島田裕巳のレビュー一覧
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富岡八幡宮で起きた宮司殺害事件を導入部分に置き、神社経営の実態や神社間の格差の問題、そして、神社本庁を中心とする神社神道の体系の問題点にまで問題を掘り下げていく。神社神道は日本の伝統的宗教と思っていたが、実は、明治維新を境にして大きく変容したというか、それ以降に創られてきたものであるらしい。そして戦後、戦前の国家神道への回帰を目指す神社本庁の戦略は民心と離れ、政教分離の原則が根付いた現在は、もはや絵に描いた餅に過ぎない。そんな歴史も含め、神社への人々の自然な信仰さへ薄れ、まさに崩壊の危機に立っているのではないかという著者の訴えは現実味を増している。
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ここで扱われている10大宗教とは、以下の通り。
01 天理教
02 大本
03 生長の家
04 天照皇大神宮教と璽宇
05 立正佼成会と霊友会
06 創価学会
07 世界救世教、神慈秀明会と真光系教団
08 PL教団
09 真如苑
10 GLA
漢字変換が大変。
それはともかく、「大本」教について書かれた「大地の母」という小説は、とんでもないものらしい。著者によると、
「そこでくり広げられている物語は、想像を絶するもので、物語のあまりにもドラマチックな展開に、私は全十二巻を一気に読み終えた。『邪宗門』よりもその内容ははるかに強烈で、圧倒的だった。…全編を通して繰り返されるのは、神話的なドラマであり、初代教祖である出口なおと王仁三郎の神憑りであり、二人に降った神同士の対立と抗争である。そこでは、当たり前のように奇跡的な出来事が起こり、時間さえも逆戻りしたりするのである」(p54)
小説の作者は登場人物の出口王仁三郎の孫にあたる人で、すべて事実にもとづいていると述べているらしい。これは面白そうだ。そのうち読んでみるかもしれない。 -
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記紀神話に登場する神は367柱。その他、神仏習合で出てきたり、廃仏毀釈、神仏分離で勧請したりで、新たに生まれたり、中世から近代になると故人が神に昇華する、と。乃木神社の乃木希典のような軍神だったり。
寺については、学問が絡むので、書物など歴史を紐解くものが残っているが、神社については、歴史書はとても稀有だ。
しかし、八幡様は元々、韓国の神だったのか。神様分けたり移したりってのは知っていたが、八幡様を戦時中に軍神として崇めていたのは既知だが、よもや朝鮮半島からだったとは。
渡来人から諸々入ってきたから当然ちゃ当然だけども。
日本人が、各国の文化を何でも咀嚼してものにするってのは、太古から変わらないんですね。
しかし、神様ってのは洗顔したり息吐くだけで、新しい神が生まれるんだから大したもんだ。少子化なんて何のそのだな。伊弉諾命が左目洗うと天照大御神が生まれて、右目を洗うと月読命が、んでもって天照大御神が息を吐くと宗像三女神が誕生だ。
忙しいったらありゃしない。
神々の由来や言われについて、興味を持てる一冊でした。ただ、やはり神の名前が覚えられないな。 -
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タイトルは下世話な砕けたものだが、内容はかなり専門的な部分まで突っ込んだ真面目な本です。
京都は千年の歴史の積み重ねがある。それは散歩がそのまま歴史探訪となるということにも繋がる至福の街でもある。
「京都がなぜいちばんなのか」というより、どうやって京都は今の京都になったのかを探る歴史書であり案内書であり、京都の神社仏閣の中でも代表的な伏見稲荷神社、八坂神社、清水寺、苔寺(西芳寺)、金閣寺、銀閣寺、平等院などの歴史を細かく辿っている。
特に、京都第一の名所である金閣寺(鹿苑寺)に関しては、執拗なほどページを割いていて、消失前の金閣寺と今の金閣寺の違いを述べている。
具体的には消失前の金閣寺に比して、再建された金閣寺には、消失前には金箔が貼られていなかった箇所にまでキンキラキンに金箔が貼られている謎を追う。
