中沢新一のレビュー一覧
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中沢新一の新著である「日本の大転換」では、この大きな転換期に基づく新しいライフスタイルがなんなのか、そしてどのうような未来図を見出さなくてはいけないのかが短めではあるが解説されている。
ところで、ぼくはこれまでブログなどで何度も主張してきたが、この原発事故はもともと人間には手に負えないモノをさも知ったふうにして取り扱った結果であり、そして取り返しのつかない状況もまた結果である。ぼくらはこの結果を踏まえ、脱原発の方向で新しい生き方を模索してくしかない。
そのことを中沢新一は肯定的にさらに具体的な可能性を導きだしてくれていることに、すこし気が楽になった。未来は明るいわけではないが、そんなに暗くもない。それはぼくらの意識次第なのだ、ということをあいかわらずの語り口でさらっと言い切る中沢新一にまたしても聞き耳をたててしまうのだ。
中沢新一は、原発というシロモノを「生態系の外部にある核の物質現象を無媒介で生態系の内部に持ち込みエネルギーを得ようとするシステム」と定義した。つまりこれは原発が太陽を創りだす装置と位置づけてもいいだろう。沢田研二が演じた「太陽を盗んだ男」はまさにこのことを伝えたかったのではないか、と勝手に解釈してみる。
第6次エネルギーまでは、太陽のエネルギーを少なくとも間接的にエネルギーとして手に入れたが、第7次エネルギーである原発は太陽のエネルギーを自ら産み出して直接利用したのである。まさに神の領域に人間は野蛮に踏み込んでしまったのである。そしてそのツケが回ってきたことに、もしくは犯すべからずの領域であったことにいまさら気づきはじめたのである。
こうなってしまっては、この第7次エネルギーを求めることはできないわけで、中沢新一は第7次エネルギーに変わる第8次エネルギーを導き出すために、エネルゴロジー(エネルギーの存在論)という知の形態を提言する。これにより原発は完全に否定される。
中沢新一は、原発や資本主義を一神教的だとし宗教的な展開で批判する。それは、アメリカの経済破綻と原発事故によるエネルギーの破綻が同一の構造を持っていると容易に想像できる。
原発は太陽から降り注ぐ光量子エネルギーの贈与を無視し、自ら太陽を作りそこからエネルギーを得ることに成功した。資本主義も貨幣の一人歩きにより、贈与という概念を捨てもっぱら交換原理だけで発達することになった。それこそが一神教的なるものの欠陥であったのだろう。
中沢新一がこれから進めようとする未来図は、太陽光発電など太陽から降り注ぐ光量子エネルギーを活用した第8次エネルギーの活用ではあるが、そこに日本人がこれまで切り捨ててきた第一次産業である農林水産業を基軸に据えた経済をいま一度取り戻す必要がある。太陽の贈与を経済活動に直接結びつける農業、漁業こそが基幹となり、贈与と交換の市場経済を作り上げる(作りなおす)ことが必要なのである。これを中沢新一は「太陽と緑の経済」という素敵なネーミングで語っている。太陽は自ら生み出すものではなく贈与されるべき関係でしかない。それが人間と太陽とのもっとも適した関わり方なのだ。
中沢新一は「黄色い資本論」という論文でこれらの具体的な道筋をぼくらに示してくれるはずである。そして、あわよくば日本版「緑の党」を主宰しているかもしれない。どちらにせよ、原発の破綻で生き方を大きく転換しないといけないぼくらにとっては、画期的な道標になってくれることを願うばかりである。 -
Posted by ブクログ
雑誌『すばる』6・7・8月号に連載されていたときから注目していた論考ですが、そのときとったレジュメとレビューの下書きが、例のたなぞうの終了騒動(!)のドサクサでどこかに紛失してしまって、途方に暮れています。
でも、もし見つからないなら、何としてももういちど再考して、かたちとして残したいと思います。
これは、3・11以降に生きる私たちの持つべき世界観として、地震学者や医療救命関係者や原子力発電所関連の専門家や精神分析家や環境学者や経済学者や企業経営者や芸能人などが、それぞれの専門分野と思い入れを持って思索し行動して問題定義されたなかでも、とりわけ、もっともすぐれて重要な人類的視点で書かれた考察です。
彼は、一面的ではない、私たちがいま現在考えられる究極の選択をしようと試みます。それは、宗教と資本主義という、人間が作り出してきたシステムを根源的に問いただすという方法で展開されます。 -
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5冊シリーズ読破。5冊ともタイトルがおしゃれ。今までのまとめって感じです。講義録なので、かなり読みやすい。こういう講義を大学生の時に受けたかったな。
昔の人はまるで違う2つの異なるものをつなげていろんなモノを創り上げて生きていたんだというのがよくわかる。このへんが「対称性」に関係していて、そこらへんが崩れてきて自然の声を聞けなくなっている(想起する力が乏しくなった?)のが現代社会のよう。
ヤギと人間は夫婦でもあるのだ、だからメスと子供のヤギは狩ってはいけないのだ、とか。現代ではまったくもってぶっ飛んだ考え方だけど、良く考えてみると我々が知る現代よりもっと長い間にそういう考え方がなされていたということを思うと、馬鹿にできる考え方ではないんだと思う。 -
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人類学者の中沢新一によるカイエ・ソバージュシリーズの第一弾。
僕にとって初めての中沢新一。
とりあえず気になるところをつらつらと書いてみる。
以下ネタバレあり。
第一章人類的分布をする神話の謎
・北米インディアン版の竹取物語では両親に愛された娘は中国の纏足のように足が小さい。皆が求婚するが断り、族内婚を嫌い、熊や狐、シャチと結婚する。人間の世界で一切の媒介された状態を実現できていない。
・燕石に関する伝承はさまざまある。
