャー) 第5章 影との対決(自我と影、影との対話、影と創造性) -感想- 読み終わって、あまり感想を書く時間も無いのだけれど、やはりぼーっとしている。自己実現とは、自分の自我に無意識を少しずつ統合していくこと。本当の自己を実現(現実に顕在させる)という意味で、「自己実現」というっぽい。今まで、夢や目標を叶えることを自己実現と考えていたので、少し驚き。自分は、この本を読んで、何を今までから抽出して考えて、将来に何を向けていくのか、考えている。「影の存在」は、自分でも、最近よく感じる。「本当の自分はどう思ってるんだろう」とか、「本当の自分が言いたいことは、何なんだろう」とか、「本当の自分は、何がしたいんだろう」とか。今まで何となくて、今もずっと何となくだし、これからも何となくだけど、前よりは少し、実際的に考えるよう努力している。当たり前に人が出来ている部分で、自分は苦手だなと思う部分。実際的に考えようとしてる部分が新鮮で、それゆえに逆に無意識,内面へのベクトルも強くなった気がする。ここ数年、どちらもだいぶずっと希薄だった。こういうのも、「一生考えていく問題」だと、少し思うし、「途中のまま死んでいく」問題なのかなと、思ってる。だから、焦らず、目先から、手の届く範囲の現実から固めて、生きていく姿勢を崩さないでいたい。自分が求める理想も、その延長上にしか無いから、当たり前だけど。話が大きく逸れたけど、「影の現象学」について、自分は、影との付き合い方が、あまり上手くないような気がしてる。よく、それに振り回されがちだし、ベットの上でどうしようもなく焦って身悶えすることが多い。それを客体化して、言語化して、論理的に整理して、実際に繋げる事が、苦手というか、あまりそのプロセスを大事にしてこなかった、気がしてる。今は内面への意識が凄く強いけど、少しずつそれを現実に形にしていく方法を探していけたら、いいなと、本を通して、改めて思った。
個人的には、河合隼雄氏の数ある著作の中でも一番の名著ではないかと思う。これはしっかりと、学術文庫で出すレベルの内容になっている。 人はそれぞれ その人なりの生き方や人生観をもっているが、抑圧されたか、取りあげられなかったか、ともかく、その人によって生きられることなく無意識界に存在していながら、その...続きを読む人によって生きられなかった半面を、その人の「影」と呼んでいる。私たちは、いつかはその自分の「影」の存在を自覚し、向き合わなければ、人として成長できないのだ。 「われわれはこの世に生まれた瞬間から、常に死の可能性をはらんで生きている。「生」は「死」に向かって進行しているのであり、生きることとは、すなわち、死につつあることである。生に対して常にその反対方向の死という裏づけをもってこそ、われわれの生がダイナミックな弾力性をもつのであろう。」 このあたりは、アルフォンス・デーケン、エリザベス・キューブラー・ロス、日野原重明あたりを読んでいれば、胸にストンと落ちてくる。 こうして生きていることが「死につつある」ことを、今一度、思い出そう… 決してなくなることのない自分の「影」を自ら背負って生きてゆく。向き合う。それがだいじ。。
自分や人に向き合うきっかけになりそう。 てきとうで温かい近年のエッセイとは違って、どろどろした中からも何かを見いだそうとする感じ。 死は創造へ?
