望月哲男のレビュー一覧

  • スペードのクイーン/ベールキン物語

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    小学生の頃嫌々ピアノを習っていた。その先生が強弱記号にうるさくて「そこはアレグロ」「そこはアンダンテ」「そこはアレグロアンダンテよ」どーだってええやん!意味あるんかね! 意味はあったよ。この作者の素晴らしい強弱記号の付け方は、まるでオーケストラのようだ。 今思うといい先生だった。「理解」するまで次の曲にいかないの。技術だけじゃだめ。無駄に楽譜買わせたりしないの。 ところてんみたいな私が弾くようなのは、周りには苦痛なだけなんだよ。読書メーターやっててグラフに変化ないと焦るようじゃ、読書と言えないんだ。

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    2020年12月26日
  • アンナ・カレーニナ 1

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    読むぞー!と意気込んで全巻まとめて購入したのは何年前だったか、すっかり書棚の番人となっておりましたが、突然のこのタイミングで読み始めることにしました。

    「幸せな家族はどれもみな似ているが、不幸な家族にはそれぞれの不幸の形がある。」という書き出しが与えるインパクトがいきなり鮮烈だ。
    1870年代ロシアの貴族社会での愛憎劇で、うまく物語に入り込めるか少し不安だったけど全然問題なかった。徹底したリアリズムの小説なので、それこそ登場人物の全員に感情移入しながら読める。
    猛烈な吹雪のなか汽車を降り、追いかけてきたヴロンスキーとアンナが再会、そこに生まれてしまう愛を確信するシーンのなんと美しいことか!今まで読んできた小説でもベスト3に入るほど美しく激しい描写だった。
    禁断の愛に身を落としついには彼との子を孕んでしまったアンナ。その関係が夫にも完全にバレてしまいどうなることか。

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    2021年02月27日
  • 青い脂

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    ロシア発エログロナンセンス問題小説。一部の人に熱狂的支持を受けるタイプの本。ロシア文豪をクローン化(全然似てない)したり、謎宗教団体が大地と性交したり、スターリンとフルシチョフが性交する。

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    2020年11月15日
  • イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ

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    面白い。人の心というものが、現代でもあまり変わっていないのがわかる。トルストイという作家の凄さというのもよく感じられる短編。日本でいうと明治時代ということも加味するとより楽しめる。

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    2020年01月21日
  • 青い脂

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    現代ロシア文学のスター、いや、スターと言うよりはモンスターと評される若手作者の長編小説。こーれーはヤバイです。ヤバ過ぎて、何度も挫折しかけてやっとの思いで読み終えました。人生で一番読むのに苦しんだ作品と言っても過言ではないかもしれない。前衛アート?奇怪なスラング、文豪のクローン、エログロスカトロ何でもござれ、極め付けはスターリンとフルシチョフの濃厚な濡場。読むのに並々ならぬ体力が必要です。

    你好、私の優しい坊や。やっとお前がくれた書を読み終えた。正直に言おう。一文字目から腐っている。これを書いたのはどこの醜悪な気狂い野郎だ?おかげで私はMバランスを7ポイント失った。マイナス=ポジット。後はただ乾いたカッテージチーズになるしかない。なんてことだ。リプス ・你媽的 ・大便 !

    引用という訳ではないのですが、上記のような文体で第1章が開始(『時計じかけのオレンジ』のスラングはまだ解読の余地があったけど、それ以上の難しさ)。近未来、雪に埋もれたシベリアの遺伝子研究所で働く多国籍チーム。彼らはトルストイ4号やナボコフ7号を始めとしたクローンを創り上げ、各個体が執筆活動の後に蓄積する謎の物質「青脂」を集めていた。しかしそれも強奪された後に様々な者の手に渡り、最終的にはタイムマシンで1954年のスターリンに送られる。それを手にした最高指導者は…。

    好きか嫌いか問われれば大っ嫌いだけど、まるで卓に置かれた礫死体のように、どうしても視線を外す事ができない作品。クローン達が書き上げたとされる作品群は各文豪の文体模写とソローキンの個性の合わせ技が炸裂。また、その他にも短編として独立した挿話が数多くあり、それぞれスタイルも違い、美術館の展覧会に足を踏み入れたようで大変面白かったです。「水上人文字」と「青い錠剤」が特に好き。鬼才ソローキンが放つ猟奇の世界に、勇気を振り絞って身を投じてみては。

