古井由吉のレビュー一覧

  • 杳子・妻隠

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    杳子の心と身体のありようを彼らは便宜上「病気」と呼んでいるけれど、あれは彼女なりの世界の受け取り方でしかないんだよね。彼女は世界を過剰に身体的に知覚してしまう(することができる)というだけ。世界の知覚の仕方なんて人それぞれ違うわけで、それを周りの人間が「治したい」というのはやっぱり「自分にとって都合の良い状態に変えたい」ということでしかないよね。杳子の、発作、症状、とよばれるものの細部が、側から見てどう見えるのか、杳子自身にとってはどんな状況なのか、が丹念に描写されているのがおもしろかった。杳子もSもそれぞれ勝手な人間だが、どちらともにさほど悪感情を抱かずに済んだ。

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    2026年09月07日
  • こんな日もある 競馬徒然草

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    kotoba競馬を読むから。
    1990年の有馬記念の感動を、何度でも思い起こさせてくれる文章。なんとか頑張っていこうと思える。

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    2026年02月12日
  • 杳子・妻隠

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    僕が高校時代の芥川賞作品。本の裏表紙の案内には現代の青春小説となっていたが、戦後昭和の青春小説だろう。文章は洗練されて美しい。杳子と姉と彼の3人の登場人物による格別ストーリーはないけど2人の大学生の恋愛を瑞々しいエロシズムの目線が青春の眩しさを感じた。本の前半は分かりづらかったけど、6章の夏休み海辺にデートしたあたりから、この本の主題がわかって来て、杳子の姉が現れてから素直に読み進められた。

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    2026年02月01日
  • 杳子・妻隠

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    純文学とは何なのか? そのわかりやすい例がこの作品のように思う。

    異なものを描く事がそうではないかな。
    『杳子』には質感がある。
    それを質感を伴って体感させる事を通して理解や共感に繋がる可能性がそこにはある。
    わかるがわからない作品。
    人もまたそうだと思う。

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    2025年07月11日
  • 仮往生伝試文

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    始めてまとめて読む。こんなに日記の部分辛気臭かったっけ。感想というか解釈多かったか。出るたび読んでたのより浮遊感がある。当時すごく陰気だと思ってたのは若かったからか。
    歴史に分類した方がよかったか。哲学か。まあ、どちらにせよ読みでがある。

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    2025年03月02日
  • 杳子・妻隠

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    ネタバレ

    「礼子はとっさに彼の顔を見分けられなかった。しばらくの間とはいえこの家の中に、それも彼の寝床の中に、見も知らぬ男がうずくまっていた。なるほど夫婦という現実などはちょっと揺られると、案外頼りないものだ。それにしても、いったん夫の姿をそんな風に見つめてしまったからには、これからも事あるごとに、夫の姿の中に見もしらぬ男を見るようになりかねない……。」197頁

    ←聞き手である主人公が妻に起こったフレームの混乱についてこんな正確に理解して共感できるのって、ありえなすぎて嬉しい

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    2024年10月22日
  • 杳子・妻隠

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    ネタバレ

    「だけど、あなたに出会ってから、人の癖が好きになるということが、すこしわかったような気がする」

    外界から遮断された2人の、2人だけで進んでいく物語が好きだから面白かった。2人だけではアンバランスだしとても凸凹がぴったり合わさっているとは言えないけど、妹という外部の人間が介入してくるとそれはそれで均衡が崩れる。ギリギリのところで耐えている杳子の心と2人のぐらぐらとした関係が似ていた。

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    2023年11月17日
  • 杳子・妻隠

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    筆致に圧倒された。
    だれかと関係を持つ、ともに生活を送る。
    まったくの孤独ではないはずなのに、閉塞的なその関係によってより孤独が深まっていくような、そんな苦しさと寂しさと、やるせなさのようなもの。自分の中で上手く言語化できなかった感覚が、描かれていたような気がした。

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    2023年10月27日
  • 辻

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    【読もうと思った理由】
    直前の「文学の淵を渡る」でも書いたが、伊坂幸太郎氏と平野啓一郎氏の現役人気作家の両名が、古井氏のことを絶賛している。平野氏は「小説家が尊敬する小説家」といい、伊坂氏は「完璧な小説は?」と問われれば「先導獣の話」と答えるかもしれないと、それぞれが、最大級の賛辞を送っている。また著名な作家でいうと又吉直樹氏や大江健三郎氏も、古井氏のことを好感や敬意を持って語っている。

