亀山郁夫のレビュー一覧
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ネタバレ第2巻では、主人公・ムイシキン公爵について「黄金時代にすら聞いたこともない純真さ、無垢さを披露したかと思うと、今みたいにとてつもなく深い心理観察でもって、いきなり弓矢みたいにぷすりと人の心を射貫く」という人物評が語られる。その評は的を射ているが前巻のムイシキン像に近く、本巻でのムイシキンはそのように聖人然とした様子だけでいることはできず、懐疑や嫉妬といった人間的な感情に苦しんでおり、物語全体にも不安感が漂う。
本巻では、ムイシキンとロゴージンとの対話が印象的だった。特にロゴージンがどのようにムイシキンのことを感じているか語る場面が面白い。
「レフ、おれはな、あんたが目の前からいなくなると、とたんにあんたが憎くなってくる」「ところがいま、あんたといっしょにいて十五分と経っていねえのに、憎しみなんぞまるで消えちまって、あんたのことが、また元どおり好きになっている」「あんたといっしょにいるとき、おれが信じているのは、あんたの声なんだよ」
ここには友情というだけに留まらず、神に対して背を向けようとしている人間の(それでも美しいものから逃れ得ず、背を向け切ることのできない罪人としての)告白の趣きさえあるように感じられる。
次巻以降、2人の関係がどのように変化するか、もしくは変化しないのか、続きを読み進めたい。 -
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上巻の感想でも述べたが、オウム地下鉄サリン事件が起きた1995年が、本作の舞台として選ばれたのはやはり意味深いという印象が強く残る。
90年代には、ソ連崩壊により冷戦も集結し、近代からの脱却を目指した我が国でも個人主義が進み、他者に無関心な人々が増殖した。インターネットが普及し、人々はネットを介した疎結合に依拠するようになった。国家間の覇権をかけた戦争は、むしろ局所的なテロリズムにその戦いの形態を変え、冷戦終結とともにそもそも世界の覇権はアメリカに一極化した。そうした世相の間隙を突くように起きたのが、地下鉄サリン事件だったのではないか。
1995年という時代を背景に、あるいは新興宗教集団に傾倒し、あるいはアメリカに目を向けるカラマーゾフ家ならぬ黒木家の面々は、本当に『カラマーゾフの兄弟』のあの壮大な物語をなぞるように行動し、会話する。その物語に通底するのが、「父殺しの謎」であることは言うまでもない。本作はやはり「父殺しの謎」を軸にした古典的エンターテイメント小説として楽しむのが本流であるという思いを、あらためて強くした。
しかしその謎に、パラレルワールド的に進行するK教授のエピソードや、黒木家三兄弟のエピソードが次々とカットインされるように物語は進行する。そうしたエピソードの合間から、本当の謎の真相が少しずつ立ち昇ってくる構成は、エンターテイメントとして極上である。だが、著者の来歴を拝見するに、私小説のような気もしてくる。
ともあれ、以前読んだとある新興宗教の物語とつい比較したくなるが、重厚感といい、完成度といい、カラマーゾフを下敷きにした本作の圧勝というほかない。 -
