古井由吉のレビュー一覧
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「杳子」
大学生の時にしばらくお付き合いをしていた女性は小柄で可愛らしく、真面目で読書家、友達思いのキュートな人だった。
彼女が北海道へ一人旅に出かけた時に、私は多分何かに嫉妬したのだろう。
彼女が私より旅行を選んだような気がした。
その頃から私は自分の中にあるウジウジとした女々しい思いを彼女に少しずつ吐き出すようになっていたと思う。
私は彼女の本質を知らなかっただろう。そして自分の女々しい思いをぶつけることが彼女の心から私を遠ざけるのだという事を知らなかった。
この作品の「杳子」は心を病んでいるのだけれど、自分が病んでいる事を知っている。そして彼女を取り巻く世の中と人々は彼女を救い出すことが -
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1989(平成元)年刊。52歳の頃の作品である。実はほとんどリアルタイムにハードカバーで購入し、私が遥か以前から親しんできた『眉雨』と同年に刊行されたようだ。しかし、『眉雨』とは結構がまるで異なる。
はじめ連作短編の形かと思って読み始めたのだが、前の章に記述された内容を直接言及する箇所が出てきて、これは長編小説なのだと気づいた。とはいえ、もちろんこの頃の古井さんの作品だから、大がかりな物語らしいものは全く存在せず、最初の方はことに随筆のような姿をしている。
この作品の特色は、僧などの「往生」を採録した国内の古い文書を参照して紹介するような書き方で、カギ括弧もなく地の文に古語が紛れ込んでい -
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ネタバレピース又吉が第二図書係補佐で題材としていたため読んだ。
しかし、自分の頭では理解できなかった。読書が下手になったのだろうか。
だけど、雰囲気は全体に好きだった。
杳子は神経症を患う彼女を持つ男の視点で物語は進んでいく。
最終的には杳子が健康になるために、病院へ行くと宣言して終わる。
恋人のためを思って自分の体を治そうとする姿によって、自分の恋人へ姿勢を改めようと反省した。
彼女は私とデートする時はいつも身なりを整えてくる。それに対して、私は不潔感漂う姿でデートに行く。そんな容姿では彼女に対して甚だ失礼だろう。
相手を思うからこそ自分を変えると言う精神は忘れてはいけない。
妻隠は全くわからな -
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東北の震災の年、東京の古井由吉と仙台の佐伯一麦のあいだでやり取りされた手紙。際立ったことが語られているわけではない。でも、今読むと、もう一度心の中の、ことばにならない何かを失いたくないと思う。1995年阪神大震災という、自然の、想像を絶する破壊の、刻み込まれた、経験に戻っていく自分を見つける。
家族を失い、自宅は倒壊した少年や、少女たちが、倒れなかった学校の、薄暗い職員室にやってきて、笑いころげ、経験の奇異を自慢しあうかのようにおしゃべりしていた。そんな顔が浮かんでくる。25年も昔のことだ。
二人の作家が、そんな少年たちの心の奥にあったもののことを語ろうとしている。
誠実な本だ。 -
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今年で80歳になる老作家・古井由吉さんのエッセー集。
濃密な文体の小説と違って、実に軽やかな筆運びです。
このことから逆に、小説に全精力を注いでいることが分かります。
「貧寒たる文学環境の中で、僕自身は、なるべく丁寧に言葉を綴る、というただ一つを心得にしてきました。」
と古井さんは書いています。
そうなのだろうと思います。
本書は、老作家の半生をつづった回顧録でありながら、優れた作家論、小説論でもあるように思いました。
たとえば、
「作家は、真のタブーを上手く避けながら表現することによって、文章の色気を出してきました。」
「いま、作家は例外なく端正で整った文章を書くでしょう。なぜ、もっと奔放に -
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いつかいつかと思いながら、やっと古井由吉を読むことが出来ました。
古井は昭和12年東京生まれで、「杳子」で芥川賞を受賞。
その他、谷崎賞、川端賞、読売文学賞、毎日芸術賞も受賞し、今や純文学界の重鎮と言えましょう。
最近では、又吉直樹が「憧れの作家」だと公言しています。
ただ、作風は素人にはちょっと難解で取っつきにくいのも事実(古井自身は「難解ではない」と反論していますが…)。
気軽に寝転がって読めるような小説ではなく、端然と居住まいを正して読むことになります。
で、本作は、日常に漂う性と業を主題とした12の連作短編集。
一読して、ただならぬ小説であることが分かります。
何がただならぬと言って、