    伊坂幸太郎氏の「小説の惑星 ノーザンブルーベリー編」に「先導獣の話」が掲載されており、初めて読んだ際は、正直それほどのインパクトはなかった。それから一定期間が空き、平野啓一郎氏の「小説の読み方」で「辻」の短編である「半日の花」が、一部抜粋の形でピックアップされていた。そのときに初めて、「なんだこの文章、すごく綺麗だ」と感動したのを今でも覚えている。

    古井氏の文章は確かに難解だし、分かりにくいところも多々ある。それは間違いない。だがスルメではないが、噛めば噛むほどに、少しずつその良さに気づける、奥深い作家であることまでは理解できてきた。まだ僕が古井氏の作品に対して、感想を述べるなど早すぎるのは重々承知している。だが、いまの自分の現状の立ち位置を知るためにも、このタイミングで感想を残しておき、ある一定期間後、同作品を読んだときに、自分の読解力や理解力、想像力がアップしているのを感じられるかも知れないと思った。なので、いまこのタイミングで感想を残しておくのも、意味があるかなと思ったので感想を書きます。

    【古井由吉って、どんな人?】
    (1937〜2020)(82歳没)
    1937年(昭和12年)11月19日、東京都荏原区平塚(現・品川区旗の台)に生まれる。1945年5月24日、未明の山の手大空襲により罹災、父母の郷里岐阜県で終戦を迎える。1953年港区立高松中学校を卒業、独協高校を経て都立日比谷高校に入学。1956年東京大学文科二類に入学。1960年、東京大学ドイツ文学科を卒業、卒論はカフカ。1962年同大学大学院修士課程を修了、修士論文はヘルマン・ブロッホ。 4月助手として金沢大学に赴任。1965年立教大学に転任。ブロッホ、ムージル等の翻訳を刊行。

    1968年1月処女作「木曜日に」を同人誌「白描」に発表。1970年6月第一作品集『円陣を組む女たち』、7月『男たちの円居』を刊行。この年、大学を退職。阿部昭、黒井千次、後藤明生らを知る。 1971年1月、「杳子」により第64回芥川賞を受賞、同月、河出書房新社より『杳子・妻隠』、〈新鋭作家叢書〉『古井由吉集』を刊行。筆一本の生活に入る。 1977年9月、後藤明生、坂上弘、高井有一と同人誌「文体」を創刊。1980年『栖』で日本文学大賞を1983年『槿』で谷崎潤一郎賞を、1987年「中山坂」(『眉雨』所収)で川端康成文学賞を、1990年『仮往生伝試文』で読売文学賞を、1997年『白髪の唄』で毎日芸術賞を受賞した。 その他の作品に『山躁賦』『野川』『辻』『白暗淵』『やすらい花』『蜩の声』などがある。

    【あらすじ】
    父と子。男と女。人は日々の営みの中で、あるとき辻に差しかかる。静かに狂っていく父親の背を見て。諍いの仲裁に入って死した夫が。やがて生まれてくる子も、また—。日常に漂う性と業の果て、破綻へと至る際で、小説は神話を変奏する。生と死、自我と時空、あらゆる境を飛び越えて、古井文学がたどり着いた、ひとつの極点。濃密にして甘美な十二の連作短編。

    【感想】
    古井氏は、文章というツールを使えば、マジシャンに変貌するんだと感じた。あまりに文体(文章のスタイル)が独創的すぎる。古井氏の代名詞とも言える、会話文をいっさいカギカッコ「 」で閉じないのは知っていたが、今回新たな発見があった。それは人称代名詞を使っていない。「彼」とか「彼女」や「私」、「僕」など。本当に一度も使っていないのだ。

    それだけではない。古井氏いわく、本来の日本語に句読点はほとんど意味などないと言う。今回12編の短編の中で、何度か文庫本で8〜9行に渡って句点(くてん)「。」を一度も使わずに表現している。素人の僕などが9行にも渡り句点を一度も使わなければ、読みにくいことこの上ない文章が出来上がるだろう。ほとんどの方がご存知だと思うが、一般的に一文の文字数は、40文字程度が読みやすいとされている。文庫本の1行の文字数を数えてみると大体34〜36文字だ。ということは9行にも渡り句点がない文章は、本来であればこの上なく読みにくく、駄文と言われてしまう。

