高橋健二のレビュー一覧
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読むのに非常に時間がかかった。話が現実と幻想を行き来しているし、第一人称で描かれているし、構造がムヅカシかった。もちろん読みごたえ十分。この作品は世界へむけて描かれたものなのかな。主人公は既読の「デミアン」「シッダールタ」「知と愛」と同じく、現実世界の背後の永遠の世界を求める、というようなヘッセ自身の投影なのだろうけど、悟るのではなく現実社会に打ち砕かれる、というところがこの作品の特徴。近代世界への強烈な揶揄というか。
最後の狂気じみた劇場での幻想の場面の、言葉の使い方が美しい!!これは翻訳の高橋さんの手柄なのかな。やっぱりドイツ語で読んでみたい。 -
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有名作品なので読んでみた。少年〜若年の生涯を描いた作品。あとがきで、ヘッセ少年の自叙伝的作品であることも知った。神学校にも通っていたし、ハイルナーのように脱走もしたそう。
後半は特に地の文が多く会話文が少ないので、読書慣れしていない人にはしんどいかも。大事件がなんの前触れもなく地の文で描かれるから、作者が精神的に安定しているというか、あまり感情がない人間のように感じられた。
基本的に陰鬱とした雰囲気でありながら、少年が大人になるにあたって心情が大きく揺れる場面は読み応えがあった。読書体験としては良かったけど、再読したいと思えるほどは入り込めなかった。 -
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その昔、積読コレクションの中から私よりも先に手に取り、「感動した」と感想を述べた高校生の弟。その一言がきっかけで、本書は長年にわたり私の課題図書となっていました。
会話文の少ないクラシカルな文体は、まるでRPGの防御力MAXのラスボスのような存在。40年以上もの間、挑戦しては挫折を繰り返し、積読ダンジョンで「難攻不落書籍」として君臨し続けました。
そして今年、「今度こそ」と意気込み、活字対策のレベル上げをし、心の装備を万全にし、更に本書を新たに購入し直して再挑戦。そこまでしてなんとか紙一重で読み終えることができました。
大袈裟かもしれませんが、人生のどのタイミングで一冊の本と出会うかによって、その本の価値や受け取り方は大きく変わるのかもしれません。
今さらながら、高校時代にこの本を読み切り、しかも「感動した」と言い切った弟の感性には、羨ましい限りで嫉妬すら覚えますが、書店などで本書を目にする度に弟の事を思い浮かべる、、、そんな一冊であり続けるのだと思います。 -
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ネタバレ師弟関係のような緊密な人間関係に注目するヘッセではなく、1人の人間の変遷に注目するヘッセだった
粗野な家系に生まれた自然を愛する田舎者の主人公が、変わり者の叔父に勧められて学問の道へ進むことになる
しかし中高では周りに馴染めず、1人屋根裏部屋で本を読んで詩を書いて過ごしていた
大学に進学してからは音楽と芸術を愛する快活な友人ができ、そこを経由して芸術家である想い人もできた
そんな友人は卒業旅行の数日後に川で溺れ死に、想い人は別の人が好きだった
学生生活で唯一得られたものは友情だとも言っていた主人公は打ちひしがれて
酒に溺れるようになった
それでも歴史批評と詩作とを続け仕事にしながら、学者友人の会に出かけたりもする
その中で生意気な少女と打ち解けるが、やはり少女も婚約者がいた
田舎者の旦那の家に通い詰め、そこで疎ましがられている繊細な障害者と仲良くなり
彼が死ぬまで共に暮らす
最後に故郷に帰り、父と叔父と自然との変化のなさや理想との折り合いをつけて物語は終わる
僕がヘッセに求めているのはプラトニックで緊密な上下関係であるため、人間関係が目まぐるしく変わっていく今回の作品はあまり刺さらなかった
