福田恆存のレビュー一覧
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般若心経に匹敵する解題!
ロレンスの本文読む必要特に無し。恆存氏の解題を熟読吟味するだけでよし。この後書きは彼の終生にわたる主張のエッセンスである。あと、コリンウィルソン、「アウトサイダー」の後書きと彼の著作「人間この劇的なるもの」「芸術とは何か」を参考書として読めば、少なくとも(ロレンスの)ではなく、恆存氏の思考を辿ること容易になる。彼の主張自体はそんなに難しいものではない。ただ一種独特な文体、レトリックを駆使するから複雑に感じるだけ。この黙示録論は般若心経に匹敵する位、簡明且つ深淵な文章であると私は高く評価する。
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オスカー・ワイルド作『サロメ』は、預言者ヨハネの斬首のエピソードを下敷きにした戯曲である。新約聖書マタイ伝に記された「聖者の生首を所望する姫」という猟奇的な逸話は、モローやシュトゥック、カラヴァッジオなど多くの芸術家に取り上げられてきた。その中でもワイルドの戯曲は、創作としてのサロメの決定版といった趣きがある。ビアズレーの挿絵と共に、世紀末芸術の代表的作品といっていい。
この戯曲の中では、サロメは処女でありながら、文学史上稀に見る淫婦として描かれている。ヨカナーンの首を前にして陶然と愛を語るサロメの姿は凄まじいというよりほかなく、さらにその唇に接吻するとあっては、冒瀆だとして作者の本国イギリスでの上演が禁じられたというのも、無理からぬ話と思われるのである。
一方で、倒錯もここまで極めれば、いっそ神話的であるともいえる。古来、処女性と残酷性とは、しばしば表裏一体のものとして描かれてきた。純潔を守るため、または愛の成就のため、あるいは愛の証明のために、乙女が男を理不尽に破滅させるのは、いにしえより語り継がれてきた物語の原型のひとつである。
裸体を見られたためにアクタイオンを鹿に変えたアルテミス、愛するエンデュミオンに不死の眠りを与えたセレネ、求婚者に難題を課して死に至らしめたかぐや姫の逸話もある。彼女らがみな月に関わりの深い女性だというのが興味深い。サロメがヨカナーンを誘惑し、その生首に接吻をしたのもまた、月の光のもとであった(さうだよ、月は生娘なのだよ)。
甘やかな芳香の中に微かな腐臭を漂わせる熟れきった果実、今まさに風に散らされようとしている満開の薔薇、そんな印象の物語だ。福田恒存による美文調の翻訳が、この作品にいっそう麻薬的な魅力を与えていることは、言うまでもない。 -
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「ブルータス、お前もか」で有名なカエサル暗殺。
タイトルはジュリアス・シーザーとなっているが、シーザーによる、ブルータスのための劇のように感じる。
『ハムレット』『マクベス』『オセロ―』『ロミオとジュリエット』など、シェイクスピアの悲劇はたくさんあるが、このジュリアス・シーザーはそれらとは一線を画する。
たしかに、役一人あたりの発言量は多い。それはどの悲劇でも大抵そうだ。だが、他の悲劇とは違って、ジュリアス・シーザーでは、すべての発言が重みをもって迫ってくる。歯切れのいい洒落や猥談は全くない。
そして、振る舞いによる対比が見られない。多くの悲劇では、身分が低い場合には、とことん猥雑な振る舞いで、悲劇に関わる人物の流麗さを際立たせていた。ところがそれがない。どの役も勇ましく、美しく、哀しい。
さらに、悲劇さも、偶然や神妙なものによってもたらされるのではなく、かなり人に密着して起こる。
シンプルなのに、でも他の作品にも劣らない、あふれるほどの悲劇。そんな感じ。
それにしても、ブルータスは、人間としてのシーザーを愛していたのではなく、ローマとしてのシーザーを愛していたのだと知る。キャスカをはじめとする、他の共謀者が人間シーザーを殺したのだとすれば、彼が殺したのは野心や独裁。
