古井由吉のレビュー一覧
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芥川龍之介の芸術至上主義は
究極的には自殺という形に向かうしかないものだった
芸術のために人を焼くほどの傲慢さを持ち得ないならば
自己完結するしかエゴのやり場はないからだ
その芥川が、初期作品の執筆において多く参照したのが
日本の古典文学である
「今昔物語集」や「宇治拾遺物語」などだ
それらを近代的な切り口から解釈していくことで
彼は、新しい人のあり方を探ったのだった
時は流れて1980年代後半
古井由吉もまた、日本の古典に新たな解釈を加えて
ひとつの作品とした
部分を見れば随筆だが、全体を見れば小説ともとれるもので
奇妙な印象を残している
芥川が主に世俗の話を扱ったのに対し
古井は「往生伝」にこだわった
すなわち仏教聖の死に様について、である
自然死もやはり究極的には自己完結と呼ぶべきものだが
ここではどちらかというと
死にゆく者と、それをとりまく人々との関係性を問題として
相対的に、自己完結の凡庸性を浮き彫りにしようとする
孤独死が問題とされる現代の視点に立つならば
残酷な観念と呼ぶべきかもしれない
しかし死の後始末というものがやはり人間関係であるとすれば
人の目を逃れて自己完結を遂げるのもなかなか難しいことだろう
そういう意味で、全ての死は往生たりうるのではないか
芥川の死を見てもそうだ
人間の内面が一種の密室である以上
自殺とは常に特権的な死の可能性を秘めていて
人の関心を集める
具体的な呪いを後に残さぬ限りにおいては
個人的な自己完結もやはり、極楽往生になりうるわけだ
往生とはつまり凡庸な死であり
死は人の目についた時点で凡庸なものとなる
おそらくそのような定義に到ったのであろう古井由吉は
えらい仏教僧の死と、例えば競輪場に群れ集うおっさんたちの死を
並列化していくのだった
それは、人類みな平等の願いに
ひとつの筋道をつける試みではあったかもしれない
しかしどうだろう
生きてるうちが花でもある
競馬ファンとしても知られた古井だが
勝ち馬と負け馬が平等たりうるなどと思っていたわけではあるまい
そして負け馬にも負け馬の矜持ってもんがあるのだ -
Posted by ブクログ
90年代はじめの大江健三郎は
文体に霊的パワーを込めようとして空回りしていた
井伏鱒二から継承したフォルマリズムが
そのための方法論、というよりドグマだった
当時の作品にも現れているように
やがては新しい神話を創造することが目標だったのかもしれない
しかしオウム事件以降
おそらく、ここに収められた古井由吉との対談も転機のひとつだろうが
世界の文学史そのものを多神教的にとらえる方向へと向かったらしい
いずれにせよその鍵は
異なる概念を柔らかく繋げる日本語表現にこそあるようだ
日本語への翻訳による異化作用を用いれば
あらゆる価値観の相違と
ロシア・フォルマリズム本来の用法を超えて
歴史の背後にある、なにか偉大な精神のようなものを
見いだすこともできるというのだろうか -
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ネタバレ直前に読んだ「杳子・妻隠」からかなり年月を下って、70歳くらいの時に書かれた短編集とのこと。確かに文体はよりずっしりと重く、滔々と流れる文章には経てきた年月にふさわしい品格がある。
ただその分作者個人の思索、思い出が整理されないままに作品にびっしり絡んで混ざり合っていて、もはや不可分になっている印象。頭に浮かんだことがそのまま次々と文章になっていて、誰が、いつそうしていたのか、今主人公はどのあたりの年齢なのか、そういったことが読んでいてかなり分かりにくい。というか、私には分からなかった。私がぼんやり読んでいるせいかと思ったけれど(それもあるだろうけど)、これはやはり意図的に曖昧にして読者を迷い込ませる趣向なんだろうか。
人の頭の中をそのまま見せられているような、病人か耄碌した人の話を延々と聞いているような怖さがある。現実を一段踏み外したようなとりとめのない思考が続く中で、女性や性の描写だけが妙に生々しく臭い立つようでそれもちょっと怖い。
「まるで愛憐の情を棄てた神の眼だ、いや、この冷徹さそのものが、愛憐なのかもしれない」
それは、私もそう思います。 -