    だがじっさい古井氏のその文章を読んでみると、読みにくいどころか下手をすると、句点が無いことすら読者に気づかせないほど、スラスラ読めてしまう。つまり、古井氏は文章が長くなってもストレスなく読みやすいようにたった一文字に至るまで、緻密に計算し尽くしているのだろう。

    今作の「辻」というタイトルは、通常であれば交差点の意味だ。だがおそらく古井氏は、ただの交差点という意味では当然使っていないだろう。いにしえの時代より日本で「辻」とは、現世と来世の境目と言われており、そのような場所には、妖怪や魔物が住み着きやすいと言われていた。今回12編すべての短編で辻が重要な意味を持っている。色々な意味での境目を表している。ある編では、時空の間であったり、ある編では過去と現在の端境であったり、はたまたあの世とこの世の境目であったり、辻に差しかかると何かが起こる。と想起させる。そのあたりの話の持っていき方がただただ巧いと唸ってしまう。

    上記の書き方であれば、12編すべてが小難しい話と勘違いさせてしまったかもしれないが、当然そんなことはなく、すんなり楽しめる作品もある。例えば、短編「林の声」は、20歳前後にして天涯孤独になってしまった女性の話であるが、最後は大いなる未来への希望を感じされてくれる感動的なストーリーだ。この短編を読んで、昔読んだ小野寺文宜氏の「ひと」を思い出した。あの作品も主人公、柏木聖輔が、20歳で天涯孤独になってしまう。だが周りの人々の温かい思いやりで、人生の活路を見出すという感動的な作品だ。作品の起承転結が似ていなくもない。古井氏の凄いところは、それを30ページ前後のかなり短い短編で、不足なく書ききっている。

    あと再読して思ったのだが、古井氏は物語の終わり方が非常に秀逸だ。これ以上短ければ、話が何のことだか分かりにくいし、これ以上長くなれば、少し間延びして感じてしまうかもしれない。長年短編ばかりを書いてきた古井氏だがらこその芸術的な収め方だ。

    何かしらの理由で、文章が上手くなりたい方や、美しい文体が好きな方で古井文学に触れたことがない方は、一度読んでおいても損はない作品だと思います。一点注意点があるとすると、かなり集中して読まないと、現在読んでいるところが、過去の回想の話なのか、現在なのか、はたまた別の人間の回想なのかが、非常にわかりづらいです。おそらく古井文学が難解と言われる理由は、そこなんだろうと。そこを読み取れれば、めちゃくちゃ面白い作品だと思います。

    伊坂氏や平野氏、又吉氏や大江氏が称賛する理由が、少しだけ分かったかも知れない。古井氏が作品の中でやっていることは、文体含め普通の作家の方なら、難しくてとても手を出そうとはしないことであろう。それなのに毎作品アップグレードし続け、挑戦し続けている姿が、同業者としてこの上なく格好良くもあり、少し羨ましい気持ちもあるのだろうと思った。

    【雑感】
    次は、スコット・フィッツジェラルドの「グレート・ギャツビー(村上春樹訳)」を読みます。いまさら僕がいうまでもないが、生涯で村上春樹氏が、もっとも感銘を受けた書籍と、何度も色んな本で語っている。そして次読む本は、村上氏本人が訳している。思い入れが他の作品と比べて、ハンパなく大きいのだろう。生涯でもっとも力を込めて訳した作品であるのは間違いない。やはり、情熱を込めて書いた作品であればあるほど、こちらの気持ちを揺り動かすはずだ。期待して読みます!

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    2023年08月22日
  • 文学の淵を渡る(新潮文庫)

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    【読もうと思った理由】
    古井由吉氏を知ったきっかけが、平野啓一郎氏の「小説の読み方」と伊坂幸太郎氏の「小説の惑星 ノーザンブルーベリー編」だ。現在人気の作家二人が揃って、古井由吉氏を絶賛している。平野啓一郎氏は、小説家が尊敬する小説家と評価しているし、伊坂幸太郎氏は、完璧な小説を挙げるとすると、「先導獣の話」を挙げるかもしれないと、最大級の賛辞を送っている。

    また古井氏と言えば、芥川賞受賞のエピソードが有名だ。第64回芥川賞を受賞したときのノミネート作品が、実は古井氏の作品が2作品あった。「杳子(ようこ)」と「妻隠(つまごみ)」だ。一人の作家が同じ回に2作品ノミネートされるのは、かなり稀だ。当時の選考委員も他の作者の候補作があるにも関わらず、ほぼ全員が古井氏の作品を推す。ただ杳子と妻隠で真っ二つに意見が分かれる。