作戦からすれば、確かにブルータスのものは下等だ。だが、憎しみに駆られて殺したり、人民を盾に戦争をしたりということは、徳や正義を汚すことに他ならない。目先の生に囚われず、最も深遠なものを見つめていたのだから、彼の作戦は何よりも上等だ。
役割をすべて終えたからこそ、彼はその胸に剣を突き刺せた。見事なまでの幕引き。正義の人にもっともふさわしい最期であった。 -
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タッチストーン こちとらも同じだ、忘れもしない、ある女に惚れて夢中になり、剣を石に叩きつけてへし折って、やい、恋敵め、今夜俺のジェーン・スマイルの所へ忍び込んで来やがったら、これ、このとおり、と怒鳴ったものだ、それから、その娘の使う砧にも、皹の入ったかわいらしい手で絞った牛の乳首にも接吻したものだ、まだある、畠の豌豆をその娘に見立てて口説いた事があったっけ、その蔓から莢を二つ捥ぎ取って、それを女に、いや、蔓に返し、泣きの涙で「これを俺だと思って肌身離さず」と搔きくどいたものさ……まことの恋をする者は呆れた狂態を演じて恥じないが、この世の在りとあらゆるものはあすをも知れぬ定め、同様、恋の定めはあすををも知れぬ狂気にありという訳だ。
2013/05/17-05/23 -
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ロザリンド 本当にね、さすがの「自然」もとても適わない、「運命」ときたら、「自然」の造った阿呆をよこして、「自然」の造った智慧の邪魔をするのですもの。
シーリア もしかしたら、これも「運命」の企みではなくて「自然」の仕業かも知れない、「自然」から授かった私たちの鈍い智慧では、こんな女神論など戦わせる柄ではないと見て取って、そういう私たちの智慧を磨く砥石にと、「自然」がこの阿呆を送ってよこしたのに違いない、阿呆の愚かしさというのはいつでも智慧の砥石になってくれるのですもの……ところで、お利口さん!何をうろうろしているの?
タッチストーン お嬢様、お父様の所へおいでを。
シーリア お前は間者になったのかい?
タッチストーン いえ、とんでもない、吾が名誉にかけて申します、お嬢様を呼んで来いと仰せつかっただけの事でして。
ロザリンド そんな誓言をどこで習ったの、お馬鹿さん?
タッチストーン さる騎士から教わりました、奴さん、吾が名誉にかけてこれは旨いパン・ケーキである、吾が名誉にかけてこの芥子はなっていない、などと誓言しておりました、が、それがしに言わせれば、断じてあのパン・ケーキはなっておらず、芥子の方が上出来だったと申し上げたい、さりとて、その騎士の誓言があながち偽誓だったという訳でもございませんが。
シーリア それをどう証明できるの、お前は大した物知りだというけれど?
ロザリンド 本当に、さあ、お前の智慧の見せどころよ。
タッチストーン お二人共、ちょっと前へ、それから顎をさすって、あなた方の髯にかけてそれがしは悪党なりと断言なさい。
シーリア 私たちの髯にかけて(私たちにそれがあればの話だけれど)お前は悪党です。
タッチストーン それがしの悪にかけて(吾輩にそれがあればの話だが)それなら、それがしはいかにも悪党、さて、そこです、お二人共、在りもしないものにかけて誓言なさいました、それならその誓言は決して偽りとは言えませぬ、例の騎士にしても同じ事、在りもしない奴さんの名誉にかけて誓った事だ、一向偽誓にはなりませぬ、かりに昔は名誉とやらを持っていたにしろ、「吾が名誉にかけて」を乱発し、問題のパン・ケーキと芥子にお目にかかるずっと前に、すっかり誓い果してしまったという訳ですな。
シーリア まあ、どうしたの、ロザリンド……キューピッド、どうぞお手柔らかに!一言も口をきかない気?
