ドストエフスキーのレビュー一覧
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第2巻の有名な大審問官のくだりは一読しただけではよく解らず何度も読み返した。キリストの教えでは大多数の弱い庶民は救えないのでローマカトリックは悪魔と手を結んだと大審問官がキリストに語る。よくこんな不信心な発想できるな。でも仏教の大乗/小乗の分裂(人々の救済を目指す/自身の解脱を目指す)と似ているとも思った。イワンの主張は大審問官の1つ前の子ども殺しのくだりと併せてごもっとも。科学がさらに発達した現代の我々にとってはイワンの考え方が近く感じる。解説に出ていたライプニッツの楽天主義を批判するヴォルテールの小説カンディードもいつか読んでみたい。
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最高に面白い小説と紹介されていたので読んでみた。難解なので面白いとはちょっと違うが、世界最高レベルの小説ということはよくわかった。それをわからせてくれたのが第5巻にある訳者の亀山郁夫という人による全体解説。正直解説無しでは本書の良さはわからなかったかも。全部で5巻と長いが、各巻末にあるこれまた訳者による「読書ガイド」という解説もわかりやすく、置いてけぼりにならず伴走されている感じで最後まで読めた。一般に文庫本の巻末解説はしょーもないのが多いが、出版社は反省して本書のような優れた解説を付けるようにして頂きたい。値段が高くなってもいいから。とにかくカラマーゾフの兄弟は読んでよかった。そして光文社文庫で読んでよかった。
第1巻は布石的な説明なので退屈だし、まだ全体像がつかめないので細かい設定も全然頭に入ってこない。後で解説を読んで巧妙な設定が満載だったとわかるが。 -
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何が好きかって、彼の作品のキャラは作者に踊らされていない
それぞれの人の欲望や信念が丁寧に描かれている
天才なんだなと思う。
何故、女性の機微をここまで理解出来るのだろうか
彼は時々、熱病そのものだったのではないかと勘繰ってしまう
そしてドストエフスキーの作品における
純粋無垢が故の悪漢
中々に気持ちが悪い
こういった気持ちの悪い人間が幾重にも重なるのだが
作品にメッセージがあるなら、幸せの所在は
狂ったかのような熱病や情動に動かされるのではなく
今ある幸せを軽視する事なく見つめ直せと
喝破されているようだ
個人的に好きなのが伯爵と主人公が対峙して露悪的な心情を吐露するシーン
伯爵が金への執着について語っていたが
これは極めて大事な事だ
理想主義に卑賎を絡めると単に自分に酔いたいだけのナルシズムが混入する
真の理想主義者とは、お金と理想双方追い続け現実世界に折り合いをつける者の事だろう
ドストエフスキーの作品を読むといつだって
自分が大切な人に幸せを届けたくなる
明日が悪い事を知っていても
どうせ自分に出来る事など、生きてやるべき事をやる事しかないのだ
そんな生きる事の苦痛と幸せを噛み締めよう
虐げられる事を止めるのではなく、そういった人のトラウマを克服させ背中を支える
いつだってそうありたいものだ -
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主人公に、まるで未来の自分が書いたような強い共感を感じた。肥大化したプライドで他者を見下し、同時に自己が矮小で卑劣な存在だと認識していながらも、それを変える為に前向きな、つまり現実と対峙することから逃げ続ける。高すぎる理想で、他人を嘲笑するが、それは自分自身にも適用される。
自己嫌悪、自意識過剰、低い肯定感と高い自尊心、全て共感できた。
主人公が語る事柄も、経験があることばかりだった。物語自体、何も解決せず、循環する陰鬱を記して終わる。救いはないし、読み終わった後に何が変わるでもないが、100数十年前に自分と似たような人間がいて、それを描いた小説が古典的名作として世界中で受け入れられている事を、なんだかとても温かく感じる。しかし一方で、他人がこの小説について語っていると傲慢にも不快感に似た感情を持ってしまう。お前になんかに理解できてたまるか!と。
失礼にも恥ずかしさを覚えるほど、完全に自己投影してしまった。キリスト教や当時のロシア情勢などを関連付けて語ることもできるようだけど、それ以上に現代社会における自己の確立の困難さという普遍的な悩みを扱っているのだから、まずは後者に注目するべきだと思う。
ただ主人公の、おそらくは理想とする水晶宮については納得できなかった。半理性的で非合理で、より感覚的な愛の世界。それを理想としている前提があるから、あのラストがより際立つのは理解しているけど、思想として納得できなかった。主人公自身、本当にそれを望んでいるとは思えない。ルサンチマンとストーリーの言い訳に聞こえた。文学としてはそれが正しいのだとは思うけど、私個人として好みじゃない。 -
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ネタバレミステリーの行方にドキドキしてるってのに、最初はコーリャとかいう自称社会主義者の14歳の少年とアリョーシャとのなんだかこれいる?っていうエピソードから始まります。が、これがとても良いのです。アリョーシャの修道院を出ても変わらぬ態度を堪能出来ましたから。
そしてイワンとスメちゃんのやりとり。これこそ真実でしょ?でも、イワンも悲しいかなもう1人の自分という悪魔に苦しめられてる…
そういうのぜーんぶ持って第12編の『誤審』へ。ここはまるでオリエント急行の殺人の後半のように事件の真相が暴かれていくかとおもいきや、ミーチャの態度がおもろすぎて…自滅しかねませんよ!