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数年前、急遽、チャイコフスキイの弦楽セレナードで舞台に乗ることになった。1カ月で合奏から脱落しない程度に難しい譜面をさらわなければならず、文字通り気が狂ったように練習した。自分のパートをさらうのはきつかったが、合奏練習に行くとそれは喜びに変わった。冒頭のノスタルジーをかきたてられる旋律、見たこともないのに「ロシアの大地」などという言葉が頭に浮かぶ。他方、第1楽章主部のテーマの何たる典雅。あるいは通俗に堕ちそうで堕ちないワルツ。エレジーのセンティメント。そして快活でも優雅なフィナーレの最後に戻ってくる冒頭の旋律の感動。チャイコフスキイとの蜜月を過ごしたのである。
でもチャイコフスキイはなぜか好きではない。では嫌いかというとそういうわけでもない。交響曲も弾いたことがあるが、弾いて楽しく、聴いてすばらしい作曲家だと思う。でも、これから死ぬまで全くチャイコフスキイを聴かなくとも平気。
だから『チャイコフスキーがなぜか好き』と言われたって別に読む気はしないのだが、著者が亀山郁夫なら、手に取ってみるし、20世紀までのロシア音楽全般に言及されているのなら、「ロシア音楽はなぜか好き」だから、読んでみる。
最初のほうで、われわれがロシア音楽に漠然と感ずる何かを、しっかりと言語にしてしまうあたり、さすが亀山郁夫。それは副題にある通り、熱狂とノスタルジーである。そして時として風刺やアイロニーが含まれる。チャイコフスキイはアイロニーを欠くが、ムソルグスキイにはそれがある。そのことを20世紀に継承したのが、プロコフィエフとショスタコーヴィチである。だから評者はショスタコーヴィチに愛するが、プロコフィエフは美しいと思いつつ、距離を感ずるのかと納得する。そしてチャイコフスキイもしかり。
著者が音楽評論家の友人にチャイコフスキイの音楽がなぜ胸に届かないかと聞いた、その返事というのも面白い。作曲家なんてみんなナルシシストだけど、音楽への愛が自己愛を上回る瞬間が必ずある、しかしチャイコは音楽よりも自分のほうが大好きだったんだろう、というのである。
さらにもうひとつの大局観は、正統ロシア的で異教的なモスクワと、西欧的であるがゆえに異端のザンクト・ペテルブルクの対比である。そうしたいくつかの軸を示しながら列挙されるロシアの作曲家たちの解説はとても見通しがいい。チャイコフスキイまでの音楽は「熱狂とノスタルジーのロシア音楽」と題された章で語られ、スクリャービンからショスタコーヴィチまで、すなわち革命とテロルの時期は「暴力とノスタルジーのロシア音楽」と題されている。
「雪解け」以降のロシア音楽の章では、デニーソフ、グバイドゥーリナ、シュニトケ、ペルト、カンチェリ、シリヴェストロフ、ティシチェンコが取り上げられているが、熱狂—ノスタルジー、有機的—無機的、キリスト教的—異教的、キャベツタイプ—たまねぎタイプなどといったいくつかの二稿対立でその特徴が分類されているところが面白いし、なるほどと思う。
この章を読みながら、無性に聴きたくなって、最近ご無沙汰のシュニトケやシリヴェストロフなどのCDをとりだしてきたのだが、しかし、それでもチャイコフスキイを無性に聴きたくはならず、ただ、弦楽セレナードだけ聴き直してみた。美しい。 -
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『新カラマーゾフ』が新刊書の棚に並んでいるのを見て、正直鳥肌が立った。
しかも、訳者である亀山郁夫さんの小説。(私が読んだのは原卓也版だから申し訳ないけど)
それでも単なる焼き直しなら、先日『カラマーゾフの妹』を読んだことだし、しばらく待っていただろう。
舞台は1995年の日本。
阪神淡路大震災であり、地下鉄サリン事件のあった年をクローズアップして、カラマーゾフ家を送り込むなんて、凄すぎる展開じゃないか!