全焼により国宝の指定が解除され、比較的自由な発想の元に現在の金閣寺が出来上がったのではと推測する。
悪く言えば成金趣味だが、見方を変えれば、もし再建前の建物であれば、金閣寺は果たして京都のシンボルになり得ただろうかと結ぶ。
京都の歴史の細部にまで興味のある方には、お勧めの本ですが、観光都市京都にしか興味のない方にはお勧めできません。 -
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内容が内容だけに、冒頭の断りに30頁近く割いている。
新興宗教というと、ネガティヴなイメージが付くため、本書では新宗教と記されている。
さて、新宗教と見聞きするとオウム真理教が思い浮かぶ。宗教やカルトの範疇を超え、テロである。その他、ライフスペースなんてのもありました。シャクティパッドという、頭をパチパチ叩いて、数百万の祈祷料だかお布施だか名目は知らんがお支払。
法の華なんてのもありました。教祖の「最高ですかー!」に帰依する門徒の「最高でーす!」のコールアンドレスポンス。
パナウェーブ研究所なるものもありましたね。白装束の彼ら。一時、メディアを騒がせました。白いワゴンで跋扈し、全身白づくめで、毒電波がどうたらこうたら。
長い歴史の中で見れば、キリスト教もユダヤ教時代から見れば新宗教、仏教だって、元はインドのバラモン教である。
昨今、世界でウェイウェイしてるイスラムもキリスト教、仏教の後発だ。
宗教。信仰は自由だと思う。心のよすがに、何を拝もうと、いくら金銭を払おうと、どんな格好をしようと。各々の自由だと思う。
自分の信仰に原理主義者であっても構わんと思う。
が、しかし。そこに排他主義や排斥思想が入ってくると、ややこしい。
自分の信じる信仰を皆に共有したい気持ちも分かる。が、しかしだ。貴方が信じるように、その誰かも何かを信じているやもしれん。
布教ってのが、実に厄介だな。
その点、八百万の神的な観念は争いを生みづらいようにも思う。それこそ、便所にも神様がいるってやつね。
宗教上の理由から、医療を拒む方々もいるらしい。自ら判断が出来ない幼子が事故に遭い、救急搬送され、運ばれた先の医師たちは人命優先で医療を施す。すると、後日その両親が病院側へ訴訟を起こすこともあるそうだ。
今日も日が昇り、一所懸命働いて、美味い酒を飲む。そんな日々にありがてー、と思う俺は、イエス生誕の日にはなんとなく、イルミネーションが綺麗だなと思い、年始には神社に詣でて、親戚の葬式は仏式で、何でもありのマルチなよくある日本人です。
人様に無理強いはしてはいけません。
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「なぜ八幡神社が日本でいちばん多いのか」幻冬舎新書 2013年 島田裕巳さん。
軽いタッチで書かれた読み易い本です。新書ですものね。
宗教学者の島田裕巳さんの本は、寺社巡りが好きなので時折愉しく読ませて貰っています。これは、八幡神社とか、諏訪神社とか、そういう「どこにでもある身近な神社」がそれぞれどういう謂われがあるか、というのをまとめた読み物です。
こういうの、電子書籍で持っておくと、どこでもいつでも読めるし検索も出来て便利です。
細かい情報は備忘するにも煩雑すぎるので、ここに書きませんが。読み終えて、どの神社の歴史も、「伝説レベルの歴史」と「証拠が残っている歴史」とを突き合わせてみると、「仏教伝来と明治維新」というものに翻弄されているなあ、と思いました。
神社はつまり神道です。神道っていうのは、まあ、宗教なんですが、「原始宗教」なんですね。つまり、むちゃくちゃです。適当です。
「キリスト教」「イスラム教」などと比べると、なんて素敵にどうでもいいんです。同レベルに論じるのは、照れちゃいますね。マイルス・デイビスとか、小澤征爾と、「うちの中学校の音楽の先生は歌が上手い」とかを同列に並べるようなものです。メッシ、ロナウド、イブラヒモビッチを論じているのに、「うちの村のサッカークラブのエースも負けてない」とか言えませんよね。
(善悪とか、だから素敵ではないというつもりは毛頭ないのです。好みはそれぞれだし。ただ、スケールが違うことは事実です。けれど、地元民としてはだから神社って面白い、と思います)
