ドストエフスキーのレビュー一覧
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Posted by ブクログ
ああドストエフスキーを読んだ、とまた思えて良い
ドストエフスキーの長編小説群が「五大長編小説」という括りで呼ばれることがあるなんて、恥ずかしながらこの小説に出会って初めて知った。『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』は自分の読書経験の中でも最高峰に入り、『白痴』『悪霊』も非常に好きな作品だが、ほかに長編があるとは知らなかった。残り一つがこの『未成年』である。順番で言うと『未成年』に始まり『白痴』『悪霊』『未成年』『カラマーゾフの兄弟』となる。『悪霊』と『カラマーゾフの兄弟』の間の作品ということであれば、これを読まずに死ぬわけにいかない。しかも、こなれた日本語を操る亀山郁夫氏の翻訳である。 この作品は、世に「失敗作」と言われているらしい。しかし、読後感想を率直に言えば、非常に面白かった。他の四つの長編小説の登場人物を彷彿とさせるキャラクターが出てくる。例えば主人公は私には『罪と罰』のラスコーリニコフを感じさせる。若い時分に特有の妄想に近いような独自の社会正義感に基づき行動するからだ。主人公の父も、なぜか『カラマーゾフ』の父を思い出さずにはいられない。いつまでも青年の心を抱える知識人ではあるのだが、その行動を見れば無節操に母親の違う子どもを相次ぎつくるような過去を持つからだろう。さらにドストエフスキーらしいというべきか、当時の賭博場の場面が生き生きと描かれているのも感心した。 とにかく主人公が忙しい。朝起きて夜寝るまでに、いったい何軒の家を訪問するのだろうと思う。今なら路上でタクシーを拾う感覚で橇に乗って駆け回る。それを毎日繰り返す。訳者が解説するように、物語が複雑で一人称で語るという小説の形をとっているため、あちらこちらで起きている事件の節目に主人公が顔を出さないと、読者に話を紹介できないためだと思われる。 盗み聞きの場面も目立つ。高視聴率だったNHKの朝ドラ『あさが来た』(主演:波瑠)も、盗み聞きが多かった。制作担当者がその理由について何かの番組で「短い時間で話を進めなければならないから」というようなことを話していたのを思い出す。例えば、語り手がそこにいない話は、語り手が誰かから報告を受ける場面が必要となる。盗み聞きは、そうした報告の場面を省ける効果を持つ。 とにかく、みんなよくしゃべる。そして、くどいくらい言葉も豊かだ。各々の性格がぶっ壊れているのもいい。ああ、ロシア文学を読んだ、ドストエフスキーを読んだ、という気になる。先のドフトエフスキー「四大小説」を既に読んでいて、またこの読後感覚を再び味わいたいなと考えている人には、最後の贈り物となる作品なのだと思う。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ東浩紀さんのYouTubeの切り抜きでおすすめされていたので読みました、
何度も何度も何度もこれ私じゃんって思った。(当然主人公のような語彙力が無いからだいぶスケールは下がるけど)
だから、こういう自意識過剰すぎて生きづらい人間はいつの時代も居るよなあと思った。
あと、訳者解説の部分の、美しい理想を持っていて、それに伴わない醜い自分を理解していることが絶望的だということを描いている(うろおぼえ)みたいなのも、すごくそう!そうなの!と思った。
パニックのように一瞬で思考が行ったり来たりする描写がリアルすぎて、ドストエフスキーもそういう片鱗があるのかなとも思った。
だから、進歩的な思想とゆーか、人間は合理的な行動をできるし、それを奨励していけば最良な社会が実現する!という考えにはうーん、賛成できないかな〜とも思った…
またドストエフスキーの他の作品も読みたい!