    当時選考委員であり、すでに文壇の重鎮となっていた川端康成氏が、「文藝春秋の社内予選で、一作家の候補作を一作品に絞れないなんてありえない」と、選考時に杳子しか読まないという。そんなのありなの?と。それで結局杳子に受賞作が決まるという。(選考後に妻隠も読んだそう、川端氏の名誉の為に書いておきます。)まぁそれほどデビュー当時から他の新人作家と比べて、古井氏のレベルが段違いだったのだろう。

    大江健三郎氏に関しては、また伊坂幸太郎氏のエピソードになってしまうが、大学生のときの伊坂氏が、たまたま大江氏の「叫び声」を読むと「なんだこれ、めちゃくちゃ面白い!」となって、ほぼ毎日のように大学の生協に大江氏の本を買いに行っては、貪るように読んだんだという。意外に思われるかもしれないが、伊坂氏は自分が読む本は、ミステリーか純文学しかほとんど読まないらしい。単純なエンタメ作品では出せない魅力があるのも、その辺の読書遍歴からきているのかも知れない。

    なので古井氏も大江氏も、上記のエピソードの関連から短編を数本は読んだが、難解な部分が多く、理解が浅いような気がしてならない。そんなときは、小林秀雄氏に教えてもらった攻略法が役に立つ。その作品を深く理解したければ、その人物を深く知れば良いと。そんな折、本屋をぶらぶらしていると、二人の対談本があった。一石二鳥とはまさにこのことと思い、読むに至る。

    【大江健三郎って、どんな人?】
    (1935年〜2023年3月3日)(88歳没)
    愛媛県大瀬村(現内子町大瀬)に生まれる。東京大学仏文科在学中の57年、東大新聞の五月祭賞を受賞した「奇妙な仕事」が評価され、文芸誌に「死者の奢り」を発表。新世代の作家として注目を集め、翌58年、戦時下の村で黒人兵を幽閉する「飼育」で芥川賞を受賞した。集団疎開した少年たちが疾病の広がる山村に閉ざされる第一長編「芽むしり仔撃ち」を同年刊行、初期の代表作となった。都市の無力な若者のアイデンティティを問う長編「われらの時代」(59年)などを経て、61年、17歳の少年がテロリストになってゆく問題作「セヴンティーン」を発表。64年、脳に障害のある長男の誕生を描いた「個人的な体験」(新潮社文学賞)で作家として転機を迎える。苦悩を抱えて生き、無垢(むく)なものに再生される主題の作品を以降、繰り返し描いた。

    「反核・平和」の訴えは創作にとどまらなかった。60年には石原慎太郎や江藤淳らと「若い日本の会」を結成。日米安全保障条約に反対する活動に加わった。広島での取材体験を元にしたノンフィクション「ヒロシマ・ノート」を65年に、「沖縄ノート」を70年に刊行した。95年にはフランスの核実験に抗議して、同国で開催予定のシンポジウムを辞退。この件を批判した仏作家クロード・シモンとはルモンド紙上での論争に発展した。

    94年に川端康成に続いて日本人で2人目のノーベル文学賞を受賞した。故郷の四国の村から国家、宇宙へと神話的な文学世界が広がる「万延元年のフットボール」(67年)が翻訳され、評価されていた。受賞記念講演の題は「あいまいな日本の私」。文化勲章にも内定したが、「国家と結び付いた章だから」と辞退し、話題になった。2000年の「取り替え子(チェンジリング)」以降、自身を想起させる老作家を主人公とした長編の刊行を続けた。13年に発表した「晩年様式集(イン・レイト・スタイル)」が最後の小説となった。
    主な受賞歴に、67年「万延元年のフットボール」で谷崎潤一郎賞、73年「洪水はわが魂に及び」で野間文芸賞、83年「新しい人よ眼ざめよ」で大佛次郎賞。77~84年と90~97年に芥川賞選考委員。選考をひとりで行う大江健三郎賞を05年に創設、14年の終了まで国内の気鋭の作家に光をあてた。

    【古井由吉って、どんな人?】
    (1937-2020)(82歳没)
    1937年東京生まれ。東京大学独文科修士課程修了。ロベルト・ムージル、ヘルマン・ブロッホらドイツ文学の翻訳を手がけたのち、1971年「杳子」で芥川賞を受賞。1980年『栖』で日本文学大賞、1983年『槿』で谷崎潤一郎賞、1987年「中山坂」で川端康成文学賞、1990年『仮往生伝試文』で読売文学賞、1997年『白髪の唄』で毎日芸術賞を受賞。『山躁賦』『眉雨』『楽天記』『野川』『辻』『白暗淵』『ゆらぐ玉の緒』『この道』ほか数多の著作を遺して、2020年2月永眠。

