島田裕巳のレビュー一覧
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宗教の専門家によるキリスト教、イスラム教、仏教、ユダヤ教を中心とした宗教史。宗教どおしの争いに焦点を当て分析している。勉強にはなったが、結論がはっきりしないように思う。
「経済が発展するということは、新たな経済格差が生まれるということでもある。それまでの生活基盤を失ってしまう人間たちも出てくる。彼らは都市のスラムに住むことを余儀なくされたり、自分たちの境遇に対する不満を募らせていく」p4
「(文明の衝突)今後、危険な衝突が起こるとすれば、それは西欧の倣慢さ、イスラムの不寛容、そして中華文明固有の独断などが相互に作用して起きるだろう(ハンチントン)」p64
「アッラーは、イスラム教を信仰するムスリムたちに、自らを信仰の対象としない多神教徒を皆殺しにするよう命じていることになる」p91
「イスラム教という宗教は、仏教やキリスト教と比較した場合、驚くほど単純であるという側面をもっている」p97
「教団のような組織の存在しないイスラム教では、そもそも律は存在しようがなく、すべては自発的な戒めである。そのために、たとえ豚肉を食べたとしても、それで罰せられることはないのである」p103
「教団が存在しないために、テロの実行犯を特定の教団の人間としてとらえることができず、その結果、イスラム教徒であるという側面が強調されることになる。それによって、イスラム教こそが危険な宗教であるというイメージが拡大していくことになるのである」p106
「(イランのイスラム革命)それまで時代遅れの古い宗教とみなされてきたイスラム教は、一気に現代史の舞台において重要な役割を演じることになった」p117
「一般に、多神教と一神教は対立するものとしてとらえられる。多くの神を同時に祀る多神教は信仰に対して寛容な傾向を示すのに対して、一神教は、唯一絶対の創造神に対する信仰を強調するので、他の信仰を認めず、不寛容な姿勢を示すとされる」p122 -
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祖父の死をきっかけに、葬式について学んでみたいと思った。
本書は、葬式に関する根本的な意義を問い直す。
・葬式仏教
・直葬
・戒名のまやかし
・檀家の意味
・弔いは特権的
・寺の収入
・日本の僧侶の破戒
などについて。
第1章 葬式は贅沢である
第2章 急速に変わりつつある葬式
第3章 日本人の葬式はなぜ贅沢になったのか
第4章 世間体が葬式を贅沢にする
第5章 なぜ死後に戒名を授かるのか
第6章 見栄と名誉
第7章 檀家という贅沢
第8章 日本人の葬式はどこへ向かおうとしているのか
第9章 葬式をしないための方法
第10章 葬式の先にある理想的な死のあり方 -
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信仰とか、神様というものに無縁でした。
でも、日本文化を知る上で「日本人と神」の関係を知ることが大事なのでは?という歴史的観点からこの本を手にしてみました。
これまでは日本人は「無神教」「多神教」というイメージでひとくくりにしていましたが、それはあくまでも現代の話。昔は、日本独自の宗教観というものがちゃんと存在していました。
その中でも「一神教」と「多神教」の違いについて言及してあるところが印象的でした。
日本の神は「神社」や「寺」という『場所』に依存した神様。だから、その場所に行かないと拝むことができないし、その場所を離れて瞬間に忘れてしまう。
一方、キリスト教やイスラム教などの「一神教」は場所には依存せず、自分が必要と思った瞬間に神を思い出して、祈ることができるという特徴があるそうです。
こういう視点で、神というものを捉えてみると奥深いものがありますね。と、これはあくまでも一例!多面的に神という存在を捉えられる一冊です!(この流れから、天皇について興味が沸き、「古事記」と「日本書紀」に少し手を出してみることに。笑) -
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年老いた親を介護するため、職を失い、人生を失い、あげく介護殺人まで起きるニッポン高齢化社会。もはや、本書のタイトル通り「もう親を捨てるしかない」のかもしれない。
とはいえ、著者は老人を処分せよと、現代の姥捨山を作れとSFのようなことを提案しているのではない。精神的に子は親を捨て、親は子を捨てることを勧めている。親も子も互いが身軽な状態でそれぞれの道を歩もうというのが著者の主張。
介護によって、する側とされる側の両者が不幸になる前に親離れ、子離れを実現させておく。その上で、老いた親はとっとと死ぬことを頭に入れつつ、子に期待しない。冷酷なようだが、家族も故郷も弱ってしまった現代では現実的な選択かもしれない。 -
