宇佐見りんのレビュー一覧
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ネタバレ一読目にはうまく言語化ができず、感想を書くまでに至らなかった。ただ文才と熱量と痛みと神々しさに、ただ呆然とするしかなかった。そして今回二度目となったが、やっぱり熱量に押されてしまう。それでもなんとか考えてみた。
この小説の中で重要なものは、「信仰」だろう。主人公のうーちゃんは、かかへの失った信仰を取り戻しに熊野へ旅に出る。熊野は身分や性別を問わない場所らしく、蘇りの地とも呼ばれるそうだ。かかが死に生みなおすのならばこの地がよかったのだろう。なので「信仰」や「かみさま」について考える。
「かか」の作中における信仰は、「あかぼうの瞳」にある。そしてその瞳はかみさまに守られている。つまりあかぼうは母親をかみさまとして信仰して生きている。ほかにも「かみさま」はかかだけでなく「不特定のだれか」でもある。それはインターネットのコミュニティーにあふれていた。終盤にうーちゃんはかかが死んでしまうとネットで嘘をつく。それによって不特定のだれかからの慰め(お気に入り)を求めたが、実際帰ってきたのは電話番号と慰めのメッセージだった。それはネットの人物の不特定さを否定するものであり「かみさま」の存在を否定することにもなった。
「子どもたちのかみさまは、成長するにしたがって小言を言い、殴って、くるって、そのうち老いて、淋しさ残していく。うーちゃんのかみさまは、かみさまだったはずのかかは、うーちゃんを産んでかみさまじゃなくなった。もともとかみさまじゃなかったんです。」
「まだかかが優しく厳しいかかであった頃に、かみさまのまましんでほしかった。そう願いながら介護の末に親と心中はかった人間がこの国に何人いるでしょう。」
母親という存在は幼い子にとっては、他と比べられないような「かみさま」だ。しかし母親は老い、更年期をむかえ認知症になることもある。そして子供は成長し、母親を他と比べ「信仰」を失う。つまり「かみさま」は否定される。
明子はどうなのだろうか。明子の母である夕子ちゃんはおそらく明子が小さいうちに死んでいる。明子にとってのかみさまである夕子は、かみさまのまま死んだ。だからこそうーちゃんと明子の間には溝があるのではないだろうか。
他にも「かか」では女性であることが大きな要素となっている。冒頭シーンの金魚は生理の血であり、締めのセリフも子宮についてだった。また対極となる男性については、父親である「とと」が挙げられ、描写は少ないがDVの傾向にあり女性を消費する男性像の象徴のような人物だった。
「修学旅行の班分けのとき、くじで一緒になったうーちゃんたちに聞こえるように大声でハズレと言ったり、女性の教師たちをヤれるヤれないと仕分けたりしてた男子生徒たちに感じるんと一緒です。……たった一言であほらしい猥談のなかに取り込まれてしまうんがどれほどまでに悔しいことか、おまいにはわかりますか。」
他にも女性であることの辛さを描いた描写は多くある。そしてうーちゃんはかかを産むことを決意する。産むということは女性にしかできない行為であり、そこがなんとも皮肉なところだ。そして本名がうさぎという子宮が2つある生き物であること。その決められた因果に対する嫌悪感が伝わってくる。
まとめると、幼い子どもと信仰との繋がりは強く、成長するにつれてそれは失われていく(雷様の伝承についても母と子との繋がりであったヘソを取るというこの文章にシナジーの強い、信仰が年齢とともに失われていくことに関しての言及があった)。かみさまとは不特定な存在であって、子どもにとってのかみさまである「かか」とは概念としての母親のことであって、子どもの成長によって母親という概念から実際の母親は個人になって離れて行ってしまう。それを信仰を失うと捉えそれを取り戻そうとする。しかし私は最後にうーちゃんは信仰を取り戻せてはいないのだと思う。信仰を完全に失うことは大人になることであり、人間としての成長を信仰を交えて描いたとてつもない作品だった。 -
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ネタバレ純文学だが、内容が現代的で取っつきやすかった。
あらすじ: 主人公は息苦しい現実から逃避するためか、推しを解釈し、模倣した生活を送っていた。推し越しに生きていた。しかし、その生活は推しの炎上により段々と崩れていってしまう。
SNSの普及により個人間の生活は侵食しあい、やろうと思えば自分の好きな人だけ見て、その人の生活をコピーすることさえできるようになったと思う。しかし、そのような生き方は刹那的でいつかは立ち行かなくなってしまう。だからこそ、他人を知るのが簡単になった現代において、自分自身を確立して生きることが大事なのだと感じた。