しかし、青年が学問と両親と劣情とに理想を持って自立しながら現実と折り合いをつけていくある種の冒険譚的要素や、知識人の精神的で空虚な見栄に見える生活の批判と市民の物質的で健康な生活への賞賛(本によっては逆の立場も)、そして主人公の学問への憧れと愛情は、自然の描写と共に、どのヘッセ作品でも心を浄化してくれるので相変わらず好きだ -
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シッダールタとゴーヴィンダの修行の話かと思ったら、要はヘッセ自身の宗教的体験の告白、とはいえ実際にインドへ行ったとかではなく、心の内面の修行
だから第一部と第二部では書かれた時期が異なるとの事、
欲のまま生きる人間らしさを通り抜け、川からの語りを、自身の言葉を遮る事なく聞き続けてくれる川渡しのヴァーズデーヴァとの出会い、再会、悟りを開くとは、ことば、とは、なかなか深い
短い文章だが時間がかかる、そして再読必須かと
今はまだ星3つ、本当に理解するには時間が必要
「きのう私は、考えること、待つこと、断食することができる、とあなたに言いましたが、そんなことは何の役にも立たない、とあなたは思いました。だが、それがなかなか役に立ちます、カマーラよ……
さぐり求めるとは、目標を持つことである。これに反し、見いだすとは、自由であること、心を開いていること、目標を持たぬことである。おん身はたぶん実際さぐり求める人であろう。おん身は目標を追い求めて、目の前にあるいろいろなものを見ないのだから」
知識は伝えることができるが、知恵は伝えることができない。知恵を見いだすことはできる。知恵を生きることはできる。知恵に支えられることはできる。知恵で奇跡を行うことはできる。が、知恵を語り教えることはできない。これこそ私がすでに青年のころほのかに感じたこと、私を師から遠ざけたものだ。私は一つの思想を見いだした。
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ネタバレ学問と理性と秩序を象徴するナルチスと、芸術と感情と自由を象徴するゴルトムントを主に進んでいく。修道院で出会った2人は、ナルチスが憧れられる指導者として、ゴルトムントが憧れる生徒として関係を深めていく。ゴルトムントはある日ナルチスに母を忘れていることを目覚めさせられ、芸術に向いていることを諭され、旅に出ることになった。
自由で快活な好青年ゴルトムントは、森の冷たさや恐ろしさや飢えと情欲と女とを知り徐々に大人になっていく。女の元を転々として愛を学んでいたゴルトムントは、ある日翻訳家として騎士に雇われそこ姉妹の姉と愛を育む。妹にバレ、妹も参戦したその日に騎士に追放された。次に同じお気楽で打算的な放浪者に出会い行動を共にすることになった。軽蔑しながらもある所で尊敬していたが、夜に富裕層の姉に貰った金貨を盗まれそうになった為目を覚ますと、放浪者はゴルとムントの首を絞めてきた。ゴルトムントはナイフで反撃し殺してしまった。教会で聖マリア像に出会い感激し、その作者の元へ弟子入りし、ナルチスを象徴した像を完成させる。師弟関係とそこの娘とある種の愛情を築いていたが、自由を愛すゴルとムントはまた旅に出る。道すがらで純粋な巡礼中の青年に出会い、行動を共にすることになったがそのころペストが流行っていた。ペストの醸し出す死の匂いに好奇心を誘惑されたゴルトムントは、車に載せられ穴に放り出される大量の死体や腐った犬の死体や閑散とした町など感染を顧みずペストの街を探検する。その中である娘と出会い、しばらく3人でペストから逃れるためにも行動を共にすることになった。ある廃墟を改造して3人でつましく暮らしていたが、ペストの男に娘が噛まれてしまい感染する。ゴルとムントは娘が死ぬところを見届けたらまた1人旅にでる。途中で父をおって死にたがるユダヤ人の美しい娘に出会った。死の匂いに疲れ、またたびで培った観念を死から逃れた存在物として表現したくなったゴルトムントは親方の住まう町を目指すが、親方はペストにかかった娘を看病して死んでいた。