さらに検事と敏腕弁護士との腕の見せどころみたいにもなっていて、思わずうなってしてしまいます。
そして判決をくだすのはなんと、「お百姓たち」。。
お、おまいらに何がわかるんだい!!
…ここまでが4巻でした。
カラマーゾフの兄弟は未完の小説と言われていますし、5巻はエピローグということですが、いったいどこまで書かれているんだろうとドキドキしています。 -
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ネタバレいろんな意味で衝撃でしたしミステリー小説の始まりみたいになっちゃってて、おや?私は世界的に有名な文学作品読んでるはずでは?と戸惑いました。
始まりは不穏としか…これまで数々の奇跡が語られてきたゾシマ長老の棺から、腐臭が漏れだし、あっという間に噂になってしまう。反長老派や不信心者たちからは嘲笑われることに…
アリョーシャが打ちひしがれながらも長老の言葉通り修道院をでてゆくと、神学生仲間の嫌味なヤツ、ラキーチンによってグルーシェニカの元へ。
ここで、村上主春樹さんの『街とその不確かな壁』に登場するベッドの上に残された葱を2本を思い出さずにはいられないエピソード、第3部第7編の3章に「一本の葱」とタイトルがついた章が!
やたらとアリョーシャになれなれしいグルーシェニカには頭にきますが、小さい頃に聞いたという寓話を披露してくれます。それが、まるで芥川の「蜘蛛の糸」のような葱のお話しです。思い出した方はきっとバー・スメルジャコフの会員でありましょう。
このあとはミーチャの破天荒ぶりが暴露されてゆきます。グルーシェニカと一緒になるために、元婚約者のカテリーナへの借金を何とかしようと金策に走り回るミーチャ。
3000ルーブルのゆくえです。(半分豪遊して使ってます)めちゃくちゃで私にはとうてい好きになれないキャラクターでしたね。
そして最初からムンムンしていたフョードル、カラマーゾフ父がついに殺害されます…
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ネタバレゾシマ長老がいよいよ最後の懺悔をし、聖体を受けたいと言う朝から始まる。
アリョーシャはゾシマ長老から修道院を出るように言われているけれど、何故なのかというのがこの朝のパーイーシー神父からの言葉に現れていた。
神父がアリョーシャにかけた言葉「さあ、お行きなさい、みなし児よ」って今思うと含みあるなぁ。
小学生たちの喧嘩騒ぎに巻き込まれるアリョーシャは、カラマーゾフ家に恨みのある少年に指を噛まれる。こういう少年たちとアリョーシャのやりとりがYA文学っぽさがあって好き。
リーズちゃんとアリョーシャの恋もしかり。リーズのめんどくさい女心がとぉっても可愛く?いやエキセントリックに描かれててたまりません。
それに比べてその後のカテリーナの執着心といったら…ドストエフスキー様の女性の描写力にただただおののきます。
2巻はこの後のイワンによる叙情詩、『大審問官』に悩まされる。。これは、教養あるイワンによる、無神論思想の言い訳的物語ですかね、それとも天使アリョーシャへのあてつけ?
正直読んだだけで、まったく理解出来てませんのでいつか解説書的なものと共にもう一度読みたい。
あとは、我が推しスメルジャコフちゃんのあのセリフ「つまり、賢い人とはちょっと話すだけでも面白い…最高❤︎
そして、ゾシマ長老は大地に口づけて、神に魂をあずけました。。 -
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ロシアの文豪、ドストエフスキーの処女作。
その日暮らしで貧乏から抜け出せない初老の小役人と、病弱で幸薄い生い立ちの少女による往復書簡…
と、話しはこれだけなのですが、手紙という性質を意識しながら読み進めると、会話と違い、文章で語られる熱い言葉の勢いに、自然と引き込まれて行きます。典型的なのは、結びの言葉が内容によって変化するところ。小役人は「〜の友である マカール・ジェーヴシキン」が多く、少女は単にイニシャルで「V.D」が多いのですが、一ヶ所だけお互いに「愛する」と言う言葉とフルネームで書かれているところなど、凝った書き方をしていて驚きました。
小役人の書く文章も、途中プーシキン『ベールキン物語』とか読書をするようになってから教養がつき、次第に手紙の文章が洗練されてくる様子など、とても処女作とは思えない作品です。
内容も、お互い貧困で追い詰められた状況でも、他人を思いやる気持ちを持ち続けている会話のやり取りにおける心理描写が上手いなと思わされることが多々あり、著者の弱者に対する愛を感じました。ラストは、2人の置かれた状況からすれば、いいまとめ方だと思います。
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ネタバレついに読み切ることができました!読みたいなと思いつつもなかなか手が出ていなかったけれども、読めて良かった。充実した読書時間を過ごせたし、ドストエフスキーの他の作品も読んでみたくなった。私の読書の世界が広がりそうな予感がして嬉しい。