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    2018年10月17日
  • アンナ・カレーニナ 4

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    ここまで不幸な終わり方の「恋愛小説」は初めて。(そういうジャンルはそもそもあまり読んでないけど。)
    20世紀以降を生きるものとしては、人間の行動パターンをどうしても「進化的に安定な戦略」かどうかとして見てしまう。嫉妬に狂うくらい優秀な遺伝子を持つブロンスキーのタネを何としても手に入れるぞ、というプログラムが発動すると、アンナのような奇怪な人格になるのかしら。。
    キティのようなわかりやすい人格の方がホッとする。

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    2018年08月21日
  • アンナ・カレーニナ 3

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    アンナさん、生まれてくる時代を間違えた?
    21世紀だったら、この生き方全然ありのような。
    あるいは、それならそれで、もっと破天荒になってんのかな?
    まともな感想は最終巻で。

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    2018年08月17日
  • 白痴3

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    ドストエフスキー(1821-1881)の後期五大長編のうち『罪と罰』に続く二作目、1868年。『罪と罰』がラスコーリニコフらにより思弁的な哲学議論が展開される思想小説であるのに対し、『白痴』は一般には恋愛小説として括られる。しかしそこで描かれている恋愛は、もちろん単なる男女の抽象的な交情というだけではなく、当時のロシア社会の歪んだ病的な相貌を――さらには近代という時代精神が必然的に到り着かずにはおれない或る種の地獄の姿を――映し出す鏡の役割を果たすことになる。

    物語では、多数の登場人物の感情や思惑が複雑に錯綜する。それぞれの感情の細かな動きを正確に追うことすらも難しく感じられた。ナスターシヤの自他への愛憎、ロゴージンの欲望、アグラーヤの自尊心、ガヴリーラの打算、トーツキーやエパンチン将軍の思惑、イヴォールギン将軍やエリザヴェータ夫人の情念・・・。そうした異形の個性の持ち主である登場人物と交渉し合うムィシキン公爵の無垢な幼児性。そして、それら全ての舞台であり、またそれら全てが根を下ろしている土壌でもある、ロシアの俗物社会――収入・資産・持参金・家柄・地位等々のパラメータで人間の生の何事かを計量しようとするお喋りばかりが踊るコミュニケーション空間。これらがみな、過剰なまでに饒舌でまるで整序されていないかの如き独特のドストエフスキー的騒々しさのうちに描かれている。

    「われわれの時代は例の第三の生き物である黒い馬と、手に秤を持った騎士の時代です。なぜかと言えば現代ではすべてが計量次第、契約次第であって、万人がみずからの権利のみを求めているからです。・・・。しかもそれでいて精神は自由、心はきれい、身体は健全でありたい、おまけに神の恵みのすべてを失いたくないというのです。しかし権利だけによってそれを保つのは無理です。だからこのあとに青ざめた馬と死という名を持つ騎士が現れる。そのあとはすでに地獄です・・・・・・」

    「『人類はあまりにも騒々しく、かつ生産的になった結果、精神の安らぎを欠くようになった』とある世捨て人的な思想家が批判すると、『仮にそうだとしても、餓えた人類にパンを運んでくれる荷馬車の騒音は、おそらく精神の安らぎなどよりも、いっそう好ましきものであろう』と、諸国を遍歴してきた別の思想家が勝ち誇ったように反論し、得意顔で去っていくのです。しかしかく言う小生、卑しきレーベジェフは、人類にパンを運んでくれる荷馬車なるものを信用いたしません! なぜならば、道徳的な基盤もなしに全人類にパンを運んでくれる荷馬車なるものは、また冷酷非情にも、運ばれてきたパンを味わう喜びから、人類の大部分を排除しかねないからです」

    「当時の人間はいわばただひとつの思想しか持っていませんでしたが、いまの人間はより神経質で、知的にも発達していて、より感受性も強くて、思想だって二つも三つも持っているような具合です・・・・・・いまの人間のほうが広いんですね。そして、いいですか、まさにそのことが邪魔をして、かつての時代のような首尾一貫した人間になれないのです・・・・・・」

