望月哲男のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
ブロンスキーとの愛に生きようとしながらも、苦悩し、葛藤するアンナ――。『アンナ・カレーニナ』完結編。
随分前に読み終わっていたのだけれど、卒論に気を取られていたせいもあって、感想を書くのが遅くなってしまった。
読み終えたときの感慨をすっかり忘れてしまったことに、自分が一番がっかりしているところ・・・。やはり、感想は本を読んだらすぐ書かなくてはいけませんね。
とはいえ、『アンナ・カレーニナ』は凄い小説であった。これは多分、間違いないと思う。
ストーリーだけを見ると、全巻読み終わった今、納得のいかないところも多々ある。
特にアンナのラストには、やりきれない気持ちが残った。こういう終わり方なのか、絶望した人間の行く末としてこれが選ばれたのか、と思うと憤慨にも似た気持ちが湧く。
リョーヴィンの心情も、結局はよくわからなかった。彼は地主貴族という階級も、美しく聡明な妻も持っているのに、なぜそこまで自分の存在意義について悩み続けることができるのだろう?
それが悪いというのではない。しかし、私は人間というのは、日常生活で満ち足りているのに、その日常と同時に自分の存在意義について考えられるほど、タフな生き物だとは思えないのである。
だから、それだけ素晴らしい環境を手にしているリョーヴィンが、そんな日々の生活をこなしながらも、抽象的なことを考え続けられるだけのそのエネルギーの源が一体何なのか、最後までわからなかったのだ。
では何が素晴らしかったのか。何がこの小説を輝かせ、また人を引き付ける力となっているのか。
私はそれを、「生きることへの確信のなさ」だと思った。
今生きていること、自分が自分だけの人生を歩んでいること。その圧倒的な現実にしかし、誰一人確信を持って生きているわけではないこと。
トルストイがこの物語で描いたのは、この「自分の人生が思い通りにいかないことに戸惑い続ける私」なのではないか、と私は思ったのである。
これは恐ろしいことだ。自分で自分がわからないということ、人生は自分の思い通りには進まないということ、生きていく限り、自分は後悔を重ねるであろうということ。
それはつまり、絶望のことではないか。
しかし違うのである。個人にとってはそれは確かに絶望かもしれない。だが、周りの人間から見れば、それはあまりにも当たり前のことなのだ。
私達は天才というのが滅多にいない、ほとんどいない、ということを知っている。もしかしたら、天才と呼べるような人物を一人も知らないまま、人生を終えるかもしれない。けれどそれで「ああ、私は天才に出会うことなく人生を終えてしまった」と後悔する人はいないだろう。しかし、いつでも自分に何かしらの才能があればいいな、と人は誰しも思っているのだ。
要するに、それと同じことなのである。自分の人生が思い通りにはいかない、ということは当たり前のことで、他人がそんなことで嘆いていたってなんとも思わない。
しかし、どこかで自分の人生は、自分の思い通りにできるという思い込みが、私達にはある。まるで、実は何か自分には隠れた才能があるのではないか、と思うように。しかし、そんなことはほぼない。けれどその不思議な思い込みは消えない。だから、いざ自分の思い通りにことが運ばないとなると、絶望的な気持ちになるのである。
だからこの物語のヒロインであるアンナは、読者からすると「わがままだなぁ」と映るのかもしれない。絶望絶望って、それはあなたがわがまま言ってるからでしょ、となるのかもしれない。
本人にとっては地獄、しかし周囲の人間から見ればただの日常の一部。その極限とも言える状況を、誰の手にもゆだねることなく、登場人物に誰一人として確信を抱かせることもなく、冷酷なまでの寛大さで持って描かれたのが、この『アンナ・カレーニナ』なのかもしれない。
トルストイは恐ろしい人だなぁ。これだけ長い物語で、最後の最後まで「確信」を描かなかった彼の筆力、そして精神は驚嘆に値する。
そう、人生にゴールなんてものはない。どこからでもが始まりで、どこまでもが自由なのだ。
なんと茫漠とした世界。
まるで、広い宇宙に身ひとつで投げ出されたような。
私達はどこまででも赤ん坊で、どこまででも年を取れるのである。
余談なのだが、私がこの『アンナ・カレーニナ』を読み終わったのは、トルストイの没後100年から2日前だったため、読み終わったすぐあとにトルストイの記事をいっぱい見ることができた。タイムリーで、ちょっとうれしかった。 -
Posted by ブクログ
ヴロンスキーとのイタリア旅行から帰国したアンナは、どうしても息子に会いたい一心でかつての我が家に戻る――。一方、新婚のリョーヴィン夫妻は、新しい生活をスタートさせるが――。
