望月哲男のレビュー一覧

  • アンナ・カレーニナ 3

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    5部はとにかくカオスで面白い。

    まずはリョービンとキティの結婚式から始まるのだが
    リョービンのあの性格ゆえ、そう簡単には行かない。
    やはり自分などキティが愛してくれるのだろうか?
    思いとどまるなら今だと、キティに告に行くが…
    たぶん5分後には仲直り。
    式の当日には、シャツを荷物と一緒に馬車で送ってしまったとかなんとかで…花婿大遅刻!

    リョービンの兄、ニコライの最後。
    看取りのためについて行くと聞かないキティに困惑するリョービン。しかし、キティは、保養所での経験を活かし、ニコライに誰よりもつくし、働く。
    その姿にまた己の情けなさに落ち込むリョービン。

    そして、私の心配どころセリョージャ!
    彼は誕生日にママが会いに来てくれるとどこかで信じている!!
    カレーニンは、イワーノヴナ伯爵夫人の手中にあり、宗教へと導かれる。
    そこへ、アンナ!私たちのアンナ!
    全てを振り切って、札束を小間使いに投げわたし、家に入ってゆく。愛しいセリョージャの誕生日祝いに。

    後半6部は、
    ドリーが子どもたちとリョービン夫妻の家で過ごす夏。彼女の主婦らしさ。
    そして、リョービンの家から馬車でアンナを訪問に行く。
    アンナとヴロンスキーの贅沢な暮らしぶりに辟易としつつも、彼女は決して人前で悪く言わない素晴らしい女性。幸せにいて欲しい。

    リョービン、ヴロンスキー、オブロンスキーたちは選挙へ。

    留守中のアンナの精神状態。
    もうアンナはヴロンスキーに好かれるために必死。
    ドリーにも説得され、カレーニンとの離婚を考え始める。。

    と、こんなカオスぶり。
    リョービンとキティの幸福な家庭ぶりと、
    見せかけだけの、壊れてゆくようなアンナとヴロンスキーの行く先との対比を描く、
    とくにアンナとリョービンの中にある感情のゆらぎ方とか、
    トルストイの表現の上手さといったら!

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    2021年06月18日
  • アンナ・カレーニナ 2

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    ネタバレ

    3部が300ページ
    4部が200ページほどなんですが、
    3部は…
    リョービンの農業への思いと、草刈り、
    カレーニンの政治観ばかりで、まあちょっと大変だけれども、
    これがあるがゆえの、後半4部のおもしろさ、エンタメぶりと言ったら!200ページの中にてんこ盛りのエピソードたち。

    以下ネタバレ

    ・アンナ、あれほど約束したのに、家にブロンスキーを呼びつけ、カレーニンと鉢合わせ。
    ・カレーニン、いよいよ弁護士の所へ。
    ・カレーニン、早口でまくしたて、舌がもつれて「憔悴」を「そう……ひょう……そうすい」となってしまう
    ・ロシア一の伊達男(今は自分の口利きで、ボリショイバレエに入団させてやった、可愛いバレリーナちゃんにお熱)オブロンスキーのホームパーティーにおいて伏線の回収のごとく集められるキャラクターたち。え、キティちゃん来てたの?
    ・リョービンのキティ崇拝「これからはけっして人のことを悪く思わないように心がけますから!」
    ・眠らないリョービンと、彼の黒日記?
    ・さて、ブロンスキーはリストカットさながらのレボルバー自殺未遂。
    ・オブロンスキー、カレーニンを説き伏せたつもり?うまくやった。この出来事を謎掛けにしてまたパーティーで披露せねば✨
    ・ヴロンスキー、友人の計らいでタシケントへの勤務を用意されたのに、アンナに一目あっただけで、退役してしまう。

    など。
    狂乱の日々でした。
    私たちはいつになったらアンナの魅力に気づくことができるのかしら

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    2021年06月04日
  • イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ

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    嫉妬は古今東西普遍的なテーマですよね。

    トルストイの結婚制度、愛について描写。
    キリスト教的価値観との間に生まれる矛盾の描写は非常に印象に残った。

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    2021年04月10日
  • アンナ・カレーニナ 4

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    よかった。××××が最終章で最後に出した結論は半分共感できるが半分は茶番だと思う。でも嫌いじゃない。