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Posted by ブクログ
大審問官のところの思想が難しく、読み取れなかったので、色々と整理しながら読み進めた。
分かるところ(自由の重荷の部分)があったり、逆に霧がかかっているように全く分からない(3つのなんちゃらこんちゃら)に苦しめられた。
トロッコ問題で考えたら理解しやすかったかな。
神様は自由を与えた。
それは「このままだと5人の老人を殺してしまうが、レバーを切り返せば若者を1人助けることができる。さぁ君はどうするか。」
という問いを与えた神様は悪いやつだ。
レバーがなく、選択もなく、仕方がない、俺のせいではない、誰であっても同じだ。と思えたら楽だったのに。
だけれども、神様はこの選択を与えて俺を苦しめた。
っていう考えに、自由は与える、君は罪に苦しむかもしれない。でも、そうなったら私が愛で救うよ。って返しをする。
これは、トロッコに轢かれた若者のお母さんが、「君は5人の老人を救おうとしたんだ。それは立派なことだよ。仕方がない、仕方がない。」
選択の自由→苦しむ→愛し、一緒に苦しむ
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Posted by ブクログ
形而上学の問いは面白すぎるよねー
カント『純粋理性批判』の二律背反(アンチノミー)をベースに、テーゼ側とアンチテーゼ側を擬人化させて戦わせてるの最高に楽しい。
・仮に神が現前して人々が言葉を信じるとすれば、果たしてそれは信仰ではなくなるのだろうか。(それは自由な信仰ではなく服従か)
から派生して、
・信仰は「不確実性」を必要とするのか
・「存在を知る」と「従う」は別なのか
「信じる者は救われるのではなくて本当は、信じる者は救われると信じる者が救われるなのです。これだから宗教はずるいのよ」(『考える人』)
を思い出した
生まれる問いが全部面白いな〜
「人生の意味より人生そのものを愛せについて」
└人は世界を肯定できなくても生を肯定しうるのか
└理解できない世界の中で、それでも生きたいは成立するのか
「理解しないことは不誠実か、限界の承認か」
└分からないで止まることは誠実か
└分かりたくないは逃避か、防衛か
└しかし理解しようとすることは常に善なのか -
Posted by ブクログ
罪と罰を読み終わり、変身、地下室の手記、異邦人、白夜で哲学の修行を積んだ後に挑んだ小説です。
哲学を理解するのが難しい。話自体はトントン拍子で進んでいくのは、見ていて飽きは感じないが、置いていかれるところがちまちまとある。たまにボーッとして読んだら急に分からなくなっている感じ。
そして一人一人の人物に謎というか含みがあるのが面白い。哲学をキャラクターとして落とし込んだ感じかな。キャラの哲学に一貫性があるように感じる中、そのキャラというもの自体が一貫性のない存在であり、それを含め一貫性が生まれているみたいな。あまりに言語化が下手ですが、、、
この先もワクワクして読み進めていきます。 -
Posted by ブクログ
私にとって、最終巻の主人公はイワンだ。
最終巻を読むまでは、ミーチャの激しい情熱やアリューシャの素朴な聖人さに魅力を感じていたが、最後になって、イワンの印象が強烈に変わった。あの冷徹な理性を持った彼が、「大審問官」の挿話を語った彼が、「神がいないなら、すべては許される」と考えていた彼が、スメルジャコフの殺人を聞きてひどく狼狽し、悪魔にとらわれ、衰弱していくとは驚愕だった。これまで、あれほど知性の強さを誇っていたのに、いざ自分の罪を眼前にすると、あれほど脆くなるとは思わなかった。
彼にとって「神がいないなら、すべては許される」という思想は、あくまで頭の中の仮説だった。しかし、スメルジャコフはその思想を「実行の手引書」として受け取ってしまった。 自分の知的な遊戯が、実父の殺害という「生々しい血と腐臭」を伴う現実として突きつけられた時、彼の強固な論理は一気に決壊したのだろう。実態の伴わない思想は、実行という現実の前には脆い。
スメルジャコフはイワンに向かって、「あなたこそが真の殺人者だ、私はあなたの手先に過ぎない」と言い放つ。イワンにとってスメルジャコフは、自分の中にある「醜悪な本音」を具現化した鏡のような存在になった。あれほど軽蔑していた男が、自分と最も深く繋がっていた。この自己嫌悪は絶望に近かったであろう。
