古井由吉のレビュー一覧
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東北の震災の年、東京の古井由吉と仙台の佐伯一麦のあいだでやり取りされた手紙。際立ったことが語られているわけではない。でも、今読むと、もう一度心の中の、ことばにならない何かを失いたくないと思う。1995年阪神大震災という、自然の、想像を絶する破壊の、刻み込まれた、経験に戻っていく自分を見つける。
家族を失い、自宅は倒壊した少年や、少女たちが、倒れなかった学校の、薄暗い職員室にやってきて、笑いころげ、経験の奇異を自慢しあうかのようにおしゃべりしていた。そんな顔が浮かんでくる。25年も昔のことだ。
二人の作家が、そんな少年たちの心の奥にあったもののことを語ろうとしている。
誠実な本だ。 -
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今年で80歳になる老作家・古井由吉さんのエッセー集。
濃密な文体の小説と違って、実に軽やかな筆運びです。
このことから逆に、小説に全精力を注いでいることが分かります。
「貧寒たる文学環境の中で、僕自身は、なるべく丁寧に言葉を綴る、というただ一つを心得にしてきました。」
と古井さんは書いています。
そうなのだろうと思います。
本書は、老作家の半生をつづった回顧録でありながら、優れた作家論、小説論でもあるように思いました。
たとえば、
「作家は、真のタブーを上手く避けながら表現することによって、文章の色気を出してきました。」
「いま、作家は例外なく端正で整った文章を書くでしょう。なぜ、もっと奔放にやらないのかと思っているんです。文法なんか多少無視しても、活力のある文章を求めた方がいいのではないか。『第一次戦後派』の人たちなんか、テニヲハなんて構っていられないぐらい、書く欲望に溢れていました。」
「最近ではもう、三枚書くと相当書いたという気になります。でも、三枚書くと、翌日はそのうち一枚は書き直しです。勢いの乗って書いた文章は、どうしても荒っぽくなってしまいます。」
「たとえ三十枚の短篇だとしても、途中で必ず行き詰まります。どうにも停滞したところから小説をどう展開するか、これは書いている人間の予測の外のことなんです。次の展開は、いままで書いた言葉の力に任せなければいけません。だから、じっと待っているんです。」
「待つために必要なのは、やはり、毎日少しでも書くことです。もし清書できないなら、粗書でもかまいません。まったく先に進まない日でも、何かを書いています。」
「やっぱり、ずぶの現役でやり続けなければだめになります。いままでの作品を積み重ねたその年金で、文学者が喰っていける世の中ではないんですよ。名声を積み重ねれば老後を楽に生きていけるという時代はとうに去りました。」
「『私小説』のように、省略し、切り詰められた色気の現わし方は、西洋の文学では少ないと思います。これは、日本の文学の秀でているところですよ。僕自身の場合でも、ある行為を正面切って書いた部分を消すことがあります。前後の雰囲気やニュアンスの方が大事で、それだけ書けば十分に表現できているんじゃないかと思う。」
ドキリということも随分と書いています。
たとえば、
「変な話ですが、日当が五百円の時と日当が千円の時では、読書の意味が違ってくるのではないでしょうか。時間が金に換算されるようになれば、読書という行為ほど無駄なものはありません。」
よく稼ぐ社長さんやビジネスマンたちは、なべて小説を読みません。
ぼくはそれを、金というリアルな現実と日々対峙している時に、虚構なんかに付き合っていられないからだと解釈していました。
もちろん、それもあるでしょう。
でも、古井さんの言に従えば違うんですね。
時給換算で5千円も6千円も稼ぐ人にとって、読書なんて無駄どころか利益をみすみす逸失しているようなものです。
「年配者の姿を見ていると、お焼香の姿がサマになっていないんですよ。不祝儀の場の年寄りの振る舞いに、男の色気は出るものなんです。稚いというか、みんな形を踏まえていない、しわくちゃな振舞いになっています。」
というのも鋭い観察ですよね。
私はよく神事を取材しますが、玉串奉奠で形が様になっている人はこれまで一人もいませんでした。
名のある社長さんたちでも、ですよ。
もちろん、私も満足に出来ませんが。
近頃、色気のある人が少なくなったと嘆く古井さんの言葉に、静かに耳を傾けたのでした。 -
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いつかいつかと思いながら、やっと古井由吉を読むことが出来ました。
古井は昭和12年東京生まれで、「杳子」で芥川賞を受賞。
その他、谷崎賞、川端賞、読売文学賞、毎日芸術賞も受賞し、今や純文学界の重鎮と言えましょう。
最近では、又吉直樹が「憧れの作家」だと公言しています。
ただ、作風は素人にはちょっと難解で取っつきにくいのも事実(古井自身は「難解ではない」と反論していますが…)。
気軽に寝転がって読めるような小説ではなく、端然と居住まいを正して読むことになります。
で、本作は、日常に漂う性と業を主題とした12の連作短編集。
一読して、ただならぬ小説であることが分かります。
何がただならぬと言って、通常、言葉には置き換えられないような観念とか感覚とかそういったものが、巧みに言葉に置き換えられているからです。
読んでいて、何度も陶然としました。
たとえば、表題作「辻」にこんな描写があります。
