ドストエフスキーのレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
光文社古典新訳文庫から乗り換えたので、第三部の第八編「ミーチャ」からスタート。
挫折が怖くてとにかく読みやすさ重視の光文社版をここまで読んできたものの、流石にここから挫折することもないだろうから定評のある新潮文庫で続きを読むことにした。
なお、ネットで探せばすぐに見つかるが光文社の亀山訳にはロシア文学者や有識者からのかなり痛烈な批判がある。
玄人からすれば許せない訳でも門外漢なら気づかないレベルだろう、と高をくくって光文社版で読み始めたものの、読んでいてどうも腑に落ちない箇所がちらほら。調べてみたら誤訳として指摘されていた。
内容についてだが、「予審」がすこぶるよかった。
僕は人間というものを、時折、それもこと人生の大切な局面において、信じられないほど不合理なことをしてしまう生き物だと思っている。
しかし一方で、世の中のほとんどの犯罪や事件は常識や社会通念で説明がつくのもまた事実。人間の考えることなんて所詮はみんな似たり寄ったり、およそ常識では信じがたい釈明なんていうものは嘘に決まっている。そう思いたくなる時もある。
そんな僕自身の鬱屈した気持ちを晴らしてくれるような真実味が、ミーチャの釈明にはあった。
いくぶん狂気じみてはいるものの、どこまでも真摯なミーチャの話ぶりと、聞く耳を持たずに瑣末なこと(捜査上の必要があるのは理解できるが、当事者からすればやはり「瑣末なこと」だろう)ばかりを白けた表情で質問する官憲の鈍麻した感覚。
文章にして説得力のあるもの以外は存在しないも同然、とでも言わんばかりの行政官的な、もっと広くいえば法的な思考様式は、人間が人間に対して抱くべき敬意や謙虚さを蝕んでしまうのかもしれない。
安易に権力批判をしたくはないが、この滑稽ですらある対比は、僕にはいささか心苦しいものだった。 -
Posted by ブクログ
ネタバレミーチャの印象、ひと言で言うと「クソデカ感情マン」でした。愛も怒りも破滅願望も恩義も全部デカい。
重要なキーワードのひとつが「罪」かと思う。無実の罪で囚われるミーチャ。殺人をそそのかした罪の意識に苛まれるイワン。
この「罪」という単語が原文だと何になるのか気になる。「謎解き『罪と罰』」(江川卓さん、新潮選書)によると『罪と罰』の「罪」という単語には作者の拘りがあるらしい。ロシア語で罪を意味する単語はふたつあり、『罪と罰』に採用された単語は人間の決めた法律や社会的規範という掟をこえる行為のことらしい。(もうひとつのほうは神の掟に背く行為を指す)。私のイメージだと『カラマーゾフ』に出る「罪」という単語は、神の掟に背く行為で、良心の呵責と関連のある「グレーフ」なる単語。ちょっと調べるのは時間かかりそうなので、ひとまずぼやくていどで。
個人的に気になる関係性はスメルジャコフとマリア・コンドラーチエヴナさん。3巻にあった2巻のあらすじだと「デート」って言われてたし。4巻でマリアさんがスメルジャコフの世話してるし。
私が何より気になるのはマリアさんの名前。5巻『ドストエフスキーの生涯』によるとマリアはドストエフスキー の母の名前と同じらしい。ありふれた名前だから注目するほどじゃないと思うだろう。でも殺されたフョードルの名前をドストエフスキー自身の名前が同じ点の意味を言及するのなら……わざわざ母親の名前が出てくることも注目したくなるよね。
5巻では、スメルジャコフの犯行は第一の小説で終わる物語だとあったが、案外そうでもないんじゃ。第二の小説でマリアさんは重要人物になるかもしれない。
第二の小説は子どもたちの物語だと言うから、もしかしたらマリアさんの子ども(※さすがにスメルジャコフとの子じゃないと思うけど)がスメルジャコフの分身的存在として登場し、活躍する説もあり得るかも。