下巻では、庶民や大地を肯定するところが印象的だった。ノブレスオブリージュ的な考えだろうか。農奴解放後の混乱という当時の時代要請だろうか。ドストエフスキーのお父様の事件とのリンクだろうか。特に庶民の底力を見た気がするが、判決についてはもう少し説明が欲しかった。ここは読者が想像の翼を広げる余地を残してくれたのだろうか。
また、ミーチャが、自分の悪いところや滑稽なところを認めていき、最後はこれまで自分が裏切って、そして法廷では裏切られたカーチャとも和解するところも印象的だった。やはりミーチャの中には、心の奥底では誠実でありたいという願いがあったことをより強く印象付けられた。
加えて、検察と弁護人の演説はどちらもすごく面白く、ぐいぐい読み進められた。ただ、人の一生を左右する刑罰についてこんなにも印象論ベースで語られるのかと怖くなり、「疑わしきは罰せず」の重要性を感じた。
イワンとスメルジャコフについては、未必の故意という非常に面白いテーマについて取り上げられていて、なるほど未必の故意でこういう小説が出来上がるのか、と興味深く読んだ。でも、あのイワンの行動でスメルジャコフにゴーサインを出したと意図に反して解釈されるというのは、悲し過ぎる。
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ネタバレいよいよ中巻。
この巻で特に印象的だったのは、泥棒と卑劣漢の対比に表されているように、高潔たろうとすること、名誉、恥辱なのではないかと思う。あるべき姿、ありたい姿が自分の中で明確になっていないとこういった考えや感情は湧いて来ないと思うので、やはりこの本の登場人物たち、特にミーチャは自分をしっかり持っている人なのだと思う。
私自身は、高潔、名誉、恥辱という言葉は普段は使わないものの、誠実でありたいとは思うし、自分の信念に反することをしたら落ち込むし、人からの評価を気にするし、、ともっと身近な言葉で置き換えて行くと、登場人物たちの考えや気持ちが少し身近に感じられた。
加えて、赦しという言葉も印象的だった。他人に対してどれだけ寛容になり、愛することが出来るか。『カラマーゾフの兄弟』全体を通して、さまざまな対象に対しての愛が語られていると思うが、赦しも愛の一つの形だと思う。
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Posted by ブクログ
ネタバレここまでの長編小説、しかも古典的な海外文学を読んだのは初めてだった。1回目では登場人物や起こった出来事を把握しきれず、2回通り読んだ。
1番の感想としては、人間は極貧、劣悪な環境の中でもここまで意思を持ち、強く生きていけるのかと、元気づけられた。逆に言えばここまで劣悪な環境だからこそ意思を持てるのかもしれんけど。
個人的に面白かった場面が3つある。
・予審判事ポルフィーリーとの攻防
ポルフィーリーが恐ろしいほどにラスコーリニコフの心の内を読み、追い詰めていくのにはハラハラさせられた。まさに宿敵って感じかと思ったら最終的にはラスコーリニコフの罪を軽くしようと自首を勧めるっていうのには驚いた。俺が思うにポルフィーリーも以前はラスコーリニコフと同じ思想を抱いていたからこそ、その心理が分かるし、何かしらの情けも生まれたんだと思う。
・カテリーナの悲惨な死
このシーンは読んでて臨場感満載で心が痛くなった。夫はろくでなしで有り金を全部酒に注ぎ込んでしまうし、子供も4人いて、長女はお金を稼ぐために娼婦になるしかなかったし、カテリーナ自身も生まれの良さ故のプライドを捨てられず身の丈に合わない言動を繰り返して家主に追い出され、最期はヒステリーを起こして奇行に走り、持病の結核のため血反吐を撒き散らして死ぬ。彼女の裕福だった昔を思うと辛くてしょうがない。
・ナスターシャの存在
ラスコーリニコフの下宿の女中で、たまに出てくるとなんか和む存在。おてんば娘なイメージ。結構大事なシーンにもしれっと入り込んで話聞いてたりする野次馬感が面白い。あと、ラスコーリニコフは家賃を払ってないのにも関わらず、出てくるたびにご飯食べさせてあげようとしてるのが健気で可愛い。 -
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「俺は病んでいる・・・ねじけた根性の男だ」で始まる非常に暗い小説。小説は2部に分かれ、Ⅰ部の「地下室」はモノローグで主人公のねじれた人生観がくどく語られ、Ⅱ部の「ぼた雪に寄せて」では主人公を「ひどく苦し」めている思い出が語られます。
Ⅰ部は難解で矛盾だらけ(ただ、注意深く読むと論理的一貫性があるのかもしれません)の一見戯言ですが、Ⅱ部で描かれるのは、一転、ほとんどコメディのようなねじれた男の3つの思い出。261ページの中編小説ですが、Ⅱ部に不思議な面白さがあり、一気読みでした。
主人公は40歳の元小役人。遠い親戚から6,000ルーブルの遺産が入ったため、退職して地下室に引き篭もっています。
「自尊心」が非常に高く、19世紀の知性が高度に発達したと自己評価している主人公は、何物にも、虫けらにさえもなりえなかったと考えています。主人公が批判するのは屈託なく率直で実際に行動を起こす「やり手タイプ」。そして、「やり手タイプ」も自然法則には勝てず、合理主義一点張りである点を猛烈に批判し「愚か者」と断定します。