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ネタバレ「杳子」は統合失調症の女とそこはかとなくメンヘラ男の恋愛、「妻隠」は現実感のないままに夫婦をやっている男女の話という感じなんだけど、文章がすごい。何気ない風景が一瞬でブレて観念の世界へ入り込んでいく、でも地に足つかないわけではなく、むしろ現実感が気持ち悪いくらいに臭ってくるような不思議な感じ。力のある文章、あこがれるなあ。
作中で杳子の女性性が強調されるのでどうしてもそういう方向を意識してしまうのだけど、この文体、女性っぽい観念の世界を男の人のやり方で歩いている、という印象ですごく不思議。
「健康になるって、どういうこと」
「まわりの人を安心させるっていうことよ」
というところには、思わず笑ってしまったが、杳子の神経質な緊張が恐ろしくリアルなので読んでいて神経を優しく逆なでされるような気分になる。ふっと緩み、またあっという間に引きちぎれそうに張りつめる神経を持ち、突如攻撃的になる女。そことつながるチャンネルを持っているのに、他人の視点で観察するように眺める男。共感できないとか、分からないというより、そちらへ引きずられて行きたくない、と思って距離を取りたくなる。 -
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人生の最晩年に達した男の回想形式による短編小説6篇。
語り手となる人物は、1937年生まれの古井由吉と同世代に設定されていると思われ、私小説的な一面もあるのかもしれません。
老境に達した人間がどのような心境になるのか、もちろん自分には想像することも難しいのですが、この短編小説集に触れることで、それを疑似体験できたような気がします。
「達観」や「郷愁」といったイメージとはずいぶん違って、案外惑っており、情念的でもあるな、という印象。
回想といっても、時制は単純ではなく、青年時代の出来事を思い出している中年時代の自分を、今、回想しているといった多重階層形式になっていたりします。
言葉づかいは高尚、かつ、思索的で難解な部分も多く、けっして読み易い小説ではありませんが、なかなか味わい深い。
6篇の中では、若き同棲時代、宅の離れを自分たちに貸してくれていた老人との交流を描いた「生垣の女たち」が、ドラマチックで印象深かったです。 -
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巻末に収められた大江健三郎との対談では、「私の作品は全然難しいことないのに」と笑いながら語っているが、やっぱり難しい。
氏の作品は用いられている言葉自体はどれも一般的なものばかりであるにも関わらず、文章になった瞬間に、1つ1つの文章が重層的になり、単一的な読み方を許さない解釈の幅がある、そんな点にあるように感じる。
そして物語られる世界は、極めて日常的な生活における情景であるが、たとえそれが我々が当たり前だと思っている世界だとしても、物語られる文体というフィルターをかけることによって、全く別の様相を呈してくる。日常の中に潜む幻想性ともいうべき世界を、直接的な題材ではなく、文体により描ききる技法は、見事としか言いようがない。
誰にでもお勧めできる作品ではないけれど。 -
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ネタバレあー……しんどかった……。
こんなん中年じゃなきゃわからないでしょ!
なんでそんなに物忘れ激しいのかとか、なんで関係を結ぶのをそんなにもかたくなに避けるのかとか……
中年の危機をしらない若者からしたらファンタジーですよ。読むのが15年早かった。
過去に夜這いのようなかたちで誰かに抱かれたという園子、
よく男に付け回され怯える伊子、
そして自宅マンションの真上で殺人が起こったバーのママさん、
ある日を境に女たちが杉尾を中心として…近づいてくるわけでなし、かといって遠のくわけでもなく、ある一定の距離を保ちながら少しずつ…すがっているようにも見え、誘惑するようにも見え。
女たちはそれぞれに恐怖と妄想を抱いている。杉尾は次第にその恐怖や妄想に絡め取られていくような感じで、ありもしない記憶を思い出したり、
でもってあの時園子と寝たのは誰だったか、
よくわかりませーん!
いわゆる長篇小説のような、3分の1読んだら読書スピードがあがる、ということもない。物語が動き出すといったこともなく、はじめから最後まで同じ温度である。かえってよく書けたな、とも思う。