と、ここで誘惑に負けて購入に至ったのだった。
前巻だけで700ページ近い量に圧倒されながらも、一気に読めてしまった。
なるほど。本家カラマーゾフのような国家的広さは持ち合わせてはいない。宗教的下地も、日本だとどうしても薄まる。だが、セクト(コミューン)の中で共同生活を送る人々と社会を繋ぐ三男リョウと、ロシアの結び付きが上手い。
リョウの言う「グローバリズムへの恐怖」と、富の集中による世界の大審問官化。つまりは世界的システムによる、人間の支配。
また次男イサムの、人間の不死化と世界の破滅。
これら90年代以降の視点と、カラマーゾフの繋がりがとても魅力的なのは間違いない。
『父殺し』云々が何を示唆しているかは、まだハッキリ読み取れていない自分の脳みそが悔しい。
村上春樹『1Q84』とも重なる。壁と卵。
あとは、新版グルーシェンカと考えられる瑠佳はもちろん魅力的なのだけど、グルーシェンカには及ばない。あまり重ねない方が「読み」としては良いのか。
カラマーゾフの女たちも、なかなかしたたかで好きなのだけど。
下巻に続く、が、なかなか道のりは険しい(笑)
「社会主義のソ連こそが、大審問官の世界だったのじゃありませんか?」
「もちろん、ですとも。スターリンが、まさに、その、象徴、でした。ところが、これからの世界は、システム、という、世界に仕える、無数の、大審問官が、支配する、のです」 -
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『永遠のロストナンバー』という宿命を持ち続けるドストエフスキーの『悪霊』の中にある「チーホンのもとで」の中にある『スタヴローギンの告白』ここでは世界初の試みとして現存する3つの告白を収録しております。
「<告白>のない『悪霊』は丸屋根のない正教寺院である」
これはロシアを代表するドストエフスキー学者の一人であるユーリー・カリャーキンの言葉です。『永遠のロストナンバー』という宿命を持ち続ける“スタヴローギンの告白”を含んだ『チーホンのもとで』。これは小説『悪霊』の劇中で重要なクライマックスのひとつとして第2部9章、もしくは第3部1章に収録される予定ではありましたが、掲載誌である『ロシア報知』編集長のカトコフからあまりにも内容がインモラルであるという理由からNGが出て、その後1年以上にもわたって両者の間であらゆる綱引きが行われた末に結局はドストエフスキー側の敗北に終わるという結果となり、都合100年近くの間、現在我々が目にすることが出来る状態での悪霊を目にすることは無かったという運命を持ったものでございます。
本書では世界初の試みとして3つのヴァージョンの『告白』を訳出し、一冊にまとめたものです。それは『初稿版』『ドストエフスキー版』『アンナ版』です。それぞれ説明をすると
・初稿版…ドストエフスキーが『ロシア報知』に送った最初の原稿を活字に組んだものであり、原書出版のさい、そのプリント(初稿ゲラ)では、誤植などのごく初歩的な誤りの修正のほか、いっさい手が加えられていない。初稿版における「チーホンのもとで」は第2部9章として位置づけられている。
・ドストエフスキー版…ドストエフスキーが初稿ゲラに赤字を加えた版にいくつかの段階での直しが含まれている可能性がある。ドストエフスキーはこれを第3部1章として位置づけていた。
・アンナ版…アンナ・ドストエフスカヤが筆写したもの。筆写された時期は特定できないが、初稿版、ドストエフスキー校版との間に重大な変更が見られる。1,2において欠落しているプリントの15枚目が復元されているのが大きな特色だが夫人が終わりの筆者を断念している。
(本書より引用・抜粋)
内容の流れを簡単に分けると3節で成り立っており、
・スタヴローギンが『告白』を携えてチーホン僧正のところへ行き、そこでの対話。
・チーホン僧正が『告白』を黙読する。
・『告白』を読み終えたチーホン僧正とスタヴローギンとの対話
です。『告白』の特徴は「スタヴローギンより」で始まりその「より」という言葉の使い方は江川卓先生によると『~からの福音書』という使い方だそうで、聖書の福音書になぞらえて自らのおぞましい悪行の数々を語るという構図を後で知ったときはあまりの恐ろしさに言葉もありませんでした。書かれている文章は原語となっているロシア語でも訳出するのは本当に大変だったそうで、亀山教授いわく『あいまいかつ舌ったらずな表現/頻繁に用いられる副詞./回りくどい表現/同語反復/意味不明な言い回し/明らかな事実誤認』という言葉のオンパレードらしく、訳出するのは本当に苦労したのだそうです。