・ヨーロッパの民間伝承で鳥の巣あさりがあるが、これは思春期を迎えた少年を青年が登らせて卵などを取りにいかせる習慣だが、ここで巣に手を入れてはじめて性の手ほどきが行われるといわれている。
第二章 神話論理の好物より
・アメリカインディアンは豆とトウモロコシをよく似た位置のものと捉えている。豆は睾丸、トウモロコシはペニス。柔らかい睾丸はより女性的。
・豆と燕はよく似た存在。豆は解剖学植物学的なレベルにおいて生と死を仲介する両義的な存在。ピタゴラスはそのため豆を取り入れずにいたし、同じ理由で燕を入れてはならなかった。
・ピタゴラス哲学はこちら側にはモダンの純粋主義にも通じる性格を持ちながら、向こう側には神話の世界が広がっていた。豆などを嫌っていたピタゴラスが蝶つがいの役目をになっている。これは節分でいう呼びながら払うという二重の性格を現している。つまりピタゴラスが豆と同じ働きをしている。
第三章 神話としてのシンデレラより
・現代の神話舞台は芸能界が担っている。
第四章 原シンデレラのほうへより
・民話は単調な反復を好む。
・原シンデレラは残酷な結末。姉たちは足を切り落として靴に足を滑り込ませる。さらに結婚式で小鳥に目を奪われる。
第六章 シンデレラに抗するシンデレラ より
・ミクマクインディアン版のシンデレラ「見えない人」は批判精神により作られた。「美しい」は単に見た目だけの話である、と。精神の話。
・カマドは人間と霊界を仲介する場所。
・見えない人に見てもらおうと美しく着飾っては見えない。
・最後にボロボロの娘はきれいに着飾ってもらうが、これは自然の美しさの話。それは誰もがもっている。
第七章 片方の靴の謎
・オイディプスの神話でもオイディプスが片方の足を引きずっているのは死者の領域に踏み込んでいるため。
・シンデレラは死者の領域と自由に行き来できる能力者。
・シンデレラが脱ぎ捨てた片方の靴は彼女に打ち込まれた死者の王国の刻印。
終章 神話と現実より
・神話は哲学。
・現実を失ってでもバーチャルにいくことに神話は警鐘を鳴らしている。
さまざまなシンデレラに対するアプローチは必見。
知識がつまっている。
他のいろいろな神話も調べたい。
やはり今と昔はぐるぐると回って同じところにあるのだ。 -
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面白い・・・二日で読んでしまった。
ただし、注意しなければいけない。実際に存在する神話を題材としているが、学説というわけではない。学術的な裏付けのあるハナシではないのである。レヴィ=ストロースや南方熊楠などの研究に基づいてはいるが、この話は中沢新一という思想家の、あくまで一つの、世界の捉え方であると、それだけを心の片隅に置いて読み進めれば問題はない。
僕自身、これまであれこれと考えてきた「人間の根源は何か」とい問いに答えてくれそうな気がして、中沢新一を読み始めたのである。このシリーズはまだ4冊続くが、読み終わるころにはきっと、自分の中に新しい地平が開けていそうに思う。
なお、芸術人類学研究所のHPの「芸術人類学とは」という文章だけでも読んでおくと、中沢新一の言わんとするところがより良く分かるだろう。 -
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またしてもなんとな〜く、ウスラボンヤリ思っていたことを理路整然と整理してもらって、スッキリ!!!しました。
もともとヒトとは、”超越したもの”の存在を自然と感じている生き物であって、それがアニミズム信仰になったり、発展して宗教になったり、しているらしい。
だいたいどの地域にも、高神と来訪神、という2つの相対するカミがいて、高神は太陽や山のように、常にそこにあって日々の生活を守ってくれるカミ、対して来訪神はいつもは不在なんだが決まった日にやってきて、この世と異界(死者の世界とか)をつなげたり、するというカミ。この2つが揃っているとバランスが良いようで。本州にはわかりやすい来訪神はいらっしゃらないようですが、沖縄のニライカナイ信仰とか、まさにこれ。目からウロコがぼろぼろ。
まったく違う世界観に基づいているように感じられる唯一神の宗教も、おおもとのカタチは、同じなんだそうです(唯一神しか居ない西洋世界にも、妖精やトロールというものが残っているのはその証拠。日本の妖怪も広い意味ではおんなじもの)。
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Posted by ブクログ
クニ(国)ができる前は人々はどういう風に考えていたのか、という話。クニができる要素はあるのになかなかクニができなかった地域もあって、それは未開とか未熟とか野蛮とかではなく、別の価値観・知恵をもって暮らしていたのでは、というお話。おもしろい。
『チベットの・・・』で思考停止に陥った「トポロジー」という言葉の説明が出てきました。いわく、
”トポロジーという学問は、具体的な空間や図形の性質を調べるのではなく、それをひっぱったり伸ばしたりしても、変わらない性質を調べようとするものです。”
なんとなくですが、少しわかったような気がしました。
宮沢賢治の作品を、ちゃんと読みたくなりました。 -
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中央大学教授、2006年度からは多摩美大で芸術人類学を研究される、人類学者であり宗教学者の中沢先生の、中央大学での「比較宗教論」の講義録『カイエソバージュ』シリーズの第一弾。
国家や一神教が発生する前の人類(旧石器時代後期から)は、神話という様式を用いて宇宙における自分たちの位置や、自然の秩序や人生の意味などについて深い哲学的思考を行ってきた。国家というものを持たなかった自然民族の語り伝えた神話には、現実の世界とのつながりを失うことのない、素朴だが複雑な成り立ちをした論理の体系が潜在している。神話は非合理的、非科学的であるというイメージを払拭し、神話は人間が最初に考え出した、最古の哲学であると、私たちに教える一冊。