自己については「冷ややかなおぞましい絶望と希望が相半ばした状態や、心痛のあまりやけを起こして我が身を地下室に40年間も生きながら埋葬してしまうことやこうした懸命に創り上げた、それでいてどこか疑わしい己の絶体絶命状態や、内面に流れ込んだまま満たされぬ願望のあらゆる毒素。激しく動揺したかと思うと永遠に揺るぎない決心をし、その一分後には再び後悔の念に苛まれるという、こうした熱病状態の中にこそ、さっき俺が言ったあの奇妙な快楽の核心があるのだ」と難解な分析を行います。
このあたりで挫折しそうになりましたが、訳者の安岡治子さんの解説は良きガイドになりました。特に7章以降に展開される「水晶宮」の理論の意味は解説がなければ読み取れなかったと思います。
16年前の苦痛の思い出を描くII部は、ほとんどコメディで3つのエピソードからなります。
①将校との個人的な心理戦争
②裕福な同窓生たちとの空回りの闘争
③娼婦リーザに挑んだ戦い(?)と敗北
上記のエピソードは主人公のくどいほどの心理描写とともに描かれます。時間をおいてもう一度Ⅰ部を読むと、Ⅰ部の意味がある程度は理解できるような気もします。
以上、難解であると同時に面白い小説。ただ、ドストエフスキーの世界を未経験だと辛いかもしれません。また、大昔に読んだ『人間失格』を思い出し、また読んでみたくなりました。
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Posted by ブクログ
ネタバレマゾヒスト、と呼べば良いのだろうか。氏曰く、自意識自尊心が極めて強い、人並外れて賢い人たちは、 それ故に悩み苦しむ機会が多く、気づくとそこから快楽を感じるようになってしまうらしい。 氏は冒頭でそういう人間がp0「我々の社会に存在する可能性は大いにある」と述べているが、 私自身がこういう感情に一定の覚えがあるから、それはそういうことなのだろう。
氏が若い時分の愚かな行動を振り返った、2章ぼた雪に寄せてでは時折、マゾヒズム(私)の深淵が描かれる。 それらは深淵と言うだけあって、現実フィクション問わず他では見ることのできない描写が続く。 具体的にはまずズヴェルコフの晩餐会への参加に氏が名乗りを上げる場面である。ここでは氏の目の前で氏抜きの晩餐会の計画がなされている。 氏はこれに対して自分が晩餐会に参加することを望まれていないことを理解していながら晩餐会への参加を表明してしまう。 追い込まれた時に(我々のような人種は自尊心が高く、恥をかくことを最も忌避しているので、今回のような場面では 追い込まれているも同然なのである)突発的に悪手を選択してしまうというのが、ある種のマゾヒズムである。※1
深淵は更に深い。氏は先述した、晩餐会への参加表明に対する後悔の弁を述べた直後、p131「しかし、俺がこう憤怒に駆られていたのも、 俺は必ず行くだろう、わざと行くに違いないということが、おそらくは自分でもわかっていたからだ」と狂気の弁を展開している。 その理由もし行かなかった場合、p139「俺はその後一生、自身を嘲り続けるに違いない。『なんで臆病風を吹かせて、 現実に怖気づいたんだ、臆病者!』むしろ逆に、俺としてはあの屑がらくたの連中に、俺が自分で思うような臆病者では、 さらさらないところを証明してやりたいと熱望していたのだ。それどころか...連中を圧倒し、打ち負かし、魅了し、せめて思想の高邁さ、 疑いのようない機知という点だけでも連中に俺を愛してもらいたい、という夢を抱いていたのである」とどうしようもない具合である。 絶対に恥をかきたくないという異次元の自尊心、何時も他人の目を気にして過剰に想像する自意識、 その一方無根拠に自分の能力と評判を見積もり、ひたすらに都合の良い展開を想像する自信過剰。 これらが組み合わさることで、自ら進んで悪手を選択するというマゾヒスト的行動に至るという訳だ。
最後に、以下のとおり。 p150「俺は連中全員を、朦朧とした目で無遠慮に見回した。ところが連中は、俺のことなどまるきり忘れてしまっていた。」 p155「ただ、なるべく連中の誰も見ないようにしていた。一人、できるだけ孤高の姿勢を貫いていたのだが、実は、連中のほうから 先に話しかけてくれないかと、それをじりじりしながら待っていたのだ。」 p157「俺は...壁沿いに、食卓から暖炉へ、また暖炉から食卓へと歩いていた。俺は、お前たちなんぞなしでも、やって行けるんだ、 というところを全身全霊で見せつけてやろうとしていたのだ。...俺はじっと我慢しながら、連中の目の前を8時から11時まで...歩き通しに 歩いた。...この3時間のうちに、三度大汗をかいては、三度その汗が引いた。」 これらの行動を想像だにせず面白おかしく読むことができるなら、それはなんと幸せなことか。少なくとも私は、自らの苦い思い出が 蘇りとてもいい気分で読むことはできなかった。周囲から浮いてしまった我々がどれだけ自尊心と自意識を高まらせても、 周囲は我々に何らの注意も向けていない。それに気づかず、一人大汗をかくのがマゾヒストなのである。
