畑中章宏のレビュー一覧
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人文科学の諸領域は、「私たちはどこから来たのか」、「私たちはなにものか」、私たちはどこへ行くのか」という命題を追求するものである。
民俗学もまたこの命題を追求するものであり、私たちがどこまでを含むのか、どういうアプローチをとるのか、その点において、柳田国男は20世紀の日本列島に住む日本人を「私たち」と置き、日本人の「心」を手掛かりに解明しようとした。一方で宮本常一は、「もの」を入り口に解明を試みた。
柳田国男は各地に残存する民族伝承を比較することで、その祖形、あるいは理念を探り当てようとした。折口信夫は民俗の伝承と古代文学を比較し、古代文学のなかに含まれた民俗的意味を明らかにしようとした。 -
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宮本常一のものの見方、思想と方法の概要が分かりやすく解説される。
宮本が何に影響を受けていたのかは、あまり知らなかった。クロポトキン『相互扶助論』で、アナキズムの系譜にあることや、読もうと思っていたくらしのアナキズムの著者が宮本を評価していることを知り、自分の関心、ものの見方はこの系譜が好きなようなことがわかる。また、実際の地域おこしや、離島振興法の整備に奔走したという、学問に止まらない実践の人であったことも知る。
⚫︎西日本のフラットな社会構成と、東日本の縦社会の対比や、
⚫︎共同体と公共性の違い、
⚫︎技術と、物流、産業、人の移動、都市との関係をも複合的に考えて、相関関係で見ることで、流動 -
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「死」を学際的に検討する過程で、よりよい「生」とは何かについて考えされさせられた。死とは生物学的な個体の絶命という意味を超えた観念であると感じた。死者を弔うのは他者であるが、その死者の存命中はもちろん、死後に至っても相互作用の中で誰かの自己と社会が形成されていく。そのような「分人」的観点で捉えると、「死」は自己完結するものではない。また、「弔う」ことの本質は儀式という表層的なものではなく、生成変化を伴う生者と死者の社会的な共生だと思った。
一方で、テクノロジーによって新たに生じる死者の権利、死後労働の観点は非常に悩ましい。生命はその有限性によってこそ輝くが、死後も残り続ける SNS 上の情報や -
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「北の賢治、南の南吉」として、宮沢賢治と並び称された童話作家の新美南吉。
これまでは児童文学の範疇でしか語られることのなかった南吉だが、本書では、「ごん狐」や「手袋を買いに」など南吉の作品に描かれたコミュニティの役割、自然との共生、進歩や発達への懐疑、自己犠牲の意味など、日本人が歴史のなかで培ってきた叡智を、民俗学的な視点から解き明かしている。
新美南吉が創作活動を行った1930~40年代、ちょうど日本は戦時下にあり、南吉の作品もその影響を少なからず受けている。
その作品群は、南吉の素朴な戦争観を表すものとして批判されるが、「大きくて立派なものではなく、小さくてささやかなもの」を愛した南吉 -
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朝ドラ「ばけばけ」が面白い!
ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は明治23年に来日。赴任先の松江にも近代化の波が押し寄せ、人々の暮らしを大きく変えていく時代で、とても興味深い。
"格"にこだわる没落士族や、住み込み女中の待遇など驚かされる場面が多いが、ハーンの目に映った日本がどんな国であったか知りたいと思った。
刊行された本の引用文を読むと文章の美しさに圧倒された。
『知られぬ日本の面影』上巻15編のうち「神々の国の首都」では、松江の朝が見事なまでに描写されている。
「この町の人々は米搗きの太い杵の音で眠りを覚ます。洞光寺の大きな鐘、続いて八雲の住まいに近い材木町の地蔵堂 -
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なるほどなー
新美南吉さんの作品を民俗学の観点、歴史の観点などなどから様々考察している本
新美南吉さんの戦争への思いや、明治35年頃(1902年)はまだ狐にだまされるというのが当たり前のように信じられている日本だった、というそもそもの時代観、民族観の話とか。
それが変わってきたのが1965年頃という。
なかなか最近やないかい、と思いつつ、半世紀、一世紀違うのというのは本当に、文明も価値観も世の中も変わるんだなと思う。
それでも、今でも胸にせまる新美南吉さんの作品。それはなんなんだろうと思ったとき、「屁」という作品を通じて書かれていた畑中さんの文章が印象的だった。
南吉さんは、大人社会の -
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畑中彰宏「新・大阪学」(SB新書)
キタ(梅田)とミナミ(難波)あるいは船場ばかりを語ってきた従来の大阪語りに対し、著者は天王寺・阿部野や堺、さらに河内や和泉まで含んだ大阪を語りたいと言う。
建築家の村野東吾、南大阪の古寺の仏像、富田林の寺内町、堺の武器と茶道、堺屋太一と万博の太陽の塔、与謝野晶子・山崎豊子・田辺聖子・司馬遼太郎・筒井康隆・開高健などの作家、懐徳堂・兼葭堂などの江戸の知識人、折口信夫や宮本常一の民俗学、コシノ三姉妹のファッションビジネス、コリアンタウンやリトル沖縄など盛り沢山な大阪とその文化を紹介する。やや「ごった煮感」は残る。 -
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<目次>
序章 「新・大阪学」事始め
第1章 美食~”魚庭“”菜庭”庶民の味
第2章 デザイン~建築・美術・景観
第3章 女性~文学とビジネス
第4章 リベラルアーツ~知的ネットワークの系譜
第5章 非主流~抵抗と批評の精神
第6章 ハイブリッド~混交する聖と俗
第7章 越境~ボーダーレスな超人たち
第8章 多国籍~移民と共生する街
終章 「大阪」とは何か
<内容>
かつて大谷晃一が『大阪学』を提唱、「キタ」と「ミナミ」に分けて語る大阪観が定着した。しかし著者は、これが京都や東京と対照させるためのものだったとして、大阪の特色を各章に反映させた。ただし、現・大阪府をイメ -
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前回の読書会でお借りした本、その2。
昔から興味はあったけど、その本質をまったく知らなかった廃仏毀釈について、読書会では修験道の視点からプレゼンされていた本書。
わたしは昔から神社仏閣…とりわけ神社が好きで、大きさの大小に関わらず立ち寄れる機会がある神社にはなんとなく足を運んでしまう傾向がある。
由緒を読んで、御祭神を認知しては、
「なるほどここの神様はあの系統だね」
とかなんとか分かったような気になりながら参拝していたんだが…。
今までの神社参拝の経験を根底から考え直す、ある意味、自己破壊を余儀なくされるようなめちゃくちゃエキサイティングな本だった!
神仏習合の歴史が1000年以上あ -
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当方は気になりませんでしたが、確かにタイトルとは乖離があるように思われます。関東大震災の詳細な記録というよりは、歴史の中の位置づけを記載しようとされたのかなと想像しました。個人的には文化人に関連した内容や、被害の少ない地域の人間の行動についてでした。東日本大震災で甚大な被害にあった福島県で今も定期的に過ごす身としては、むしろ周囲の方が盛り上がっている感覚というのはなんとなくわかる気がして、それが読めただけでも価値があるように思いました。自分が被害を受けていない罪悪感はなんとなく東日本大震災で感じたので、そういう意味でも何か駆り立てられるのはわかる気がしています。
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民俗学や宮本常一に全く土地勘が無かったが、入門本として薄く広くで話題が飛びがちなところはあるが、更に読書を進めてみようという気にさせる。
何点か特に印象に残ったのは、冒頭にある心の民俗学とものの民俗学ということで、柳田國男など、有名な民俗学者は前者で、有字文化を追うのに対して、宮本常一はものに着目し、また、文字化されてない慣習や祭などに着目したと言うこと。文字は上流階級のものだとすれば、確かに民俗を広く捉えるなら無字文化への注目が必要だ。
また、それを分析として具現化したものに狭山茶の話があった。なぜ狭山でお茶なのかと言う点についてそれまで明確では無かったようだが、茶は茶壷に入れて輸送しな