古井由吉のレビュー一覧
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前半は、地方から上京してきて東京に住み、東京を舞台にした私小説を書いた著者とその作品が紹介される。
徳田秋声の「足迹」「黴」「新世帯」
正宗白鳥の「入江のほとり」「死者生者」
葛西善藏の「哀しき父」「贋物」「子をつれて」「酔狂者の独白」「浮浪」「湖畔手記」「蠢く者」「われと遊ぶ子」
宇野浩二の「苦の世界」「枯野の夢」
嘉村礒多の「生別離」「崖の下」「業苦」「来迎の姿」「途上」「牡丹雪」「秋立つまで」「神前結婚」
そして、東京に生まれ東京で育った作者自身の「とりいそぎ略歴」が挟み込まれ、戦災に遭ったこと、父の葬儀を出したことなどが語られる。
さらに戦災から戦後にかけての荷風 -
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著名作家陣が書いた『優駿』誌上のダービー観戦記と、それに編集部が「蹄跡」としてダービーの解説を付したものを10レース分あつめている。
何より興味深かったのは、かつては日本中央競馬会職員がレース後の記述を執筆していたこと(本書では第1章のシンザンについてがそれ)、そしてその際にハロンタイムを意識しまくった文章になっていたこと。客観的に書かざるをを得ないとしても、シンザン時代にこんなにハロンごとのラップタイムを意識していたとは。
そのあとは、競馬好きな作家(寺山修司、古井由吉)もいれば初観戦(はっきりしないが、影山圭二氏は競馬も初生観戦のよう)の人もいて、目の付け所は人それぞれ。しかし、せっかくの -
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他では出会うことのない、独特の文体に魅了された。次々に連なり、流れ、姿を変えてゆく、句点までが長々と続くが、案外、読みにくくも無く、味わい深い文章。
気象に関する描写、とくに風や雲の生きた動きや変化をとらえたが描写があじわい深い。
老年となった著者の日常を中心にして描く短編集。四季の移ろいのなかでのさまざまな気象現象を肌身に感じながら、日々を淡々と過ごしてゆく中で、現在の生活と過去の追憶を重ね合わせながら、思いの向くままに随想してゆく様が語られている。
歳を重ね、このような生き方をするのも良いものだ。ある意味理想的な老年の生き様である。
しかし、最後まで読み通すことはできず、終わりの二篇を残 -
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内向の世代に共通する傾向として
高齢化時代における晩年というものを
志賀直哉の心境小説スタイルで書いているのだが
古井由吉の場合は、たぶんだけど
ドイツ哲学の影響がかなり強いように思う
「たなごころ」
病人の不意にもらした「石」についての述懐が
いつしか作者じしんの思い出と重なる
精神分析で言えば「対象a」
つまり大人になる過程で切り落とした全能感の欠片を
ふと懐かしむ心情となろうか
若き作者はその「石」を諦めて置いてきたのであるが
年老いて死を目前にしてみると
拾おうが拾うまいが、同じことだったかもしれない
死ぬということはつまり
生まれる以前の状態に戻るということだからだ
「梅雨のおと -
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閉塞された男女の世界を、
透明人間になって傍から見聞きして書いたような偏執的な描写。
冷徹で枯れていて、思考や目線の端々が几帳面の域を超えている。
その文体から映し出される登場人物は、
そのままそっくり具現化されたようで、
深淵は多層化され、
滑らかで湿り気のある混沌と、
儚げで印象的な齣撮りの時間の中に、
絶えずその性質を留まらせている。
庇護欲でなく同族であることの共通理解が、
男女を一風変わった関係で成立させ、
それがどの抽斗から出てきた恋愛なのか分からなくとも、一応箪笥には収まっているように見せる。
踠いているような、
真っ直ぐ進んでいるような、
その歩き方を絶えず指先まで意識し -
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読書開始日:2022年4月9日
読書終了日:2022年5月17日
【杳子】
病人と健康人。
この違い、中々に難しい。
精神ならなおさら。
病気を病気で確定させることで、周りはある種の安心につながる。
杳子の姉はそれを望んだ。
姉以外もそれを望んだ。
でも杳子は、自身の病気を認識することを拒んだ。
そんななかSが現れた。
Sは杳子の病気に対して、初めは好奇心や興奮を覚えるが、それが次第に情に変わっていった。
その変遷が、杳子の決心に結びついた。
癖ってある種の病気だ。
健康的な癖、病的な癖、その線引きはどこだろう。
杳子のように、毎日の出来事が全て違うように見えることが当たり前の世界では、姉のよ -
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芥川龍之介の芸術至上主義は
究極的には自殺という形に向かうしかないものだった
芸術のために人を焼くほどの傲慢さを持ち得ないならば
自己完結するしかエゴのやり場はないからだ
その芥川が、初期作品の執筆において多く参照したのが
日本の古典文学である
「今昔物語集」や「宇治拾遺物語」などだ
それらを近代的な切り口から解釈していくことで
彼は、新しい人のあり方を探ったのだった
時は流れて1980年代後半
古井由吉もまた、日本の古典に新たな解釈を加えて
ひとつの作品とした
部分を見れば随筆だが、全体を見れば小説ともとれるもので
奇妙な印象を残している
芥川が主に世俗の話を扱ったのに対し
古井は「往生伝 -
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90年代はじめの大江健三郎は
文体に霊的パワーを込めようとして空回りしていた
井伏鱒二から継承したフォルマリズムが
そのための方法論、というよりドグマだった
当時の作品にも現れているように
やがては新しい神話を創造することが目標だったのかもしれない
しかしオウム事件以降
おそらく、ここに収められた古井由吉との対談も転機のひとつだろうが
世界の文学史そのものを多神教的にとらえる方向へと向かったらしい
いずれにせよその鍵は
異なる概念を柔らかく繋げる日本語表現にこそあるようだ
日本語への翻訳による異化作用を用いれば
あらゆる価値観の相違と
ロシア・フォルマリズム本来の用法を超えて
歴史の背後にある -
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ネタバレ直前に読んだ「杳子・妻隠」からかなり年月を下って、70歳くらいの時に書かれた短編集とのこと。確かに文体はよりずっしりと重く、滔々と流れる文章には経てきた年月にふさわしい品格がある。
ただその分作者個人の思索、思い出が整理されないままに作品にびっしり絡んで混ざり合っていて、もはや不可分になっている印象。頭に浮かんだことがそのまま次々と文章になっていて、誰が、いつそうしていたのか、今主人公はどのあたりの年齢なのか、そういったことが読んでいてかなり分かりにくい。というか、私には分からなかった。私がぼんやり読んでいるせいかと思ったけれど(それもあるだろうけど)、これはやはり意図的に曖昧にして読者を迷い -
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ネタバレ「杳子」は統合失調症の女とそこはかとなくメンヘラ男の恋愛、「妻隠」は現実感のないままに夫婦をやっている男女の話という感じなんだけど、文章がすごい。何気ない風景が一瞬でブレて観念の世界へ入り込んでいく、でも地に足つかないわけではなく、むしろ現実感が気持ち悪いくらいに臭ってくるような不思議な感じ。力のある文章、あこがれるなあ。
作中で杳子の女性性が強調されるのでどうしてもそういう方向を意識してしまうのだけど、この文体、女性っぽい観念の世界を男の人のやり方で歩いている、という印象ですごく不思議。
「健康になるって、どういうこと」
「まわりの人を安心させるっていうことよ」
というところには、思わず笑