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Posted by ブクログ
ああ、また奈良に行きたい。
と、しみじみと思った一冊でした。
そういう意味では、どんな旅行雑誌よりも、CMよりも強力でした。
神社仏閣に行くのが割と好きなので。
JRさんとか、こういう本をバラまいたら良いのではなかろうか。訴求力を持つ対象が少数派過ぎるかも知れませんが。
中宮寺の半跏思惟像とか、良かったなあ。
神社仏閣が好きといっても、そんなに強烈なフェチな訳でもなく。(多分)
「棒瓦ってカッコいいなあ」とか。そういうレベルで。
建築とか美術について、(少なくとも僕よりも)知識のある人は、もっと楽しめるのでしょうけど。
僕としては、自分勝手なレベルで観賞して楽しんでいるだけです。
(ただまあ、「歴史好き」っていうことも大いに関連があるとは思います)
普段が文字通りコンクリートとインターネットに囲まれて暮らしていますから、
休日に行くのなら、公園とかの方がほっとするのか。
大きめの寺社仏閣は、当然ながら自然も多くて、公園みたいなものですからね。
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あ、それから、この本で島田さんも触れていますが、和辻哲郎さんの「古寺巡礼」(1919)を、読んでみたくなりました。
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島田裕己さんの本をいちばん初めに読んだのは多分、「映画は父を殺すためにある」(2012ちくま文庫)だと思います。
その後、ちょぼちょぼと折りに触れて読んでいました。
1953生まれなので、2016年現在63歳くらいのはず。
検索してみると、東大を出た宗教学者さんだったのですね。
1990年代前半に、すごく大まかに言うと「オウム真理教っていうのも、そんなに悪くないんじゃない?犯罪組織ぢゃないと思うよ」的な意見を、それなりにマスコミにも発表していて。
95年の地下鉄サリン事件以降に、大きなバッシングを受けてしまったようですね。
ネットで見える履歴から推測すると、97年に大学教授の職を辞しておられて、以降、どうやら「大学の正社員としての学者」という地平線とは、ご縁が無いようです。今も学者としての肩書は「非常勤講師」になっていますね。あくまでネットでは、ですが。
そして、それが理由、と勝手に断じるのは大変に失礼なことですが。
ともあれ硬軟多数、というよりは一般向けのやわらかめの本を多く世に出してらっしゃいます。ベストセラーも。
「宗教学」という三文字が学問的な専門分野なんでしょうが、映画とか、性格判断とか、お葬式についてとか、多岐に渡る著作を展開。
何冊か読んだ限りでは、語り口が面白いし、柔らかすぎない。アカデミックな地盤を持っている作家さんとして、堂々たる仕事ぶりだと思います。
鹿島茂さん、野崎歓さん、内田樹さん、といった方々と並んで、
「題材によっては、こっちのその時の気分によっては、まあ、だいたい何を読んでも大外れはない」と思っています。
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その島田さんの語る、文字通り「仏像鑑賞入門」。
いくつかの章に分かれていますが、何といっても「奈良の仏像がやっぱりいちばん素敵だよね」という部分が、胸キュンでした。
個人的に、以前に5年間、大阪で暮したことがあって。
休みの日には、連れ合いと気軽に京都に行ったり神戸に行ったり楽しませてもらいました。
奈良も飛鳥も何度も行って、この本に取り上げられている仏像も随分、見物して楽しみました。
けれどもこの本を読んでいると、
「ああ、もう一度行きたいなあ」
「ああ、これ見てなかったなあ」
「あの頃にこの本と出会えていたら、もっと楽しめたのになあ」
ため息。
まあでも、今後、「二度目の~」「三度目の~」という楽しみ方をまた出来る機会もあるだろう、と、前向きに。
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手塚治虫さん「火の鳥・鳳凰編」とか合わせて読むと面白いかもですね。
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以下の章に分かれています。備忘録も兼ねて。
「そもそも仏像とはなんなのか」
仏教の起源、偶像崇拝としての仏教、インドでの衰退とか、中国での混乱とか。
日本は、まあ、言ってみればファッションとしての仏教を輸入して独自化して楽しんでいる部分があるので、気楽でいいな、と思います。
その分、時代のブームとしての仏教熱というのがもう完全にイデオロギーではなくて美術としての仏像に。
如来、菩薩、天、王、とかいろいろ階級というか役割もありますね。(あまりそこには、「知識」以上の興味は感じませんが...)
「奈良で浴びるように仏像を見る」
この本の白眉。個人的には。
奈良時代というのが、「国家規模で湯水のように金を使って仏像というアートを作った」みたいな時期なんですね。
まあ、色々あるけど、色々見て回った結果として、奈良の仏像がいちばんええなあ、というお話。
「大仏はどうやって作られたのか」
大仏に限らず、「モノとしての仏像はどうやって作られているのか」という話。
これはこれで、造形美術の技術に全く予備知識のない読み手としては、若干ピンと来ないけど面白かった。
当然、時代によって、予算によって、技術の進歩によって変わってくる。
「秘仏って何だ」
滅多に、あるいは絶対に開陳しない、秘仏。絶対に見せないのであればいったいなんやねん、とは思うけれどそれはさておいて。
大まかに言うと、「神秘性を高めて、興行時にもうかるためのイベント仕掛け」である、というお話(笑)。
「鎌倉時代の仏像ルネッサンス」
鎌倉時代、というのが、初めて国家運営というのが「貴族」「近畿地方」っていう文化?から解放された時代で。
その分だけ、「伝統」とか「格式」とか「奥ゆかしさ」とか、そういった言葉から脱皮した、リアリズムだったり力強さだったり、そういう文化とか美術が流行った。
一方で鎌倉仏教=禅、というのは、仏教の美術離れ=仏像離れ、を招いたりも。
この時代の、官営の仏像制作に関わった、まあ、いってみれば制作会社のアーティスト、運慶、快慶ら。
「仏像は円空、木喰に極まるのか」
で、室町以降は、禅も流行るし、古代のようにアホみたいな予算投入して仏像=権威を美術的に見せつける、という時代でもなくなったようで。
もっと低予算で渋いものは作られているけど、どうしても「クラシックな名作の模倣」になって、アートとして衰退。
なんだけど、低予算を逆手にとった、ヌーヴェルヴァーグというか、パンクというか、そういう仏像としての円空、木喰。
あんまり見たことないけど、割と好きです。円空の仏像。この先の楽しみ。
「仏像は博物館で見るものなのか」
新書という本はどうしてどれもこれも、と思うくらいに高確率で、後半から終盤1/3くらいは、内容が薄くてツマラナイ。
で、この本も大勢としてはご多分に洩れず、このあたりからパワーダウンしていることは否めません。
まあ、色々データはあるけれど、近代の仏像についてはまあ、それなりだよね。という。
「これだけは見ておきたい究極の仏像たち」
これは、その通りの内容で。
こういうのは、電子書籍で持ってるとありがたいなあ、と思います。
いつでもどこでも、あ、あの本に書いてあったな、と思ったら読める訳だから。
実はこの「本の持ち歩き方」の革命は、すごいことだと思います。
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しかしどうしてこう、新書っていうのは後半がツマラナイのだろうか。
だいたいが、ある知識なり、ある考え方なりが面白い、という話が多いから、200ページとかも語る内容が無い…ということだとしか思えない。
だったら100ページの薄い本にしてでも、値段を2割くらいでも下げれば良いのに…。
(「新書は後半がツマラナイ現象」については、この本は、よっぽどマシな方だったと思います)