古井由吉のレビュー一覧
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ネタバレ「杳子」は、大人の女性と少女が何度も入れ替わるような危うい魅力のある人物だった。
執拗なまでに細部にこだわる描写で、その神経質さにこちらまで鬱屈してくるようだ。第三者である杳子の姉が登場してから面白くなったと感じた。それまでは杳子もSもそれぞれ生活を送れているのか不安になるほど、生きている人としての現実味がなかった。
姉という他人の目があって初めて、2人の会話がようやく人間らしいものになった気がする。姉という観察対象がいることで客観的になったのかもしれない。2人きりだと、どんどん深みにはまっていく感じがあって危ういけれど、それが一緒になるということかもしれないとも思った。いつまでも安心させてくれない物語だ。
「妻隠」は、若い頃から付き合って結婚した2人の、ささやかな日常を描いた短編だった。暮らしている家や家族に対して、急に見慣れないもののように感じることってなぜかある。何ということもない暮らしの中で不意におとずれる違和感が的確に表現されていた。この夫婦の自由さや、型にはまりすぎていないことが気楽な雰囲気で良かった。 -
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前半は、地方から上京してきて東京に住み、東京を舞台にした私小説を書いた著者とその作品が紹介される。
徳田秋声の「足迹」「黴」「新世帯」
正宗白鳥の「入江のほとり」「死者生者」
葛西善藏の「哀しき父」「贋物」「子をつれて」「酔狂者の独白」「浮浪」「湖畔手記」「蠢く者」「われと遊ぶ子」
宇野浩二の「苦の世界」「枯野の夢」
嘉村礒多の「生別離」「崖の下」「業苦」「来迎の姿」「途上」「牡丹雪」「秋立つまで」「神前結婚」
そして、東京に生まれ東京で育った作者自身の「とりいそぎ略歴」が挟み込まれ、戦災に遭ったこと、父の葬儀を出したことなどが語られる。
さらに戦災から戦後にかけての荷風の「罹災日録」「買出し」、谷崎の「瘋癲老人日記」が紹介される。
今ではほとんど失われてしまったであろう当時の「東京」だが、「場所」(トポス)と時間を往還する著者の文章に目の眩むような思いで一杯だった。
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著名作家陣が書いた『優駿』誌上のダービー観戦記と、それに編集部が「蹄跡」としてダービーの解説を付したものを10レース分あつめている。
何より興味深かったのは、かつては日本中央競馬会職員がレース後の記述を執筆していたこと(本書では第1章のシンザンについてがそれ)、そしてその際にハロンタイムを意識しまくった文章になっていたこと。客観的に書かざるをを得ないとしても、シンザン時代にこんなにハロンごとのラップタイムを意識していたとは。
そのあとは、競馬好きな作家(寺山修司、古井由吉)もいれば初観戦(はっきりしないが、影山圭二氏は競馬も初生観戦のよう)の人もいて、目の付け所は人それぞれ。しかし、せっかくのクライムカイザーのダービーでレースそれ自体の感想はほとんどなくてもったいないなあと思ったりも。
編集部の「蹄跡」部分が多くて、ちょっと方針がずれているというか、編集部がダービーについて色々書きたいのがメインで、それじゃあ売れないから優駿上の観戦記をつ買ったんじゃないかという気もした。著作権などの扱いは難しいのだろうが、いっそ10番勝負とせずに作家さんの観戦記だけをまとめてもらった方がよかったように思う。
なお、各レースの観戦記のあとに載っている着順表、制裁も載っていて面白い。ダイシンボルガードの厩務員さんは戒告だったのか。そして、タニノムーティエとタケホープは制裁金取られてることも知れた。また、ヒカルイマイの位置取りは本当に絶望的で、よく勝ったなと改めて思う。 -
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他では出会うことのない、独特の文体に魅了された。次々に連なり、流れ、姿を変えてゆく、句点までが長々と続くが、案外、読みにくくも無く、味わい深い文章。