スメルジャコフとの最後の会談の後のイワンの様子の急速な変化は最終巻の白眉だ。彼は、必ず法廷でスメルジャコフの殺人を告発するという決意を固くし、自己満足と歓喜を感じていた。帰り際、酔っぱらって雪の中で眠りこけていた農民を1時間もかけて助けるほどの余裕も見せていた。しかし、家に着くや否や、その自己満足も歓喜も余裕も消え失せ、悪魔との長い対話が始まる。この短い間に彼の中で何がおこったのか。あの自己満足と歓喜は、正気の最後の灯だったのか。
イワンが雪の中の農民を助けたのは、自分自身に対する道徳的なアリバイ作りだったと思われる。直前に「父殺しの教唆」というおぞましい真実を突きつけられた彼は、無意識にその対極にある「人命救済」を行うことで、魂のバランスを取ろうとした。また、「自分は明日、法廷ですべてを告白し、真実を明らかにするのだ」という決意が、彼に一時的な道徳的優越感を与えた。このアリバイと道徳的優越感により、自己満足と歓喜が一時的に訪れた。しかし、イワンが自室に戻ると、この一時的な麻酔が溶け、自分が置かれている地獄のような恐怖の板挟みに陥っていることに気づく。告白すれば、世間に軽蔑され、スメルジャコフと同じ地平にまで堕ちる。黙っていれば、 一生、スメルジャコフの影(共犯意識)に怯えて暮らす。麻酔が切れた瞬間、この板挟みに押し潰されてしまったのだ。
そして、自分自身の醜悪な部分を具現化した悪魔との長い対話がはじまる。悪魔は、「新しい人間は、神の座に立ち、古い道徳や法律を超越することができる、こうして「すべてが許される」」、と会談の最後に言うが、大審問官の挿話を考えたイワンにしては、稚拙な内容に感じる。これまでのイワンが言う「すべては許される」は、人類の苦悩を背負い、神に反旗を翻す言葉だった。しかし、スメルジャコフとの会談を経て現れた「悪魔」が語る「すべては許される」は、あまりに安っぽく、俗悪なスローガンに成り下がってしまった。スメルジャコフの醜悪な実行によって、高邁な思想が、殺人の稚拙な言い訳にまで引き釣り下ろされてしまった。
イワンの結末はあまりにも救いがなく、憐れに思う。法廷で、正気とは思えない言動で、自分とスメルジャコフの犯行を告白したことによって、その告白の内容は真剣に取り上げられず、しかも、彼の愛する女性カチェリーナに憐れまれ、彼女に恥辱を伴う救いの手まで取らせてしまう。さらに、それによって、自分の代わりに訴えられている兄の冤罪を確定させる結果になってしまった。イワンが望まなかった結果がすべて実現してしまった。彼は発狂したが、まだ死んではいない。果たして救われるのだろうか。
この長い物語は、ヨハネ福音書第12章24節の引用からはじまった。
「まことに、まことに汝らに告ぐ。一粒の麦、もし地に落ちて死なずば、一粒のままにてあらん。されどもし死なば、多くの実をもたらすべし」
長兄ミーチャは冤罪で流刑地に飛ばされ、次兄イワンは発狂し、私生児スメルジャコフは自死した。最後に残ったカラマーゾフ、アリョーシャは子供たちと「カラマーゾフ万歳」と合唱し、物語が終わる。死んで子供たちに新たな実をもたらしたイリューシャとそれを導いたアリョーシャ。(自我を捨てずに)死んでいき何の実ももたらさなかった者(スメルジャコフ)、死に切れない(自我を捨てられない)者(イワン)、死んで子供たちに新たな実をもたらした者(イリューシャ)、それを導いた者(アリョーシャ)。最後に希望的な雰囲気で万歳が唱えられたということは、イワンもいずれ救われるはずだと思う。
「カラマーゾフの兄弟」を初めて読んだのは10年以上も前だった。大審問官の話以外はほとんど忘れてしまったが、深くて暗いという印象だけは頭の片隅にずっと残っていた。以前はただひたすらに暗いという印象だったが、今回10年以上ぶりに読んで、その暗さは豊かな暗さ、人間の深さの表現だったのだと気づいた。それゆえに、この名作は救いでもあるのだと思う。人間は複雑で、豊かで、深いものである。しかし、日々の生活の中で、単純になっていく。単純であると枠にはまりやすくなる。社会に都合の良い枠、他人の欲望に都合の良い枠にはまって、精神の身動きが取れなくなる。この名作は、人間が、自分が、本来複雑で、豊かで、深いものなのだということ、御しがたいものだということを、思い出させてくれる。第3編 第3章「熱い心の告白——詩に託して」でミーチャがアリョーシャに自らの情熱と苦悩を独白する場面での言葉が頭に浮かぶ。
「・・・人間の心は広いよ、あまりに広すぎるくらいだよ、おれは狭めたいくらいだ。・・・」
この名作は、読む者を精神の窒息から救い出してくれる。 -
Posted by ブクログ
一巻を年始から読み始め、約一ヶ月半かけてようやく最後まで読み切りました。
この巻に収められた第四部の中盤以降からが一番おもしろい。
そこにたどり着くまでの長い長い旅路で挫折しなくてよかった…!