    世界から意味を剥奪し切るほどの否定性を予め孕んでいた近代精神は、その否定性が自己否定へと到る必然性そのものを予め内包していた近代精神は、その無限運動たるべき否定性の不徹底な中断でしかない「道徳的基盤」や「首尾一貫性」などというロマン主義的観念の哀れなほどに白々しいその虚偽性をも、必然性を以て否定することになるだろう。この出口なしの情況こそ、既に空いていた地獄そのものであろう。

    □ ムィシキンの無垢とキリスト

    「子ども」「癲癇症」として表象される純粋で未分裂な魂の持ち主であるムィシキンのような無垢の人間性は、内面性をあたかも自分の弱味であるかのように自らの外見から切り離してしまっている俗物が跋扈する社会の中では、「正常」な存在としては存続し得ない。彼の純粋性は、社会から予め逸脱している自己自身だけでなく、社会の内側にありながら彼と内面的に関係を結ぼうとする他者をも破滅させる。なぜなら、真実の人間関係を目指そうとするとき、それは他者との一対一の関係においてならば可能であっても、その他者が他の複数の他者とも関係している社会という情況にあっては矛盾と破綻を来してしまうから。ムィシキンはキリストをモデルにしたとも云われるが、彼の純粋性が却って社会の中で葛藤や軋轢を生みだしてしまう様は、現代的な感性からは奇妙に映ってしまうキリストの言動と確かに通じるものがあるだろう。

    真実の人間性というものは、自他の破壊という破局の一点においてのみ不可能にも可能となる成就ならざる成就としてしか在り得ないのではないか。「キリスト」という観念は、決して空虚なロマン主義的観念なのではなくて、真実性のそうした在り方を表象しようとしているのではないか。

    □ イーポリットの弁明と実存思想

    イーポリットの「わが不可欠なる弁明」の議論には、『罪と罰』のラスコーリニコフと同時代精神的な思想を読み取ることができる。則ちそれは、19世紀半ばペテルブルグの青年が孤独のうちに痛切に見出さずにはおれなかった「実存」という機制のことであり、そしてそれを現実に生きることとなった者に固有の苦悩のことである。

    「実存」は自己を孤独のうちに、則ち世界から絶対的に隔絶された存在として、見出す。

    「諸君の自然が、諸君のパーヴロフスクの公園が、諸君の日の出や日の入りが、諸君の青空や諸君の満ち足りた顔が、いったいぼくになんの役に立つというのだ――このはてしのない饗宴はすべて、はじめからぼく一人を余計者としてつまはじきしているじゃないか。この世界がいかに美しかろうと、ぼくになんの関係がある? だっていまのぼくは一分ごと、一秒ごとに、否応なく思い知らされているんだ――たとえば日の光を浴びて周囲をぶんぶん飛び回っているこの小さなハエ、こんな奴でさえ世をあげての饗宴と合唱の参加者として、自分の持ち場をわきまえ、それを愛し、幸せを感じているのに、ぼく一人だけが死産児であり、ただ臆病なためにこれまでそのことを認めたがらなかっただけだということを!」

    世界に対して絶対的に無縁であるという点に、「実存」の自由性が由来する。それは則ち、社会に対する、世界に対する、あらゆる形而上学的体系に対する、「実存」の超越性を意味する。

    「いやいっそ、世界の成り立ちなんて、ぼくなどにはまったく分からないと認めてもいい。その代わりぼくが確実に知っていることがある。つまり、いったん「われあり」という意識を与えられたこのぼくには、「世界の仕組みが間違っているから、こうしなければ成り立っていかない」などというレベルの問題など、なんのかかわりもないということだ。だとすれば、いったい誰が何のためにぼくを裁くことになるのか? なんと言われようと、これはすべて許しがたい、不公平なことだ」

    しかしそれは同時に、「実存」は自己を世界から引き剥がし続けるという無際限の否定運動の裡にしか自らを見出し得ず、ついに世界の内で何者にもなり得ない、ということを意味する。こうした「実存」という人間存在がその機制それ自体に孕まれる必然性により引き受けるしかない対世界の敗北を、「キリスト」という不可解な観念が、あるいは『白痴』の中でしばしば言及されるハンス・ホルバイン『死せるキリスト』の屍骸が、象徴していると云えるのではないか。