マゾヒズムの深淵から浮かび上がるのは、先述した自尊心、自意識、自信過剰というキーワードだ。氏は、これについて、 p15「意識しすぎることーこれは病気だ」p20「例えば俺は、やけに自尊心が強い。」「そもそも俺は周りの誰よりも賢いのだから、悪い。」 と述べている。 氏によれば、怒ることのできるタイプ(馬鹿)の人間というのが存在し、彼らは、p22「ひとたび復讐心に取り憑かれたら、もはやしばらくは その全存在には、この感情のほかには何一つなくなる」タイプの人間である。その一方で、p23「正反対の強烈な自意識を持つ人間」がおり、 彼らはp24「強烈な自意識ゆえに、この際正義などというものは否定する」という行動をとる。自意識の人間は発散できない怒りを溜め込み、 それらを馬鹿に笑われ、やがてp25「自分の受けた屈辱をその最も些細な恥ずべき細部に至るまで一つ一つ思い出しては...自分でわざわざ いっそう恥ずかしいディティールを付け加え、自分で作り上げたその虚構で、意地悪く己をからかい苛立たせる」ようになる。 これにやがて快楽を感じるようになるとマゾヒストが完成する。
本書で特筆すべきことは、マゾヒズムの深淵だけでは決してない。 p50「あんた方はこう言うだろう 『自然法則を発見しさえすれば...人間のすべての行動は、ひとりでにこれらの法則にしたがって計算に基づく対数表のように配分され... 行事日程表に記入されることになる。...そうなったら数学的正確さで算出され、完全に準備の整った新しい経済関係が確立され...ありと あらゆる問題はたちどころに消え失せることになる。』 」当然この発言はドストエフスキーのそれではなく、むしろ氏はこのロシア流ロマン主義的主張(まさにロマンとしか言いようがない)を わざわざ用いこれに反論する形でp53「人間はいついかなる時も、いかなる人間であっても、決して理性や利益が彼に命じるようにではなく、 自分の望みどおりに行動することを好んできたのである。...人間に必要なものは、ただ一つ、自発的な欲求のみである。」と述べている。 この問答はコロナ禍初期に浮上したcocoaなる接触確認アプリに端を発する議論を想起させる。cocoaの理論は、コロナ感染者がアプリを 通してスマートフォンに記録された自身の移動履歴を提供することで感染者と接触した者に通知が届くという代物である。なるほど、 理論としては正しい。数学的にはこの理論でコロナ禍という未曾有の危機を解決できるはずだったというわけである。しかし、 蓋を開けてみれば「バッテリーを余計に食う」「政府のやることは信用ならない」「面倒臭い、知らない」など数多の理由を作って 人間は自然法則に従わず、ものの見事に試みは頓挫した。
また、cocoaの土台となったAI信仰、シンギュラリティの物語と関連して、 やがてAIに仕事を奪われることとなる大多数の人間は、AIの開発や上手い利用を行う超少数派の勝組にパンとサーカスの如く娯楽を与えられて 生きていくだけの存在となるなどという真に悪夢のような言説も存在する。これを否定する論としてドストエフスキーが述べているのが、 p62「人間にありとあらゆるこの世の恵みを浴びせかけ、ただぶくぶくと泡が幸福の水面に浮かび上がるほど、幸福の中に頭までどっぷりと 浸からせてみるがいい。...まさにそんな状況のなかでさえも、人間は...最も悪質なナンセンスを、最も非経済的なでたらめをやりたがる。 それもただ...次のことを確認したいためである。それはつまり、人間は依然として人間なのであり、決してピアノのキーなどではないと いうことだ。...いや、それだけではない。実際に人間がピアノのキーであることが判明したとしても...人間は決して納得せず... わざとなにかしらその証明に反することをしでかすに違いない。何の手段もない場合は破壊と混乱、ありとあらゆる苦しみを考え出してでも、 自分の主張を押し通すだろう!」 ということである。 このドストエフスキーの、客観的に見ると本当に愚かとしか言いようのない人間観はしかし、言い過ぎとも言えないくらいに人間の本性を ぴたりと言い当てているふうに思えてならない。 あなたの考えていることは全てわかるから、私の最良の指示に従いなさい、と言われたらカチンと来るし、あなたは何もせずただ気の 向くままにゴロゴロしていればいいのよ、と天国のような条件を提示されれば途端に物足りなくなるのが人間なのではなかろうか。 そういう、人間の愚かな本質を指摘する立場とそれを乗り越えられるとする立場の対立が100年以上前から現在に至るまで 意味を持っていることが本当に面白い。
※1 ここでは追い込まれているという点がポイントで、もしも追い込まれていなかった場合、つまり冷静に判断できていれば悪手を 選択していなかった可能性がある。実際、氏はその後p131「一体なんの魔が差して、あんなところへ出しゃばって行っちまったんだ!」と 語っている。しかし、実はこの論理はあまり意味がないのかもしれない。何故なら、追い込まれたその瞬間に選択を促すのは深層心理で あるはずで、つまりそれが本質なのではないかと思われるからである。まあ、この話はこれ以上広げようがないのでここら辺にしておく。