    【本書概要】
    聖なるものと優れた小説がともにもつ、明快にして難解な言葉の有り様を語り、鴎外から中上健次まで百年間の名作小説を、実作者の眼で再検証する。また、外国詩を読み、翻訳する喜びを確認し合う傍らで、自らの表現を更新するたび「+1」を切望する、創作時の想いを明かす。日本文学の最前線半世紀を超えて走り続けた小説家が、それぞれの晩年性から文学の過去と未来を遠望する対話集。

    【感想】
    この本を読んで良かった。二人の人間性がこの対談集を読んでいるとよく分かる。大江氏は古井氏のことが、めちゃくちゃ好きなんだと、分かりやす過ぎるほどに、こちらに伝わってくる。また、二人の日本だけではなく世界の文学の知識が半端なく広くて深いのだ。僕のように浅くて狭い人間からすると、読んだことない作家のオンパレードだ。

    この対談集6章からなる章立てだが、第1章がもっとも難解だ。久しぶりに読んでいて、書いてあることが難解過ぎるため、脳をフル活動しないと、とてもじゃないが付いていけない。それもそのはず。二人とも東大卒なのは当たり前として、古井氏はドイツ語の翻訳者として二十代の頃活躍していたし、大江氏は英語とフランス語が堪能だ。なので、古井氏はドイツ文学に造詣が深く、大江氏はフランス文学やアメリカ文学の知識が豊富すぎる。

    ただこの難解な第1章を読んで、ありがたい気づきを得られた。それは、自分が過去読んだ本の中で、もっとも感銘を受けた小説はカラマーゾフの兄弟だ。それも僅差で一位ではなく断トツでトップなのだ。本書の第1章を読むことにより、その理由が明確にわかった。カラマーゾフの兄弟を実際読まれた方はご存知だと思うが、作者であるドストエフスキーの想いや思想を、読み手であるこちらに休むことなく畳みかけてくる。思想がまるでミルフィーユのように、何層にもわたって積み上げられていく。言ってしまえば、形は間違いなく小説なのだが、中身は思想書に感じられる。

    なので元々思想書好きの僕には、ピッタリとハマったのだろう。逆に思想書とか好きじゃない人には、消化不良で食傷気味になってしまうのだろうと思った。この1章を読んでいて、二人の上げる作家がほぼ漏れなく、自分の揺るぎない考え、思想を持っているように思えた。なるほど。だから難解でも興味を持つことができ、なんならリストアップされた作者も読んでみたいと思えたんだろう。

    第2章は、創刊以来「新潮」に掲載された選りすぐりの短編35編をそれぞれ二人が論評するという企画だ。まず企画からして面白い。実はこの2章から最終章に至るまで、1章に比べるとだいぶ肩の力を抜いて楽しんで読める。その中で二人揃って絶賛している本があれば読んでみようと思った。おっ、一人いた。牧野信一氏の「西瓜喰ふ人」だ。自慢じゃないが、作者も作品名も生まれてこの方、ただの一度としてして聞いたことすらない。大江氏いわく、「この短編選の中で最上の作品だと思う」といい、古井氏も「僕もこれが一番です」と返す。すごいじゃん。二人とも意見が違わず「一番」と「最上」と言い切っている。この本は短編だし、調べると青空文庫でも読めるので読んでみようと思った。

    あと読んでいて、古井氏の言葉ですごく納得した言葉がある。「仕事を続けるにもエネルギーがいるけど、仕事をしないでいるのもエネルギーが要るんだ」と。実は人間って、退屈で暇すぎると、ロクなことを考えない。大体においては、ネガティブなことを考えてしまう。なので将来仕事を退職してからも、コツコツ自分一人で完結できる仕事を、マイペースで元気な限り続けることが、いちばん健康的に過ごす秘訣なんじゃないかなぁと思ってきた。定年退職してからボケ始める人が多くなるのも、退屈すぎるのが原因じゃないかなぁと。

