亀山郁夫のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
上巻の感想でも述べたが、オウム地下鉄サリン事件が起きた1995年が、本作の舞台として選ばれたのはやはり意味深いという印象が強く残る。
90年代には、ソ連崩壊により冷戦も集結し、近代からの脱却を目指した我が国でも個人主義が進み、他者に無関心な人々が増殖した。インターネットが普及し、人々はネットを介した疎結合に依拠するようになった。国家間の覇権をかけた戦争は、むしろ局所的なテロリズムにその戦いの形態を変え、冷戦終結とともにそもそも世界の覇権はアメリカに一極化した。そうした世相の間隙を突くように起きたのが、地下鉄サリン事件だったのではないか。
1995年という時代を背景に、あるいは新興宗教集団に傾倒し、あるいはアメリカに目を向けるカラマーゾフ家ならぬ黒木家の面々は、本当に『カラマーゾフの兄弟』のあの壮大な物語をなぞるように行動し、会話する。その物語に通底するのが、「父殺しの謎」であることは言うまでもない。本作はやはり「父殺しの謎」を軸にした古典的エンターテイメント小説として楽しむのが本流であるという思いを、あらためて強くした。
しかしその謎に、パラレルワールド的に進行するK教授のエピソードや、黒木家三兄弟のエピソードが次々とカットインされるように物語は進行する。そうしたエピソードの合間から、本当の謎の真相が少しずつ立ち昇ってくる構成は、エンターテイメントとして極上である。だが、著者の来歴を拝見するに、私小説のような気もしてくる。
ともあれ、以前読んだとある新興宗教の物語とつい比較したくなるが、重厚感といい、完成度といい、カラマーゾフを下敷きにした本作の圧勝というほかない。 -
Posted by ブクログ
数年前、急遽、チャイコフスキイの弦楽セレナードで舞台に乗ることになった。1カ月で合奏から脱落しない程度に難しい譜面をさらわなければならず、文字通り気が狂ったように練習した。自分のパートをさらうのはきつかったが、合奏練習に行くとそれは喜びに変わった。冒頭のノスタルジーをかきたてられる旋律、見たこともないのに「ロシアの大地」などという言葉が頭に浮かぶ。他方、第1楽章主部のテーマの何たる典雅。あるいは通俗に堕ちそうで堕ちないワルツ。エレジーのセンティメント。そして快活でも優雅なフィナーレの最後に戻ってくる冒頭の旋律の感動。チャイコフスキイとの蜜月を過ごしたのである。
でもチャイコフスキイはなぜか好きではない。では嫌いかというとそういうわけでもない。交響曲も弾いたことがあるが、弾いて楽しく、聴いてすばらしい作曲家だと思う。でも、これから死ぬまで全くチャイコフスキイを聴かなくとも平気。
だから『チャイコフスキーがなぜか好き』と言われたって別に読む気はしないのだが、著者が亀山郁夫なら、手に取ってみるし、20世紀までのロシア音楽全般に言及されているのなら、「ロシア音楽はなぜか好き」だから、読んでみる。
最初のほうで、われわれがロシア音楽に漠然と感ずる何かを、しっかりと言語にしてしまうあたり、さすが亀山郁夫。それは副題にある通り、熱狂とノスタルジーである。そして時として風刺やアイロニーが含まれる。チャイコフスキイはアイロニーを欠くが、ムソルグスキイにはそれがある。そのことを20世紀に継承したのが、プロコフィエフとショスタコーヴィチである。だから評者はショスタコーヴィチに愛するが、プロコフィエフは美しいと思いつつ、距離を感ずるのかと納得する。そしてチャイコフスキイもしかり。
著者が音楽評論家の友人にチャイコフスキイの音楽がなぜ胸に届かないかと聞いた、その返事というのも面白い。作曲家なんてみんなナルシシストだけど、音楽への愛が自己愛を上回る瞬間が必ずある、しかしチャイコは音楽よりも自分のほうが大好きだったんだろう、というのである。
さらにもうひとつの大局観は、正統ロシア的で異教的なモスクワと、西欧的であるがゆえに異端のザンクト・ペテルブルクの対比である。そうしたいくつかの軸を示しながら列挙されるロシアの作曲家たちの解説はとても見通しがいい。チャイコフスキイまでの音楽は「熱狂とノスタルジーのロシア音楽」と題された章で語られ、スクリャービンからショスタコーヴィチまで、すなわち革命とテロルの時期は「暴力とノスタルジーのロシア音楽」と題されている。
「雪解け」以降のロシア音楽の章では、デニーソフ、グバイドゥーリナ、シュニトケ、ペルト、カンチェリ、シリヴェストロフ、ティシチェンコが取り上げられているが、熱狂—ノスタルジー、有機的—無機的、キリスト教的—異教的、キャベツタイプ—たまねぎタイプなどといったいくつかの二稿対立でその特徴が分類されているところが面白いし、なるほどと思う。
この章を読みながら、無性に聴きたくなって、最近ご無沙汰のシュニトケやシリヴェストロフなどのCDをとりだしてきたのだが、しかし、それでもチャイコフスキイを無性に聴きたくはならず、ただ、弦楽セレナードだけ聴き直してみた。美しい。 -
Posted by ブクログ
『新カラマーゾフ』が新刊書の棚に並んでいるのを見て、正直鳥肌が立った。
しかも、訳者である亀山郁夫さんの小説。(私が読んだのは原卓也版だから申し訳ないけど)
それでも単なる焼き直しなら、先日『カラマーゾフの妹』を読んだことだし、しばらく待っていただろう。
舞台は1995年の日本。
阪神淡路大震災であり、地下鉄サリン事件のあった年をクローズアップして、カラマーゾフ家を送り込むなんて、凄すぎる展開じゃないか!