5巻の『ドストエフスキーの生涯』だとドストエフスキーの母マリアさんが彼にとって大きな意味のある存在だったことが分かる。母の病死の衝撃により、母と同日に亡くなった国民的大詩人プーシキンの死を翌日まで知らなかったらしいし。母の死のショックでドストエフスキーも病を患った説があるし……。
『カラマーゾフ』の自伝的要素は解題等で繰りかえし言及される。特に父ミハイルの死は『カラマーゾフ』に密接に関わるものだと分かる。となればマリアさんに母と同じ名前をわざわざ付与したのは意図的なんじゃないでしょうか。私はマリアさんが第二の小説のキーパーソン説を推します。
……というのが途中段階の感想だったが。
『ドストエフスキーの生涯』を読みすすめたところ、マリアという名前は母というより最初の妻の名前から取っていると判明。ドストエフスキーの小説にはたびたびマリアという名前が出るそうだ(まだ全部は読めていないので知らなかった)。妻マリアはドストエフスキーの原罪意識のシンボルともあったが。『カラマーゾフ』のマリアさんは案外スメルジャコフの良心や罪の意識の象徴だったりして。
ってか妻マリアさんの連れ子の名前がパーヴェルで、スメルジャコフの名前と同じなの気になる。『カラマーゾフ』のマリアさんはスメルジャコフにとって、母親の代わりみたいな位置づけだったりして?
マリアさんはスメルジャコフが本心を話せる貴重な存在みたいだし。
やっぱり気になるマリアさん!
読む前は「4巻も太いなぁ! 700ページって。悪魔か。長い話苦手な私にこれはキツい……」と思っていたが、普通におもしろくて読んじゃいましたね。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ我が分身ミーチャがたくさん出てくれてよかった! ミーチャの愚かだけど決して馬鹿じゃない性格すげーいい。1巻の「ここに破廉恥がぶら下がってるんだ」はそういう意味かー。ミーチャの「こんなふうにやってたら、三巻の本にだって収まりきりませんよ、おまけに、エピローグまで必要になります!」はメタ発言? 新潮文庫版だと3巻構成だけど、オリジナル版的なのはどういう構成だったんだろ。
まさかグルーシェニカさんがその男を選ぶとは思いませんでした。
そして謎の病が気になる。
読書ガイド、ドストは「急に」「突然」みたいな言葉が多いという指摘。私も小説書くときその手の言葉をすぐ使っちゃうんだけど、誰かにそれを指摘されたら「ドストエフスキーのリスペクトです」と言って煙に巻こうかな。
で、4巻の章タイトルをまた見ちゃった。「破局」? 誰と誰だ。個人的にはアリョーシャとリーズが怪しいのだが。 -
Posted by ブクログ
ネタバレイワンの疑問はすごく刺さった。たしかにおぞましい大人だらけの世の中で、すべての他者を許すなんて無理だ。愛せなんて無理だ。
でもその疑問への答えは、2巻ラストのゾシマ長老の語りにて判明。おぞましい人々の罪が許せないなら、その罪を自分の罪として苦しむという方法もある。それだけが正解ではないだろうけど、方法のひとつ。ゾシマ長老の兄が「自分はこの世で最も罪深い人間だ」と言ったのは立派だと思った。
で。3巻。ちらっと見たけど、ミーチャが章タイトルになってるやないか! ミーチャは私の分身のような存在だと思っている。私とは真逆の存在なのに根本が酷似している。しかも犯人になっている……!? どうなる我が分身。ワクワクしちゃう。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ世の中には私好みの本が実はけっこうあるんだ、と思った話。1巻から面白くて一気読みしてしまった!
印象的だったのはラスコーリニコフの夢ね。馬を寄ってたかっていじめる描写が辛すぎた……。
副署長イリヤさんがおかみさんをめちゃくちゃ殴るところも印象深かったな。この章のオチもぞわ〜ってした。ラスコーリニコフ、相当キてるね!