    古井氏が小説に関する考え方を明確に答えていた。「僕の分担は、劇が始まる前までだと思っています。小説家はシナリオを書くわけでもないし、ましてや役者として舞台に立つわけではない。芝居の始まる前の雰囲気なり緊張感なりを小説の仕舞いに遺せるかどうか。」また、「とにもかくにも雰囲気や緊張や期待を含めて芝居の始まる前までの現在をあらわせるなら、以って瞑すべしと思っています。」と語っていた。それに対して大江氏は、世界にはいろんな小説家がいるが、一瞬実現する舞台を作り出すために書くのは古井氏だけだという。またはじめはその舞台への積みたての場面をつかみにくいために読者が難渋することもあると。だが最後まで行き着いて、その舞台に乗ると明快なカタルシスがあるように整理されている。それが古井氏の小説なんだと説く。

    この言葉を読んで、ようやく納得感が得れた。要はこれって、小説のエンディングをどう締めくくるのかという考え方だ。大体において難解だと言われる純文学は、エンディングがなぜそこで終わる?と疑問しか残らない作品もけっこうある。それを古井氏は、最後に役者が出てくるところで終わりになるという。古井氏は小説の本来とは何か?を考えたんだそうだ。そして氏は、小説の本来のその直前までを書いて終わるんだと、そういう意識があるんだと。

    そういえば村上春樹氏も言っていた。自分の書いている小説は、純文学だと意識しては書いていない。だが心のどこかで、娯楽小説ではないと幾らかは思っていると。娯楽小説ではないとは、作者が読者に対してある程度の咀嚼力を要求することだと。全部が全部エンディングを書いてしまうのではなく、読者の想像力を求めるんだと言っていた。

    多分その究極系が、古井氏なんだろうと。キーになる登場人物を登場させたら、小説が終わってしまう。読者がそこから後のストーリーをすべて構築していくということか。おそらくその終わり方に慣れるまでは、戸惑うことも多いだろうが、慣れてしまえば、自分の想像力向上には効果は絶大だろうと思った。

    最後に夏目漱石没後100年ということで、それぞれが代表作三作を挙げてくれていた。大江氏は「虞美人草」「こころ」「明暗」の三作。古井氏は、「こころ」「草枕」「道草」の三作および、「夢十夜」と「硝子戸の中」を次点として挙げてくれた。漱石はそろそろ本格的に読んでいこう思っていたので、道標として作品を提示してくれるのは、この上なくありがたい。漱石は今後国内近代小説家で、もっとも力を入れて読んでいきたい作家だ。一番ベタではあるが、誰もがオススメする作家は、やはりそれだけ魅力あふれる作家なのであろう。海外作家で誰もがドストエフスキーを推すように。

    【雑感】
    今回大江氏のことはあまり触れていないが、大江氏の長編小説を読む前に、「大江健三郎、作家自身を語る」(新潮文庫)を読んでから、大江氏の長編を読もうと思っています。その本の感想欄で大江氏のことは、がっつり書こうと思ってます。次は、古井由吉氏の「辻」を読みます。古井氏は初期を除いてほとんどが短編作品ばかりだ。なのでこの作品も短編集だ。元々の購入動機は、平野啓一郎氏の「小説の読み方」で取り上げていた、「半日の花」を読むために購入してすぐに読んだ。読めるのは問題なく読める。ただ感想を纏めるのが難しい。だが本書を読んだので、ある程度は古井氏の小説に対する向き合い方など分かってきたので、再読し感想を書きます。

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    2023年08月13日
  • 山躁賦

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    迷路、しかも靄のたちこめた中を徘徊するような感覚でした。もちろん快楽原則にそくした徘徊なのですが、それは不安を迫り出させる徘徊でもある。一種、ゲシュタルト崩壊をいざなう、この文体が、確固と属していた世界から離解させるような効果を持っているように思いました。かつ、ニヒリスティックな質感を湛えた視点により、二重の意味で不安定化するのだが、それが素晴らしい酩酊であるという、宜しき小説体験でした。そう、素晴らしいです。

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    2023年05月07日
  • 辻

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    辻、という言葉をキーにして彩られた、魔と聖と人の交わる物語たち。まさに辻交うように逢魔や、また光の雑る、そんな成り行きをカットアップしているのですが、勿論、古井由吉文体の美学により、いともカオティックな読書体験に導かれますね。とにかく読んだことのない質感、読んだことのない物語、読んだことのない構成、清新にして混沌として暗黒、暗黒にして至純、端的にものすごく面白かったです。個人的に白眉は、暖かい髭、始まり、白い軒、割符、でしたね。連作が、始まり、で締めくくられているのが良い。それに清らかな終点であって。