気象に関する描写、とくに風や雲の生きた動きや変化をとらえたが描写があじわい深い。
老年となった著者の日常を中心にして描く短編集。四季の移ろいのなかでのさまざまな気象現象を肌身に感じながら、日々を淡々と過ごしてゆく中で、現在の生活と過去の追憶を重ね合わせながら、思いの向くままに随想してゆく様が語られている。
歳を重ね、このような生き方をするのも良いものだ。ある意味理想的な老年の生き様である。
しかし、最後まで読み通すことはできず、終わりの二篇を残した。 -
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内向の世代に共通する傾向として
高齢化時代における晩年というものを
志賀直哉の心境小説スタイルで書いているのだが
古井由吉の場合は、たぶんだけど
ドイツ哲学の影響がかなり強いように思う
「たなごころ」
病人の不意にもらした「石」についての述懐が
いつしか作者じしんの思い出と重なる
精神分析で言えば「対象a」
つまり大人になる過程で切り落とした全能感の欠片を
ふと懐かしむ心情となろうか
若き作者はその「石」を諦めて置いてきたのであるが
年老いて死を目前にしてみると
拾おうが拾うまいが、同じことだったかもしれない
死ぬということはつまり
生まれる以前の状態に戻るということだからだ
「梅雨のおとずれ」
睡眠を死の疑似体験と捉えるならば
不眠症は、抑圧された死の恐怖がひきおこすものだ
作者の少年時代、腹膜炎で死にかけたときが不眠だった
そして作中の2017年
東京五輪が終わるまで生きのびられるかどうか
そんなことを思いながら、やはり不眠に悩んでいる
「その日のうちに」
朝は4本足、昼は2本足、夜は3本足、といえば
有名なスフィンクスの謎掛けである
これは、人間の一生を1日に置き換えた例え話であるが
物語のなかで
不吉の予兆を観客に印象づける伏線ともなっている
この謎掛けにみごと答えたオイディプスは
しかしその後、自らの出生の秘密を知り
罪にまみれた自らの一生を
一瞬にして追体験したのだと思われる
これが永劫回帰である
永劫回帰の世界では一瞬と永遠が同義である
物語の結末には、何かしら救済を求められるものだが
オイディプスは懺悔として自らの両目を潰した
賢者ぶっていた自分が、実は何も見えてなかったと示し
さらし者になった
それが、永劫回帰する世界の英雄には、救済だったんである
ところが今や高齢化時代
物語が終わったあとも人は生き続けなければならない
「野の木」
やがて思い出すということ
それはつまり過去が未来にあるということかしら
ポストモダンは死の記憶
「この道」
人が人として生きるというのは
世界との一体化を拒否するということである
これを示す事象としては
例えば雪の世界でゲシュタルト崩壊に見舞われたとき
雪かきの人が屋根から落ちてしまったりする
自分と世界の境界が曖昧になると
平衡感覚も失われるのだ
ところが永く生きるにつれ、人は馴れていく
雪の中で食物が熟成するように
やがて雪解けの頃には、死という現実にも馴れているだろう
「花の咲く頃には」
晩年というのはその人が生きた最後の年のことである
しかしいつ死ぬか
正確なところは自分にもわからない
だから人は常に、晩年となる可能性の年を生きているわけだ
それを意識したとき、その人は死に先駆している
人を超越する空間と時間に向き合っている
「雨の果てから」
災いの前触れとして動物たちの騒ぎ出すことがある
生を超越した空間と時間に感応する能力が
動物たちにはあるのかもしれない
人間にもそういうことはあるけれど
それはなにか
自分の正体を失うことで研ぎ澄まされた感覚のように思われる
人が正体を失って空虚になるとき
例えば、オイディプスが自らの不明を恥じたとき
彼は己の両目を潰して因果を完結させた
それが運命と悟ったゆえの行動だが
しかしそんなものは自己を英雄視した果ての
ナルシズムのようにも思われる
真に研ぎ澄まされるとは
老いて自己愛を手放した抜け殻のような状態ではないだろうか
「行方知れず」
帰ってくる行方不明者もいれば
帰ってこない行方不明者もいる
行方不明にならない人は
どこにも帰る場所がない
しかし人生の旅に終わりがあるならば