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    2021年02月08日
  • 戦争と平和3

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    本巻には戦争の場面は登場せず、もっぱら貴族生活と恋愛模様があらわされている。物語は半分を終えたところであるが、いやはや、やはり、面白すぎる。今まで未読だったのが悔やまれるが、この期に及んで未読であって良かったを思う。他の訳でも読めるが、本訳者のもので思うので、これからのお楽しみは来年までお預けとし、既刊の巻の再読でもするか。

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    2020年11月23日
  • 戦争と平和1

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    ロシア文学といってもいろいろですねぇ。ドストエフスキーとくらべて全然読みやすいしわかりやすい。ただ、登場人物がやたら多くて誰が誰やら混同すること多々あり。古典新訳文庫ならではのしおりはたいへん役立ちました。

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    2020年09月24日
  • 戦争と平和2

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    様々な愛憎劇と時代のうねりとがまじりあって物語が展開していく。シリアスな場面も多いが、視点がどんどん切り替わっていくので、全巻添うように、ノートを取りながらの読書です。

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    2020年11月19日
  • アンナ・カレーニナ 3

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    社交界から排除されたアンナ、ヴロンスキーと農村生活を送るキティ、リョーヴィンそれぞれの交友関係の描写が面白い。家族にしろ地域社会にしろ地方行政や官僚組織にしろ、システム化されているように見えても結局、動かしているのは人であることがわかる。人であれば、厳格、安定してるようであっても、脆さもあり、そのあたりの微妙な心理状態を上手く描いていると思う。

    「「結局、あの時アンナさんが来てくれて、キティは助かったのね」ドリーは言った。「ただしあの方にとっては不運だったけれど。本当に、すっかり逆になったわけね。あの時はアンナさんがとっても幸せそうで、キティは自分を不幸に思っていたでしょう。まったくどんでん返しじゃない」p303
    「アンナはもっぱら談話のリードの面でホステス役を務めていた。このような少人数の食卓で、おまけに管理人や建築士のようにまったく別世界の人間が混じって、慣れない贅沢な環境に怖気づかぬようがんばりながらも、全体の談話に長くは混じれないでいるような場合、ホステス役が談話を盛り上げるのはきわめて難しいものだ。だがドリーの見るところ、アンナは持ち前の如才なさで、その難しい役割をいとも自然に、むしろ喜んで勤めているようであった」p486
    「享受している権利に見合った義務の感覚がないために、そうした義務を否定してしまうわけです」p493

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    2020年06月27日
  • 死の家の記録

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    1861年 40歳  第16作。

    死の家の記録は、ペトラシェフスキー事件に連座して、反逆罪に問われたドストエフスキーが、1850年1月から54年1月までの4年間を囚人として、頭を半分剃られ、足枷をつけられ、強盗殺人犯や詐欺師や窃盗、農民や貴族、イスラムの異民族から異端のキリスト教徒まで、雑多な人々とともにシベリアの流刑地で過ごしたときの様子を描いた作品。

    ときにはチャバネゴキブリが大量に入ったスープが出てくるような境遇の中で、社会の最低辺の人間と文字通り寝食をともにしながら行った人間観察の記録である。

    ここまでのドストエフスキーの作品では、デビュー作「貧しき人々」が代表作だが、あの「貧しき人々」は、正直言って内容よりも、巨匠の第一作ということと、あの有名なデビューのエピソードで、必要以上に持ち上げられてきたきらいがあったのではないかと思う。

    この「死の家の記録」は、それ以前とそれ以降の作品を画し、ドストエフスキーの名を歴史にとどめる素晴らしい作品。

    それまでの、どことなく軽躁なざわめきを背景に感じられる作品群に較べ、重厚で落ち着いていて、陰鬱な中身のはずなのに、どこまでも汲みつくせないという感じを抱かせる。
    そういうのを芸術作品というのだと思う。

    この流刑地の生活でかれが発見したのは、人間がどこまで卑劣になれるか、どこまで得体のしれない怪物になるのか、それが可能性としてはなく生身の人間として現実に存在しているということと、にもかかわらずそれぞれの人間が持つ自由の意味と必然、そしてひとりひとりの人間の尊厳である。
    まなざしの中心はもちろん後者にむけられている。
    でなければ人間の総体を捉えきった報告は書けなかったただろう。

    そういうとなんだか真面目くさってきこえるが、この作品はそういう堅苦しいものではない。
    後期の作品から、かれは観念的な作家と思われがちだが、流刑地の生活を描く筆致はかなりジャーナリスティックで、そういう辺境についてまったく知らない興味津々な読者を飽きさせない。
    ドストエフスキーはルポルタージュ作家としても超一流であることを示す作品でもある。