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ああ、また奈良に行きたい。
と、しみじみと思った一冊でした。
そういう意味では、どんな旅行雑誌よりも、CMよりも強力でした。
神社仏閣に行くのが割と好きなので。
JRさんとか、こういう本をバラまいたら良いのではなかろうか。訴求力を持つ対象が少数派過ぎるかも知れませんが。
中宮寺の半跏思惟像とか、良かったなあ。
神社仏閣が好きといっても、そんなに強烈なフェチな訳でもなく。(多分)
「棒瓦ってカッコいいなあ」とか。そういうレベルで。
建築とか美術について、(少なくとも僕よりも)知識のある人は、もっと楽しめるのでしょうけど。
僕としては、自分勝手なレベルで観賞して楽しんでいるだけです。
(ただまあ、「歴史好き」っていうことも大いに関連があるとは思います)
普段が文字通りコンクリートとインターネットに囲まれて暮らしていますから、
休日に行くのなら、公園とかの方がほっとするのか。
大きめの寺社仏閣は、当然ながら自然も多くて、公園みたいなものですからね。
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あ、それから、この本で島田さんも触れていますが、和辻哲郎さんの「古寺巡礼」(1919)を、読んでみたくなりました。
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島田裕己さんの本をいちばん初めに読んだのは多分、「映画は父を殺すためにある」(2012ちくま文庫)だと思います。
その後、ちょぼちょぼと折りに触れて読んでいました。
1953生まれなので、2016年現在63歳くらいのはず。
検索してみると、東大を出た宗教学者さんだったのですね。
1990年代前半に、すごく大まかに言うと「オウム真理教っていうのも、そんなに悪くないんじゃない?犯罪組織ぢゃないと思うよ」的な意見を、それなりにマスコミにも発表していて。
95年の地下鉄サリン事件以降に、大きなバッシングを受けてしまったようですね。
ネットで見える履歴から推測すると、97年に大学教授の職を辞しておられて、以降、どうやら「大学の正社員としての学者」という地平線とは、ご縁が無いようです。今も学者としての肩書は「非常勤講師」になっていますね。あくまでネットでは、ですが。
そして、それが理由、と勝手に断じるのは大変に失礼なことですが。
ともあれ硬軟多数、というよりは一般向けのやわらかめの本を多く世に出してらっしゃいます。ベストセラーも。
「宗教学」という三文字が学問的な専門分野なんでしょうが、映画とか、性格判断とか、お葬式についてとか、多岐に渡る著作を展開。
何冊か読んだ限りでは、語り口が面白いし、柔らかすぎない。アカデミックな地盤を持っている作家さんとして、堂々たる仕事ぶりだと思います。
鹿島茂さん、野崎歓さん、内田樹さん、といった方々と並んで、
「題材によっては、こっちのその時の気分によっては、まあ、だいたい何を読んでも大外れはない」と思っています。
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その島田さんの語る、文字通り「仏像鑑賞入門」。
いくつかの章に分かれていますが、何といっても「奈良の仏像がやっぱりいちばん素敵だよね」という部分が、胸キュンでした。
個人的に、以前に5年間、大阪で暮したことがあって。
休みの日には、連れ合いと気軽に京都に行ったり神戸に行ったり楽しませてもらいました。
奈良も飛鳥も何度も行って、この本に取り上げられている仏像も随分、見物して楽しみました。
けれどもこの本を読んでいると、
「ああ、もう一度行きたいなあ」
「ああ、これ見てなかったなあ」
「あの頃にこの本と出会えていたら、もっと楽しめたのになあ」
ため息。
まあでも、今後、「二度目の~」「三度目の~」という楽しみ方をまた出来る機会もあるだろう、と、前向きに。
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手塚治虫さん「火の鳥・鳳凰編」とか合わせて読むと面白いかもですね。
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以下の章に分かれています。備忘録も兼ねて。
「そもそも仏像とはなんなのか」
仏教の起源、偶像崇拝としての仏教、インドでの衰退とか、中国での混乱とか。
日本は、まあ、言ってみればファッションとしての仏教を輸入して独自化して楽しんでいる部分があるので、気楽でいいな、と思います。
その分、時代のブームとしての仏教熱というのがもう完全にイデオロギーではなくて美術としての仏像に。
如来、菩薩、天、王、とかいろいろ階級というか役割もありますね。(あまりそこには、「知識」以上の興味は感じませんが...)