と、ここで誘惑に負けて購入に至ったのだった。
前巻だけで700ページ近い量に圧倒されながらも、一気に読めてしまった。
なるほど。本家カラマーゾフのような国家的広さは持ち合わせてはいない。宗教的下地も、日本だとどうしても薄まる。だが、セクト(コミューン)の中で共同生活を送る人々と社会を繋ぐ三男リョウと、ロシアの結び付きが上手い。
リョウの言う「グローバリズムへの恐怖」と、富の集中による世界の大審問官化。つまりは世界的システムによる、人間の支配。
また次男イサムの、人間の不死化と世界の破滅。
これら90年代以降の視点と、カラマーゾフの繋がりがとても魅力的なのは間違いない。
『父殺し』云々が何を示唆しているかは、まだハッキリ読み取れていない自分の脳みそが悔しい。
村上春樹『1Q84』とも重なる。壁と卵。
あとは、新版グルーシェンカと考えられる瑠佳はもちろん魅力的なのだけど、グルーシェンカには及ばない。あまり重ねない方が「読み」としては良いのか。
カラマーゾフの女たちも、なかなかしたたかで好きなのだけど。
下巻に続く、が、なかなか道のりは険しい(笑)
「社会主義のソ連こそが、大審問官の世界だったのじゃありませんか?」
「もちろん、ですとも。スターリンが、まさに、その、象徴、でした。ところが、これからの世界は、システム、という、世界に仕える、無数の、大審問官が、支配する、のです」 -
Posted by ブクログ
『永遠のロストナンバー』という宿命を持ち続けるドストエフスキーの『悪霊』の中にある「チーホンのもとで」の中にある『スタヴローギンの告白』ここでは世界初の試みとして現存する3つの告白を収録しております。
「<告白>のない『悪霊』は丸屋根のない正教寺院である」
これはロシアを代表するドストエフスキー学者の一人であるユーリー・カリャーキンの言葉です。『永遠のロストナンバー』という宿命を持ち続ける“スタヴローギンの告白”を含んだ『チーホンのもとで』。これは小説『悪霊』の劇中で重要なクライマックスのひとつとして第2部9章、もしくは第3部1章に収録される予定ではありましたが、掲載誌である『ロシア報知』編集長のカトコフからあまりにも内容がインモラルであるという理由からNGが出て、その後1年以上にもわたって両者の間であらゆる綱引きが行われた末に結局はドストエフスキー側の敗北に終わるという結果となり、都合100年近くの間、現在我々が目にすることが出来る状態での悪霊を目にすることは無かったという運命を持ったものでございます。
本書では世界初の試みとして3つのヴァージョンの『告白』を訳出し、一冊にまとめたものです。それは『初稿版』『ドストエフスキー版』『アンナ版』です。それぞれ説明をすると
・初稿版…ドストエフスキーが『ロシア報知』に送った最初の原稿を活字に組んだものであり、原書出版のさい、そのプリント(初稿ゲラ)では、誤植などのごく初歩的な誤りの修正のほか、いっさい手が加えられていない。初稿版における「チーホンのもとで」は第2部9章として位置づけられている。
・ドストエフスキー版…ドストエフスキーが初稿ゲラに赤字を加えた版にいくつかの段階での直しが含まれている可能性がある。ドストエフスキーはこれを第3部1章として位置づけていた。
・アンナ版…アンナ・ドストエフスカヤが筆写したもの。筆写された時期は特定できないが、初稿版、ドストエフスキー校版との間に重大な変更が見られる。1,2において欠落しているプリントの15枚目が復元されているのが大きな特色だが夫人が終わりの筆者を断念している。
(本書より引用・抜粋)
内容の流れを簡単に分けると3節で成り立っており、
・スタヴローギンが『告白』を携えてチーホン僧正のところへ行き、そこでの対話。
・チーホン僧正が『告白』を黙読する。
・『告白』を読み終えたチーホン僧正とスタヴローギンとの対話