我々はみな行方不明者のようなものか
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閉塞された男女の世界を、
透明人間になって傍から見聞きして書いたような偏執的な描写。
冷徹で枯れていて、思考や目線の端々が几帳面の域を超えている。
その文体から映し出される登場人物は、
そのままそっくり具現化されたようで、
深淵は多層化され、
滑らかで湿り気のある混沌と、
儚げで印象的な齣撮りの時間の中に、
絶えずその性質を留まらせている。
庇護欲でなく同族であることの共通理解が、
男女を一風変わった関係で成立させ、
それがどの抽斗から出てきた恋愛なのか分からなくとも、一応箪笥には収まっているように見せる。
踠いているような、
真っ直ぐ進んでいるような、
その歩き方を絶えず指先まで意識しながらいるような、そんな話でした。
杳子面倒臭いけど、多分可愛い。
話が一筋縄でいかないのを身悶えしながら、
読み進めたが、結局、どうなったんですね?(白目)
読み疲れするし、
の割には感情を揺さぶられるでもない。
理解が追いつかないながらも、
本能的感覚で、
ただその凄さをぼんやり感じる事はできる。
妻隠のほうが読み易い。
思考の並びや、妻の描写に、
ハッとさせられる所が多々あった。
DQNの中で妻がオンナになるとことか、
その後何食わぬ顔で帰って来るとこ、
それに夫が何も示さないとこ、
桃に関心が無さそうに適当に摘むとこが、
わりと印象に残った。
なにか冷たいのか、
冷たい中に熱があるのか、
判然としないなかに、
嫌にまとわりつく読み味が、
読後にはサラッと流れていくようだった。
本格小説といった印象だが、
果たして本格とは一体何をもってして本格とするのか。
古井由吉をもう少し読み込めば、
分かるようになるかもしれない。
#読書 #読書録 #読書
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Posted by ブクログ
読書開始日:2022年4月9日
読書終了日:2022年5月17日
【杳子】
病人と健康人。
この違い、中々に難しい。
精神ならなおさら。
病気を病気で確定させることで、周りはある種の安心につながる。
杳子の姉はそれを望んだ。
姉以外もそれを望んだ。
でも杳子は、自身の病気を認識することを拒んだ。
そんななかSが現れた。
Sは杳子の病気に対して、初めは好奇心や興奮を覚えるが、それが次第に情に変わっていった。
その変遷が、杳子の決心に結びついた。
癖ってある種の病気だ。
健康的な癖、病的な癖、その線引きはどこだろう。
杳子のように、毎日の出来事が全て違うように見えることが当たり前の世界では、姉のような反復がより奇怪に感じる。
その杳子自身も毎日の出来事が全て違うと見える癖に苛まれている。
病気ってなんだろう。
【妻隠】
寿夫が欠勤したことで見えてきた礼子の詳細。
ふとしたことがきっかけで、当たり前の風景が違って見えることがある。
ゲジュタルト崩壊のような。
ふときたときに、人間は動物に戻る時がある。
杳子の場合は、動物の時間が長いことによるある種の精神病。精神病なのか健康なのか。
養老孟司論から推測する。
夫婦の関係を築いても相手を知り尽くすことは不可能。そこに意味がある。
寿夫は新鮮な一面を見せる礼子を片腕に抱き、慈しむ。
きっかけは、欠勤と老婆と礼子の同郷人ヒロシ。
渺とかすむ顔
杳子は動物、同じという人間特有の感覚がない
風に顔を背けることをしない。風を蔑ろにする。
性行為をすることにより杳子の失調に近づけるが、性の興奮がそれを上回る。それが心地よくなる。
そのため、杳子とのいとなみでは成熟せず、若い男が性を求める中に留まっていた。
健康になるってどういうこと?まわりの人を安心させるっていうことよ
杳子は中途半端な状態。病気を病気と認識することで健康にはなる。だが、病気を病気と認識してそれが完全な癖となった自分に耐えられるかが怖い。
【妻隠】
心をたのしませるったって、自分一人楽しめばいいもんではない。自分も、人も、ほとけにもよろ
一視同仁
夫婦の現実などはちょっと揺られると案外頼りない
頤
惰性になった接吻の匂い