2巻の感想で、アンナの心情がさっぱりわからない、と書いたけれど、3巻を読んでいくうちに、それも当然のことだったのかもしれない、と思うようになってきた。
この巻でも、やはりアンナの行動ははっきりしない。自分が心の内で思っていることと矛盾した行動を取り、時にヒステリックなまでに感情を高ぶらせ、それでも輝くばかりに美しく聡明である。
彼女自身も混乱しているのだ。どうしたらいいのか、ほんの数時間、数十分先のことさえわからないでいるのだ。今手の中にあるものだけが頼りで、これを離したら、それこそ自分はどうして生きているのかわからない、という状態にまで来ているのかもしれない。
だからこそ、彼女は異様なまでにヴロンスキーを自分に繫ぎとめておきたいと思うのだろう。
しかしそれでも、アンナの行動ははたから見れば、自分勝手で利己的としか映らないであろう。彼女自身も、そのジレンマに身を焦がさんばかりに苦しんでいることだと思う。
だからこそ、彼女は美しくあろう、聡明であろうとしているのかもしれない。たとえどんなに道徳的、社会的に認められない存在であろうと、その二つを維持することで、彼女のプライドが保てるならば、彼女はいくらでも美しく聡明になる努力をすると、私は思う。だから、アンナが輝くばかりに美しい理由も、わからないではない。
しかし、その意地だけで本当に「美しく」見えるのかとなると、少々疑問だが・・・。
アンナともっとも対照的な家庭生活を営んでいるであろうドリーの視点から、アンナの生活を観察する場面は非常に興味深かった。この場面があったから、アンナの心情に深みが増したと思う。
リョーヴィン夫妻の新生活のほうは、幸せいっぱいでお互いがお互いをこの上なく愛していながらも、細々とした悩みに煩わされる様子がリアルだった。
物語の蕾が膨らんだ3巻。最終巻でこれがどういう形で満開となり、また散るのか、わくわくどきどき。 -
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小説を読み始めた頃、それこそ白痴のように読み漁ったドストエフスキーの長編小説。中でも白痴は一番好きだったので、新訳が出ていてとても嬉しかった。
ムイシュキン(ムィシキン)公爵が列車でペテルブルクに来る所から始まるストーリーは、今まで良くも悪くも保たれていた均衡が崩れ始めるような・・・例えるならジェンガを一本一本抜いていくような緊張感があり、もうわくわくがとまらない。作者は本小説が失敗作だと自分で評していたようだけど、個人的には大満足。
第一部で印象深いのは、やはり主人公ムイシュキンが持つ周囲の人間を引き寄せる力だと思う。列車の中でのロゴージン、エパンチン家の召使をはじめとして、白痴白痴と言われながらも何故か気に入られてゆく。私自身、列車内会話の時点でぐいぐい引き込まれていった。
細かな感想は、3巻まで読み終えて纏めて書こうと思っている。以前読んだ新潮訳と訳の比較はできないけど、普通に読みやすかったとは思う。解説も豊富で、特に時代背景についてしっかり書かれているのはありがたかった。次を読むのがすごく楽しみ。 -
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トルストイの長編小説。非常に文量の長い作品であるが、大変読み応えがあり、さすがは世界の大文豪、と舌を巻いた。
正直、ドストエフスキーやら何やらこの手の世界文学的古典には手も触れたことがなかったが、本作品を読み、その凄みをありありと感じた。これを皮切りに世界文学の世界に足を踏み入れていきたい。
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本長編作品に、登場する二人(男女)の主人公、アンナとリョービン、時に二人は光となり闇となり、同じロシアを舞台としながら、全く別の世界をパラレルに生きていく。
アンナとリョービン、この二人に共通する点は、「自分を偽れない」という点だと思う。ある意味とても純粋素直で、そのため通俗社会から、どうしても逸脱していってしまう二人。それでも本当の生き方や愛や信仰を摸索しながら、闘い、傷つき、心を膨らませる姿は似ている。
アンナは、本当の愛を求めた。リョービンは本当の生き方、といったところだろうか。
この愛すべき二人の主人公の顛末、明暗を分けたのは、アンナの生き方が自己愛に満たされていったのに対して、リョービンは無私の精神に満たされていった点にある。また作品の解説にもあるように、アンナが一元的に、リョービンが多元的に生きることとなり、結果、アンナの世界が破綻していった、というのにも納得ができる。