「どこか仕切り壁の向こうのほうで、何かにぎゅっと押し潰されるか、さもなければ、誰かに絞め殺されてでもいるように、 時計がジーッとしゃがれ声を出しはじめた。不自然なほど長くそのしゃがれ声は続き、その後か細い不快な、思いがけず忙しない時 を打つ音が響いたーまるで誰かが不意に前方へ跳び出したかのようだった。」 押し潰され、絞め殺されるというおよそ時計の描写には似つかわしくないワードの選択。「不自然」「不意」「不快」と良くないイメージの 形容詞の多様。誰かが前方へ跳び出したかのようだ、で終わることによってこちら側への関与を匂わす(本当に誰かが時計から飛び出してきた のなら、時計の前にいる我々との接触は不可避であるから)という、ひたすらに暗く静かで不穏な印象を抱かせる本作第2章ぼた雪・・・の悲しき 6幕の開幕にふさわしい名分だ。
第2章ぼた雪・・・6幕以降、クライマックスにかけて情婦リーザとのやりとりが展開される。 氏は自分より間抜けそうな若い女を前に、氏曰く燃え上がり、自らの願望とも理想ともつかない状態について力説を始める。 いかんせん弁の立つこの男はベラベラとそれっぽく調子のいい文句を垂れ流すのだが、本性を知っている我々はその姿に比喩ではなく 吐き気を感じ得ない。その後なんやかんやあってリーザと抱き合った後、ソファにうつ伏せになって号泣を始めるのだが、 ここでふと我に帰って気まずさを感じたり、最後にはリーザを追い出してすぐに後悔して追いかけるも無理やり自分を納得させて 引き返したりとマゾヒスト節(というか、それにとどまらない屑?)全開で物語は幕を閉じる。
氏が屑であるのは別としても、マゾヒストが自らがマゾヒストであることにさえもある種の快楽を感じ、 自身のどんな悪行もそれを原因にして片付けてしまうことは重大な問題である。彼らのそれはハッキリ言おう、 自身にとって損失でしかない。これを自覚し、自身の身の振り方を考えるべきであろう、マゾヒストの諸君!! -
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<ぼくは病んだ人間だ。…僕は意地の悪い人間だ。およそ人好きのしない男だ。ぼくの考えではこれが肝臓が悪いのだと思う。もっとも、病気のことなどぼくにはこれっぱかりもわかっちゃいないし、どこが悪いかも正確には知らない。(P6)>
元官史の語り手は、おそろしく自尊心が強く、極端な迷信家で、あまりにも自意識過剰で、とても臆病で、際限なく虚栄心が強く、他人との交流もできず、心のなかで鬱屈を抱えている。
遺産によりまとまった資産を手に入れた語り手はペテルブルクの片隅のボロ家に引き込んだ。そんな生活をしてもうすぐ20年にもなる!やることといえば心の鬱屈を手記にぶちまけるだけ。
あれも気に食わない、これも嫌い、人から嫌われることばかりするのに人に尊敬されるだろうと思っている、昔のことばかりグジグジ繰り返している、この手記だって自分のために書いているけれど、世間の諸君が読むかもしれないではないか!
…という感じのグジグジぐだぐだウジウジした語りが続き、「この話全部この調子なの…(´Д`) 」とえっらく読むのに時間がかかった。
しかしその語りは最初の60ページまでだった。その次の章からは、自分の鬱屈した正確を示すものとして、まだ引きこもる前の若い頃の出来事が語られる。これが「なにやってんのーー」と、けっこう笑えてきた。
●語り手は、ある将校に無視されたことから数年に渡り一方的に恨みを持つ。いつかあの将校に自分がどんなに重要な人物かを認めさせ、詫びさせてやる!語り手は将校の後をつけて彼のことを調べる。通りでは何度もすれ違った。だが将校は自分を認識すらしない、こんな屈辱があろうか!こうなったらあいつをネタにして誹謗中傷小説を書いてやる!出版社に送ったのに無視された!悔しい!!こうなったら決闘だ!語り手は決闘申し込みの手紙を書く。我ながらなんたる美文!将校がわずかでも<美にして崇高なもの>を解する男だったら、ぼくの素晴らしさがわかるだろう!この手紙はかろうじて投函されなかった。だって何年も経ってるんだもん、さすがにわからないかもしれないよね。
それでは通りであの将校に道を譲らせてやる!それにはまずぼくのことを認識させないといけない、では身なりを整えないとな。上司に給料の前借りをして、あらいぐま…いやビーバーのコートを買って、手袋はレモン色…いや黒のほうがいいだろう。
自分を認識していない相手に何年も執着し、独り相撲して、勝手に苦しみ、誹謗中傷小説まで書き(無視されたが)、やったことは「通りですれ違う時に、ぼくの方から避けずに肩がぶつかったぞ!ぼくの勝ちだ!!」
⇒そ、そういうことにしておこうか…
現代で言えばネットに誹謗中傷書きなぐるタイプだな、妄想の中で満足してまだ良かった。
●ぼくはあらゆる空想をする。自分自身が空想の中ではあまりにも素晴らしく幸福の絶頂を味わい、全人類と抱きあいたいたい気分になる!!そこで学生時代の友人を訪ねた。
そこではかつての学友たちが集まっていたんだが、語り手の姿を見ると明らかに嫌そうな雰囲気になる(語り手の一人称だが、それがわかる)。学友たちは、遠方に将校として赴任するもう一人の友達ズヴェルコフの送別会を計画していた。このズヴェルコフは語り手は全くタイプが違い、出世街道に乗り、女を口説き、仲間と酒を飲み明かす生活を楽しんでいる。
そんなズヴェルコフの送別会なので当然語り手は招かれない。そこで語り手は「ぼくを忘れちゃ困る!!ぼくも彼の送別会に行く!!」と突然のアピール。あっからさまに嫌がる学友たち。うん、気持ちはわかるぞ!!