    □

    「・・・、およそ人類の独創的な思想もしくは新しい思想はすべて、あるいは単に重要な思想はすべてと言ってもいいのだが、誰かの頭の中に芽生える際に、必ず他人にはどうしても伝えることのできない何かを含んでいる。たとえ万巻の書を著そうが、三十五年も費やして説明を試みようが、必ず本人の頭蓋のうちからどうしても出ていこうとしない何ものかが残ってしまい、それは永久にその人のもとにとどまるのだ。だからその人は、自分の思想の一番の眼目に当たるかもしれないものを誰にも伝えぬまま、死んでいくことになるのだ」

    「・・・、この種の人々[=独創願望という名の病に侵された者たち]はピロゴフの仲間[=自分が天才であることを疑わない者たち]に比べてはるかに不幸である。なぜかといえば、利口な「凡人」の場合、たまたま(・・・)自分が天才的でかつ独創的な人間であるというイメージを持ったとしても、胸の内に巣くった疑心暗鬼がいっこうに消えないのである。そしてその疑心暗鬼に苦しめられたあげく、利口な人間は時として完全な絶望のうちに生涯を終えることになる。いや仮に運命の前で断念するとしても、内向した虚栄心の毒にすっかり犯された結果として断念するのである。・・・。・・・、[そこまで極端でない者たちでも]恭順や断念の境地にいたる以前に、そうした人々はときにきわめて長いこと、つまり青春期から諦めの年齢にいたるまでの期間、延々とあがき続けることがある。それもすべて独創的でありたいという願望のなせる業なのである。・・・。「こんなつまらないことのためにおれは生涯あくせく働き、こんなことに手足を縛られ、こんなことによって火薬の発見を妨げられたんだ! こんなことさえなかったら、おれはたぶん、いやきっと発見していただろう――火薬か、アメリカか、まだはっきりとは分からないが、きっと何かを発見していたことだろう!」こうした者たちの一番の特徴は、いったい自分が何を発見すべきなのか、何を生涯かけて発見しようとしているのか、火薬なのかアメリカなのか、という問題に、じっさい一生涯はっきりとした答えが見出せないでいるという点である。ただしその苦悩と発見されるべきものへの憧れという点では、コロンブスにもガリレオにも決して引けをとらないくらいなのだ」

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    2018年07月23日
  • アンナ・カレーニナ 1

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    流石のトルストイ先生代表作。「戦争と平和」の次に読んでいるが、テーマは違っても、心理描写の超絶さは変わりません。

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    2018年07月18日
  • 死の家の記録

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    一応架空の主人公を設定していますが、実際にはドストエフスキーの実体験を描いているルポタージュのような小説。ノンフィクション、ドキュメンタリーの好きな私には読みやすかった。描かれる囚人たちの描写も様々で面白く読めた。
    鞭打ち刑は想像以上に厳しい物のようで、それで死んでしまうこともあった刑罰のよう。小説内で主人公は「犯罪の差異に刑罰の結果の重みが平等に応対しているか」「同じ刑罰でも、受ける人によって非常に軽い結果となる場合と思い結果になる場合があるが、それは平等なのか」、囚人たちが真に欲しているのは「自由」であり「思い通りにふるまう自由」を求めていること、刑罰が囚人の更生にならないことなどについて論じさせている。そして、病人の収容される病棟で、病に苦しむ囚人の外されない足鎖、閉鎖される病室の空気の悪さなども描写される。一方で、収容所内のクリスマスなどの祝祭日、囚人たちが演じた劇の盛り上がり、馬の購入、集団入浴などの賑やかな様子の描写は非常に面白く興味深い。
    「死の家の記録」はこれが初めて読んだので、他の翻訳版と比較することはできないのが、光文社古典新訳文庫の望月哲男訳版は非常に読みやすかったし、巻末の読書ガイドも非常に面白く参考になった。そのガイドの中で、監獄に収容されている状態を「生きながらの死(人間的尊厳の破壊)と定義し」「暴力や恫喝は後悔にも矯正にも結び付かず、そうした効果は理解や許しという生きた魂への働きかけから生じる」と示唆している(p.707)と述べているが、そのような罪に対する罰は、現代でも難しい。正直、私が罪を犯した人に求めているものも「罰としての罰」であるのが本当のところだと思わないでもない。
    「自由」「贖罪」というテーマは、その後のドストエフスキーの「地下室の手記」「罪と罰」「カラマーゾフの兄弟」でも根底に据えられているとのこと、これらの作品も読んでみたい。