貧乏女と結婚したら後で威張れるって理論もヤバくて印象的だった。マジでそう思ってたとしたらこえーよ。結婚したらあかんで。
ラズミーヒン好きすぎる。陽気で世話焼きな友人とか最高でしょ。
リザヴェータさんの最期は可哀想すぎた。癖であんま抵抗しなかったんか……。
予想外のことで計画が狂ったり好転したりするのはエンタメ感があって面白かった!
ラスコーリニコフはすぐ人にお金をあげちゃうなと思ったけど、そうでもないか? 日本の古典や近代文学、民話で描かれる「優しい人」が助ける対象って動物や虫のイメージがあるから、人間を助ける描写に慣れていないのか……? あとなんだろう、日本だと一宿一飯の恩とか? あまりお金を渡すイメージはないから、描き方の違いってだけなのかな。いやでも、日本でもお金渡す話もあるかな。私は古典や近代文学や民話のことをまだあんまり知らないんだなあと思った。日本のも海外のも。
マルメラードフさんはいいキャラしていた。もっと見たい。 -
Posted by ブクログ
「大審問官」はさすがに圧倒的。テーマが多岐に渡り、内容の深さも難解さも段違い。
本編の感想ではないが、「大審問官」の理解のために、木下和郎氏のブログ「連絡船」が非常に参考になった。
同ブログは基本的に、この光文社の亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』について亀山氏の理解の間違いを指摘する内容のものだ。その部分は、読んでも別に面白くはない。
ただ、「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。」その六、と題されたページ(彼の亀山訳批判のエントリの通し番号らしい)の「大審問官」評は秀逸。
途中に亀山氏の解釈への批判が挟まりはするものの、「プロとコントラ」全体の中での「大審問官」の位置付けや、大審問官へのキスの意味、大審問官の論点に関連するキルケゴールの引用などなど、このブログを読むこと自体が素晴らしい読書体験となるほどの充実ぶりだった。
ついでに木下氏の他のブログも拝見したが、文学に対する確固たる信念と深い知見を持っておられる方のようだ。個人的な怨恨だとかで粘着して個人攻撃している人では決してない。これから『カラマーゾフの兄弟』を読む人はぜひご一読を。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ子ポクロフスキーとワルワーラの友情(恋?)がめっちゃ素敵でした。ワルワーラのイタズラ(誤解)にポクロフスキー激怒、からの、母を看病するワルワーラを優しく支える……という流れが美しかった。
ポクロフスキー、最初は自分の本に触られるのめちゃくちゃ大嫌いだったのに、ワルワーラさんと仲よくなってからは自分から本を貸してんじゃんか〜!!!! 愛情表現! いや普通に、人に勝手に触られるのは嫌だけど自分から貸すのはアリってこと? どちらにせよよい。
ポクロフスキー……。なんでこんなに悲しい最後なんだ……。
ゴルシコフもワルワーラも最後、最後〜!!
マカールとワルワーラの親子愛に似た友情関係は好きだった。お互い独善的な気配が強く見せるものの、思いやりあっている感じがあった。
この後2人はどうなったんじゃろうか。ものすごく破滅の香りがしているが……。
表紙デザインいいなあ。
書簡形式だからなんだろうけど、「!」マークが多い気がした。
ドストエフスキー、「!」をよく使うイメージをめちゃくちゃ勝手に持ったけど、気のせい?
「!……」という連なりもドストエフスキーの特徴だよね。これすごい好きです。(メリメでもあったから海外文学あるあるだったりする? ドストエフスキーとメリメに何か関連性がある? 気になるぞ!……) -
Posted by ブクログ
ネタバレ「どうやらぼくは、いくらあなたをナースチェンカと呼んでも疲れることがないようですね」このセリフがとてもに好き!