⇒現代で言えば「自分だけ同窓会に呼ばれない」エピソードですね(;^ω^)
●送別会では自分の偉大さを認識させてやる!…と、乗り込んだが誰もいない。そう、時間変更していたのに知らされなかったのだ。
●それでもみんなもやってきてズヴェルコフの送別会が始まる。あっからさまに無視される語り手!それでも現代の待遇を馬鹿にされたり、嫌味丸出しのスピーチをして場を険悪にする。元学友たちに完全に無視された語り手は、送別会の三時間の間部屋を有るき回る語り手!ずっと無視される!だが語り手は「自分の存在はみんなに刻み込まれたはずだ」とうそぶく。
●送別会の二次会で娼館にしけこもうという元学友たち。語り手は「ぼくも行くぞ!金を貸してくれ!!」あまりのみっともなさに、学友の一人が「恥知らず!」と投げてよこした金を手に取り娼館へ向かう。道中でも頭の中では「あいつらに思い知らせてやる!」などと考えているが、この勇ましい言葉も有名ロシア文学からの受け売りでしかないんだ。
●娼館でも取り残された語り手は、残り物の娼婦のリーザと部屋へ。事後のベッドで語り手はリーザ相手に御高説をぶちまける。
娼婦の君の人生とはなんだ!?きみはこの仕事と魂を引き換えにしたのさ!
リーザは答える。「あなたの話って、本を読んでいるみたい」そう、語り手がどんな演説しようとも、受け売りが見透かされてしまうのだ。それでもリーザは我が身を振り返り号泣する。
●娼婦リーザは、自分が娼婦と知らない男からもらった手紙を語り手に見せる。自分をちゃんと扱ってくれる男だっているのよ、という拠り所だった。
⇒リーザは見かけとしては可愛げない様子だが、この大事な手紙を語り手に見せる場面はとてもいじらしい。
●語り手はリーザに自分の住所を教えて「訪ねてこいよ」なんて言う。しかし帰ってから後悔する語り手。本当に来たらどうしよう、リーザは自分が語った言葉を聞いて、自分が崇高な人間だったと思ったに違いない、だがこんなボロ屋見せられないし、事後でもないのに格好いいことなんて言えない。リーザのところに行って「やっぱり来るな」っていおうか、いやそうもいかない、うぎゃーーーーー、と葛藤しまくる語り手。
●語り手にはアポロンという中年召使いがいる。非常に態度がデカいらしいが、読者としてはそりゃーこんな雇い主だったらばかにするよねとは思う。このアポロンに月給を渡さなければいけないんだが、「アポロンが自分に『給料をください』と平身低頭しないのがムカつく!!!」と、金は用意するが渡さない。しかしアポロンに舌打ちされたり睨まれたりすると「待て!!金はあるんだ!支払ってくださいと頼め!!」とか言ってますますバカにされる。
●三日後にリーザが来るが、語り手は非常に悪い態度を取り、ひどい言葉を浴びせる。リーザは、語り手に握らされた金を拒絶して去っていくのだった。
…ということで、「現在でもいるよね」とか、「ここまで極端でなくても気持ちはわかる部分もある」とか、「こんな奴に関わった周りの人のうんざりさがわかる」などと言う気持ちになってなかなか楽しめた。
語り口は、引きこもり男が勝手にグダり続けだけなんだが、これが小説として読めるものになっているのがさすがの大文豪だよなー。今でもこんな事を考えている人はたくさんいて、たまたま誰かがそんなことを言っているのを聞いてしまったり、ネットでうっかりそんな人の文章を読んでしまうこともある。そんなときはかなり嫌な気持ちになる。
しかしこの小説ではそのような嫌な気持ちにはならず「あるわー」「なにやってんだーーー」と、語り手と、語り手の周りの人双方の気持ちがわかりながら読んでいけるんだ。その意味では実に面白い小説だった。(最初の60ページ以降は)
語り手は自分のような人間は自分ひとりだと思っている。<だれひとりぼくに似ているものがなく、一方、ぼく自信も誰にも似ていない(…略…)ぼくは一人きりだが、やつらは束になってきやがる。P70>というわけだ。
だが語り手のような考えを持つ人間は当時も、今も、世界中にたくさんいる、ある意味人間の心の普遍的なものでもあるだろう。この「自分は孤独だ!」と思っていても、周りから見たら「たくさんいるよ」という感覚もいつでもあるものだ。
なお、語り手は読書について<ぼくの内部に煮えくり返っているものを外部からの感覚で紛らわしたかったのである。(P75)>と言っているのだが、ドストエフスキーの考えでもあるのかな。この読書への取り組みは何となく分かるんですけど。頭が混乱している時にも読書ってしますよね。するととっちらかった脳を一つに収集するのがなんだか分かったりして。 -
