シェイクスピアのレビュー一覧
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Posted by ブクログ
物語というものは、あたかも自律した生命体のように、作者の意図を無視して、勝手に読み手に感銘を与えることがあるらしい。チェーホフは戯曲『桜の園』を喜劇のつもりで書いたが、役者たちはしばしばそれを悲劇と解釈して演じてしまい、作者を苛立たせたという。
『ヴェニスの商人』も、そういう作品のひとつである。シェイクスピアはこれを勧善懲悪の喜劇として書き、観客も当初は喜劇として楽しんだ。キリスト教の神がすべてを支配する中世西欧において、ユダヤ教徒の高利貸しシャイロックが駆逐されるべき「悪」であることは自明であり、ほとんど真理に等しかったのだろう。その「真理」に異議が申し立てられるのは19世紀。被差別民という「悲劇の人」としてシャイロックが解釈され始めたのは、西欧において神の絶対性が否定され始めたのと、ほぼ同時である。そして第二次世界大戦という真の悲劇を経て、受難者としてのシャイロック像は、いっそう現実味を帯びて定着することになる。
とはいえ実際に読んでみると、同情や哀れみの涙を寄せるには、シャイロックというキャラクターはあまりに骨太すぎるように、私には思われる。「嫌いならば殺してしまう、それが人間のすることか?」と問われて「憎けりゃ殺す、それが人間ってもんじゃないのかね?」とすかさず言い返すふてぶてしさも、「罰はこの身で引き受けるまで!」と開きなおる潔いほどの傲岸さも、どこか中世という枠に収まりきらないエネルギーを感じさせる。それは、むしろ近代以降のものであろう。中世のキリスト教的価値観を体現するアントーニオやバッサーニオが、まったくと言っていいほど生彩に欠けるのとは対照的だ。
シェイクスピアは、別に歴史を予感していたわけではないだろう。にも関わらず、その卓越した人間観察力は、結果として正しく「神に刃向かう者」を――ニーチェやマルクス、あるいはカミュなどを連想させる近代的自我を――描写しているようにみえる。ここにいたっては、もう喜劇も悲劇もない。ただ「劇」があるばかりである。作者の手綱を振り切った、生きた物語があるばかりである。 -
Posted by ブクログ
ネタバレエドマンドにはめられ逃亡中のエドガーと、娘2人に命を狙われコーディーリアへにしたことを後悔して狂いはじめるリア王、それぞれ物語りの裏と表が進行していて、展開がとてもドラマティックな印象を受けた
作中何度も繰り返される'nothing'の言葉の意味。無から生まれる有。つまりコーディーリアの愛、という解釈、この「リア王」のテーマはそこなのだろうか
わたしは、作中でもでてくる「運命の女神の歯車」がきれいに一周したイメージを抱いた。つまり最初に権力も知恵もあった者、有体に言えば勝ち組が、中盤では他人の策略に落ち、落ちぶれるが、最後には本質を取り戻す。
不変なものはなにひとつない(nothing)、運命の本流に流されるまま物語は転がる、そのなかでたったひとつぶれない無言で(nothing)
示すコーディーリアの愛情、それに気づくリア王、しかし最後に舞台に残る者はだれもいない。壮大なトラジェディ。
なんて全然シェイクスピア詳しくない自分ですが、さまざまな学者さんのすばらしい解釈が溢れるなか恐れ多くも感想をここに投下
4大悲劇全部読み終わりました。喜劇読むぞー たのしみ! -
Posted by ブクログ
読み終わって思うことは、あぁ、復讐って、全てを犠牲にしてしまうんだな・・・。
原作は読んでません。(パラパラと読んで、脚本だったので読みづらかったので)
漫画でこの話をするっていうのはアリだと思う。
これで、ホントシェイクスピアを知らない人たちにも伝わるんじゃないかな。
かくいう私も、この話は名前でしかしりませんでした。
きっかけは『絶園のテンペスト』という漫画と『7人のシェイクスピア』という漫画を見て、これはどんな話だったんだろうと思ったのがきっかけです。
本当にこの因果というか、なんというか・・・。
心にズシンとくる作品でした。
復讐からは何も生まれない。
それが私のこの話を読んだ結論です。
こりゃ4大悲劇というだけあるわ。うん。