    人間にとってもっとも恐ろしい罰は、無意味な作業を続けさせることで、それをすると必ず狂ってしまうという有名な文章は、この作品から。

    「もしも一人の人間をすっかり押し潰し、破滅させてやろうとするつもりで、どんな残忍な人殺しでも聞いただけで身震いして腰を抜かすような、最高に恐ろしい罰を科すとしたら、ただ単に一から十までまったく無益で無意味な作業をさせればいいのだ。……囚人に、たとえば一つの桶から別の桶に水を移し、その桶からまたもとの桶に移すとか、ひたすら砂を槌で叩くとか、一つの場所から別の場所に土の山を移して、また元に戻すといった作業をやらせてみれば、きっと囚人は何日かで世をはかなんで首を吊るか、それともそのような屈辱、恥、苦しみから逃れるためならいっそ死んでもいいと、自棄になって犯罪をし散らすことだろう。」(p50-51)

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    2020年06月26日
  • アンナ・カレーニナ 2

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    1巻に引き続き、引き込まれる展開であった。登場人物の考え方や気持ちの変化の模様を絶妙に表現している。また、貴族や官僚、農民などロシアの生活様式が興味深い。どの階級でも、夕食後にいろいろな活動をしていることは新たな発見であった。面白い。
    「牛馬に引かせるプルークのほうが人の手でやる鋤よりもよく耕せるし、速耕機を使えば効率が上がるということは彼ら(農民)も心得ているのだが、いざとなると彼らはいずれの道具も使うわけにはいかなぬという理由を無数に見つけてくるのである」p268
    「ロシアには素晴らしい土地があり、素晴らしい労働力がある。そして場合によっては、あの道中で立ち寄った農家のように、働く者と土地の力で大きな収穫を上げている。だがヨーロッパ流の資本投入をするならば、たいていの場合生産性は低い。それはひとえに、農民たちがひたすら自分たち固有のやり方で働くことを望み、またそのほうが成果が上がるからだ。こうした外国流への抵抗は単なる個別事例ではなくて一貫した、国民の精神に根ざした現象なのだ」p274
    「「汝憎む者を愛せ」ドリーがつぶやいた。そんな教えは先刻承知だったが、この場合には当てはまりようがない。「自分を憎む者を愛するのは結構ですが、自分が憎む相手を愛することは不可能です」」p402

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    2020年06月21日
  • 白痴2

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    (意外と重要なことではないかと思うのだけど)この河出文庫版の『白痴』全三冊、表紙がいいですね。本当にイメージどおり。

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    2020年06月17日
  • 戦争と平和1

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    実はこんなに面白かったのか。戦争を描いたひたすら暗く長ったらしい小説だと思い込んでおり、今まで未読であったが、全然印象が違った。第1巻は、前半は貴族たちの財産争いの「平和」な物語から、後半は「戦争」の話といった展開。登場人物が多いので、ノートを取りながら読み進めている。続刊が楽しみ。

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    2020年07月05日
  • 白痴3

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    バフチンの”カーニバル的”という表現が、少なくとも『カラマーゾフの兄弟(途中まで)』と『罪と罰』を読んだ限りでは全然ピンと来なかったのだが、これを読んでちょっとわかるような気がした。入れ代わり立ち代わりのたくさんの登場人物とそれぞれの勝手な、つながりのあるようなないようなエピソードの怒涛。最後の寂寞。

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    2020年02月05日
  • 白痴1

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    江川卓訳『罪と罰』(岩波文庫)に続き、『白痴』はこちら河出文庫の望月哲男訳を選びましたが、(他と比較した訳ではないので絶対評価として)正解。読みやすく、かつ作品のストーリー・テイストに合った訳文と感じます。

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    2019年07月07日
  • アンナ・カレーニナ 3

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    内容も面白いが最後の読書ガイドが素晴らしい
    長編だからついつい以前のエピソードの事を忘れてしまいそうだけどこれを読み事により全体を把握出来大きな流れを失わずにいられる。

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    2018年10月09日
  • 白痴1

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    スピード感溢れる翻訳がすばらしい。『白痴』は展開が速いので、このリズムに乗って読み進められるのはとてもいい。

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    2018年09月04日
  • イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ

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    ●「イワン・イリイチの死」

    トルストイが死んだのは1910年。20世紀に入ってからである。

    シェイクスピアが活躍したのが1600年代で、日本でいえば江戸時代にあたる。にもかかわらず登場人物の言葉や行動が今のわれわれに強く訴えかけてくるのは驚くべきことで、ハムレットなどは、主人公が現代人であってもちっともおかしくない。それがシェイクスピアのすごさであり、普遍性なのだろう。

    ただシェイクスピアの戯曲の登場人物は、王様や王子や女王であることが多くて、これらの人々はわれわれの親類縁者にはあまりいない類の人々であるから普段どんな生活を送っていたかとなると、ほとんど知るところがない。別種の階級、別種の社会層に属する人間たちである。

    これがトルストイになると、登場人物はもうわれわれと同じ種類の人間である。本書に収められた2作品のうち、イワン・イリイチは官吏であり、クロイツェル・ソナタの主人公は貴族であるが、その生活感覚はわれわれと変わるところがない。シェイクスピアの作品そのものは現代的ではあるけれども、主人公たちはわれわれの毎日の生活から遠いところにいる神話の英雄やなにかのシンボルに思えるのに対し、トルストイの人物は、この社会で暮らしている一般の社会人となんら変わりがない。血肉を備えた生身の人間として、昇進の噂や世間づきあいに気を病み夫婦げんかに疲れた人間としてそこに描かれている。毎日われわれの隣で働いている人々とちっともかわらない人間として描かれている。

    「イワン・イリイチの死」は、ある高級官僚(裁判所の判事)の一生を描いた作品である。

    トルストイがこの作品を書いたのは58歳の時。すでに「戦争と平和」「アンナ・カレーニナ」を完成させ、文豪としての名声を確立した後、次第に宗教的傾向を深めつつあった時期の作品である。

    この作品は、そうした大作家が、悠々と自分の書きたいことを書きたいように書いたらこういうものができましたといった風の、自然でのびのびとした感じがする作品で、そこにはトルストイの作家としての自信や余裕がうかがえて、読んでいるこちらとしても大家の練達の話術に安心して身を任せておけば、知らず知らずにその先その先へとページをめくらざるをえなくなる、そういった興味深くて面白くてためになる物語である。あちこちにちょっとしたジョークがちりばめられていて、翻訳を通してなのでけらけら笑うというところまではいかないけれども、たぶんあちらの人が読んだらくすぐられる箇所が多いのではないかと思う。すくなくとも中盤までは。

    じつは内容は深刻なのである。
    官僚としてまっとうな一生を送ったはずの主人公が、死を前にして、自分の人生はなんであったのかという疑問にとらわれ、煩悶に煩悶を重ねたあげく、最後の瞬間にようやく救いを得、そして死ぬ、というのが粗筋である。

    彼の一生は、この社会に生きるわれわれとって、至極あたりまえの一生のように思える。あたりまえというよりむしろ模範的といえるかもしれない。彼にはなんのやましいところもないように思える。唯一欠点があるとすれば夫婦仲の悪いところであろうが、それでも彼はこういう心がけで臨んでいるわけであり、これはこれで立派な態度だと思う。

    結婚後わずか一年ばかりで、イワン・イリイチは次のことを理解した。つまり結婚生活は人生におけるある種の利便を提供してくれはするが、本質的には極めて複雑で困難な事業であって、そこで自らの義務を果たし、世に認められるような立派な生活を営むためには、ちょうど勤めに一定の姿勢が必要なのと同じように、結婚に対しても一定の姿勢を築きあげる必要があるのだ。(p42)

    問題は、彼が採った一定の姿勢というのが、ひたすら「自分一個の陣地である勤務の世界に逃げ込み、そこに快適さを見いだす」(p42)ことであったという点である。だが、これもそんなに責めるわけにはいかないだろう。そうでないような男性がこの世の中にそうたくさんいるとは思えないからだ。普通一般のサラリーマンが「仕事だから」といって家庭の義務から逃れようとするとき、そこで生起している心理現象の多くはトルストイのこの言葉によって説明できるのではないかと思うが、ただし私はそんなことを思ったためしがないので、正直いうとその点はよくわからない。あくまで推測で言っているだけである。

    それはともかく、病を得る前のイワン・イリイチに限らず、その妻、その娘たちの生活や感情を、トルストイは身も蓋もなく書いていて、作品の中で読むと、彼らがなんだか悪者のように思えるけれども、その行動は普段のわれわれがやっていることと変わりはない。