主人公のセリフが、この文字ちっさめの本で丸9ページも続いてたときは笑っちゃった。長ぇ。
その長セリフをすべて聞くナースチェンカ。「いけませんわ」と意見を述べているところを見るに、本当にちゃんと聞いててくれたんだなぁ。
ナースチェンカの長ゼリフはちょこちょこカギカッコで切るのに、主人公は一気に来る。その対比が好きでした。
最後はあんな終わり方になったけど、孤独な主人公にとっては、こうして話を聴いてくれたことだけでももう、幸福だったんじゃなかろうか……。だから最後に幸せを願ったのかなぁと思ったり。
……ところで、違ったらとても恥ずかしいんだけど、「ナースチェンカ」って本名じゃなくて愛称……かな? 「ンカ」の響きがそんな雰囲気ある……。だから名前を教えてもらったときも主人公は「それだけですか?」と言ったのかな。
愛称だけだったからこそ、空想癖の主人公は安心して恋ができたし、安心して話せたのかもなと思った。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ読み終えてから感想を書くまで間をあけすぎて細かいところを忘れてしまったが、珍しく最初から最後まで一日で読み終える面白さだった。
特に、ドミートリイが金を工面するために最後の頼みの綱としてホフラコワ夫人にお願いするのだが、夫人はひたすらあなたには鉱山しかないわ!金鉱をたくさん見つけて儲けて、実業家になるしかないわ!と、鉱山をゴリ押ししていて面白かった。
第五編・プロとコントラ(続)
イワンにチェルマーシニャへ行けという意味深なスメルジャコフの警告。ドミートリイに合図を教えてしまったと告白。手筈は整った。
第六編・ロシアの修行僧
ゾシマ長老の生い立ちから、今に至るまでの流れ。
アレクセイ・カラマーゾフの手記。
第七編・アリョーシカ
ゾシマ長老の遺体が腐敗し始めたことで、住民が騒ぐ。グルーシェニカを訪問するアリョーシャ。
第八編・ミーチャ
いよいよ殺人事件。
第九編・予審
何者かに殺されたフョードル・カラマーゾフ。
「しかし最初にまず人間の孤立の時代が終らなければならないのです」
「孤立とはどういうことです?」わたしはたずねた。
「現在、それも特に今世紀になって、いたるところに君臨している孤立ですよ。でも、その時代は終っていませんし、終るべき時期も来ていません。なぜなら今はあらゆる人間が自分の個性をもっとも際立たせようと志し、自分自身の内に人生の充実を味わおうと望んでいるからです。ところが実際には、そうしたいっさいの努力から生ずるのは、人生の充実の代りに、完全な自殺にすぎません。それというのも、自己の存在規定を完全なものにする代りに、完全な孤立におちこんでしまうからなのです。なぜなら、現代においては何もかもが個々の単位に分れてしまい、あらゆる人が自分の穴蔵に閉じこもり、他の人から遠ざかって隠れ、自分の持っているものを隠そうとする、そして最後には自分から人々に背を向け、自分から人々を突き放すようになるからです。1人でこっそり富を貯えて、今や俺はこんなに有力でこんなに安定したと考えているのですが、あさはかにも、富を貯えれば貯えるほど、ますます自殺的な無力におちこんでゆくことを知らないのです。なぜなら、自分一人を頼ることに慣れて、一個の単位として全体から遊離し、人の助けも人間も人類もじないように自分の心を教えこんでしまったために、自分の金や、やっと手に入れたさまざまの権利がふいになりはせぬかと、ただそればかり恐れおののく始末ですからね。個人の特質の真の保証は、孤立した各個人の努力にではなく、人類の全体的統一の内にあるのだということを、今やいたるところで人間の知性はせせら笑って、理解すまいとしています。しかし今に必ず、この恐ろしい孤立にも終りがきて、人間が一人ひとりばらばらになっているのがいかに不自然であるかを、だれもがいっせいに理解するようになりますよ。〜p103 -
Posted by ブクログ