です。『告白』の特徴は「スタヴローギンより」で始まりその「より」という言葉の使い方は江川卓先生によると『~からの福音書』という使い方だそうで、聖書の福音書になぞらえて自らのおぞましい悪行の数々を語るという構図を後で知ったときはあまりの恐ろしさに言葉もありませんでした。書かれている文章は原語となっているロシア語でも訳出するのは本当に大変だったそうで、亀山教授いわく『あいまいかつ舌ったらずな表現/頻繁に用いられる副詞./回りくどい表現/同語反復/意味不明な言い回し/明らかな事実誤認』という言葉のオンパレードらしく、訳出するのは本当に苦労したのだそうです。
内容を簡単にまとめてみると
1.4つの『罪』の告白―ペンナイフの紛失とマトリョーシャへの折檻。35ルーブル窃盗事件。マトリョーシャ陵辱。マリヤ・レビャートキナとの結婚。
2.世界遍歴の物語
3.黄金時代の夢
4.『告白』発表の意図
です。その中でもハイライトでは『14歳の少女(ヴァージョンによって年齢が違う)を自身のあまりの退屈さに陵辱して、その上に彼女を自殺にまで追いやってしまったはいいものの、事あるごとに出てくる彼女の幽霊に悩まされ続けている』という箇所でしょう。それを読み終えた後に展開されるスタヴローギンとチーホン僧正の息詰まるようなやり取りは本当にスリリングなものでありました。
全体を一度通して読んでみると、構図そのものはあまり変わらないといえば変わらないのですが、細部のディティールに当時、ドストエフスキーと『ロシア報知』側との鬼気迫るような攻防が構成を表す太字の箇所から感じることが出来るのです。スタヴローギンがペテルブルクで放蕩生活を送っていたときに重ねた悪行の数々は先述しましたが、35ルーブル入った給料袋を盗んで飲み代に使って後日、持ち主の役人から問い詰められてもシラを切りとおしたり、その3日後にマトリョーシャを陵辱した後、彼女がしきりにうわごとで
「恐ろしい」
「神様を殺してしまった」
という言葉には彼自身が恐怖を感じ、後日、マトリョーシャが絶望の末、スタヴローギンのところに行って、小さなこぶしを振り上げ、顎をしゃくりあげたあとに彼女が縊死を遂げるまでの描写は何度読んでも恐ろしいものです。「黙過」という言葉をこの小説で知ることが出来ましたが、それを象徴する出来事のひとつだと思います。
さらにスタヴローギンは自分に夢中になっているマリヤ・レビャートキナとの結婚を決意する際にも、《酒盛りのあとの飲み比べ》や
「かのスタヴローギンがこんなくずみたいな女と結婚するというアイデアが神経をくすぐった」
という恐ろしいことを言うのです。立会人となったのはピョートル。レビャートキン。プロコル・マーロフ(故人)。キリーロフで、ここで彼はこの事実を他言無用とするのです。その後、帰省するもスタヴローギンは気候を起こし、放逐されるのです。
その後、彼は聖アトス山→エジプト→スイス→アイスランド→ゲッチンゲン大学で聴講生となる→パリ→スイスというまさに「魂の遍歴」をし、彼が「黄金時代」と称する『アキスとガラテア』を見たりするのですが、得られたものは何も無く、大きな徒労だけが彼を包むのです。最後のほうにも女性を死なせた話や決闘で二人の命を奪ったこと。さらには一人の命を毒殺で奪ったことが記されており、これを公開する意図があるとほのめかし、『告白』は終わります。ここまで書いていて本当に疲れました。
これを1時間かけてチーホンは読み終えた後、スタヴローギンと対話をするのです。チーホンが『懺悔に見せかけた挑戦』と『告白』を断じ、
「汚辱のためにわざと費やされた、大きな無為の力」
といい、対するスタヴローギンも
「あらいざらい真実を言いましょうか。ぼくはね、あなたに許してほしいんですよ。あなたのほかもう一人、いや、二人ぐらいのひとにはね」
と揺れ動く複雑な心理を表します。さらには
「自分で自分を許したいんです。これが最大の目的、目的のすべてです!」
とまで言うのです。
チーホンはスタヴローギンに修行を勧め、さらには『告白』の公開の延期を示唆します。しかし、最後のほうにはチーホンが
「(中略)新しい犯罪に身を投げ出してしまう。それも文書の公表を逃れるためだけに」
(ここはヴァージョンによって表現が違う)