また、主人公は推しを分析する上で、無自覚に推しは不変だという前提を作っていると思った。主人公が推しの過去の言葉と今の行動に矛盾を感じ、混乱することがあった。しかし、人は常に変わっていく。変わりゆく人を分かり切ろうとすることは不可能だ。ここにも他人のコピーではない自己を持つ必要があると感じた。 -
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重く心に刺さる物語でした。
推し活
趣味の延長線上で推し活をしている人もいるかと思いますが、もし推しがその人の生きる理由や意味のすべてだとしたらどうでしょうか。
推しを推すことは人生の業だと言う主人公
しかし、推しが燃えることで明らかになる自らのあまりにも辛く苦しい現実と、ひどく空虚な自分自身。
主人公がどこか他人事のようにそれを捉えている様子が不気味なほど冷静です
主人公は推し活を自身の「背骨」と表現しました。
生きる意味が「背骨」なら、それを失った私たちはどうなるんでしょうか。
もう2度と立ち上がれず地べたを這いつくばって生きていくしかないとしても、自らで手放した手の届くものを少しでも拾って、また自分の「背骨」が構築されるといいなと強く思います。 -
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家族の話。
かんこにとって両親は親であり子。助けられているし、助けなければならない。弟や兄はそういった共依存的な状態に陥っている家族に対して、読者を含む外野を象徴しているように見えた。
地獄の本質は続くこと。涙が乾いたことは希望を意味しない。ところどころに刺さる言葉があって、引き留められる。
情景描写や感覚の描写が細かくて印象的だった。かんこにとっても、母にとっても家族と車で過ごす時間が好きで、感情が分かりやすく表出してくるのは車内が多かったように思った。「くるまの娘」は彼女ら2人を指しているのかと思った。
暖かいような寂しいような、心地よい読後感。
実家に帰りたくなった。 -
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宇佐見さんの作品は『かか』『推し燃ゆ』も読んだけど、家族というテーマが刺さったこともあり、わたしは本作が圧倒的に良かった。
これまでの作品では主人公と母、主人公と推し、という一対一の関係を主に描いていたように思うが、本作では父母、兄、かんこ、弟のそれぞれの感情が絡み合い、より複雑な人間関係が浮かび上がっている。
家族にまつわる言語化はどれもあまりにも芯をついていて、ここまで突き詰めた思想を一作に詰め込んで共有していただいていいのですか、と思うほどだった。
主人公のかんこも含めて、登場する家族たちは皆、加害者でも被害者でもあり、どんな暴言や暴力を振るおうとも、いいところもある。
それに気づいてしまうがゆえに、かんこは家族から離れられないし、離れたくもない。
家族の中でも特に母は、幸せだった頃の思い出にすがり続け、ひたすらに追体験を求める。
物語は、人が与え、与えられる苦しみはどうしようもないものだ、「天からの日が地に注ぎあらゆるものの源となるように、天から降ってきた暴力は血をめぐり受け継がれ続ける」という結論に辿り着く。
思えば冒頭からかんこは背骨に光を感じており、家族を運ぶ車も日差しに照らされながら学校にやってきたのだった。
ラストにも道は光を受けている。死なないことで、地獄は続く。そして、「地獄の本質は続くこと、そのものだ」。
まだ20代の宇佐見さん、これから先どんな作品を書いていくのか、引き続き追っていきたい。
現実を地獄のまま書いていく作品は素晴らしいけれど、いつか人生の中に救いを見出してくれる作品も読めたらすごくいいなあとも思う。現実から目を逸らさない宇佐見さんが描く希望なんて、絶対に信頼できる。
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Posted by ブクログ
ネタバレ息が詰まるような閉塞感が文字越しにも伝わるような、読後感のなんとも悪い作品だった。宇佐美りんさんが「かか」で表現したかったことを更に煮詰めた結果がこの作品だったのかなとも思った。記憶と現在が入り混じった難しい構造や、娘が親を憐れむ気持ち、無関心な兄弟たち。ただどっちにしろ2つとも読んでいて苦しくなる。家族という言葉の持つ欠点というか、血縁から生まれる断ち切りがたい繋がりが、命綱にも縛り付ける鎖にもなる、そんな現実を嫌でも意識させてくる。その鎖は親から子へ嫌でも繋がっていく。そんな理不尽を最後は天からの光のせいにしてしまう、それだけどうしようもない理不尽なのだ。