Posted by ブクログ
大いなる目的の為に、利他的な行為が根底にある自己犠牲をする……「乗り越えた」者の末路。
世間には到底認められない自己の理想の追求の先にあるものとは。
「私が酒を飲むのはね……もっと苦しみたいからなんですよ。私は酒の中に哀れみや悲しみを求めているんです……!」
「非凡人とは新しい思想を社会に持ち込むため…結果旧社会の伝統や倫理…そして法を破壊します-しかも彼らは自分の良心に従ってそれをやったのです」
ここでいう良心、とは世界全体に向けたものかな。小数の犠牲は今後救われる多くの命に比べれば安いものだというような。
罪を背負って生きるのではなく、恥を背負って生きることの苦しみだな。恥は罪を犯すことによって生じる社会的な罰。法律上の罰は救済なのか。実際に目に見える罰だけが救いになるのかな。これは自傷行為と似ている。精神的な苦しみを肉体に転嫁させている。
罪か恥か。ある意味では物理的な罰と精神的な罰か。人間は物理的な罰の方が耐えられるってことだな。これは行動経済学でも証明されている。
精神の死、これが自己犠牲。肉体は生きている。肉体の死の方が楽なんだな。
聖女、主人公の両方は他人のため、という動機で自己を殺して行動していた。
聖女は救いを聖書に求めた。ラザロの復活。苦しみを耐え抜けばいつか救いが来ると思っている。
主人公は大義に救いを求めた。だが世間で一般的なものではない、異端な大義。これは救いにならなかった。理想と現実のジレンマに苦しむ。
理想では、他人の為になり、世界の不平等を解決する正義の人。現実では、自分はただの殺人者。
「僕らは卵から生まれた少年と言う名の鳥なんだよ。卵は世界だ、生まれようと欲するものは一つの世界を破壊しなければならない。
鳥は、神に向かって飛ぶ。」
主人公は飛びきれなかったのかな。
夏油傑は飛びきれた。
話のまとめ
ロシアにも産業革命の波が来、農奴解放例が出て、農民が市民となり貧困から逃れることができそうな……という時代背景。
貧困に苦しむ、いちロシア人であり、法律を学ぶ大学生が主人公。金を溜め込んでいる婆さんの話を聞き、そんなに溜め込んでいるなら、どうせだったら世界の為に使いたいと婆さんを殺す計画を立てるが、そんな自分に怯えていた。
だが、妹が貧困に苦しむ兄の為に結婚するという話を聞き、妹の自己犠牲を見るのが辛い主人公は妹の状況をなんとかするために婆さんを殺してしまう。さらに計画にはなかった婆さんの妹まで。
主人公が前に酒屋で会ったおっさんが馬車に轢かれ、善良な主人公はその人を全財産を投げ売って助けた。おっさんには娘がいて、家族の為に娼婦となった、という主人公と同じ他者の為に自己犠牲をする人物であり、二人は交友関係を持つようになる。
主人公は自身と彼女を「乗り越えた者」と言い、自分を殺して世に尽くすことを厭わない高潔な精神の持ち主だと表現する。
主人公は罪を犯したことによって高熱にうなされた。その後に刑事と会い、論争が始まることとなった。
ここで主人公は凡人と非凡人についての話を始める。
「凡人は現在の世界の在り方を保存する保守的な者たちであり、非凡人はその世界を破壊し新たな思想を築く者たちである。故によりよい理想的な世界を築く為には人殺しも許される。」彼は良心による殺人を認めた。
刑事は言う。「非凡人の良心はどうなるのか?人道的に苦しむのではないか」
主人公は言う。「良心に苛まれているならば、それがその人間への罰である」と。
主人公はますます罪の意識に苛まれ、生きることに恥を感じ始め、ふと通りがかった川に身を投げようとする。しかし、生きることによって受ける恥よりも理想という誇りを捨てることによって生じた恥の方が大きかった為、踏みとどまった。(多分)
彼は母親に会いに行き、別れを告げたあとに事を振り返った。
「母親、妹が俺を愛していなかったらこんなことは起こらなかった」と。
そして聖女(おっさんの娘)に会いに行き、罰を受けに行った。十字架を貰い、十字路にキスをして反省した。道徳的なあり方に従って行動するのに彼は充実感を得ていた。
その後出頭し、物語は終わる。
エピローグ
未だに理想を捨てられず、出頭を踏みとどまれなかったことを後悔していたが、理想を持つことによる謎の病によって彼の持つ理想の世界を見たが、他者をくらい合う世界であり、彼は遂に罪を認めてエピローグも終わった。