島田裕巳のレビュー一覧
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宗教学者が日本の8ヵ所の「聖地」と呼ばれる場所についてその歴史やしきたり、現代の立ち位置などを解説している。
比較的近代に創設された天理教本部のような場所から、神話の時代にまで由来が遡る沖ノ島など歴史の深さも様々。現代でも宗教上の重要な拠点だったり、パワースポットと呼ばれて観光客を呼び込む場所もあり、訪れる人たちの目的もまた多様化している。
各地にあるしきたりや「封印」、伝統行事は誰がいつ、どのようにして決めたのだろうと思う。後の世の人達に不要と判断されればなくなってしまうものが今でも続いているのには、それだけ人々を惹き付ける物があるからだろう。 -
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宗教対立、と一言で括ってしまうことの危険性を説いた本だと感じました。
宗教というと、どうしても、どこかスピリチュアルなものだ〜と距離を置いてしまうというか……また、信仰というものの強さと頑なさを知っているからこそ、思考停止になってしまっていた面もあったのだなと実感させられました。
時代に即して利用されたり、隠れ蓑にされたり、拠り所にされたりしてきている宗教。姿形を変えながら歴史に現れている宗教を、単純に理解しようとしてはいけない。でも、理解し切ろうとするとあらゆる分野の知識が要るからメチャメチャ難しい……!というもやもや。
タイトルで、「わかる」と「かわる」の対比なのは何故なんだろうと考えていたのですが、(かわる、はわかる、の誤記とまで思ってしまってた)読み終わってなるほど……となりました。
世界史の見方が変わる!!分かった気になってたよね?とメッチャ揺さぶられます…… -
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基本的に格上の神社とは、古事記·日本書紀に登場する神社。
本書に掲載される神社とその祭神は、
伊勢神宮 アマテラス
氷川神社、八坂神社 スサノオ
出雲大社 オオクニヌシ
大神神社 オオモノヌシ
浅間神社 コノハナサクヤビメ
宗像大社 宗像三女神
神社の形態の第1段階は、磐座などで祭祀を行っていた。第2段階では、磐座が鎮座する神体山が信仰の対象となる。大神神社では三輪山、伊勢神宮では朝熊山がそれにあたる。第3段階になると、神体山の前に、俗界と区別するために鳥居が建てられる。第4段階で拝殿を建てられ、最後の第5段階で本殿が建てられる。
との変遷があるようだ。
何気に訪れる神社に、このような歴史や背景があることを知っていると、また見方が新鮮になる。
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宗教はどこからどのようにして生まれてくるのか。特定の人の内面からある日突然発生(降臨)することもあるだろうし、周りで生活する人々の状況が後押しする事で成長していく。生まれも育ちもそれぞれだと感じるが、何かしらの悪意に近い意図を持って近づくこともできてしまう。
本来的な宗教が生まれた意味を教義として実践している間は理解できる(破壊活動など人を傷つける行為は理解しない)が、その道を外してしまった時、仮に心が縛られてしまった人たちが抑えられない力になってしまう危険性を感じた。
近年騒がれる団体だけでなく、どの様な歴史背景から様々な団体が生まれてきたか、わかりやすく書かれていた。
票の獲得や就職に利用するようなものは、見方によっては既に宗教とは呼べないのではないか。単なる政治団体、就職支援団体、集金団体と、他の呼称が妥当だと感じた。
だが一方でそれに救われ、自己実現できる人々の信仰心は尊重されるべきと感じる。 -
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簡素化、消滅へと進む葬式のこれまでとこれからについてエッセイのような感じで解説。
今のような仏教式の葬式の原型は曹洞宗の葬式で、それは儒教の影響を受け、教団を経済的に支えるというビジネス的な背景のあるものだったということなど、葬式についてこれまで知らなかった知識や最近の流れをいろいろ知ることができた。
個人的には、高額な戒名や故人と直接関係のない人を大勢呼ぶような大規模な葬式はいかがなものかとは思うが、遺族として気持ちを整理する、故人との別れの場として、従来の仏教式の葬式も悪くないと思っているので、葬式消滅に向かう流れには、一抹の寂しさを感じる。 -
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島田裕巳(1953年~)氏は、東大文学部卒、東大大学院人文科学研究科博士課程満期退学、放送教育開発センター(現・メディア教育開発センター)助教授、日本女子大学教授、東大先端科学技術研究センター特任研究員等を経て、東京女子大学非常勤講師。宗教学者として、宗教に関連する一般向け書籍を多数執筆。
私は新書を含むノンフィクションを好んで読み、興味のある新刊はその時点で入手するようにしているが、今般、過去に評判になった新書で未読のものを、新・古書店でまとめて入手して読んでおり、本書はその中の一冊である。
章立て及び内容は以下の通り。序章:「無宗教」は恥ではない!、第1章:日本人は本当に「無宗教」と思っているのか?、第2章:日本人はなぜ「無宗教」なのか?、第3章:日本人はどうやって「無宗教」に至ったのか?、第4章:日本人はなぜ「無」に惹かれるのか?、第5章:「無宗教」は世界で大きな価値がある、第6章:世界の宗教も実は「無宗教」である、第7章:「無宗教」が世界を救う、補章:JUniverse(ジュニヴァース)の未来
本書において著者が最も言いたかったことは、日本人はこれまで、自らを「無宗教」であると言うときに、コンプレックスや引け目を感じることが多かったが、20世紀の終わり頃から、世界各地で様々な宗教の原理主義化が進み、対立や抗争を繰り返して、世界平和を脅かすようになり(サミュエル・ハンチントンのいう所謂「文明の衝突」が現実化した)、そうした中で、日本人の無宗教であるが故の排他性の無さは極めて貴重で、世界平和のために大いに役立つものである、ということで、この主張については同感である。
また、著者は、複数の宗教間で教義が異なるからといって、自動的に対立や抗争が起こるわけではなく、何らかの形でお互いの利害を犯すようにならなければ、暴力的な宗教対立に発展することはない、とも言っているが、これについても基本的に同意する。私の考えでは、現代において、多くの場合のきっかけとなるのは(経済)格差である。
一方、著者は、日本人が「無宗教」であるという結論を導くために、「無神論」、「多神教」の概念や、神道、仏教、神仏習合、新宗教、等々にも話が及ぶのだが、個々の解釈・説明においては、結論ありきの我田引水的な部分もあり、腑に落ちないところがあったのは残念である。
翻って2022年時点の世界を見ると(本書の出版は2009年)、米中対立の激化とロシアのウクライナ侵攻が、世界に大きな影響を与えており、これらが宗教対立によると言えるかはわからないが(前者は西方キリスト教と中華思想の宗教的対立と言えるかも知れない)、一方で、キリスト教世界とイスラム教世界の対立は依然続いており、著者の提起したテーマの重要性は変わらない。
そうした中で、我々日本人には何ができるのか。。。私の考えでは、宗教に端を発する問題の最大のポイントは、排他的な一神教同士の対立にあるので、我々日本人が「無宗教」であろうと、「無神論」であろうと、「多神教」であろうと、自分たちの心の安寧を得ることはできても、世界各地の対立を収めることは難しい。
著者は本書を次のように結んでいるが、その意味は深い。
「日本人は、今、無宗教であることの幸福を認識し、そこから次のステップを踏み出していかなければならない。世界は果てしなく広がっている。それを限定されたものとしてとらえるほど愚かなことはない。無宗教は、信仰の対象ではない。それは世界そのものであり、私のなかにも広がっている。可能性はそこにしかないとも言える。まだ、無宗教についての考察ははじまったばかりなのである。」
(2022年10月了)
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