「あの人たちは私の、親であり子どもなのだ」
作中でかん子の父と母は子どもらしさを見せる。母は遊園地で泣き喚いたり(しょっちゅう泣き喚いていたが)父はすぐ暴力に頼ってしまう。これらの幼児退行にも思える行動に兄や弟は限界を迎え、家を出てしまう。しかしかん子はそれを可哀想だと思い離れることはない。ここに自分は女性という性別が関わっているのだと思う。「あの人たちは私の、親であり子どもなのだ」ということは、かん子も子どもであり親なのだ。「かか」での主人公の目的は母を自分の体で生まれ直させること、産むという機能を持つ女性でなければあの感情は生まれないのかもしれない。そしてこの言葉は、子どもと大人の境界線を消し去る。子どもと大人に明確な区切りはなく、大人は子どもを内包しその逆も然りなのだ。そしてその切り替えがうまく出来ないことで、母の起こした心中騒動みたいなことになる。しかし、それはかん子の家庭だけの話でなくて、世界全てに言えることであって、それは作品の最後の部分に描かれている。
作品終盤、かん子が車に籠ったことをどうとらえるかは悩み中だ。
最後に、歴代の宇佐美りんさんの作品を通して考えると、この作品にスマホに関する描写がほとんど出てこなかった。「かか」では二つ、軸があったのかもしれない。母と娘の奇妙なつながりと、スマホ或いはインターネット。もしかしたら「推し、燃ゆ」を書いたことで二つ目の軸は描き切ったのかもしれない。そして「くるまの娘」で一つ目の軸を。そう思うと「かか」の熱量はとんでもなかったのとも思う。宇佐美りんさんは、かなり好きな作家さんなので次の作品が出たら嬉しい。
考え直すと、作中で何度も使われた単語に「はらむ」があった。わざとに思えるほど「風をはらむ」という表現が使われていたことからも、産み直しに近い意味を意識させるためなのかもしれない。 -
Posted by ブクログ
本当に小説としてすごいし、これを書いた後で、新刊が出ないのも頷ける。暴力が天から降ってくるという感覚の後で、その先を描くことは難しい。自分や他者をネットワークを構成する一要素として、俯瞰する目線。暴力に始まりも終わりもなく、過去から引き継がれるネットワークの歪みそのものが暴力として人々を縛る。ネットワークを切断し、自立することを選ぶ兄や弟。しかし、その選択では歪んだネットワークは温存される。ネットワークは外部からではなく、内部からしか変えられない。少なくとも短期的には。ネットワーク内部の構成要素としての自分はどのように振る舞えば、ネットワークの他の構成要素たる親を救うことができるのか。かんこの全員を丸ごと救って欲しいという発想には、ネットワークの歪みを直して欲しいという願いがある。ある意味では自他の境界がない。このネットワークにいる自分が自分なのであって、それ故に、ネットワークを構成する他の要素も含めて、自分だということ。自分を救うにはネットワーク全体を救う必要がある。
しかし、それは現実的に困難だ。だから、この小説でも解決は示されない。この後で宇佐美りんが何を書くのかはとても気になる。
常に現在と記憶とが混じりながら書き進められる。それは小説として少し珍しいし、慣れるまでは何が起きているのか読み取りにくい。でも、ある意味では現実の知覚に近い。現実は過去の回想と現在の出来事が別れているわけではない。現在の出来事は、常に過去の記憶との関係において経験される。
人や出来事は、言語的に構築される。だから、被害者としての自分や被害を受けた経験は流暢に話すことができるが、自分が認識していない加害の記憶を知るには他者の記憶を媒介とするしかない。
家を出ることは他者の記憶による侵入を拒否し、自分の記憶を守ることでもある。そして、それは自立と呼ばれる。自立には、自分が言語的に揺さぶられる機会を減らすという側面がある。
相手の記憶に自分が良いものとして位置付けられることを承認というのかもしれない。祖母からの承認がなかったことを知る父は、なんで生きてきちゃったんだろうな、とつぶやく。その時、父はかんこと車の中にいる。車は家の中でも外でもない。中間的な領域だ。その車の中で、家族関係が揺らされる。それにかんこはまだ運転できない。最後に、父が運転する車が知らない道を走り知らないスーパーに入るという細部も見事。 -
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凄かった。エッセイというものをほぼ読んだことがなかった私にとって強烈な読書体験だった。
ほんタメというYouTubeチャンネルで紹介されており興味を持って読んでみた。これは、映像化はきっと難しい、本という媒体のみを通して伝えられる感覚だと思った。