奈良の大神神社がそうなんですが、つまりは「山」とか「河」とか「太陽」とかを拝んでただけなんですね。
ただ問題は、この原始宗教を「権威」にして、権力が成立しちゃってたんです。古代天皇家、大和朝廷ですね。
そこに、外国から「仏教」が入ってきます。
これに、ヤマトの権力者たちは度胆を抜かれる訳です。
と言っても、むつかしい教義とか学問に、ではありません。仏教は、建築とか仏像とか錬金とか、そういうビジュアルに触覚で誰にでも分かる超絶な技術と共にやってきたんですね。
恐らく大和朝廷なり古代権力の中の多くの人々が、外国からの帰化人、あるいはその子孫だったんです。今風に例えて言うと、権力の中枢を握る人はほぼみんな、アメリカの大学で経営を学んでMBAだったりする訳です。
そうなると、アメリカの流行、アメリカのモラル、価値観に一目置くのは当たり前。そして、アメリカから「いまどき、これが当たり前ですよ」って来たのが「仏教」。
まずは仏像とか建築とかそういうレベルで度胆を抜かれるし。語ってみれば、仏教の世界観はなんだかすごい。
ヤマトとしても、「やっぱり、うん、俺たちもそりゃ仏教だ」となるんです。
そこで困っちゃうのが、でもこれまでは「山の神」とかなんとか原始宗教でやってきたんですね。ここと世界観が矛盾しちゃう。
それで仕方ないから、「いや、俺たちの神様っていうのも、実は仏教の仏様の親戚だったわけよ」ということにしちゃうんです。これが、愉快なくらい笑えます。
しかも、ここのところで論理的に突きつめて考えると、ぶっちゃけ「いやそりゃ、仏教の方が上ですよ。グローバルですから。うちはほら、仏教の日本支店が神道っていうかなんていうか...」という感じなんですね。かわいい。
それからずーっと、神社っていうのは、お寺と喧嘩しないんですね。というか、日本では、神社とお寺は表裏一体、かならず同居してたみたいなものなんです。
今でもかなりあちこちにありますけれど、大きな寺の中に小さな神社があったりします。逆も。
という、実にめちゃくちゃで適当な時代が長かったんですが、明治維新が起こります。
薩長などの力のある勢力が、「今のままの仕組みでは、日本は植民地になっちゃうぜ」という生理的な危機感から、徳川幕府を倒すんですが、このときに、「おみこし」として「天皇家」が担がれる訳です。
そして、明治新政府が出来てから、「えっと、西欧風の国民国家っていうのはどういうふうに作ればいいんだっけ?」と頭を抱えます。
このときに、「やっぱり天皇家っていうのをもっと権威付けしよう。すごく尊い感じに祀り上げて、これで国民全体を一体化させよう」ということになるんです。若い明治天皇自身がざっくばらんに参加して「天皇家のイメージとスタイル」について議論したそうです(笑)。
そして、「天皇ってほら、神道だからさ、神道優遇しよう」ということになります。
これが行政にブレイクダウンされていくときに、かなりヒステリックな「仏教は絶滅させろ!」という「赤狩り的な運動」に、数年の間なってしまうんです。
このときに、寺と神社がくっついているような施設は、全国的に大幅な改訂を強いられます。更には、立派な寺が打ち壊されたり。
(なんだけど、不徹底に終わったんですね。地域の現場の末端で、ヒステリックになりつつも、「いやあ、壊すのも勿体なかろう」「まあええんちゃうか」という妥協が多かったようです。このいい加減さ、すばらしいぞ、日本)
というわけで、今残っている神社をちゃんと見て資料を漁っていくと。どの神社も、明治維新(廃仏毀釈)の段階で相当な変化を受けている、というのが判ります。もっと言うと、それ以前は何かしらか寺とべったりくっついていたことが多いんですね。
更に伝説レベルの物語も、「もともとの地元チックな伝説」と、「仏教伝来以降に、割と強引に仏教由来に変化した伝説」とが混在していることが多い。それがまた廃仏毀釈で変形したり。つまりそういうわけで、良くワカラナイ。