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    2018年05月08日
  • イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ

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    ネタバレ

    イワン・イリイチの死について
    判事のイワン・イリイチは、職務として自分に関係する人物には丁寧で慇懃に接する一方、職務上の関係がなくなると同時に、他のあらゆる関係を絶っていた。すなわち、職務上のことをきっぱりと切り離して自分の実人生と混同しない性格であった。その性格ゆえ、家族との関係に優先して、社交的であることを大切にし、体裁を保つことを考えていた。
    ある時、わき腹が苦しく、正体不明の病気になった彼は、その性格から同僚には強がり、家族からは相手にされず、孤独感と死との恐怖に怯える日々を過ごしていた。酷く衰弱していた彼の慰めとなったのは、嘘を決してつかない性格で、イワンが虚栄心を張らずに心を許せる台所番のゲラーシムだけとなった。
    痛みに苦しむイワンは、死の直前、ひとつの光(自分にとっては、死の恐怖が消えたこと、家族にとっては、自分が死ぬことでつらい目から解放されること?)を見ながら息をひきとるのであった。

    人間にとって普遍的な死について、実在の裁判官の死をきっかけに構想した、後期トルストイの代表的な中編小説である。
    裁判という形式を重んじる舞台で強者としての権力を行使していた彼が、弱者になった途端、医者(強者)のいつも変わらない形式ばった自己満足のような診断に憤りを感じるという皮肉が描かれている。また、共同体に属する社会的個人として、将来を約束された有望なイワンが、孤独でもう戻ることのできない死という絶望に苦しむという対比が見事に描かれており、そういう点で、主人公はこのような性格・境遇でなければならなかったといえよう。
    また、うわべの嘘が憎いこと(116頁)、死ぬ理由を知りたいと願うこと(127頁)は、社会的弱者となったイワンが判事という論理的思考が要求される職務に矜持を持って取り組んで来た彼の性格ゆえに思った本心なのであろう。
    全体を通じて、①「人間の死」について、②「社会的強者と弱者の関係」について見事に描いている作品であると考えられる。

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    2018年04月07日
  • アンナ・カレーニナ 1

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    20ページに一度くらいハッとさせられるような心理描写が出てくる。必要十分な描写という感じで、無駄が全然ないのである。
    アンナとリョーヴィンという二人の主人公がいるが、キャラクターとしてはリョーヴィンのほうが個人的に好きになれた。一番好きなシーンはリョーヴィンとキティが黒板上でお互いの気持ちを打ち明け合うところ。こんな恋をしてみたい。

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    2017年06月04日
  • アンナ・カレーニナ 1

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    ロシア文学特有の感じがあり、最初はとっつきにくいのだがすぐに慣れてこの世界に入り込んでしまうのは流石。
    この作品が100年以上前だとはとても思えないような普遍的なテーマなんだと思い知った。
    人間そんなに変わらないよね。って思ってしまう。
    早く続きが読みたい。

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    2018年11月25日
  • イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ

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    終わらない上り坂はない。
    山登りやヒルクライムでしんどいときにいいきかせる言葉だ。
    もしこの坂が永遠につづくとおもうと、のぼりの苦しさの途中で心折れて足をついてしまうだろう。
    一方で来年50をむかえる身としては、上り坂のあとに下り坂がある、ということが現実的になってきた。
    下り坂のゴールは「死」であろう。
    トルストイによる死についての本である。
    イワンクロイツはごく平凡な地方官吏。ふとしたことから死にいたる病になり、病床でそのときを迎える。
    その死ぬプロセスの間で、自分はほんとに人生をいきてきたのか?人の期待や世間の相場ばかりにあわせてないか?を自問自答し煩悶する。
    自分は何もえてない、なんにもやりたいことをやれててない、と薄れいく意識のなかで煩悶する。
    しかし最後の最後で、これ以上、家族を、愛息を苦しませないためにも自分は死を、と、考え方を自分の後悔から他人に何かをあたえるというふうにかえたあとで心に平穏がおとずれ幸せのなかで死んでいく。
    与えれば与えるほど得るものはおおきくなる、というネイティブインディアンの言葉があるがそれを重い読後感であった。