    たとえば寝たきりになったイワン・イリイチの部屋を、舞台を見に行くために着飾った妻と娘とその婚約者が訪れ、憤怒に駆られた主人公との間に気まずい沈黙がながれ、彼らが立ち去ったあと「嘘は連中とともに去った」(p117)と描かれているが、だからといって妻や娘やその婚約者が悪いわけではあるまい。寝たきりの病人と健康な人間とでは活動に違いがあるのは当然だし、態度が嘘くさいので嫌だと言われたって、では当人の目の前でその人間の死について率直に語り合えるかといったらそんなことできるわけはない。それが偽善に映るなんていうのは単なる病人のわがままである。

    あるいは冒頭に出てくるイワン・イリイチの葬式の場面。同僚のピョートル・イワーノビッチは、葬儀に参列しながら、その後のトランプ・ゲームのことを考えているわけだが、こういう態度は不謹慎だという人がひょっとしたらいるかもしれないけれども、会社の関係で葬式に出たことのある人ならだれでも経験しているとおり、なにも葬式だからといって厳粛な気持ちになるなんてことはなくて、考えている内容といったら、次の会議に間に合うかどうかだったり、仕事の締め切りだったり久々に顔を合わせた昔の同僚と葬儀が終わった後でどこかで一杯やろうかということだったりするので、われわれと彼とは五十歩百歩である。登場人物たちの言動が不遠慮で不作法でありえないことだと思えるとしたら、それはたぶん社会的経験が少ない少年少女の読者たちだろうが、世の中というのはそういうものなんです。いい年をした大人でそれはおかしいなんて言う人がいたら、単にカマトトぶっているか、世間知らずの馬鹿である。

    つまりここで出てくる人々の姿は、まさにわれわれ自身の姿なのである。
    世の中とはそんなものである。そうしてそれが悪いとも思えない。

    しかしトルストイは違う。
    トルストイが主人公に語らせているのは、そういう生活は、人生は、無意味であり、偽善であり、嘘っぱちだということである。

    死を目前にしたイワン・イリイチは、煩悶する。
    煩悶して、次第に真相に近づいていく。

    結婚……そして思いがけない幻滅、妻の口臭、肉欲、偽善! それからあの死んだような勤め、それからあの金の苦労――こうして一年がたち、二年がたち、十年がたち、二十年がたった。そしていつも同じことの繰り返しだった。時がたてばたつほど、ますます生気が失われていった。(p121-122)

    「ひょっとしたら、私は生き方を誤ったのだろうか?」不意にそんな考えが浮かんだ。
    「しかし何でもそつなくこなしてきたのに、いったいどうして誤ったのだろう?」(p122)

    「だがいまさらそんなことを認めるわけにはいかない」自分の人生が法にかなった、正しい、立派な人生であったことを思い起こしながら、彼はそうつぶやいた。「そんなことは決して認めるわけにはいかないぞ」彼は唇を笑いにゆがめた。(p127)

    ふと彼の頭に、もしも本当に自分の全生涯が、物心ついてからの生涯が「過ち」だったとしたら、という考えが浮かんだ。(p130)

    彼の仕事も、生活設計も、家族も、社会の利益や職務上の利益も――すべて偽物かもしれない。彼はそう思う自分に対して、それらすべてのことを弁護しようとしてみた。すると不意に、自分の弁護がいかにも根拠薄弱だと感じられてきた。そもそも弁護すべきものが何もないのだった。
    「もしもその通りだとしたら」彼は自問した。「私は自分に与えられたものをすべて台無しにしてしまって、もはや取り返しがつかない、ということを自覚しながらこの世を去ることになる。その時はいったいどうなるのだろうか?」彼は仰向けに寝たまま、まったく新しい目で自分の全人生を振り返りはじめた。(p130-131)

    そして、ついに、

    翌朝、彼は従僕と顔を合わせ、それから妻と、娘と、医者と顔を合わせたが、彼らの一つ一つの動作、一つ一つの言葉が、夜のうちに見出された恐るべき真実を彼に実証してくれるものだった。彼らのうちに彼は自分を見出し、自分が生きがいとしてきたものをすべて見出した。そしてそうしたものがことごとくまやかしであり、生と死を覆い隠す恐るべき巨大な欺瞞であることを、はっきりと見て取ったのだった。(p131)