ロザリンド 「犬を相手に語る口なし」よ。
シーリア 解っているわ、あなたの言葉は野良犬に投げてやるには勿体な過ぎるもの、でも私には少しくらい投げてくれても良い筈よ、さあ、はっきり訳を言って、吠える私を黙らせて頂戴。
ロザリンド そうしたら、万事休す、おたがいにこのまま身動き出来なくなってしまう、一人は訳を聞かされて啞になり、一人は訳の解らぬ気違いになってしまうもの。
公爵 最も悪どく醜い罪がある、人の罪を責めるという、そもそもお前自身、昔は肉欲そのもののように官能の楽しみに耽る放蕩者だった、そのお前が、勝手気儘な放蕩で腫れ上がった傷や膿の病毒を、今度は広い世間に向かってことごとく吐き散らそうというに過ぎぬ。
ジェイキス しかし、たとえ世間一般の奢りを責めたからといって、特定の個人を攻撃した事にはなりますまい?奢りの風潮は、大海のように腫れ上がり、やがては奢れる者の財力が潮のように引き始める、そういうことが無いと誰に言えましょう?また私が都会の女は身分不相応にも王女の着るような高価な衣装を身に附けていると言ったとする、が、私が都会に住むどの女を特に名指しているのか、それは誰にも解りますまい?一体、どの女が名乗りを挙げてそれは私の事だと申出て来ましょうか、その女のすぐ隣の家にも同じような女が住んでいるのに?あるいは身分の賤しい男が、てっきり自分の事を言われたのだと早合点して、「俺の一張羅はお前に買ってもらった訳ではない」などと言い出すかもしれません、が、それこそ反ってこちらの言葉に乗って自分の愚かしさを暴露してしまう事ではありませんか?そこです!――これは結局どういう事になるのか?結論はどうなるか?さて、一体どの点で私の言葉が相手の名誉を傷附けたか、一つ考えてみましょう、もし私の言った事が先様の身に憶えのあるものなら、これは即ち身から出た錆、悪いのは御当人です、逆に、全く身に憶えのない事なら、何の事は無い、手前の非難は宙に舞う雁の如し、どこの誰にも当たり障りがないという事になります……誰だ、そこへ来たのは?
オーランド この世に生を享けているものは、たとえ虫けらでも責めようとは思いません、私自身を除いて。自分の事となれば、確かに間違いだらけの人間ですから。
ジェイキス その間違いの最大なるものは、恋をしているという事だ。
オーランド その間違いだけは、あなたの最高の美徳とでも取換えたくはない……あなたの相手はもうたくさんです。
タッチストーン せっかく書いた詩が人に解ってもらえなかったり、気のきいた頓智が理解力があるおませな子供に受けとめられなかったり、これほど応える事は無いね、小部屋を宛がわれて法外な宿銭を請求されるより恐ろしいよ……つくづく思うね、神々がお前さんを詩的な人間に仕立てておいて下されば良かったのにとな。
ウィリアム はい、ちょっとした才は持ち合わせております。
タッチストーン なるほど、旨い事を言う……それで憶い出したが、こんな諺がある、「愚者は己れを賢と思い、賢者は己れの愚者なるを知る」とね……(ウィリアム、唖然として大口を開けている)さる異端の哲学者は、葡萄が食いたくなると、まず口を開けてから葡萄をそこに持っていったそうだ、つまり、葡萄は食うべき物、口は開けるべき物という訳だ……この娘に気があるのかね?
ジェイキス その虚偽の七つの段階をもう一度順序立てて言えるかね?