一言で言うなら……いや、言えないな。
父殺しができごとの中核にあるにせよ、そこに秘められた思想はあまりにも多様で今の自分には整理できない。
ただ漠然と感じたことは、矛盾や逆説こそが人間であり愛なのだということ。
法的に罰されることよりも、むしろ法から赦されること、逃れることこそが真の罰である。
そして人間は真の罰を求める。少なくともドミートリイは。
自分を罰するために、憎き恋敵に赦しを乞うたカチェリーナ。
そしてそのカチェリーナを赦さないことでカチェリーナに罰を与えない、すなわち真の救いを与えないグルーシェンカ。
そんなグルーシェンカを非難しつつ、だからこそそんな彼女を愛さずにはいられないドミートリイ。
ドミートリイの無実を証言すれば自分にも事件の原因があったと自白することになるとスメルジャコフに脅されながらも証言するイワン。
そしてそのイワンを救うために、ドミートリイを法廷で売ったカチェリーナに感謝するドミートリイ。
ここに直線的な愛はない。
カラマーゾフは「理想の深淵」と「堕落の深淵」の双方をのぞき見ることができる一族だと検事は言うが、その両義性は愛のあり方にもかいま見えるし、実はそれは人間全員に言えることなんじゃないかなあ。
「カラマーゾフ万歳!」の唱和と、博愛の人アリョーシャの旅立ちで閉じられるこの小説は、矛盾と逆説だらけであるがゆえに破滅に向かう愚かさと愛らしさを持った人間の行く末を問うているのかもしれない。 -
Posted by ブクログ
作品情報
タイトル:罪と罰
著者:フョードル・ドストエフスキー
形式:Audible(7割)+書籍(3割)
かかった時間:約27時間
読みやすさ:★★☆☆☆
罪と罰 (上)/ドストエフスキー, 江川 卓|岩波文庫 - 岩波書店
罪と罰 (中)/ドストエフスキー, 江川 卓|岩波文庫 - 岩波書店
罪と罰 (下)/ドストエフスキー, 江川 卓|岩波文庫 - 岩波書店
Audible版『罪と罰 上 』 | ドストエフスキー | Audible.co.jp
読み方に関する振り返り
Audibleと書籍を併用。Audibleはハードルを下げてくれた一方、登場人物の名前が入り組んでおり、メモが取れないのは痛かった。飛行機や移動時間ではAudibleが便利だったが、重要な場面では文字で読んだ方が頭に残った。
感想
忌憚なく意見を言ってしまうと、長すぎます!(笑)
前半をやっと乗り越えたと思ったら、後半も停滞するところが多く、読むのが大変でした...。正直ドーパミン中毒現代人にとっては苦行。
また、キャラクターで好きになれる人がほとんどいないのも辛いところ。だいたい貧困が影響して、もしくは生来的に性根が曲がっている。また、出てくる女性が現代的なあり方とはかなりかけ離れた、可憐で純潔で弱々しい女性が多く、そこの点も感情移入がしづらかった。
上記のせいで8割ぐらいはイライラしながら読んでいたが、それでも読む価値はあったと思う。主題が「殺人は正義のもとで正当化されうるか?」と言う根源的なものでもあり、復活や救い、愛といったキリスト教のテーマも加えながら、アンサーを返していく様は神聖で神々しく圧倒される。日本の文学と比較して、常に神という絶対的な存在が人間の中にいるので、なんだか悩みのスケールが大きいように感じる。
このように様々なテーマがおり合わさっているわけだが、自分が最も刺さったテーマは「英雄になれない非凡人である''シラミ''はシラミなりに日々どう生きていけるのか」である。この物語にはナポレオン的英雄は一切出てこない。むしろ、英雄譚にすら出てこないモブキャラたち、もっと言うと底辺の人間が多い。非英雄である(そしてなれるわけもない)という現実を受け止め、いかに生きていけるか、そんなことも描かれていたように感じる。このどうにもならない英雄への距離への恨めしさ、やるせなさ、腹立たしさは凡人の私にとって痛いほど頷ける。
ロシア文学のなんとも言えない陰鬱さ、社会の停滞を感じられるのも面白い。目に浮かぶ情景が全部薄暗く影が濃い....。寒いもんね...。しかし、スターターとしてはあまりに重いので、他の作品でも良いと思う。
カラマーゾフの兄弟はこれより長いらしく、今のところもう挑戦したくないという気持ち、、。トルストイの戦争と平和も読みたいが、この鬱々した雰囲気はちょっとなぁと引け目を感じる。。。
感想 ネタバレあり
①圧倒の救済シーン