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    2023年04月30日
  • 辻

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    古井文学の到達点と感じた。
    内省に内省を重ねてきた後期の作品群から飛躍し、大江や中上文学の様な神話的物語に転換している。近年無かった『槿』の様な濃厚なエロスも彷彿とさせ、作者のパワーがギュッと結晶した作品になってると思う。

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    2022年12月13日
  • 木犀の日 古井由吉自選短篇集

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    要再読。無意識、理不尽さ、発狂、正常と異常、日常と非日常などについて途中から意識しながら読みました。気を抜くと迷子になりそう。登場人物もこの社会の中で迷子になっているように思えました。難しかったけど中毒になる。

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    2022年11月12日
  • 杳子・妻隠

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    “内向の世代”としてどんどん深化していった中期以降の古井由吉とは内容を異にする初期の大名作。
    当時より観察力・透明な筆致は完成しているが、何より表題の『杳子』のひたむきな表現に心が動く。
    他作を同様にお薦めは出来ないが、本書に関しては戦後の必読書と言いたい。

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    2022年10月06日
  • 杳子・妻隠

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    ネタバレ

    (「杳子」)神経症を病む女子大生の杳子は山でS氏と出会い、その後二人の恋愛とも取れるような関係が始まる。S氏は杳子の病気をどうにかしようとするけれど、だんだん彼女の内面的で閉塞的な世界観に引き摺り込まれるようにも思えた。なぜS氏は杳子に惹かれていくのか?精神の奥底で彼女に通じるところがあるからのようにも思える。S氏も杳子自身も杳子の姉も彼女のことを病気だというけれど、みんな同じだし、誰にでもこういう面はあるのではないかな。
    時間をおいてじっくりと再読したい一冊。第64回芥川賞受賞作品。

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    2022年09月10日
  • われもまた天に

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    「われもまた天に」(古井由吉)を読んだ。
    矯めつ眇めつするほどの人生など生きてこなかった私ではあるけれど、還暦を過ぎてから殊更に古井由吉の文章が沁みてくる。

    『ほんとうのことは、それ自体埒もない言葉の、取りとめもないつぶやき返しによってしか、表わせないものなのか。』(本文より)

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    2022年05月07日
  • 槿

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    ふつうの物語としてめちゃめちゃおもしろい、ほとんどの人間が神経症にかかっている、それから解説にもあるけれどホテルのエレベーターをおりてから國子の部屋に向かうまでのながれはぞっとするほどすばらしい。ただ妻子持ちの四十代でこんなんなのか、という所感は否めない。

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    2022年03月06日
  • ゆらぐ玉の緒

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    「ゆらぐ玉の緒」(古井由吉)を読んだ。
    この作品群はひときわ死の影が濃いような気がする。
    しかしまあ古井氏の文章にはいつも唸らされる。
    『春先は病みあがりに似る。』(本文より)
    読む者の想いが時空を超えて彷徨い、辿り着いたそのいつかのどこかの春先の自分に戻り「あゝ!」と腑に落ちる。