現在の自然科学の視点にとどまらない、刺激的な論文 知性とは、客観的・論理的な態度からのみ得るものだろうか 河合隼雄はいつも新しい 光と影、対立から生まれる第三の道を、人生の中で探っていきたい
ホフマン。「白い影」の投影問題。イブホワイトの統合について。ユングの幼児の頃の夢、元型的な恐怖、皮と裸の肉とでできたおそろしい高さの「人食い」。永遠の少年の元型、急速な上昇と下降の反復。中世のヨーロッパでの「愚者の祭り」、道化の重要性、それ自身自己充足的であるため両性具有的である、完璧な統一へのカウ...続きを読むンターバランス効果。道化の分類、ドライ、スライ、ビターフール、愚鈍、悪賢さ、辛辣、順に風刺の度合いが濃くなっていき笑いを失っていく。単層構造においては笑いの余地がなくなり、王に対して道化は悪としてしか機能できない。呪的逃走。
2014年37冊目。 「影」の存在の恐ろしい面ばかりに囚われている人は必読だと思う。 世界的・歴史的に「影」はどのように扱われてきたのか、というそもそも論から丁寧に始まり、 心理学的に「自我」に対して「無意識」に潜む「影」の正確をもの凄く分かりやすく解説する。 病的な症例から見られる「影」、そし...続きを読むて神話や文学作品の中に見られる「影」の具体例が豊富かつ的確に示されてゆき、 「影」に潜む創造性を手にする可能性を示してくれる。 (もちろん、「影」との接触の危険性も十分に論じながら) この本のおかげで、自分の中でいくつかの扉が開いたのを感じた。 何度も戻ってきたい素晴らしい名著。
ユング分析心理学の中核である〈影〉概念について日本人はこの本で学べることをよろこばねばならない。 いままでグダグダと考え続けてきたこと、ポスト・モダンの相対性の問題とか、組織を動かす個人を超えた力だとか、創造性にかかわる意識と無意識などなど、ユング&河合先生にはすべて説明されてしまう。 それが面白く...続きを読むないという贅沢に倒錯した読書だ。 影との対話、そして西洋と東洋を考えるために引かれたヴァン・デル・ポストの物語(『戦場のメリークリスマス』の原作)は感動ものである。
夢や文学、神話などから人間の心の中にある影を読み解いていく。 読みやすいけどとてもスリリングで内容の詰まった一冊。 この「影」という概念は、色々なことを考える指針になりそう。
忘備録。あとで読み直して体系的に考える。 Twitterで一番印象に残ったとこはフランクに書きました。そういえば、何年か前のセンターか入試かで題材になったようですね。 私が私として意識し得ること、私の過去の経験のうちで記憶に残っていること、現在の私の感じている感情、思考していること、それに知覚...続きを読むしていること、などのすべてはある程度の統合性を有し、ひとつの人格としてのまとまりをもって存在している。 実際、自分の無意識に動かされて行動し、後になってから後悔しても、自らの破滅を防ぎきれないようなことが起こり得るのである。その無意識の心の動きを把握するものとしてイメージがあると考えられる。 夢ではなく、外界の知覚に際してもイメージの働きが認められるときがある。たとえば、他人に秘した悪事をもっていると、他人が話し合っているのを見るとすぐ自分のことを言っているのではないかと感じたりする。これは、無意識的な怖れの感情が、そのようなイメージを提供するため、外界の知覚を歪曲させるのである。 人はそれぞれその人なりの生き方や、人生観をもっている。各人の自我はまとまりをもった統一体として自分を把握している。しかし、ひとつのまとまりをもつということは、それと相容れない傾向は抑圧されたか、取り上げられなかったか、ともかく、その人にのって生きられることなく無意識外に存在しているはずである。その人によって生きられなかった半面、それがその人の影であるとユングは考える。 この夢に出てきたAは、本人の生きなかった半面をあらわしている。 自分の生き方と相反する傾向をもつ影の存在と、それを通じてこそ人生の意味を深めることができることを示している 普遍的な影は人類に共通に受け容れがたいものとして拒否されている心的内容であるので、それは「悪」そのものに近接してゆくか、個人的な影は、ある個人にとって受け容れがたいことであっても、必ずしも「悪」とは限らないのである。 