畑中章宏のレビュー一覧
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明治以前、大半の神社は神仏習合で神も仏も、神殿も仏堂も区別なく同居し、神前の仏像に僧侶が読経したり神に奉仕するカオスな世界が「神仏判然令=神仏分離令:神祇官事務局達慶応4年3月28日」で『中古以来、某権現或ハ牛頭天王之類、其外仏語ヲ以神号ニ相称候神社不少候、何レモ其神社之由緒委細に書付、早早可申出候事神社』と仏教用語で神を名乗る神社は由来を書面で提出させられた
仏具(仏像・鰐口・梵鐘)を取り除かされ、十日前の通知で僧侶は俗人(=復飾)となる命令があるので・・・仏教・・・詰んだ(´・ω・`)
全ては神祇官、謎の支配があったのだ
羽根田文明「仏教遭難史論」
・・・古制に則り神祇官の設置となった。こ -
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廃仏毀釈とはどういう運動だったのか、ざっくり知ることができる新書。
まず冒頭で、日本では、仏教伝来後、仏教と日本の神々が両立し、混淆していた状況を紹介する。廃仏毀釈の際、薩摩、大隅、日向では、4000余りあった神社の御神体で神仏混淆ではなかったのはわずかに1社だけだったという。どちらかといえば、超絶に論理的な仏教が神道を飲み込んでいったということなのかもしれないが、もともと日本は、かなりカオスで、大らかな宗教状態が続いていたようだ。
具体的な毀釈の例も数々紹介される。それらを読むと、全国的によく知られた神社の多くが、元々は仏像を神の本地として祀っていたり、そもそも権現を祀る寺だったものが神 -
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牛頭天王の存在を知って、聖林寺十一面観音の展示をみて、神仏習合と廃仏毀釈を理解したいと思い読み始めました。
明治の神仏分離令が出される前の神仏習合について述べたうえで、各地の個別の廃仏毀釈運動がどのようなものだったかが解説されるので、流れがつかみやすく理解しやすかったです。行ったことのある場所も多く、新たな視点の蒙が啓かれました。
仏教建築そのままに、名称を変えて神社建築に利用されている談山神社には行ってみたいと思いました。修験道は山岳信仰なのに密教なの?とか、御嶽神社と講、権現の考え方といったいくつものもやもやが少し晴れた気がします。
一方で、廃仏の憂き目に遭った仏を受け入れた寺社はど -
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廃仏毀釈についての解説書。
本書は、まず序章で神仏習合についての解説がされ、第一章で日吉・薩摩・隠岐、第二章で奈良・京都・鎌倉そして宮中について、第三章では伊勢・諏訪・住吉・四国について。
第四章では吉野・出羽三山・金毘羅などにあった「権現」について、第五章では八王子・祇園・大和などにあった「牛頭天王」について。
終章では「廃仏毀釈果たされたのか?」と題し、廃仏毀釈のその後や現在、そして最後に「民衆は廃仏にどこまで積極的だったのか」と問うている。
廃仏毀釈についての本は3冊目になります。
そうすると、大体ここの地域ではこうで、ここはこんなだった。ということが少し頭に入っているので割と読み -
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各地における代表的な廃仏毀釈の実態の概要がわかりやすく列挙されている。天王の隠蔽などは他であまり触れられいないので興味深い。ただしあくまでも概要であって詳細ではない。もっと個々の状況についての調査が必要なのではないか。あまり厳しく行われなかった地域の例も具体的には述べられていないので全体の傾向もわからない。これだけでは著者の民衆の意識云々の傾向はわからない。
なお、著者の「習合」と「混淆」という言葉の使われ方とか、「民衆の暴挙」云々の問題の立て方とか若干違和感を感じる。個人的には廃仏毀釈は平田派を中心とする国学者たちが明治政府の役人になって行われた暴挙だと思う。当然それにおもねる一部民衆も出て -
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以前記事で畑中氏のインタビューとこの本が紹介されていたので読みたくなった。理由は私が絵本や童話に興味が出ていることと、以前読んだ『新耳袋』(編/木原浩勝、中山市朗)という実話シリーズで狐に騙される話がいくつも出ていたので興味を持ったからというのもある。
この本のタイトルは、ごん狐だけでなく、新美南吉さんの作品全般に示されることであると思う。
“なにかをなくしてしまうことでしか、他人とつながれない人びとや動物が出てくる。”
新しいものの前には、失われたものがあるのだ。
この本を読むにあたり、『ごん狐』『手袋を買いに』以外の読んだことのない新美南吉さんの作品をいくつか読んだ。
古い風習、失われ -
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民俗学者の宮本常一を「思想家」として位置づけ、その思想の簡潔な解説をおこなっている本です。
宮本に対して、これまで「思想や理論がない」「その方法を明示していない」といった批判が向けられてきたと著者は述べたうえで、「宮本民俗学の底流にある「思想」を解き明かしていく」ことを本書の目的に定めています。たとえば著者は、「世間師」と呼ばれる人びとのことばに宮本が耳を傾けて、彼らの話のなかから一枚岩の「共同性」とは異なり、多様性をうちに含む「公共性」のありようが示されているといった考察を展開しています。
一方で、宮本のしごとを特定の理論に整理することのむずかしさは、著者自身もある程度自覚しているように -
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