タッチストーン そりゃあもう、手前共の口論は版で押したように正確無比――本に書いてあるとおりに行われます、その点、皆様の礼儀作法と御同様でして……さて、その段階を
逐一列挙して御覧に入れましょう。第一「慇懃なる口返答」、第二「穏健なる毒舌」、第三「乱暴な逆ねじ」、第四「勇敢なる非難」、第五「攻撃的反論」、第六「間接的虚偽」、第七「直接的虚偽」……以上、すべての場合、決闘は避けられます、もっとも、「直接的虚偽」の場合は例外、いや、それすら逃げられる、即ち、「仮に」という一言を附け加えておきさえすればよろしい。かつて裁判官が七人掛りでも話が附かなかった揉め事がございましたが、いよいよ当人同士が顔を合わせる段階になりまして、その一方が計らずも「仮に」という一語に想い到りましたと思し召せ、たとえば「仮に、あなたがかくかくしかじかと言うとする、それなら吾輩はかくかくしかじかと答える」という調子で、ついに二人は手を握り合い、兄弟の契りを結ぶに至ったという事でございます。「仮に」こそ唯一無比の仲裁役、その徳、広大無辺なるはこの「仮に」の一語。 -
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表紙の絵がえっらい美男子で、これ・・・?これがリチャード3世なの・・・??とイメージの再構築を迫られます(笑)
シェークスピアん中ではすごく読みやすくて理解しやすいなあ、と思う。
むかーし、立て続けにシェークスピア読んだことあったんだけど
・ハムレット⇒父親の亡霊出てくるのがなんともコミカルで、そのコミカルさに今一つついてけなかった
・ベニスの商人⇒シャイロックかわいそすぎるだろ・・・。借金しといて踏み倒す二人組怖すぎ
・ロミジュリ⇒若さと言ったら一言で済むが、さんざっぱら女と遊びまくってた男が、いきなり清純派に惚れて心中て・・・ねえ・・・あと一週間ぐらい考えようよ、とつい思っちゃう。短気な人こわい。
とか、そんな感じで現代ニッポンの感覚からは理解できねーわー、と今ひとつ魅力が感じられなかったんだけど(十二夜だけは、男装の麗人好き趣味から萌えた)、そういう感覚のずれみたいなもんがリチャは少ないなって思う。
まあ、こんな美形イメージでいいのなら、こーいちさんがやってみたらいいよね! -
Posted by ブクログ
「あらし」
「アントーニオとセバスティアンには最初はそのような意図はなかったのです。それはアロンゾーとゴンザーローの上に投げ掛けられた魔法の眠りによって暗示されました。しかし彼らは、他の人々が言った事に対して状況も年齢も考慮せず、あざけり罵倒する人物――どんなに素晴らしい真実を教えてもらっても感激することなく、悪意に満ちた非社交的な感情に身を任せていて、他人の言うことには何でも耳を傾けるけれども、それは他人の経験や知識からなにか自分のためになるものを得ようとするのではなく、相手が自分よりも劣っていると信じ込んで、虚栄心や利己心を満足させてくれるものを聞き出すために過ぎないような人物として登場します。
これこそ悪人の主要な特徴の一つであると言わなければなりません。もし人がよほどの大馬鹿者でない限り、全ての人間は自分と同じように邪悪な者だとか、そんな程度の者かも知れないとか思うとしたら、それこそ地獄を予感させるというよりは、地獄を垣間見るような気がします。」『シェイクスピアとミルトンについての講演 第九回講演』コールリッジ
キャリバンが気になる。奴隷としての人生以外を想像することもできない。嫌悪と憐れみを伴う共感を感じる。きっと、こういう生き方を選んでいる人もいるんだろうなって。 -
Posted by ブクログ
私の恋愛観 ※ 恋愛と人生 恋愛の聖化 美的恋愛 恋愛への逃避 恋愛感情の混乱 恋愛の意味づけ 性の科学 性の露出化 結論 ※現代人は愛しうるかロレンスの恋愛観性的好奇心について恋愛の幻滅 ※誤れる女性解放論日本家庭論恋愛狂時代 ※あとがき以上が目次です。解説は「恋愛はするものであって語るものではありません」(中野翠)。底本は1959年新潮社刊。解説にあるように「決して読みやすい本ではない。スラスラスイスイ読み流せる本ではない」。もちろん刊行当時からかなりの年月が過ぎていることを勘案して読まねばならぬ点も。でも、まず最初の数頁でぐい、と胸ぐら掴まれた思いです。スラスラスイスイではないけれど、一気に読みました。「恋愛など女子供に委せておけばいい」とは考えない人、ぜひどうぞ。手に取ることができるなら、中野翠による解説を読んで「なるほど」と思われる方、ご一読あれ。あ、それから、D・H・ロレンスに興味をお持ちの方も、ぜひ。