内容を簡単にまとめてみると
1.4つの『罪』の告白―ペンナイフの紛失とマトリョーシャへの折檻。35ルーブル窃盗事件。マトリョーシャ陵辱。マリヤ・レビャートキナとの結婚。
2.世界遍歴の物語
3.黄金時代の夢
4.『告白』発表の意図
です。その中でもハイライトでは『14歳の少女(ヴァージョンによって年齢が違う)を自身のあまりの退屈さに陵辱して、その上に彼女を自殺にまで追いやってしまったはいいものの、事あるごとに出てくる彼女の幽霊に悩まされ続けている』という箇所でしょう。それを読み終えた後に展開されるスタヴローギンとチーホン僧正の息詰まるようなやり取りは本当にスリリングなものでありました。
全体を一度通して読んでみると、構図そのものはあまり変わらないといえば変わらないのですが、細部のディティールに当時、ドストエフスキーと『ロシア報知』側との鬼気迫るような攻防が構成を表す太字の箇所から感じることが出来るのです。スタヴローギンがペテルブルクで放蕩生活を送っていたときに重ねた悪行の数々は先述しましたが、35ルーブル入った給料袋を盗んで飲み代に使って後日、持ち主の役人から問い詰められてもシラを切りとおしたり、その3日後にマトリョーシャを陵辱した後、彼女がしきりにうわごとで
「恐ろしい」
「神様を殺してしまった」
という言葉には彼自身が恐怖を感じ、後日、マトリョーシャが絶望の末、スタヴローギンのところに行って、小さなこぶしを振り上げ、顎をしゃくりあげたあとに彼女が縊死を遂げるまでの描写は何度読んでも恐ろしいものです。「黙過」という言葉をこの小説で知ることが出来ましたが、それを象徴する出来事のひとつだと思います。
さらにスタヴローギンは自分に夢中になっているマリヤ・レビャートキナとの結婚を決意する際にも、《酒盛りのあとの飲み比べ》や
「かのスタヴローギンがこんなくずみたいな女と結婚するというアイデアが神経をくすぐった」
という恐ろしいことを言うのです。立会人となったのはピョートル。レビャートキン。プロコル・マーロフ(故人)。キリーロフで、ここで彼はこの事実を他言無用とするのです。その後、帰省するもスタヴローギンは気候を起こし、放逐されるのです。
その後、彼は聖アトス山→エジプト→スイス→アイスランド→ゲッチンゲン大学で聴講生となる→パリ→スイスというまさに「魂の遍歴」をし、彼が「黄金時代」と称する『アキスとガラテア』を見たりするのですが、得られたものは何も無く、大きな徒労だけが彼を包むのです。最後のほうにも女性を死なせた話や決闘で二人の命を奪ったこと。さらには一人の命を毒殺で奪ったことが記されており、これを公開する意図があるとほのめかし、『告白』は終わります。ここまで書いていて本当に疲れました。
これを1時間かけてチーホンは読み終えた後、スタヴローギンと対話をするのです。チーホンが『懺悔に見せかけた挑戦』と『告白』を断じ、
「汚辱のためにわざと費やされた、大きな無為の力」
といい、対するスタヴローギンも
「あらいざらい真実を言いましょうか。ぼくはね、あなたに許してほしいんですよ。あなたのほかもう一人、いや、二人ぐらいのひとにはね」
と揺れ動く複雑な心理を表します。さらには
「自分で自分を許したいんです。これが最大の目的、目的のすべてです!」
とまで言うのです。
チーホンはスタヴローギンに修行を勧め、さらには『告白』の公開の延期を示唆します。しかし、最後のほうにはチーホンが
「(中略)新しい犯罪に身を投げ出してしまう。それも文書の公表を逃れるためだけに」
(ここはヴァージョンによって表現が違う)
というようになり、対するスタヴローギンも
「この、いまいましい心理学者め!」
と吐き捨ててチーホンの暗室を去り、決裂してしまうのです。
アンナ版以外には最後まで記されているのですが、そこに至るプロセスが「微妙に」違うのです。前述しましたが、この「微妙さ」が重要なのです。しかし、ここまで自分がこの「告白」に固執したのはなぜなのでしょう。それは恐らく「内なるスタヴローギン」を出してみたかった。その理由に負うところが大きいのかもしれません。