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    2017年04月10日
  • 白痴1

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    ムィシキン公爵は好感が持てる。白痴というより純粋。

    ナスターシャは美しい人ということだけど、やってることは、なんだこの女は?って思うんだけど…
    2、3巻読めばわかってくるのかな。

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    2017年03月14日
  • アンナ・カレーニナ 2

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    この巻ではリョーヴィンが百姓と草刈りをする場面が1番好き。疲れと清々しさがよくわかる。

    この巻の前半ではリョーヴィンの農業に対する考えや場面が展開され、その後はアンナの問題。

    巻末のガイドでは、リョーヴィンの農業の話は退屈に思う人が多いようだと書かれていたけれど、私は退屈に思えなかった。

    結婚や離婚の考え方が複雑。
    アンナも今まで結婚生活についてはかわいそうだったので…というのを踏まえて、だからこうなっちゃったんだよ…みたいに読めばいいの?
    アンナ、どっちやねん!ってツッコミ入れたくなる。

    時代背景がわかれば、こういう複雑なことが起こりうるということがわかりました。

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    2016年01月04日
  • アンナ・カレーニナ 1

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    不倫が結構当たり前というか。みーんな知ってますよ状態。

    カレーニンの“「どうしてここまで放っておいたんだ?こんな見苦しい状況をどうして解消しないのだ?」と義憤を覚えたものだった。”
    まさに読者がそれをカレーニンに言いたくなる。

    好きなシーンがあって、ヴロンスキーの競馬のシーン。疾走感、躍動感があり、自分自身がヴロンスキーになって走っているかのような描写だ。

    タイトルにあるのだから、アンナは主人公になるんだろうけど、なんだか影がうすい… 上流の綺麗な女、恋に流された女っていう印象で。これからパッとしてくるのかな?

    最後の方の無理をしているキティの姿が描かれていて、そりゃ無理をしたらいつかしんどくなると思った。でも、若いというのはそういった部分があり、気付いていくものだと思う。決断についても。

    続きはどうなっていくのやら?

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    2015年12月22日
  • アンナ・カレーニナ 4

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    真実の愛とは何かという普遍的なテーマを、不倫の恋という側面から切り取る、純文学的な物語でした。アンナはどうすれば良かったのでしょう? 愛してもいない夫の元に留まるのが真実の愛に即した行動だったのか…否。では夫には隠したまま不倫を続け、愛人の子を夫の元で育てるのが正しかったのか…否。では、やはり筋書き通り夫を捨てて愛人と逃げるしかなかったのか…そうかもしれない。確かに、アンナはヴロンスキーの愛さえあれば幸せであり続けられたのかもしれません。けれどそうはいかなかった。普通の人間は、彼女ほど愛に対して純粋ではありません。だから恋人に飽きられたって次の恋を探すなり、冷えた関係のまま共に暮らすなり、ともあれ「愛がないなら生きてはいけない」とばかりに自ら死を選ぶなんてことはまずありえません。彼女の何が、このような破滅を導いたのでしょう? なにが罪でなにが罰だったのか? いえ、愛に理屈など通用しないのだから、可哀相ではありますが、愛に純粋である彼女は、こうなるしかなかったのでしょう。
    中心テーマがアンナにあることは題名からも明白ですが、正直私はもう一人の主人公、リョーヴィンの物語の方が好きです。ハッピーエンドが好みなので…。『戦争と平和』のピエール・ナターシャ夫妻や、ニコライ・マリア夫妻でも思いましたが、トルストイの描く理想的な夫婦の描写が私は好きです。思想は違えど、互いに尊敬しあえる夫婦…。現実にはまず滅多にいないけれど、だからこそロマンがあって、微笑ましくて良いと思います。

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    2015年11月23日
  • イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ

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    性と死。トルストイってこんな文章も書けるのか……。
    イワン・イリイチの死に様に戦慄、ポズヌィシェフの恋愛・結婚観に共感。世間一般から見ると相当僻んでる部類に入るらしいが。
    普段あまり考えたくないことについてはっとした時に、ぜひ。

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    2015年09月23日
  • アンナ・カレーニナ 4

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    アンナは結局、ヴロンスキーというより自分自身の思考と戦っているように思える。
    何が彼女をそこまで追い詰めたんだろう。

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    2014年03月29日