脱走の葛藤やカテリーナの激しい愛憎劇を経て、物語は幼いイリューシャの葬儀と「石のそばの挨拶」へ収斂する。イワンが突きつけた神への不信や理性の問いに論理で勝つのではなく、アリョーシャは「良い記憶がいつか人を救う」と語りかけ、死ぬまで泥臭く生き抜く人間の責務を少年たちと誓い合う。傲慢さや狂気、情念に引き裂かれながらも、人は互いに小さな「一本の葱」を差し出し合える。「カラマーゾフ万歳」の叫びは、矛盾に満ちた生を肯定し、他者とともに歩み出す人間への賛歌とも言えるだろう。
書かれることのなかったこの小説の第二部で何が起こるのか、気になってしょうがないが知ることはできない。
亀山郁夫さんの充実した解説もありがたいし、そのほかのカラマーゾフの兄弟解説本にも自然に手が伸びてしまう。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ長編ですが、まさかの一気読みでした。とても面白かったです。
金が囚人たちの精神安定剤とか。密輸を芸術だと思っている密輸犯がいたりとか。密輸は麻薬みたいにどうしてもやめられない楽しいものらしいとか……。色々面白い発見がある本。
泣き虫な密輸犯が、監獄内で密輸を働いていることがバレたことで、密輸を我慢しているのだけれど、結局また監獄に酒を持ちこむ……という描写が印象的だった。人間って私たちの想像もつかないような思考をしている。興味深い。
体罰までの時間を少しでも伸ばしたいがために、その場しのぎとしてナイフを振り回して暴れる囚人も印象的。
暴れようとする人がいたらほかの囚人が総出で止めるシーンも意外。連帯責任を避けるためではあるのだけど、監獄ってけっこう秩序があるんだなと思って驚いた。
純朴な登場人物が目立ったのは、主人公がそういう人を好んだからか? アリは可愛いなぁ。ロシア語を教えてくれた主人公に懐いたり、監獄を出て行くときに主人公の首にかじりついて泣き出したり。
基本的にみんな、自分は悪くないと確信しているような気配も興味深かった。
監獄の秩序や個々の感情が面白い。意外とスイスイ読める。
ドストエフスキーは「……」の使い方が特徴あるよね? 「!……」が多い。「俺は知ってるぞ!……」みたいな感じで。セリフのカギかっこの最後に「……」が来たりもする。三点リーダーが演出する「余白」で語るタイプの作家なんやろうか。『罪と罰』などで章終わりに「……」をいっぱい打つ箇所もあったし。
『死の家〜』では、話題を変えるときに「…………」と打っている箇所もあるね。(p.252)
章終わりや話題転換のときの「……」には読点がない気がする。(出先なので罪と罰のほうは確認できないが)
これってドストエフスキー特有の文章って認識でいいのよね? チェーホフやトルストイにはなかったし。ロシア文学のってよりドストの特色なのかな。
………………
芝居で女性役を演じたシロートキン、可愛かったです。
稚児的なシロートキンが、ちゃんと囚人として4000発の笞打ちを食らっていたのは印象に残りましたね。
名前のある登場人物は60人もいたんですねw そら覚えるのが難しい。整理しながら読みましょう。
囚人たちは怯えもするし、また何かに愛情を向けたりもする。
祭りごとには喜び、見栄を張り、情熱に駆られ、憧れを抱く。読書ガイドにもある通り、「まるでおおきな子供」だ。
囚人が囚人の世話をしたり、動物を可愛がったりするシーンは印象深い。
だからといって「仲間意識がある」というわけでもない。いや、平民たちには平民たちの団結はあるか……。
脱獄の部分はハラハラした。やはり監獄モノといえば脱獄だよな(?)。だがあっさりした後味。リアリティがあった。
すべて読み終えた後にもう一度冒頭を見ると、異なった味を覚える。
囚人らの「生態」を静かな目で観察していたゴリャンチコフが、今度は別の観測者の目に捉えられている。
「観察者を観察する者、それをさらに観察する者」という上下に幾重にも折り重なった観察の構造を想像させる。……気がする。
『死の家~』の第1部が芝居で終わるというのも興味深い。「囚人を観察する主人公、それを観察する『私』氏→それを読む我々読者」という観察者の折り重なりが強調される。……気がする。
さすがに私の妄想か?
(いやでも『謎とき『罪と罰』』を読むと、ドストエフスキーがものすごくよく考えて文章を書いていることが分かるし……。案外何らかの意図はあったりするかも??)