トルストイの本作品、19世紀を生きた若者の恋愛をテーマとしながら、社会全体を描いた作品の圧倒的スケール、かつ一人一人のキャラクターの内面世界の繊細な動きを捉えていて、よく一人の作家がここまで人間を描けるものだ、と感嘆した。
人間の心の中の矛盾や葛藤をよく捉えている。そして読者にとってあまり理解できないような難解な比喩表現などに逃げない点も好感が持てた。 -
Posted by ブクログ
カレーニンから「許す」と言われた後も、アンナが彼のことを「人でなしの人形!残酷!美点が憎い!」などと激しく罵っていて、最初に読んだときは、なぜ許してもらったのにそこまで怒るのかがよく分からず、二回続けて読んでしまった。
それだけアンナの中には、許されることを素直に受け入れられない、恥や屈辱感があったのが少し理解できた。
今の日本では、自分の思ったことや好きなことを自由に選ぶのが当たり前になっていて、昔のロシア貴族のような身分や世間体によるしがらみは少なくなっていると思う。
そのため、犯罪になるようなことでなければ、自分が恥ずかしいと思うこと自体が減っているようにも感じる。
自分も犯罪を犯すようなことはないけれど、道徳的に正しいとは言えないことをしてしまうこともある。
自由に生きられるからこそ、自分の行動が本当に正しいのかを自分で考えなければならない。難しい。 -
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2068年、遺伝子研究所で誕生したドストエフスキー2号、トルストイ4号など7体の文豪クローンが、謎の物質「青脂」を分泌。ゾロアスター教徒の末裔、ロシア大地交合教団はそれをタイムマシンで1954年に送り込む。そこは欧州のほとんどをヒトラーが支配している世界だった
なんじゃこりゃ!冒頭の一人称部分がとんでもなく読みづらく、これはキツイと投げ出しそうになったが
スターリンとフルシチョフのベッドシーン
文豪クローンの挿入されるパスティーシュ
シンクロナイズドスイミングによる「水上人文字」
次から次へと出て来る要素が面白すぎる。まるで「第九」を奏でているかのような物語の起伏、後半のベタ踏みアクセルに展開の移り変わり、カーブの度に危ねえ!危ねえって!と思いながらも読みつつお見事な終焉 こりゃあすごい
難点は数年後にタイトルと内容が僕の中で結びついてなさそうな事と、本当に読みづらい導入部分(しかもまあまあ長い)
ランランウキウキワクワクゲラゲラと読み面白かっただけに、それだけが残念です 覚えていられるかなあ、これ -
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ネタバレ【イワン・イリイチの死】死を目前にした男の孤独、焦燥、恐怖、怒り、そして絶望。
目の前に当然続いていくと思い込んでいた「人生」という名のレールが、取るに足りない事故によって無慈悲に途絶えんとするとき、自分が選び歩んできた道のり全てが誤ったものに思えて来る――このくだりが特に、読んでいてやたら気持ちが入り込んでしまい辛かった。
襲いくる肉体の痛みに耐え、踏み違えてしまった何かを探し、答えを出せないまま、ただ周囲の人間の上っ面の慰めに苛立つ日々。
夫婦間の軋轢はともかくとして、一見すると公私ともに恵まれた順風満帆な人生が、蓋を返してみれば、虚栄と欺瞞にまみれたものだと気づいてしまう。
「イワン・イリイチは泣きたかったし、誰かに慰められ、泣いてほしかった」
思慮深く要領よく、威厳ある裁判官の、虚勢の奥に隠されたこの思いが、グッと胸をつく。
「死」は、誰とも分かち合えない。
このあたりの容赦の無い心理描写の詰め方が、読み応えがあった。
ラスト、死の直前に訪れた「光」。
息子の泣き声をきっかけとして、もがき苦しむ男が落ちながら見いだした光は、自分のために泣いてくれる者へのあわれみの心――ひいては、彼らが苦しむ理由となっている自身の生の執着を断ち切るしかないという諦念か。
たとえ全ての死に意味が無いとしても、意味があると信じられれば、人は余計な苦しみを背負わず死んでいけるのかもしれない。
そんな感傷を抱かせるのだが、しかし一筋縄ではないところが、物語の書き出し。
彼の壮絶なる葛藤の末の死という結末も、冒頭へとつなげてみれば、何とも形式じみた、あくまで他人事の「死」の一つとして通り過ぎ、世俗的な興味に埋もれていくのだという構造になっていて、何とも言いがたい複雑な気持ちになる。
【クロイツェル・ソナタ】
「愛憎は表裏一体」