最後の女、その町の公爵貴にゴルトムントは恋をし、最後公爵に見つかってしまい死刑になるところをナルチスに救われた。修道院への帰途でお互い成長を実感して軽く今までの事を話し合う。修道院に帰ってからは院長となったナルチスが工房を手配してくれて、ゴルトムントは芸術作品をふたつ作り上げる。たまの外出時の女の反応で自分の老いを感じたゴルトムントは若さを取り戻すべくまた旅に出るが、公爵夫人は今の彼には振り向かなかった。それでも諦めず旅を続けようとするも、小川で馬と共に足を滑らせ肋骨を折ってしまった。それでもまだ帰らずに旅を続け、やっと帰ってきたゴルとムントはもう治療が不可能だった。ナルチスはゴルとムントの死を看取る。
デミアンや荒野の狼や車輪の下ではヘッセ作品に共通する同性愛的な導くものと導かれるものという上下関係は揺らがなかったが、知と愛では最後にナルチスが認めているように同等になることが出来た。
ナルチスから始まりナルチスで終わるゴルトムントの人生観は、もちろんこの2人が主人公ではあったんだろうけど、旅のターンが長くあまりヘッセ作品で求める緊密な友情を感じることが出来なかった。
感情も愛情も若さも全て続くことは無い、だから論理に落とし込み記録するか芸術作品として昇華するかをしなければならない。秩序と学問は結ばれていて、自由と芸術もまた結ばれている。
ゴルトムントが躁鬱患者のように秩序から自由へ
移行する時や、ペストの時、殺害後の時、などなど過渡期の思考が今まで許容していた自由から神経質なものへ変わるのが、自分の浮き沈みしやすい神経と一致していて共感出来た。
正直ヘッセみがあまり無かったなあ -
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依存から自立へ向かう過程があまりにも生々しくて、読んでいて正直しんどかった。
シンクレールの思春期は、友人関係に揺れ、両親との距離にも違和感を抱えながら、デミアンという存在に救われていく。でも読み進めるうちに気づくのは、デミアンは「外から与えられる導き」ではなく、自分の中に取り込まれていくものだったということ。
特に強く残ったのは、「善だけでなく、悪や衝動も自分の一部として認める」という感覚。言葉にするとシンプルだけど、実際には逃げ場のない重さがある。
自立するというのは、綺麗な自分だけで生きることじゃなくて、そういう矛盾や衝動ごと引き受けて、自分で自分を導いていくことなのかもしれない。 -
Posted by ブクログ
ヘッセの作品は「車輪の下」「デミアン」「知と愛」以来だと思う。かなり前に読んだ記憶。
この作品は正直、個人的には読みやすくはなかった。「人間」と「荒野のおおかみ」に自己分裂した中年男の、現代社会での苦悩が続く。市民的に生きられないと言うものの市井に住み、社会に呪詛を投げかけるも社会からも逃れられない。とある女性と出会い変化していくのだが、ラストのある種の幻想的なシーンの連続は難解に感じた。
さて、文庫のあとがきで訳者が、この書が「ヒッピーの聖書」に祭り上げられた、と書いていて驚いた。確かにヘッセが時代を先取りしていた部分は、この作品を読めばよく分かる。しかし、私の生まれるかなり前に存在していたらしきヒッピーへの印象と、この作品の根底にあるものは全く繋がらない印象を受けた。
この作品では体制を批判し、戦争に反対し、資本家や機械文明を嘲笑している。知識までも。それでも現代から抜け出せない苦悩の中、徹底的に自己批判し、その批判した自己すらどうにもならない精神、魂の問題を前半で描き、新たな体験によって後半克服したかに思えるが、どうもそう単純ではないように作品を読んだ。
表層ではヒッピーのイメージと繋がる。しかし……どこか繋がらない。どこまで行っても繋がりそうにない。そんなモヤモヤした気持ちを持ってしまった。むしろ今を生きる現代人、そしてこれから先の人間の方がこの作品を読んで、響くのではなかろうか。