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    2022年01月30日
  • ゆらぐ玉の緒

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     2016(平成28)年刊。2020(令和2)年に82歳で亡くなった古井由吉さんの、77-78歳頃に執筆した短編小説集である。やはり古井さんは、日本語の現代芸術小説の最高峰に位置する、孤高の作家であった。
     私が古い文学に出会ったのは高校生の頃で、言葉の鋭利さを研ぎ澄まし、自身の心の内奥のミクロな部分にまで分け入るようなその世界に驚嘆し、何冊も買って読みふけった。特に当時新刊本だった新潮社ハードカバーの『眉雨』(1986《昭和61》年)、今は講談社学芸文庫から出ているらしいが当時は集英社文庫にあった名作『山躁賦』(1982《昭和57》年)は、何度繰り返し読んだか知れない。
     当時たまたま古井さん(当時49歳前後か)がインタビューされたのがTVで放映されたのをVHSビデオに録画した。非常に温和、穏やかで大きな抑揚なく話される方で、その語りには、何度視聴しても強烈に眠くさせられたものだ。すべての者を深い沈黙の眠りへと誘う、凄まじいラリホー、ラリホーマである。この起伏のない穏やかさ、打ち続く主体の語りの濃やかさは、彼の小説世界に通じるものがあったかもしれない。
     ムージルの影響が強いと覚しいその作風は、初期の作品では観念的なところがあったが、次第に明解な大仰な物語性を失し、日本語特有の微妙さを極めにかかって、どちらかというと私小説のような随筆のような、私が永井荷風の作品を分析して「随筆フィールド」と呼んだような場所に入っていった。
     言葉の機能を引き出し、「普通の」コンテクストを乗り越えて内面の前意識/無意識の隅々までもを照らし、彷徨い続けつつ意識化してしまうこの芸術は、まさに現代芸術の粋である。ただし、すべての作品において同じような実験性のスタンスが維持されるため、個々の作品に多彩さは無い。一つ一つが結局同じようなものを目指してゆく武満徹さんの楽曲が、幾つかのアルバムを立て続けに聴くと全部似たような印象に閉じこもってしまうのと同じように、古井さんの一編一編が入魂の、ミクロな探索となっている小説群も、多様さを欠いて、作品相互の差異に驚かされるということは無い。
     社会人となって以降は、古井由吉さんの本はほとんど読んでいなかったが、やがて自らの「老い」を主題化したような方向、さらに私小説めいた方向に進んでいったらしい。
     80歳近い頃に書いた本書の諸編も、いずれも「老い」の通低音が響いている。そして、老人が得てしてそうだとでも言うように、自身の遠い記憶の断片をしきりに蘇らせる。20代の頃、40代の頃、50代の頃と思い出は頻繁に浮上してくるのだが、特に強い記憶であるのか、8歳の頃に経験した、1945年の東京の空襲で燃える街を母親と共に逃げる場面が頻出する。
     老いた現在において、縦横に過去が侵入してくる意識の旅は、時制を自在に混在させる小説世界へと結晶している。

    <八十の坂を這って登りつつある今になり、年の傾きとしては暗鬱な空よりも、穏やかな光のほうへ、死刑台の支度を思わせる薪の音よりも、風も息をひそめた中を降る木の実の音のほうへ、耳を澄ませられるが、さて我が身のことと振り返れば、どんな秋の、どんな年の傾きを、うち眺めてきたものやら。春も知らず秋も知らず、一日の移りも知らず、年を経てきたような気までしてくる。秋も暮れかかる頃と言えば、貧しかった子供の頃の、ひもじさ肌寒さ、身の置きどころもないわびしさが思い出されるが、成人してからも、何かにつけて秋の色を眺めさせられたことはあったはずだ。青年もすでに老いのはじまりである。とりわけ、人を慕うとなると、とかく今の境を超えて遠くを思いがちになり、そこにおのずと老いははじまる。まして中年に深く入れば、日の落ちると同時に、赤い残照の差し返す中で、まがまがしい黒さをふくむ秋の雲に、我が身の内にこそ近頃、いままで知らなかった翳りのときおりひろがるのをひそかにあやしむ。そのまま早い死に至った人もあるだろう。>(「時の刻み」P.88)

     この作品集の文体のありようを例示しようと思い、任意の1節を引用した。
     80年代の作品にはあったエロティシズムや情感の濃密さはむしろ老いの枯れたような乾きに取って代わられており、過去と現在を自在に渡り歩くような言葉のアクロバティックなしぐさがめざましい。
     古井文学は高踏的な現代芸術がそうであるように、「何かを表現するために」具材(言葉)を操るのでは無く、現出してきたそれにその都度改めて向き合い、コンテクストへに埋没すること無く常に覚醒した自己を生成し続けるのだと思う。このことを明かすような1節が、本書の中で見つかった。自作『山躁賦』の海外での翻訳について述懐する件で、こうある。

    <しかし私自身こそ、書きながら読み、読みながら書く者であり、節々で自身半解の文に立ちつくし、よろけかかるままに前へ踏み出す。さらに迷いこむ。原点というものがないので、どこから来てどこへ行くか、知れない。>(「その日暮らし」P.194)

     こうした意識は、私自身が作曲に耽っているときそのままに実感していることだし、現代音楽の作者は基本的にこういう場所にいるのではないか。出てきた言葉、出てきた音にその都度向き合い直し、覚醒しつつ瞬間瞬間の生成を編み出してゆくのである。
     日本語という独特な領域の中で、現代文学の最高の探究の痕跡を残したこの文学は、やはり恐らく未だに比類無く絶後であり、研ぎ澄ました五感の奥まで分け入りつつ、既存のいかなるコンテクストにも依存しようとしない、孤高の芸術といえるだろう。

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    2022年01月09日