というようになり、対するスタヴローギンも
「この、いまいましい心理学者め!」
と吐き捨ててチーホンの暗室を去り、決裂してしまうのです。
アンナ版以外には最後まで記されているのですが、そこに至るプロセスが「微妙に」違うのです。前述しましたが、この「微妙さ」が重要なのです。しかし、ここまで自分がこの「告白」に固執したのはなぜなのでしょう。それは恐らく「内なるスタヴローギン」を出してみたかった。その理由に負うところが大きいのかもしれません。 -
Posted by ブクログ
ドストエフスキーが後年に著した『五大長編』の内、政治的な意味あいが最も強いといわれる『悪霊』その完結編です。全ての物語上の複線が回収され、狂乱と崩壊に向かって疾走する様子が描かれております。
登場人物の実に3分の1が何らかの形で死を迎えるという陰惨極まりない小説であるドストエフスキーの『悪霊』その完結編です。しかし、改めて思うのはストーリー全体の時間軸が秋から冬にかけての「一季節」であるということに衝撃を受けた、ということです。ようやくこの第3部で全ての複線が回収され、物語は一気に崩壊へと突き進んでいくのです。『革命組織の内ゲバリンチ殺人事件』と美貌。知力。腕力に加え、貴族という特権的な身分と、巨額の資産まで併せ持ったニコライ・スタヴローギンという一人の人間が以下に自壊し、その最期を遂げていくのか…。この二つを主軸として、無政府主義、無神論、ニヒリズム、信仰、社会主義革命などの多種多様なテーマを詰め込みに詰め込んでいる小説であると思われます。
第3部の最初のクライマックスであるところの第1章及び第2章の『祭り』と『祭りの終わり』では、今まで『権威』とあがめられた存在が貶められ、辱められることになります。ユーリヤ夫人の肝いりで始まった『慈善パーティー』で、まずは『前座』としてしたたかに酩酊したレビャートキン大尉が現れ、どうしようもない詩を披露したあと、強制的に退場させられます。ここからすでに不穏な空気を発し始めるのですが、次に壇上に上った『大作家』であらせられるカルマジーノフやステパン氏の持つ『聖性』や『権威』の『仮面』が次々と剥ぎ取られ、冒涜と否定と笑いと奪還のカオスの中へと引きずり込まれていくのです。カルマジーノフ先生は自身の作家人生の集大成である「Merci(ありがとう)」というエッセイを読み上げるのですが、聴衆からの轟々たる罵声により、内容を途中でショートカットし、結びの部分を強引に読み上げる形で控え室へと戻ってきます。
ステパン氏の講演も大失敗に終わり『美は全ての事象の上にある』という趣旨の発言をしたときに、ある神学生から、脱獄囚のフェージカは昔あなたがカードで負けたカタに売り飛ばさなければああならずにすんだのでは?と野次を投げつけられ、ステパン氏はそれに答えることができずに壇上を後にするのです。3人目の男は『偏執狂』と呼ばれ、彼がロシアを公然と侮辱し、さらにはヴィルギンスキーの親戚も舞台に上がり、しっちゃかめっちゃかの状態となっていきます。夜の舞踏会に至っては参加者が少なく、その少ない参加者達も胡乱げな連中ばかりという体たらくでございました。
いっぽう、マヴリーギーという婚約者がありながら、ひそかにスタヴローギンを思い慕うリーザはそんなカオスそのものとなった舞踏会の混乱に紛れ、婚約者であるマヴリーキーを振切って、スクヴォレーシニキに走りスタヴローギンと一夜を共にするのですが、ペテルブルグ時代から続く彼の放蕩三昧の遍歴に『生ける屍』と化した彼の姿に幻滅してしまうのです。
第3章の『愛(ロマン)の終わり』に彼らの会話の様子が描かれるのですが、リーザは自分の『運命』を予感していたことを言うのです。彼との『関係』を示唆する《》付きのあれほどの幸せ。その一瞬。一時間。一瞬。というフレーズ。スタヴローギンの
「ぼくを苦しめてくれ、ぼくを罰してくれ、ぼくに憎しみをぶちまけてくれ」
といった果てに彼らの元に来たピョートルにリーザが出て行った後『彼女を愛していない』とのたまい、さらには
「いや、ぼくは自分の中の猿を笑っているだけです」