「奈良で浴びるように仏像を見る」
この本の白眉。個人的には。
奈良時代というのが、「国家規模で湯水のように金を使って仏像というアートを作った」みたいな時期なんですね。
まあ、色々あるけど、色々見て回った結果として、奈良の仏像がいちばんええなあ、というお話。
「大仏はどうやって作られたのか」
大仏に限らず、「モノとしての仏像はどうやって作られているのか」という話。
これはこれで、造形美術の技術に全く予備知識のない読み手としては、若干ピンと来ないけど面白かった。
当然、時代によって、予算によって、技術の進歩によって変わってくる。
「秘仏って何だ」
滅多に、あるいは絶対に開陳しない、秘仏。絶対に見せないのであればいったいなんやねん、とは思うけれどそれはさておいて。
大まかに言うと、「神秘性を高めて、興行時にもうかるためのイベント仕掛け」である、というお話(笑)。
「鎌倉時代の仏像ルネッサンス」
鎌倉時代、というのが、初めて国家運営というのが「貴族」「近畿地方」っていう文化?から解放された時代で。
その分だけ、「伝統」とか「格式」とか「奥ゆかしさ」とか、そういった言葉から脱皮した、リアリズムだったり力強さだったり、そういう文化とか美術が流行った。
一方で鎌倉仏教=禅、というのは、仏教の美術離れ=仏像離れ、を招いたりも。
この時代の、官営の仏像制作に関わった、まあ、いってみれば制作会社のアーティスト、運慶、快慶ら。
「仏像は円空、木喰に極まるのか」
で、室町以降は、禅も流行るし、古代のようにアホみたいな予算投入して仏像=権威を美術的に見せつける、という時代でもなくなったようで。
もっと低予算で渋いものは作られているけど、どうしても「クラシックな名作の模倣」になって、アートとして衰退。
なんだけど、低予算を逆手にとった、ヌーヴェルヴァーグというか、パンクというか、そういう仏像としての円空、木喰。
あんまり見たことないけど、割と好きです。円空の仏像。この先の楽しみ。
「仏像は博物館で見るものなのか」
新書という本はどうしてどれもこれも、と思うくらいに高確率で、後半から終盤1/3くらいは、内容が薄くてツマラナイ。
で、この本も大勢としてはご多分に洩れず、このあたりからパワーダウンしていることは否めません。
まあ、色々データはあるけれど、近代の仏像についてはまあ、それなりだよね。という。
「これだけは見ておきたい究極の仏像たち」
これは、その通りの内容で。
こういうのは、電子書籍で持ってるとありがたいなあ、と思います。
いつでもどこでも、あ、あの本に書いてあったな、と思ったら読める訳だから。
実はこの「本の持ち歩き方」の革命は、すごいことだと思います。
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しかしどうしてこう、新書っていうのは後半がツマラナイのだろうか。
だいたいが、ある知識なり、ある考え方なりが面白い、という話が多いから、200ページとかも語る内容が無い…ということだとしか思えない。
だったら100ページの薄い本にしてでも、値段を2割くらいでも下げれば良いのに…。
(「新書は後半がツマラナイ現象」については、この本は、よっぽどマシな方だったと思います) -
Posted by ブクログ
日本には多くの神様がいることは認識していたが,こんな沢山とは知らなかった.天照大神,八幡大菩薩が二大神様の由.外来の仏教と土着の神道が明治以前は神仏習合という形で融合されてきたが,明治になって神仏分離,廃仏毀釈が起こっている.明治天皇が1869年に伊勢神宮を参拝しているが,それまで天皇は参拝しておらず,記録が残るのは692年の持統天皇.これは明治政府が神道を国家宗教に祭り上げるために行ったようだ.個人を祀ることも菅原道真以降事例が多いが,一般の神社の場合,誰が祀られているかはほとんど知らないし,関知しないようだ.また神社の伝統と称するものが,意外に新しいものであることも随所に記載してある.日本の伝統を...とのたまう人はその辺りを本当に知っているのかな
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