自我 意識の統合の中心 自己 意識、無意識を含めた心の中心 真の自己へと近似しつづける過程を、ユングは自己実現の過程と名づけたのである。 (投影に関して)このとき大切なことは、Xに対して強い悪感情を抱いたとき、自分の個人的影を越えて、普遍的な影まで投影しがちになるということである。 その人物に対して投げかけていた影を、自分のものとしてはっきりと自覚しなければならない。投影のひきもどしは勇気のいる仕事である。 白い影の投影もある すべてはユダヤ人の悪のせいであることにすることによって、自分たちの終段の凝縮性を高め、集団内の攻撃を少なくしてしまう。(中略)それは多数のものが、誰かの犠牲の上にたって安易に幸福を手に入れる方法であるからである。 (永遠の少年)彼等は慣習にとらわれず、直線的に真実に迫り、理想を追い求める姿勢をもっている。(しかし)理想を追いつつそれを現実化する力に欠ける。(中略)彼等は自分が社会に適応できないのは、自分の特別な才能が理解されないためであるとか、こんな誤った社会には適応する必要がないのだとか自分に言いきかせて、その無為の状態を合理化している。 影が個人に体験されることとしては、「まず無意識の全体として体験される」と述べたように、相当未分化な影の体験として考えることが妥当であろう。その影のどのような面に強調点がおかれているかによって、コンプレックス、超自我、魂などの言葉によって、より適切に表現されることになるのであろう。 それまで自我によって極端に抑えられていた影の部分が、自我の弱くなったときに一挙に行動化される ある個人が自立してゆこうとするとき、父親や母親の死(ときには父親殺しや母親殺し)の夢を見ることは多い。 人々は自分の考え及ばないことはこの世に存在しないと確信する。(中略)人間の心の奥深く存在する普遍的な影は、人々がそれを考え及ばぬこととしていかに否定しようとも、突如として人間をとらえ暴威をふるうのである。 影の世界には動物がよく現れる。人間の暗い側面には動物的で本能的なものが存在しているからであろう。 彼(ユング)はその『自伝』の中で、「人間にとって大切な『個』としての感情を強めるには、その人が守ることを誓った秘密をもつことが一番いい方法である」と述べている。地底の世界が地上の世界を支えるように、秘密は個人の意識の底の方に存在して、個の存在を強固にするための支えとなっている。しかし、事柄はそう単純ではない。われわれはこれとは逆に秘密を心にもったばかりに、自分を破滅に導いてしまったようなケースもすぐに示すことができる。地底の世界は地上の世界を抗しがたい陥没にさそいこむこともあるのだ。 秘密を内証の話として誰かと共有し合うことによって、相互の間の堅固なきずなとして利用し得るからである。秘密をどの程度打ち明けるかによって相互の親密性が測られる。しかし、この親密性はうっかりすると無意識的な結合による近親相姦的な親密性へと退行しやすい。秘密の共有によって結ばれた集団は堅固ではあるが、その集団の成員の個性の伸展を妨げることがある。(中略)秘密の共有による集団的同一性に自分の存在の基盤をもつときがあっても不思議でないどころか、むしろ当然のことである。ただ、このような人間関係にのみ頼りたがる人は、他人の秘密を知りたがる傾向をもつ。特に、その人が自分の存在に対して不安を感じる度合いが強いほど、他人が秘密をもつことに耐えられないものである。 秘密は自我の存在を脅かすと言った。しかし、そのような脅かしに耐え、自我がその秘密を自我の中に取り入れようと努力しつづけるとき、その個人はむしろ個性実現の道を歩みつづけることになろう。 秘密を明らかにしようとするとき、あるいは明らかにせざるを得ないとき、その個人が新しい生き方を見出そうとしないときには大きい危険に陥ることになる。それだけの強さをもっていないときに、誰彼なく秘密を打ち明けることは危険である。 われわれは、ある人が自立してゆくとき、われわれに対して秘密をもつことを許容すべきときがあるのではなかろうか。 道化のチャップリンは清らかな女性に献身的な愛を捧げるが、その恋は報われることがないのである。 トリックスターは単なる人騒がせの段階から英雄的行為の段階までひろく分布しているのである。 