正直、ほとんどうんざりしていて、楽しめなかった。ある一場面を除いて。
それは、ソーニャに罪を告白するシーンで、救いを受けるシーンだ。
とふいに、ソーニャに対する刺すような怪しい憎悪の念が、思いがけなく彼の心を走り流れた。彼はこの感情にわれながら驚きおびえたように、とつぜん頭を上げて、彼女の顔をひたとみつめた。けれども彼は、自分の上にそそがれている不安げな、悩ましいほど心づかいにみちた彼女の視線に出会った。そこには愛があった。彼の憎悪は幻のごとく消え失せた。あれはそうではなかった。ある一つの感情をほかのものと取り違えたのだ。それはつまり、あの瞬間が来たことを意味したにすぎないのだ。
フョードル・ドストエフスキー(著)、工藤精一郎(訳)『罪と罰』岩波文庫、1955-1957年
これをAudibleで聴いた時、私の目の前にも何か啓示が降りてきたような気がした。文章力天才すぎる。(読み手の方もすごい!)この繊細でドラマチックな表現をズーーーっと続けてるもんだから、冗長に感じるんだろう。でもこのような重要な場面では、最高にこの表現力が際立って、思わずニヤニヤした。
ひたすら3章も選民思想を語ってき、弱者にも注がれるその愛に、主人公にかなり大きな天変地異が起こる瞬間。私も召された気がする。
②貧困は他人への想像力を狭める
この作品では、貧しい人々の体験することを追体験できる点も価値があると思う。そして、彼らがどんな場所に住み、街を人をどのように感じ、そしていかに殺人を決心するのか。彼らが犯罪に手を染めるまでの心の動きまでもうんざりするほど追体験できるのだ。
最近では、若者や外国人による殺人強盗のケースも増えている。どうせ捕まる可能性が高いのに、そこまで大きくない額のために、人まで殺すなんて...と全く不可思議に感じてしまう部分もある。しかし、この本を読むと、貧困というのはいかに他人への想像力を狭めるのかが分かる。
狭い部屋に横たわる。今日食べるご飯もない。お金を借りに物品を渡しに行ったら貶される。遠くに住む母と妹は自分の状況を露知らず、可愛い妹は自分のために男に一生身を捧げる。
こんな状況だったら、誰でも人生が嫌になってしまうだろうし、誰かを尊重するなんてもってのほかだ。(主人公は元々選民思想が強いので、生来全ての人を尊重することはできなかっただろうが)
③奇妙な罪の感じ方
主人公の罪の捉え方は、きわめて独特である。
彼の中には二種類の犯罪がある。第一は社会的に定義される犯罪、第二は自己認知に基づく犯罪である。後者は両親や自分の倫理観との照らし合わせによって判断される。
社会的な犯罪に関して主人公は、「犯罪とは何をしたかではなく、誰がしたかで決まる」と理解している。権力者の行為は犯罪として裁かれず、弱者の行為だけが犯罪とされる。戦勝国の戦争犯罪が不問にされることを例に挙げれば、この発想は十分に理解できる。主人公はこの論理を根拠に、自らの犯罪を正当化しようとした。自分が強者となれば、その行為も正当化されると信じたのである。
しかし、実際には彼は「強者」にはなれなかった。そのため、行為は罪として自分に跳ね返り、彼は後悔することになる。「自分が弱かったから反省せざるを得なかった」という発想は清々しいほどまで正直だが、同時に人間の普遍的な倫理観を欠落させた、どこか空虚な結論でもある。
④なぜここまで自意識が高いのか
主人公に関して特に不可解なのは、彼がなぜこれほどまでに「自分は特別な存在だ」と思い込めたのか、という点である。彼は多少は聡明であるものの、決して天才ではなく、怠惰な一面も見せる。それにもかかわらず、「一度の殺人で得られる金によって偉大な人物になれる」と信じ込めたのはなぜか。
一つの理由は、彼が田舎で育ち、他者との交流をほとんど持たなかったことにあるだろう。優れた人々と出会う機会が少なかったため、相対的に自分を過大評価してしまった可能性がある。狭い世界の中で、自分を「こちら側の人間」、すなわち偉大な存在に近い者だと錯覚していたのではないか。
それにしてもなお、その過剰な自意識の高さは不思議であり、読者に強い違和感を残す。
さいごに
大学生が主人公の本作を同じ大学生の時期に読めたことは貴重な経験だと感じる。太宰治にも通じるが、若さゆえの過剰な思想やロマンチシズムは、老齢になってからでは手に余るように感じる。だからこそ今、この時期に出会えた意味は大きい。読んだ価値は十分にあった。