という。この恐るべき空虚さに戦慄しました。その一方で舞踏会が終ろうとする夜更けに、何者かの手によって対岸の郊外の家々に火が放たれ会場は大混乱となっていくのです。その混乱の中、レンプケー氏はその様子を見て
「ぜんぶ放火だ!こいつはニヒリズムなんだ!燃えているものがあればそいつはニヒリズムだ!」
と叫び、発狂するのです。G氏はレンプケー氏の政治生命は終わったと述懐しております。
そんな狂乱の一夜の翌朝に、炎上した川の向こうの一軒屋(借主はスタヴローギン)からスタヴローギンの『正妻』であるマリヤ・レビャートキナとその兄であるレビャートキン大尉。そして女中の惨殺体が発見されるのです。レビャートキン大尉は喉をかき切られ、マリヤは全身をナイフでメッタ刺しにされ、女中は頭を叩き割られるという陰惨なものでした。スタヴローギンから
「彼らが殺されることは分かっていました。それでも、人殺しどもをとめようとしなかった」
というまさに『黙過』の告白を聞いたリーザは婚約者のマヴリーギーの静止も聞かず、スクヴォレーシニキの屋敷から火事の現場に駆けつけ、現場にたどり着いた彼女は
「そいつだぜ、スタヴローギンの女は!」
(別の方向から)「殺すだけじゃ足りねぇで、見物にまで来やがった」
という声とともに狂乱した群集によって撲殺されるのです。まさに死に向かって疾走するかのようでした。
第4章の『最終決断』では「五人組」を脱退しようとするシャートフが密告する恐れがあるということで、彼を殺害し、その罪を「人神思想」のために自殺するキリーロフに負わせるという計画をピョートルが使嗽するのです。ここでもピョートルは旺盛な食欲を発揮し、ステーキを平らげ、キリーロフのところに行って自殺の意思を「念押し」するのです。そこで、脱獄囚のフェージカが登場し、ピョートルは殴り飛ばされるのですが、彼はその後、シュピグリーンの労働者であるフォームカを使い、彼を始末してしまうのです。
第5章の『旅の女』ではその翌日、シャートフの元妻であるマリヤ・シャートワ(マリイ)が彼の元へと戻ってくるのですが、彼女はスタヴローギンの子供を妊娠しており、シャートフの家で居候しているときに産気づいてしまいます。シャートフはキリーロフや「五人組」のメンバーであるヴィルギンスキー、リャムーシン達のところを駆けずり回り、金や出産にかかわるもろもろのものを確保しようとします。産婆は要らないと言い張るマリイ、それを助けたのはヴィルギンスキーの妻であるアリーナ・ヴィルギンスカヤでした。彼女はシャートフ夫妻の面白さに無償で産婆を引き受け、一人の男の子が生まれます。その際にマリイは
「ニコライ・スタヴローギンはろくでなしよ!」
と叫びます。こうして生まれた赤ちゃんにシャートフは彼に「イワン」と名づけ、養子にしようというのです。
運命の第6章『多難な一夜』ではいよいよシャートフ殺害のために「五人組」のメンバーが集まります。しかし、結構の直前にシガリョーフは異を唱え、現場を去ります。スタヴローギン公園の隅に呼び出されたシャートフは3人掛で地面に押さえつけられ、ピョートルが銃を額に押し当て、射殺されるのです。その遺体は重石をつけたあとで池に投げ込まれます。とても陰惨な場面でした。その数時間後に、ピョートルはキリーロフの家に行き、ピョートルははシャートフ殺害の罪をキリーロフに請負わせ、彼を自殺させてしまうのです。そのときの狂気に満ちたやり取りはここだけでも是非ご覧になっていただけるとありがたいのですが…。二人の「せめぎあい」が本当に鬼気迫るものがあるのです。そして、ピョートルは国外逃亡を果たし、二度と戻ってくることはないのです。
第7章の『ステパン・ヴェルホヴェンスキー氏の最後の放浪』で全てを失ったステパン氏は失意のうちに放浪の旅に出るのです。そこでであった福音書売りの女であるソフィアと出会い、彼女と行動を共にするのですが、熱病を患い、死の床に就くのです。聖書の一説を読んでほしいと懇願するステパン氏に対し、ソフィアはエピグラフにあるルカ福音書第8章32-36節ともう一つ。「ヨハネ黙示録」の中にある『ラオディキアの教会にあてた手紙』を読むのです。印象的な内容なので、ここに引用したいと思います。