    死ぬ前にこんな心理状態になったらたまったものではない。
    イワン・イリイチはこの発見によってさらに苦しむ。

    この意識は彼の身体の苦痛を何倍にも強めることになった。彼は呻き、のたうち、自分の着衣をむしりとろうとした。着衣に胸を締め付けられ、押しつぶされるような気がしたのである。そしてそのせいで、彼はさらに周囲の者たちを憎んだ。(p131)

    その後の悽愴な描写は、破滅を自覚した精神の叫びである。

    では、どうなるのか。
    主人公は破滅したまま死んでしまうのか。
    絶望のままで終わるのか。

    ここで不思議なことが起こる
    解決はむこうからやってきた。

    彼は暴れていた。そして一瞬ごとに、いかに全力で抗おうとも、自分がどんどん恐怖の源へと近づいていくのを感じていた。
     彼は感じていた――自分が苦しむ理由は、この真っ暗な穴に吸い込まれようとしているからだが、しかしもっと大きな理由は、自分がその穴にもぐり込みきれないからだと。穴にもぐりこむのを邪魔しているのは、自分の人生が善きものだったという自覚であった。まさにその自分の人生の正当化の意識がつっかえ棒となって彼の前進を阻み、なによりも彼を苦しめているのだった。(p135)

    そして、

    不意になにかの力が胸を突き、わき腹を突いて、さらに息苦しさがつのった。と、彼は穴の中を落下していった。そして前方の穴の果てに、なにかが光り出したのだ。汽車に乗っていると、前に向かって走っているつもりでいたところが実は後に向かっていて、突然本当の方向を自覚することがあるが、ちょうどそのようなことが彼の身に起こっていた。
    「そう、なにもかも間違っていた」彼は自分に語りかけた。「だがそれだってかまいはしない。」(p135)


    これはまさにイワン・イリイチが落下しながら光を見いだし、自分の人生は間違っていたが、まだ取り返しはつくという認識を得た瞬間のことであった。(p136)

    いったいなにが起こったのだろうか。

    死の代わりにひとつの光があった。
    「つまりこれだったのだ!」突然彼は声に出して言った。「なん歓ばしいことか!」
    彼にとってこのすべては一瞬の出来事だったが、この一瞬の意味はもはや変わることはなかった。(p138)

    そしてイワン・イリイチの死。

    やつれ果てた体はときどきびくっと錬磨していた。それからぜいぜいいう音もヒューヒューいう音も、徐々に間遠になっていった。
    「終わった!」誰かが彼の頭上で言った。
    彼はその言葉を聞き取り、胸の中で繰り返した。
    「死は終わった」彼は自分に言った。「もはや死はない」
    彼はひとつ息を吸い込み、吐く途中で止まったかと思うと、グッと身を伸ばしてそのまま死んだ。
    (p138)

    いったいここで作者は何を語っているのだろうか。
    われわれに何を呼びかけているのだろうか。

    答えは明らかだ。
    イワン・イリイチは最後に光を見出し、救いを得た。
    ここでそういう言葉は使われていないが、彼は「神」を見出した。そして自己の生があるがままで肯定されていることを、すなわちすでに救われていることを知った。それは自己の思い煩いによってそうであるのではなく、彼の思いに先立ってすでにそうだったのであり、すでにそこにあったのである。彼が自分で自分の人生を正当化している限り、前の方を向いていると思って実は反対方向を向いている限り得ることのできないものであった。彼が自分を完全に捨て去って(則天去私!)初めて発見できるなにかであった。そしてそこには死はなく、永遠の生があった。

    とまあ、なんだか分かったふうなことを言っているけれども、それについて私がなにか知っているというわけではない。これまでどっかで読んだ本の受け売りである。「そしてそこには死はなく、永遠の生があった」なんて書いたけれども、具体的な意味が分かって書いているわけではありません。

    けれども、この物語の後半部分、煩悶を経て主人公が光りを見出すに至った経緯は、トルストイの実体験に基づくものだろう。そうして、彼がここで描いている人々の暮らしは、何度も繰り返すようだけれども、われわれの暮らしそのものであって、そういったものが虚偽であるという指摘は説得性を持っている。というか、おそらくそれは正しいのだろう。

    では、そのことがわれわれにどういう意味をもつのか。
    トルストイはわれわれに何を呼びかけているのだろうか。

    イワン・イリイチの煩悶と苦悶を、われわれは皆、死ぬ寸前に抱えるだろうということだろうか。われわれも彼と同じように、自己の人生の意義に根本的な疑念を抱き、のたうち回るだろうということだろうか。死の寸前の断末魔の苦しみというのは、人々がこういうことを自覚して苦悶している姿なのだろうか。