共感できる部分も多く、一方で共感できなかったあの子の振る舞いはこんな感覚にルーツがあったのではと思い至るところもあって、強烈に胸に響いた。私の感じたもやもやを言語化してもらったようで嬉しさもあった。自身も女性性を元とした経験はポジティブ面、ネガティブ面ともにあり、同じような経験をした作家がそれをどう捉えるかを聞けたことが嬉しかった。
性に関する体験をもとに感情が描かれていて、一読するだけでは飲み込みきれなかった部分もあった。一作ずつ丁寧に読みといていきたい。 -
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「私の身体」を「生きる」とは何だろう。いや、「私の身体」とは何だろう。そもそも、「私」とは何だろう。
各作家たちの切り口は様々だが、みな共通しているのが、己という存在を不可欠に構築するこの肉体というものの生物的な役割にも社会からの眼差しにもかなり戸惑い、苦しみ、受け入れたり受け入れられなかったりしながらどうにか生きている点で、強く連帯感を持ちながら読んだ。
痛ましさを感じたのが、執筆陣の女性たちはほぼほぼみな性被害の経験がある点。私にもあるし、私の友人たちもほとんどあると思う(学生の頃、痴漢が話題になったとき、その場にいた10人ぐらいのなかで痴漢に遭ったことがない子は1人しかいなかったことを覚えている)。この社会で、そうやって女性は、否応がなしに「私の身体」は本当に私のものなのかと、「私」がモノとして扱われ得るということに向き合わされてしまう。時には、まだ第二次性徴も迎えていないうちに。だからこそ、このようなアンソロジーが興味深い。
とはいえ男性視点の「身体」やその社会的表象については私にはわからない部分なのだが(この辺りのアンコンシャスバイアスについて、鳥飼茜さんとパートナーの方との会話が面白かった)。男性作家たちに、同じテーマでアンソロジーを書いてもらったらどのようなものが生まれるのだろう?と好奇心を抱く。 -
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ネタバレ父方の祖母が亡くなり、かんこと両親は車で祖母の家へ向かう。
車中泊をしながら。
家を出て暮らしている兄と弟もそれぞれやってきて…という話なのだが、彼女の作品を説明するのに、あらすじなど書いたところでしょうがない。
傍から見ればかんこの家族は壊れている。
些細なことですぐかッとし暴力をふるう父、脳梗塞で倒れて以来自分の感情を持て余すかのように時々爆発する母。
家を出て自分の力で生きている兄と、遠くの高校へ通うために家を出ている弟。
家族それぞれが傷つけあい、血を流しながらも愛している。
それは歪なこと?
逃げ出さなくてはならないこと?
かんこはそうは思わない。
”もつれ合いながら脱しようともがくさまを「依存」の一語で切り捨ててしまえる大人たちが、数多自立しているこの世をこそ、かんこは捨てたかった。(中略)むしろ自立を最善の在り方とするようになったこの現代社会が、そうでなければ大人になれないなどと曖昧な言葉でもって迫る人里の掟じたいが、かんこにとってはすでに用済みなのかもしれない。”
それでも、このもつれあった家族の「依存」は解消されねばならないと私は思う。
痛みをなかったことにするのではなく、痛みを痛みとして感じながら、少しずつそうしなければならないと。
だって、かんこの家族は誰も幸せではないもの。
かんこは、両親の子どもでありながら、両親を守る存在でもある。
親も完全な人間ではない。
でもやっぱり、泣きながら子どもにすがってしまうのは違う。
だって、親を愛している子どもは、親を守ろうと歯を食いしばってしまうもの。
亡くなった父方の祖母というのも、当時には珍しい自分ファーストの人で、そのことで傷ついた父の痛みが、発作的な暴力を起こさせるような気はしていたが、物語の最後に父親は決定的な痛みを受ける。
母の愛を満足に与えられず、歯を食いしばって自分一人の力で生きてきた(と自負する)父は、最後の最後に「なんで生きてきちゃったんだろうな」とつぶやくはめになる。
自分一人の力で生きる能力を持っていたことを、誇ればいい。
そんな子どもに気付かない親なんて、心の中から消してしまえばいい。
思い通りにならなくても、反抗的な態度を取ることがあっても、少なくとも娘は自分のことを愛し守ろうとしている事に気付かなければならない。
じゃないと父は、自分が母親にされたことを娘にしてしまうことになる。
”横断歩道を人が悠々と通っている。父はアクセルを踏まない。誰も心中しない。道は光を受け、春だった。”
宇佐見りん、天才だな。