ある個人がトリックスター的な機能をあるときに働かせているということと、ある個人がトリックスターの元型に同一化されているときとを区別しなければならない。(中略)ある人が人生を創造的に生きようとするかぎり自分の心の内部のトリックスターと常に接触を失わないことが必要であることは事実である。王や英雄への同一化を急ぐばかり道化性を失ってしまった個人は、いかに弾力性に欠け、危険性に満ちたものとなるかはすでに見てきたとおりである。 実際、夢の層が深くなるとき、それは神話や昔話などのような蒼古の感情を夢見る人に体験せしめるものだ。 われわれはあまりにも馬鹿げた失敗を繰り返すときには、どのような類の影が自我に働きかけようとしているのかについてよく考えてみることである。(中略)影が普遍的なものに近くなり、はたらいている層が深くなるほど、自我の受ける影響は不可解なものとなる。それは第三章に述べたように、幻覚となったり、妄想となったりする。そのインパクトの強さのため、われわれは外界と内界の識別さえ難しくなるのであろう。 自我が影とのあいだに適当な関係を結ぶときは、創造的で意味のある生き方がひらけてくるのであるが、そこには常に危険がつきまとう。もし影の力があまりにも強いときは、自我は破壊されるだけである。 影と適当な関係ももち、その内容をできるかぎり自我に統合することをはかること、これが望ましい在り方である。ここでそのステップの第一として「名づける」という自我の機能があげられる。あまりにも未分化で漠然とした影に直面するとき、われわれはその対象の不明確さによって不安にならざるを得ない。そこで、せめて相手の名前を知ること、あるいは相手に対して適当な名前をつけることが影の自覚の第一歩としての意味をもつのである。(中略)名づけることは大切なことであるが、この段階にとどまっていることは無意味である、あるいはむしろ、マイナスのことにさえなりかねない。すなわち、名前を知ることによってすべてのことが解ったと錯覚し、それによって影と直面することを避けてしまうからである。(たとえば「学校恐怖症」)(中略)名前を知った後で、われわれはその対象をよく知らねばならない。 われわれが自分の生をより十全に生きようとするならば、同時に「死につつある体験」をもそこにあわせもつことが必要であろう。ここに「体験」という言葉を用いたが、それはその個人の経験したことが自我の中に取り入れられ、今後のその人の生き方の中に定着していることを意味している。多くの人は経験したことを、真の体験にまで深めることなく生きている。たとえば、われわれは生きていることが「死につつある」ことを、よく忘れてしまっている。 影は自我の死を要請する。それがうまく死と再生の過程として発展するとき、そこには人格の成長が認められる。しかしながら、自我の死はそのまま、その人の肉体の死につながるときさえある。このような危険性を含んでいるだけに、自我はときに影のほうを死に追いやるときがある。 影との対話は、われわれの内面においてもなされるが、それはしばしば影の投影を受けた実在の人との対話という形で行なわれる。 街へ帰って行く道すがら、彼はハラの最後の表情を思い浮かべた。後悔の気持ちはだんだんと大きくなり、自分の本能的な行為を押しとどめた上品な意識を悔やんだ。 相手の世界にほんの少し踏みこむことによって対話が始まる。 二人の人間の対話が真に建設的なものとなるためには、お互いが他に対して自分の影を露呈することがなければならない。しかし、これはきわめて難しく、成熟した「時」を待ってはじめて可能なことである。 影と創造性 自己実現の要請は必然的に影の介入をもたらし、それは社会的な一般通念や規範と反するという意味で、悪といわれるものに近接する。そのときに、社会的通念に従って片方を抑圧しきるのでもなく、また、影の力を一方的に噴出せしめるものでもない。あくまでも両者を否定することなく、そこに調和のカイロスがいたるのを「待つ」のである。そして、そのときに開かれる「第三の道」は、確かにその人自身のものとして、その人の真の意味の個性を際立たせるのである。
河合先生は文章が上手なので引き込まれます。 ユング派云々とか、そういうのは置いておいて、読み物として面白かった。
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