『ラオディキアにある教会の天使にこう書き送れ。『アーメンである方、誠実で真実な証人、神に創造された万物の源である方が、次のように言われる。 「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。 あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。』
という箇所を告げられ、激しいショックを受けるのです。その後彼は自分を追ってきたワルワーラ夫人に愛を告げ、彼女の腕の中で息絶えていくのです。
全ての終わりである第8章の『結末』ではまずシャートフの死を知ったマリイは無茶をした挙句産褥で死に、イワンもまた病死してしまいます。シャートフとキリーロフの遺体が次々と発見され、『五人組』の仲間たちは次々と逮捕されていきます。『リャムーシンは持ちこたえられなかった』という記述があり、自壊した彼の供述が事件解決の決め手となりました。リプーチンはペテルブルグに滞在2週間後に逮捕され、エルケーリは減刑の見込みはなく、トルカチェンコは逃亡後10日ほどして、どこかの郡部で逮捕されます。リーザの婚約者であったマヴリーギーは行方不明となり、母親であったドロズドワ老婦人は精神崩壊を起こしてしまいます。最大の衝撃は主人公であるニコライ・スタヴローギンの『自死』でありましょう。ダーリャに
「スイス・ウリー州への市民登録を済ませ、家もあるから一緒に行きませんか?」
と誘いながらも別荘の屋根裏部屋で縊死を遂げる…。その最後にはただただ絶句するともに、
『だれも責めてはならない、ぼく、自身だ』
とだけ記された遺書。事前に選び抜かれたであろう丈夫な絹紐や釘、そして苦痛を和らげるために絹紐にべっとりと塗った石鹸…。彼の死は『神になろうとした男』が最後に敗れて自壊していった末の死であり、彼の『限界』こそが人間の持つ『希望』なのかもしれないと思い、ここで筆を擱きます。この陰惨極まりない話にやっと『出口』が見えたことに安堵の息をもらしつつ…。 -
Posted by ブクログ
亀山郁夫教授によるドストエフスキー文学の解説および伝記です。下巻では人生の後半部に表した『悪霊』『未成年』『カラマーゾフの兄弟』の解説を中心に波乱に満ちた人生から穏やかな晩年に至るまでを追います。
ようやく読み終えることができました。亀山郁夫教授によるドストエフスキーの解説書。その下巻です。ここでは人生の後半部に起こった出来事や彼の人生および作品に重大な影響を与えた事件などを取り上げ、詳細な解説を行ったものです。作品では革命組織の内ゲバリンチ殺人とニコライ・スタヴローギンという『善悪の彼岸』に立ち続ける人間を描いた『悪霊』ひとりの『運命の女性』をめぐって父と子が相争う(どこかで聞いたことがある話ですね)『未成年』そして文学上にこめられるほぼ全てのテーマを盛り込んだ『父親殺し』を主軸とする『カラマーゾフの兄弟』の解説が作品世界の中心に。
ドストエフスキーの人生は賭博や恋愛。さらには莫大な借金に苦しめられながら追いたれられるようにアンナ夫人の口述筆記で作品を書き飛ばしていた時代。政治事件でシベリア送りになって以来、常に皇帝。秘密警察の『目』にさらされ。テロリストによる国家転覆を目の当たりにし『終末』観が色濃く反映された『四大長編』は『予言の書』として幾度となく読み継がれていく理由が本当によく分かりました。
ここでよく俎上に上げられているのは『教唆』(もしくは使嗾)のモチーフです。『悪霊』のニコライ・スタヴローギンや、『カラマーゾフの兄弟』のスメルジャコフを『唆した』イワン・カラマーゾフ。彼らを初めとする登場人物の『行動原理』を丁寧な解説で読み解いているところに、本書の価値があると思います。
『黙過』と『使嗾(もしくは教唆)』という言葉に出会うことができた。そのことだけでも本当に価値があるものでございました。