    そうしてわれわれもまた、死の間際に光を見出すだろうということだろうか。

    そんなはずはない。
    まず、多くの人々にとって、トルストイの問いは問いにならない。呼びかけにもならない。イワン・イリイチの妻にも、娘にも、息子にとっても、その問いとは関係なく人生は過ぎていくだろう。われわれの多くにとってもそれは同じだろう。

    人によってはたしかに、同じような疑念が、死に至る寸前かも知れないし、トルストイ自身のように名声を極めた後かも知れないし、夏目漱石のようにロンドン留学中かも知れないけれども、そのような疑念が襲ってきて徹底的に苦しめられる、そういうことはあるだろう。多くの若い人々のように青年期にそのような疑問に囚われ、それが後々ふとした瞬間に頭をもたげてくるということはあるだろう。

    結局その問いは「おまえは何のために生きているのか」ということに尽きる。

    それは自分一個にかけられた問いであり、それにどう答えるかはそれぞれの問題である。
    はたしてトルストイはそれにうまく答えられたのだろうか。いやそれは僭越な問いだ。問題は一人一人にかけられている。トルストイの問題はトルストイ自身が解決しなければならず、われわれの問題はわれわれが解決しなければならない。そしてトルストイはその問題の彼なりの仕方での解決を、われわれの先達として、ここでわれわれに提示してくれているのだ。それをどうするかはわれわれ自身の問題だ。

    とはいえ、かりに人生が虚偽に満ちているとしても、その意義を問うことにどれだけの意味があるのだろうか。もしほんとうに人生が誤っているものだとしても、それをどうしようがあるのだろうか。

    この作品では、イワン・イリイチが最後の瞬間に光を見出し、ハッピーエンドの結末が訪れたことになっているが、はたしてほんとうにそうなのか。あそこでは光があった。あのようにトルストイは光を見出したのだろう。しかし答えを求めて得られない場合もあるのではないか。ひょっとしたらそういうことの方が多いのではないか。この問いを問うために出発しながら途中で遭難し、煩悶しながら倒れた人間の方が圧倒的に多いのではないか。だからそういうことはやらないほうがいいのではないか。

    いや、このような功利的な設問の仕方自体に実は問題があるのかもしれない。
    いや、しかしどうなのか。

    最初にこの作品は自然にできあがったふうにみえるといったが、実は巧みに構築されていて、われわれの行動や思考パターンも、すでに作者が予見しているようである。
    冒頭に置かれたイワン・イリイチの葬儀、同僚のピョートル・イワーノヴィチが死者の顔を眺める場面で、

    その顔は生前よりも美しく、そして肝心なことに、より威厳があった。そこには、なすべきことはなしてきた、しかも過たずなし遂げた、といった表情が浮かんでいた。
     おまけにその表情はさらに、生きている者に対する叱責ないし警告も含まれていた。その警告は、ピョートル・イワーノヴィチには場違いなもの、もしくは少なくとも自分には無関係なものと感じられた。
     なぜだか不快感を覚えた、ピョートル・イワーノヴィチは、もう一度そそくさと十字を切ると、われながら礼を失していると思われるほどの勢いでくるりと後ろを向き、そのままドアへと向かったのだった。(p17)

    われわれもドアから出て行くべきなのかもしれない。

    そして歳を取るということは、こうした問いや警告に対して、老獪になれるということでもあるのだが……



    ●「クロイツェル・ソナタ」

    クロイツェル・ソナタといえばべートーヴェンの有名な曲だけれども、どんな曲なのかは知らない。聴いたことがあるかもしれないけれどメロディは浮かんでこない。しかしこういうタイトルだから、きっとロマンチックなストーリーなんだろうなと思って読んでみたら性欲の話なのでびっくりした。こんなに有名で偉大で、しかも道徳的倫理的傾向が強いと思っていた作家の作品が、男女の肉体関係のことばかりだなんてスゴイ。

    だからといってセクシーな場面があるわけではないので念のため。トルストイはやっぱり真面目すぎるほど真面目だから、ここでのテーマは、男女の肉体関係および人としての正しい生き方とはどういうものか、ということのようである。