とはいうものの、愛は愛でも性愛、そしてそれへの嫌悪感と執着に凝り固まった末の所業。ただひたすらに妻が可哀想…という感想に尽きる。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ前巻である程度収拾がついたと思われた人間関係・社交界との関係・価値観の変化がもう一度展開される
リョーヴィンとキティのカップルは、ニコライの死を通じてより一層深い関係になり世間と良い関係を築こうと志す一方で、ヴロンスキーとアンナのカップルは社交界から拒絶されてることを自覚しており、利害関係者・身内だけで世界を閉じてしまった
両カップルと仲の良いドリーは、ヴロンスキー邸で時間を過ごすことで、母親であることの尊さ・善性を再認識する
精神的・観念的な事柄に対する関心はヴロンスキーもリョーヴィンももっているものの、前者はそれを肯定的に見ている一方で、後者はそれを無意味なものとして否定的に見なすという対比があった。さらに、前者は県貴族団長選挙、後者は猟という違いはあれど、妻(に準ずる関係の人)から届いた手紙の内容も対照的に感じた
アンナは、カレーニンに感じていたのと同様に、ヴロンスキーとの関係に不満を覚え始め、彼の愛情がもはや自分には向いていないと想像する
ヴロンスキーとしても彼女に対して不満を覚えはじめるも、それとは反対に彼女の美しさを再認識もする
オブロンスキーだけはずっと楽天的で、物語が重くなりすぎないような役割を果たしているものの、他の登場人物はみな葛藤を抱え、状況に合わせて価値観が変化していく様子はまさにリアリズムという感じ
しかし、解説を見るとわかるように、寓意・比喩が盛り込まれており単なるリアリズム小説には収まらず、トルストイの偉大さを認識する -
Posted by ブクログ
ネタバレ前巻においては夢見がちで彼との結婚を目前に捉えていたアンナと、現実的でカレーニンを現実の障害として捉えていたヴロンスキーの二人が、この巻では逆の立場になる
その点は、農奴解放などで現実を直視せざるを得なくなった貴族の視点と、出世コースに乗ろうと思えば乗れる青年将校の視点の違いが遂に現れたんだと思う
いずれにせよ二人ともどん底には陥るし、実際死にかける
地獄にスキップして向かうか現世をチラチラ見ながら向かうかという程度の違い
一方、絶望的な展開だったキティとリョーヴィンの二人は、オブロンスキーが主催する食事会で再会したことでお互いの気持ちを完全に理解してあっという間に結婚に向かっていく
読んでてバカップルさに気持ち悪くなるくらいには仲良くなってた
リョーヴィンのソロパートに関しても、農民と一緒に農作業するシーンなんかはロシアらしい恍惚感が表現されてて心地よかった
まるで対照的な二組だった
次巻に向けて段々と孤立していくアンナ-ヴロンスキーと、周りのあらゆる人から祝福されるキティ-リョーヴィンが果たしてどういう展開を迎えるのか楽しみ
オブロンスキーはガチのコミュ強
そしてドリーが地味にいいアクセントになってる
この巻の序盤で子供連れて田舎に住むところとかは、非常に和やかな雰囲気で良かった
アンナの義姉でありながら良心をしっかり持ち合わせているから、アンナへの信頼とカレーニンへの同情に板挟みになってるところが読んでて辛くなる -
Posted by ブクログ
ネタバレ『戦争と平和』と並ぶトルストイの代表作
政府高官であるアレクセイ・カレーニンの妻アンナは、兄のオブロンスキーとその妻ドリーの喧嘩を仲裁するためにペテルブルクを訪れたところ、エリート将校であるヴロンスキーに一目惚れする
その一方で、地主貴族でありオブロンスキーの親友でもあるリョーヴィンはオブロンスキーの義妹キティに求婚するも断られていた
この恋敵がヴロンスキーであり、キティも彼を気に入っていたのだが、前述のタイミングでヴロンスキーもアンナに惚れる。それを知り気に病んだキティはドイツに湯治に向かう
あらすじを聞いて分かる通り非常に複雑な人間関係なのだが、主要登場人物に関しては読んでいる内に慣れて特に気にならなかった
特定の状況にしか登場しない人物については、付属の登場人物紹介のしおりも参照しつつメモなど取って読むのがいいと感じた
1巻の時点でそれなりに物語が展開され、リョーヴィン・キティ・ヴロンスキー・アンナらの話がそれぞれ進行していくのだが、トルストイはどうやら人間の感情を描くのが上手で、ロシア文学らしい彼らの感情の激しい変化があるおかげで退屈せずに読めた
アンナとヴロンスキーが、お互いを第一に考え外の世界のことなんか全く気にしたくないような様子である一方、キティとリョーヴィンの二人に関しては、求婚を断り断られた関係であり複雑に思いあっている上に、外の世界に開かれた関係(リョーヴィンは農地で、キティは湯治先で)もあるためそれで心労も感じている様子があった
2巻でさらにどのように物語が展開されるのか楽しみ