もともと、神社っていうのは教義もなければ経典もなくて、専任職の人も居なくて良い。グローバルレベルで言うと「国民国家をまとめる宗教」というレベルでは、ぜんっぜん、ないんですね。そんな大らかな、かなりアナクロで不合理な産物が、なぜか21世紀の今でもあちこちに残っていると考えると、目が眩む思いです。立派そうな裏で実はものすごくあけすけで笑えるような、日本と言う国のローカルさ、可愛らしさ、歴史の右往左往が親しみ深く思えます。それはそれで空間として悪くないなあ、と感じます。
(現在、「神社」というのが経済的に社会的に政治的に果たしている役割、あるいは果たしてきた役割、ということをちゃんと考えると、どっちかっていうと不愉快な気になるんですけれど。つまりは自民党安倍政権的な考え方ややり方の支持基盤だったりするので...。まあそれはまた別の話。) -
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仏教は日本では国家主導で広まり、都が藤原京に移った696年、試験に合格した者だけが正式な僧侶とみなされる年分度者の制度が生まれた。最澄、空海が亡くなった後に、天台宗と真言宗にも年分度者の定員が認められ、それぞれ宗派としての独立を高めていく。
中国で天台宗を開いた天台智?は釈迦の教えを整理して、大乗仏典のひとつである法華経を最高位に位置付け、誰もが仏になれると説かれている点を強調した。日本の法華信仰は法華義疏に遡るが、これは聖徳太子の著作ではない可能性が高い。天台本覚論の核心にある草木成仏の思想は、あらゆるものに霊魂が宿っているとする日本古代のアニミズムを背景として、徹底した現実肯定の思想に発展した。江戸時代には、天海が家康を東照大権現として祀るために日光東照宮に改葬し、江戸城の鬼門となる位置に寛永寺を創建して天台宗の拠点となった。
密教は、インドにおける大乗仏教の発展の最後の段階で、ヒンドゥー教と習合して生まれた。日本では浄土真宗以外の仏教界全体に影響を与えた。
興福寺は大和のほとんどの土地を荘園として所有し、清水寺も末寺としていた。比叡山延暦寺は平安時代末期になると、寄進によって多くの荘園を所有するようになり、興福寺の支配下にあった祇園社(八坂神社)も10世紀終わりの争いの結果、支配下においた。興福寺と延暦寺は南都北嶺と呼ばれ、中世には朝廷や幕府と権力を三分した。
輪廻の繰り返しによって苦がもたらされることを強調するインドに浄土教信仰はなく、中国から伝えられた。法然は、念仏以外の教えや実践を聖道門と呼び、念仏によって西方極楽浄土への往生をめざす浄土門が正しい教えであるという立場をとった。家康は浄土宗に帰依して手厚い保護を与え、芝の増上寺は徳川家の菩提寺となった。
浄土真宗の本願寺は、代々の宗主の子女が公家や武家との婚姻関係を結び、世俗の権力と密接な関係を持った。そのため、戦国時代には戦乱に巻き込まれ、石山本願寺は織田信長と対立することになった。
禅は瞑想の一種で、インドの僧侶達磨に遡る。現生利益や浄土への往生といった効果はなく、精神的な安定や生活規範として機能する。曹洞宗や臨済宗は、貴族階級の出身であることを条件としなかったため、武家や下層貴族が集中することになり、宗派としての独立性を強めていくことになった。曹洞宗は、亡くなった修行僧のための葬儀を在家の一般信徒の葬儀に応用して全国に広がり、葬式仏教が他の宗派にも伝わっていった。
日蓮は、法華経への信仰以外を否定したため、明確な宗派意識が生まれた。日蓮正宗は、日蓮が書いた本尊曼荼羅を直接板に掘った板曼荼羅を本尊とする。戦前に創価教育学会として始まった創価学会は日蓮正宗と関わりを持ち、会員はそのまま檀家となっていたが、1990年に決別した。 -
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この社会では寝たきり老人を増やして平均寿命を伸ばしている。
長寿国・日本。
本当にその長寿が幸福につながるのだろうか。
殺人件数は減りつつも、介護殺人は増加の一途をたどる。
介護疲れからの殺人を、この国は仕方がないものと容認しているようにしか見えない。
今後の超高齢化により、介護はますます負担を増す。
もう親を捨てるしかない。
子が生き残るためには、もはや親を捨てるしかない時代に突入している。
孤独死、下流老人、老々介護、介護殺人。
高齢化社会から見えてくる現実は問題だらけなのに、それらの問題が家庭の問題として、自己責任とされている。