    この作品の中で、トルストイは女性が男性の性欲の対象としてしか扱われていないことを強調し、女性がそういうかたちでして生きていけない境遇を憐れむ一方で、そのために生じる女性の振舞いを浅ましいとして徹底的に非難する。

    「男が高尚な感情のことを持ち出すのは嘘をついているに過ぎず、男に必要なのはただ肉体だけである。したがって男はあらゆる醜行は許しても、無様であか抜けない悪趣味な服装は、許しはしない……商売女がこのことを意識的に知っているのに対して、穢れなき処女はみな、これを無意識に、つまり動物のような仕方で知っているのです。
     ここからメリヤスのセーターでボディ・ラインを露わにしたり、腰当てをつけてヒップをふくらましたり、肩や腰、はては胸までをむき出しにしたりといったファッションが生まれてくるのです。女性は、とりわけ男性経験から学んだ女性は、たいへんよくわきまえています――高尚な話題を巡る会話なぞはしょせんただのおしゃべりに過ぎず、男が必要としているのは肉体、および肉体をもっとも魅力的な光で浮き立たせてくれるものすべてであると。」(p180)

    「まったくこれはもう、遊歩道にも路地にもいたるところに罠が仕掛けられているようなものです。いやそれよりひどいくらいですよ! そもそも賭け事が禁止されている一方で、女性がまるで娼婦のような、性欲を刺激する衣装を着るのはどうして野放しにされているのでしょう! 女性のほうが千倍も危険でしょうに!」(p191-192)

    では作者にとって、理想的な男女の肉体関係のあり方というのはどういうものであるのか。それはただ、動物がそうであるように、子孫をもうけるためだけにおこなわれるガチンコ試合だけが、それにふさわしいものであるらしい。ところでトルストイが子供を13人ももうけたのは、そういうガチンコ試合がよっぽど好きだったせいではないか、おまけに私生児までもうけているのはいったいどういうことなんだ。トルストイの私生活を知った読者が必ず言ってみたくなりそうなことを私もここで言っておこう。

    トルストイはこの時61歳。単に若い者同士がいちゃつくのを許しておけない気難しいジジイと変わらない気もするが、そういう年寄りに限って、むかしは道楽をやり尽くしていたりする。それはともかくトルストイによれば、女性のそういう煽情的な態度や行動は、あくまで男性側に原因があるとする。女性を快楽の道具としか取り扱わないからだ。

    だがまあ、そういう考え方も含めて、ここで語られているのはすべて男性側からの理窟だな。トルストイはへりくだって語っているけれども、その謙遜は傲慢さの裏返しでしかない。

    しかし、これはこれで面白い理窟だ。
    この作品も、読んでいて飽きさせない。

    後半は、主人公とその美しい妻とのあいだに起こった事件が物語られる。それも一気呵成に読める。

    二つの作品とも、大人向けの作品だと思う。
    これをもし20代で読んでいて、そのあと読まないでいるとしたら実にもったいない。30代、40代、あるいはもっと年を経てから読むと、とても面白いと思う。身につまされるところが多い。

    トルストイはかなり面白い。そういうことを再認識できた一冊だった。

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    2017年12月04日
  • アンナ・カレーニナ 3

    Posted by ブクログ

    ぐいぐい引き込まれる面白さがある。
    長編だが、「だれる」感じが全くない。

    本巻巻末の解説は、本書のみならず読書一般に深みを与えてくれるものかもしれない。

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    2016年10月28日
  • アンナ・カレーニナ 2

    Posted by ブクログ

    ロシアの広大な自然も、貴族達の愛憎模様も、実に活き活きと描かれている。

    アンナとリョーヴィンの、見事に対比されたダブルストーリー。
    2人ともどこか「あやうさ」が漂い、見ていてハラハラしてしまう。

    続刊もあっという間に読み終わってしまいそうである。

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    2016年11月21日
  • アンナ・カレーニナ 1

    Posted by ブクログ

    19世紀後半のロシア貴族社会における恋愛物語。

    複数の主人公が登場し、各々が様々な恋愛模様を生きる。

    単に恋愛にのみとどまらず、当時のロシアの社交界、貴族秩序、家庭、政治、経済など、多様なテーマが描かれる。

    100年以上前の、異国ロシアにおける物語とはいえ、各登場人物の心の動きなどは、非常にリアリティのあるものとしてこちらに迫ってくるようである。

    訳文はとても読みやすく、次巻以降も楽しみでならない。

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    2016年09月26日