「悪念に支配されたのは息子のほうだった。悪念は澄んだ心に似ていると知った。いまさら恨みも憎しみも動かない。思い悩みもしない。ただ悪念に満たされている。透明に飽和して、波も立たない。反転すれば満足と重なりそうだった。」
何と濃密な描写でしょう。
やや脇道へそれますが、小説は地の文と会話文から成り立ちます。
ただ、「辻」に収録された短篇には、カギカッコを使った会話文がただの1つもありません。
ここまで徹底しているということは、故意なのでしょう。
カギカッコが1つもないことが、作品をより重厚なものにしています。
どの短篇にも「辻」が出て来て、登場人物にとって意味合いが異なるあたりも読みどころかと。
私は、老境の父を巡る子と従姉の物語である「雪明かり」が特に気に入りました。 -
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異常に難解なようでいて実は何もないのではと思いながらも数年読み続けて今に至る。読むたびに首を傾げ続けているので愛読書とは呼べまい…。
引用されている古典には全て出典があり、日記も天気や旅行などが連載時期に一致するし、幼少のエピソードなどは古井の他作品にも見つかるものがある。これをフィクショナルな次元と現実の往還と呼ぶべきなのか、しかし古典の間接引用をどこからがフィクションと呼ぶべきなのかわからない。
かといって佐々木中が書いているような言葉の問題なのかとも思えない。それは単なる形式の問題にしか思えないし、謎である。意味と形式がごっちゃになってすんなりとした理解を妨げてるのか。かといって理解出来んし読む価値なし、とも思えないところがまた謎である。
過去にNHKで本作について古井自身が語った番組があるらしいのだがアーカイブを見るのにべらぼうな金額を要求されたので未見。見たところでどうなるとかいう話でもないんだろうが。
福田和也のおかげで評価が高いんだよね、これ。福田はガチガチの論考でも書いてくれんかな。 -
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たまには純文学をと思い、以前から気になっていた古井由吉作品のなかから本作をチョイス。……なのだが、本作は典型的な純文学というわけではなく、そもそも小説と呼んでよいのかどうかさえさだかではない。まず、タイトルの意味はなにか。「往生伝」とは、平安後期に記録されている聖人たちの極楽往生の様子のことである。いわばその現代版が本作にあたる。こう書いてもなんのことだかわかりにくいが、じっさい読んでみてもよくわからない。そして、構成もまたわかりづらく、本作は各章ごとにまず「往生伝」が登場したあと、それにかんする著者の論攷が入り、さらに随筆風の日記という特殊な形になっている。さきほど小説と呼んでよいかどうか迷うと書いたのは、この特殊な構成が原因である。なにせ、平安時代の僧の往生の話題が、イキナリ競馬場を散策しながらボンヤリと考えごとをする段に移行したりするのである。(余談だが、本作にはかなりの競馬場にかんする描写が登場し、著者の競馬好きのほどがうかがえる)いちおう読売文学賞は「小説賞」として受賞しているのだが、個人的にはこの随筆調の部分がもっとも印象深い。全体的に読みやすくはないのであるが、支離滅裂なことを書いているわけではないので、叮嚀に読んでみると、わりと頭にストンと入ってくることも多い。人間、誰しもが自分の「最期」について、1度は考えたことがあるのではないか。わたしもまだ26歳ではあり、そこまで真剣に考えたわけではないが、なにかのきっかけでそういったことに思いが至ったことはある。本作を読んでそういったことをもう1度考えてみれば、往生にかんして読んで往生を考え、それについて読むことでさらに往生について考えることになる。こういった積み重ねというものが、けっきょくのところ「往生」とはなにかということの本質を突いているような気もする。残念ながら100%理解できてはいないが、文学賞にふさわしい傑作であることはたしかだ。
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久しく触れていなかった、上質な文学。スマホもネットも登場しないどころか、穏やかで落ち着きのある文章にはカタカナも少ない。
安易な言葉と早いテンポの刺激的なストーリーが氾濫する今日、ときにはこういう大御所の作品に触れてバランスを取ることも大事だと気づかされた。
8話の短編は、どれも死が身近にある。現実と幻想とが入り交じり、時間も空間も行き来して、ときには怪談のような異世界に紛れ込んだよう。なのに、地に足が着いていて、味わい深い随筆のようにも思えるから不思議だ。
学生時代、芥川賞受賞作の「杳子」を読んで心が揺さぶられたことを思い出す。精神を病んだ女性を描いた作品を理解した自分が、少し大人になったような気がして、ちょっとうれしかったものだった。 -
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先日とある先輩に勧められたので読んでみました。
大学時代に芥川賞受賞作「沓子」を読んで以来です。
これは数年前に出版されたもので、語りおろしのエッセイのような体裁をとっています。大作家と思いつつ、金沢と立教での合計8年間の教師生活の話が「戦後」をリアルに描写している。
基本的に1人称なのですが、対談相手が結構大物だったりします。
古井由吉は70歳を超えた現在でも書き続いているのに驚きました。物事への距離のとり方が絶妙ですね。こんな風に歳をとりたいです。少年のような好奇心を内包しつつ、成熟と円熟を重ねること。なかなかそんな大人はみつからないですね。