介護を放棄すれば罪になり、介護をすれば生活が破たんする。
父方の祖母、母方の祖父は寝たきりになり亡くなるまでずっと病院のベッドの上だった。
母方の祖母は一昨年の冬に病院に運ばれてから、ずっと介護施設にいる。
老人を病院に、介護施設に入れられたのは、それだけの貯えがあったからだ。
だが、もし今、俺のオヤジかおかんに倒れられて病院にずっと入れておける財力はない。
すると、介護に専念せざるを得ない。
その結果、生活が破たんする。
その現実はオブラートに包まれて見えにくい。
だが、誰もがそのリスクを負っている。 -
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一般向けの書籍も多数発表している宗教学者・島田裕巳が、宗教の本質的な部分を構成する“死生観”について、神道、仏教、キリスト教、イスラム教等がどのような特徴をもち、他の宗教とどの点で共通し、また異なっているのかを考察したものである。
論旨は概ね以下である。
◆死という必ず巡ってくる出来事を前提として、いかに生きていくのか、それが死生観の本質である。死生観は、死後の世界についての考え方を含みこむことで、個々の宗教が世界をどう把握しているのか、即ち、それぞれの宗教の世界観に密接に結びついている。
◆神道には開祖が存在せず、教えも聖典もないため、死生観も曖昧で、死後に赴く場所も必ずしも明確になっていない。記紀神話によれば、死者は「黄泉の国」に赴くとされ、そこは地上界と行き来できる身近な所と考えられたが、その後独自の他界観は深められなかった。
◆神道の他界観を発展させたのは江戸時代の平田篤胤で、更に民俗学の開拓者・柳田國男が、『先祖の話』の中で、日本人の神観念を、「死者は、子孫によって祀られることによって「祖霊」へと昇華していくが、冬の間は山の神として子孫たちの住む村里を臨む山からその生活を見守り、春が来ると田の神となって里に下って農作業の無事を守護する。また、村全体で祀る氏神もこの祖霊である」と表現した。
◆仏教は、釈迦が生老病死の苦に直面し、出家をしたことから始まった宗教であり、「生まれることの苦」が根源的な問題である。インドには更に「輪廻」の考え方があるため、輪廻の繰り返しを逃れるべく「解脱」を目指した。その後中国に伝わった仏教は儒教の影響受け、現世で仏道修行を積み重ねれば、来世は西方極楽浄土に生まれ変わることができるという「浄土教思想」が生み出された。「念仏」を唱えれば極楽往生できるとする思想は、日本でも浄土宗、浄土真宗として広く浸透した。更に、儒教や道教の影響を受けて死者を往生させるために確立された「追善供養」は、ご先祖様が祖霊・祖神となり、残された家族の守護人となるという日本の先祖供養へ強い影響を与えた。
◆キリスト教は、イエスの惨たらしい死を出発点にした宗教である。イエスの再臨と最後の審判がすぐにでも訪れることが前提となっており、それを恐れ、強い信仰を持つことが求められた。また、「(原)罪」の概念により、罪を償うことがないまま亡くなれば地獄に落ちることが強調された。現世の価値を否定し、死後に地獄に落ちないためには信仰が大事とする点において、仏教とキリスト教は共通点がある。
◆イスラム教では、ムハンマドが自宅で自然死したため、死の捉え方がさほど重要な意味を持たず、明確な来世観・他界観がない。現世において信仰にかなった生き方をするべきとされてはいるが、戒律を破ったために地獄に落とされることが殊更強調されているわけではなく、その点で戒律は緩いと言える。
◆日本的な祖先崇拝、即ち、生きている間は祖先を丁重に祀り、死んだら今度は自分がご先祖様になるという考え方は、生きることにも、死ぬことにも意味を与えるものであった。しかし、都市化が進んだ現代日本においては、ご先祖様になるということはもはや目標とはならず、それは、死ぬことの意味を見出せなくなることであり、生きることの意味も明確ではなくなることである。現代は、“生きやすい”時代であるが、それは同時に“死ににくい”時代なのである。
それそれの宗教の死生観がわかり、自らの生き方・死に方を改めて考えるきっかけを与えてくれる一冊である。
(2017年3月了)